005-01. 蕾と花殻
ローザとあの新人にまんまと嵌められてから、早いもので十日が過ぎた。
「……あれ、」
社内のコンビニエンスストアにて、衣織はいつもと同じようにお気に入りの無糖紅茶を手に取る。
そんな折、その日は偶然視野が広かったのか、普段とは違う光景に気が付いた。
同じ冷蔵ショーケースの中に、見慣れない色のボトルがある。
自分が手にしているものと同じシリーズのその飲料は、季節限定のオレンジティーらしい。
「…………」
衣織は少し思案したのち、少し腰を屈めて冷えたオレンジティーのボトルを手に取る。
そして、二本のペットボトルを持ったまま、セルフレジへと足を進めるのだった。
「――あっ、橄欖坂さん! お疲れ様です!」
レジ袋を手にいつもの場所――夜の社員寮屋上へ向かうと、そこには案の定『彼』が居た。
「……お疲れ様。今日は制服なんだな」
「あっ、はい。今日はトレーニングお休みだったので……学校が終わってから、直接ここに来ちゃいました」
「そうか、熱心だな」
「えへへ……あっ、そうだ!」
少し照れくさそうにはにかむ『彼』――鈴鹿柘榴は、何かを思い出したように顔を上げると、見覚えのある赤いビニール袋を差し出してくる。
「はい、本日の分のお礼です!」
「……また買ってきたのか……?」
「はい! 橄欖坂さん、お好きですよね?」
ぐいぐいと押し付けられている袋の中には、いつも通り、赤い蒸気船の印刷が施された白い紙袋が入っているのだろう。
事務所向かいの大通りに本店を構える、『ヴェッセル』というパン屋の袋だ。
「あのな、毎度言ってるけど……社会人の俺が高校生の君からこういうのを受け取るのは……なんかこう……」
「……授業料ですよ?」
「それでもなんかこう、駄目だろ……」
「駄目じゃないです、こういうお礼はちゃんとしないと……!」
そう言ってきゅっと眉に力を入れる柘榴を見て、衣織はしぶしぶ袋を受け取った。
――俺に、歌を教えてくれませんか。
あの日、柘榴のまっすぐな視線と言葉を向けられて、衣織は思わずその場から逃げ出した。
我ながら非常に情けないことをしたと思うが、頭が真っ白になって正常な判断ができなくなっていたのだから仕方がない。
しかし、本当に恐ろしいのはそのあとだった。
翌日から毎日、夕方ごろになると、寮の玄関のドアノブに『ヴェッセル』の袋がかけられるようになったのだ。
中身は毎度、アップルパイと何らかの菓子パン(ご丁寧に保冷剤入り)。
毎回毎回、こぢんまりとした文字で『今日も屋上で待っています』と書かれた付箋付きだ。
……正直、暴走したファンよりもずっと怖かった。
なんせ、相手は自分が思いきり当たり散らした隣室の男子高校生である。
あまつさえ、何故かこちらの好物を把握しているというおまけ付き。
さすがにこれはしっかり断らないとマズい、と思い至り、ボイスレコーダーを懐に忍ばせて夜の屋上に赴いたのが、ちょうど五日前だったか。
「もうあんな真似はよしてほしい、君と関わるつもりはない」と何度も頭の中で復唱し、本当に屋上で待ちぼうけしていた彼と対峙して――
――飼い主が出張から帰ってきた時のポメラニアンのような顔を向けられてしまい、橄欖坂衣織は後先考えず首を縦に振ったのだ。
そんなこんなで、衣織はここ数日、柘榴の自主トレーニングのコーチを務めている。
報酬は……こうして毎日手渡されるようになったパンの詰め合わせだ。
「……ほら」
「えっ、あ……ありがとうございます……!」
日替わりの菓子パンと総菜パン――今日はうぐいすパンとハムカツコッペだ――を柘榴に手渡す。
直接受け取る形になり、保存性の縛りが解消されたためだろうか――ここ最近はアップルパイと菓子パンに加え、サンドイッチと総菜パンが追加されるようになっていた。
……そして、さすがにこれを高校生から受け取るのは問題があるため、こうして毎日トレーニングを始める前に半分ずつ食すのが最近の習慣と化している。
「……あ、あとこれ」
「えっ……?」
衣織はおもむろに、自分が持ってきたレジ袋の中からペットボトルを取り出し、柘榴に手渡す。
先程偶然目につき――今日も貢がれるであろうパンのせめてものお返しに、と思い至って手に取った、オレンジティーのボトルだ。
「その、オレンジ苦手じゃなけれ、ば……」
そう言っている間に、柘榴の顔がみるみる輝いていく。
見るからに嬉しそうなその表情が眩しすぎて、衣織は反射的にサッと顔を逸らした。
「……はい! 大好きです!」
「そ、そっか……良かった……」
柘榴が両手で力強くボトルを掴んだのを確認し、衣織は恐る恐る手を離す。
