006-02. 残英の哀歌
時刻は夜の九時。
衣織が部屋の片付けをしていれば、突然インターホンが鳴った。
タレント向けの社員寮は厳重なセキュリティが敷かれており、急な来客は基本的にあり得ない。
宅配も警備室に配置されている警備員が受け取って、事務所から支給されているスマホ宛てに通知を入れてくるくらいの徹底ぶりである。
にも関わらず、急にインターホンが鳴るということは……敷地内に立ち入ることのできる誰かが、アポ無しで訪れたということだ。
手にしていた文庫本を一旦置き、玄関前を映すモニターを覗き込む。
そこには、少し居心地の悪そうな面持ちをした、柘榴の姿が映っていた。
「…………はい」
『あっ、鈴鹿です……夜分遅くに、すみません』
「本当だよ。もう九時回ってるぞ」
『はい、ごめんなさい……』
肩を縮こまらせ、しょげ返った声で繰り返し謝る柘榴の姿に、衣織は溜息を吐いた。
「……今開けるから。ちょっと待ってて」
それだけ言ってモニターを切り、ドアに向かう。
鍵を開いてドアを押し開ければ、そこにはついさっきまで画面越しに見ていた大きな少年が立っていた。
「とりあえず……上がるか?」
「い、いいんですか……?」
「……何か話があるんだろう、その顔は」
若干の呆れを滲ませつつ指摘すれば、柘榴は控えめに頷いた。
「……ほら、飲み物。カフェインレスだから、寝つきが悪くなったりはしないと思う」
「……ありがとう、ございます」
湯気の立ち上るカップを手渡し、ローテーブルを挟んで柘榴の向かいに座る。
柘榴は温かい紅茶をほんの少し舐めたあと、カップをテーブルに置いてちらちらと部屋の中を見ているようだった。
「……散らかってて悪いな。ちょうど荷造り前の片付け中なんだ」
「…………」
部屋の中には、まだ封のされていない小さめの段ボールが数個置かれている。
家具が備え付けであることもあり、全体的なボリュームは少ないものの……趣味で集めた書籍の数が思ったよりも多く、譲るものや古本として売却するものの分別をしていたのだった。
「……あの、実は……」
僅かな沈黙ののち、柘榴が恐る恐るといった風に話し始める。
「その……尾崎社長に、聞いちゃいました……俺が来る前に何があったのか……」
「……ああ、知ってる。さっき、社長たちから直接謝られたよ」
柘榴が訪れる二時間ほど前、今と同じように突如インターホンが鳴った。
ドアの前には尾崎社長と柴田マネージャー……だけではなく、バツの悪そうな顔をしたニゲラとローザの姿もあったのだった。
「……すみません……」
「……いや、いいよ。俺のことはもう報道されてるし……」
「…………」
「それに……紫乃については、根拠のない憶測を信じたりされるほうが厄介だから。俺が社長の立場なら、同じように本当のことを話すと思う」
そう言って、衣織は瞼を伏せた。
件の事故に関しては、当時の記者会見で詳細な説明が済んでいる状態だ。
加えて、衣織の怪我と活動休止についても、詳細な経緯は伏せつつも事故による怪我が原因として公表がなされている。
公表済みの事実を柘榴に伝えること自体は、何ら問題がない。
……ただ、公表されているのは衣織の休止理由だけ。
紫乃については、事故との関連性も退所の経緯も公表されていないのだ。
表向きは「自身のライフプランを見直した結果」、本人の意向で円満退社したことになっているものの……事故後から退所まで立て続けに生じた紫乃の出演キャンセルや、相方であった衣織の活動休止が世間に与えた印象は決して小さくなく。
結果、週刊誌やインターネットを起点として、紫乃の退所に関する様々な憶測やガセネタが出回ることとなったのだった。
憶測の中には事務所による事実隠蔽説やネクストスカイ不仲説、挙句の果てには「紫乃が衣織を疎んじて怪我を負わせたために処分された」などという誹謗中傷紛いのものまで生じ、それらは今でも悪意をもって一部の層の間で囁かれている。
「……あの、」
「ん?」
控えめに呼びかけられ、衣織は顔を上げる。
視線の先の柘榴は、何故だか泣きそうな顔をしていた。
「もう、歌わないんですか……?」
「……ああ。芸能活動自体を引退する」
「……紫乃さんが、居ないから?」
「…………そうだな」
口角を上げ、微笑みを浮かべて見せる。
それと反比例するように、柘榴の表情はさらに苦しそうに歪んだ。
「……歌ってほしいです」
柘榴が絞り出すような声で呟く。
「分かってます、もう歌うつもりがないって……それでも、俺……」
「……鈴鹿くん……?」
今にも泣き出しそうな声に、衣織は内心で首を傾げてしまった。
正直、彼にこのように縋られる理由が分からない。
……思えば、トレーニングに付き合うよう頼まれた時だってそうだ。
あんな接し方をされたにも関わらず、わざわざ毎日手土産まで用意して衣織の元に通い詰めていた。
どうして、彼はここまで自分にこだわるのだろうか。
「君は、……ッ!?」
どうして、と口にしかけるとほぼ同時に、柘榴がぎゅっと眉根を寄せて衣織の手を掴んだ。
掴まれた指先が軋みそうなほどの力に、衣織の唇から小さな呻き声が漏れる。
「っく、鈴鹿く……」
「やっぱり嫌です……! 俺、まだ橄欖坂さんと一緒に歌えてない……!」
「は……!?」
突然のことに目を白黒させる衣織をよそに、柘榴はなおも続けた。
「俺、紫乃さんには全然及ばないかもしれないけど……けど、頑張ります! 歌も、ダンスも、アイドルとして必要なこと全部! だから……!」
「っ、ちょ……! 痛っ……!」
「っあ、……!」
捲し立てると同時にさらに増していく握力が、衣織の指を押し潰しそうになる。
さすがにこれで折られたらたまらない、と振りほどこうとすれば、その抵抗で我に返ったらしい柘榴がぱっと手を離した。
「ご、ごめんなさい! 怪我してないですか!?」
「っ……大丈夫……びっくりしただけ……」
慌てる柘榴に、反射的にそう返す。
……実際には、「骨を折られる」という本能的な恐怖に襲われた。
恐らく、子供の腕くらいなら容易く持っていってしまうだろう……とんでもない馬鹿力だ。
「ごめんなさい……俺……」
痛い思いをしたのは衣織の側であるにも関わらず、柘榴は酷く怯えた顔で俯いてしまった。
その指先は真っ白になるほど強く握り締められ、僅かにカタカタと震えている。
「大丈夫だよ、ほら。何ともないから」
半狂乱になっている柘榴を落ち着かせるべく、衣織は極力穏やかな声で話しかける。
何度か目の前で指先を握ったり開いたりして見せれば、柘榴は青い顔のままゆっくりと息を吐いた。
「……昔から、力が強くて……人に、怪我をさせてしまったり、とか……」
「……ああ」
「だから、人と接するのは、怖くて……苦手で……」
その言葉を耳にして、衣織は柘榴に関する解像度が急激に上がるのを感じた。
大きな身体を縮こまらせる所作。どこか自信がなさそうな態度。
それらは全て、彼が今まで歩んできた人生の写し鏡そのもので――自分を抑え、道を譲り、ひっそりと生きてきたが故の癖なのだろう。
「けど……橄欖坂さんと、一緒に練習して……すごく、楽しくて……」
柘榴の声がじわりと湿り気を帯び、音が曇る。
今すぐにでも泣き出してしまいそうなその姿は、大人に窘められている最中の子供のようだ。
「い、一緒に、歌いたくて……っ」
途切れ途切れの告白が破片となって、衣織の胸に突き刺さった。
遠慮し続けてきた人生の中で見つけた、この人と一緒に歌いたいという一途な想い。
その感情が、ちりちりと胸の表面に痛みを残していく。
しかし、衣織にはその一方的な想いに返せるだけの覚悟がない。
かといって、目の前の彼を拒むほどの強さも、保留にするという判断を下せるほどの余裕すらもない。
突き刺さるような沈黙の中で、時間だけが進んでいく。
その沈黙を破ったのは、柘榴が目元をごしごしと擦る衣擦れの音だった。
「……俺……帰ります」
「えっ?」
「本当に、すみませんでした……!」
「ちょ、ちょっと……!?」
言うが早いか、柘榴は室内にも関わらず勢いよく駆け出し、履いてきたスニーカーを爪先に引っかけて飛び出していく。
反射的に伸ばした衣織の手が何かを掴むことはなく、ただ中途半端に立ち上がりかけた姿勢のまま、隣の部屋のドアが乱暴に開閉する音を呆然と耳にするのだった。