そして、袋からいそいそとサンドイッチのパックを取り出すと、トマトとレタスを挟んだふわふわの食パンに勢いよくかぶりついた。
腹ごしらえを終え、いつも通りトレーニングを開始する。
「昨日言ったところは……」
「さっきまで練習してました」
「そっか、それじゃあ一旦サビ部分だけ聞かせて」
「はい」
ワイヤレスイヤホンを片側ずつ装着し、Bメロの途中あたりからインストを流す。
柘榴は膝でリズムを取ったあと、サビのメロディーに乗せて滑らかに歌い出した。
「…………」
先日はあのようにボロクソ言ったもの、柘榴は歌が上手いほうだと衣織は感じている。
荒削りな部分や技術不足な部分は多々目に付くものの、それは日々のレッスンを経て解決していける程度のものだ。
加えて、彼は並々ならぬ謙虚さと向上心を有しているらしい。
先日指摘した部分についても、トレーニング初日の時点でしっかりと修正してきたくらいだ。
……恐らく、本気で歌が上手くなりたいのだろう。
「――♪……ど、どうでしょうか?」
「……うん、改善されてる。あとは、踊りながら今と同じように歌えるかどうかだな」
「うっ……が、頑張ります……!」
ぐっと拳を掲げて意気込む柘榴の眉尻がきゅっと上がった。
何らかの子供向けアニメに登場するマスコットキャラクターみたいだ……なんて考えが頭をよぎったが、胸の奥にしまっておく。
「……なあ、鈴鹿くん」
「はい!」
「返事の元気がいいな……まあいいか。えっとな、ずっと思っていることがあるんだけど……聞いてもいいかな?」
「……はい、なんでしょう?」
衣織は手の中の楽譜を一瞥したのち、小首を傾げる柘榴に視線を戻した。
「……この曲、君のイメージとだいぶかけ離れてないか?」
「え……?」
「いや、悪いってわけじゃないんだけど……随分攻めたチョイスだと思って」
曲のタイトルは『タキオン』。
テイルプロのトリオユニットである『ホロスコープ』のメンバー、シリウスのソロ曲だ。
ホロスコープ自体がスピード感溢れるロックやエレクトロを中心に歌っていることに加え、シリウス自身がクール系キャラで売り出している影響もあり、そのソロ曲は非常にハイテンポでスタイリッシュさが際立つ。
「……正直、鈴鹿くんの持つイメージとは真逆だろ」
目の前の少年は、体こそ大きいものの、表情も性格もぽややんとしている。
行く行くはこういった真逆のジャンルを披露してギャップを見せる必要もあるのかもしれないが……新人のうちは、キャラと素のギャップがあればあるほどボロが出るものだ。
「それは……俺も思います……」
「……だよな」
しょげ……と効果音が見えそうなほどに、柘榴の肩が縮こまる。
歌唱後に覗かせる不安げな顔も、自分自身と曲の間に生じるギャップを感じて無意識で出てしまっているのだろう。
「えっと、あの……」
「ん?」
「どっ、どうしても……これを歌いたくて……柴田マネージャーにお願いしました……」
どうしたものか、と悩んでいれば、柘榴がもにょもにょと話し始める。
「へえ……好きなのか? ホロスコープ」
「あ、えっと……ホロスコープさん自体は、あんまり詳しくないんですけど……好きな歌で……」
まるで自分の小さな秘密を打ち明ける時のようにもじもじしながら、柘榴は続けた。
「その……この歌を、聴いてほしい人が居て……」
星明りに照らされたその表情には、じんわりと温かなものが滲んでいる。
それは誰かを慈しむような、焦がれるような――そんな色をしていると、衣織の目にはそう映った。
「……その人、大切な人なんだな」
「え……?」
「顔に出てる」
「えっ、あ……!」
衣織がそう指摘すると、柘榴は両頬を押さえて慌て始めた。
明かりが少ないためはっきり視認はできないが、きっと真っ赤に染まっているのだろう。
「まあ、いいんじゃないか? アイドルに恋愛はご法度だけど……君は真面目そうだし、うっかり撮られるようなこともなさそうだから」
「ほぁ……あっ、あ……! ち、違うんです……!」
「うんうん、分かった分かった……いやあ、青春だなあ」
「だ、だから違うんですってば~!」
柘榴の慌て様があまりにもおかしくて、衣織は思わず声を上げて笑ってしまう。
「まあ、何にせよ……そういうことなら、イメージと違うからって弱気になってる余裕はないな。しっかり歌詞を読み込んで、どういうパフォーマンスをしたいのかイメージを固めておくこと」
「あっ……はい!」
「それじゃあ、それを踏まえてもう一回。次は頭から行こうか」
再びきりっと眉間を引き締めた柘榴を鼓舞するように、衣織は勢いよく手のひらを打ち鳴らした。




