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09.『カナメリア』逃亡ⅰ

 鋼の徽章の男は王宮の一室に少女を連れ戻すと、そこで少女を解放した。

「まさか、ここまでの逃走劇になるとは……。驚きましたよ」

「さっさと部屋から出てってよ」

 少女は窓際まで歩くと、人ふたり分は優に座れる大きな革椅子に腰掛けた。

「一端の軍人に勝る身のこなしに体術。あなたのようなお人がどうしてそんなものを?」

「あなたには関係ないでしょ」

 少女は肘掛けに腕を置き、アーチ状の窓から外の景色を眺めた。

「まあ。確かに……。しかし次の質問には答えて頂きたい」

 鋼の徽章の男は気概や闘争心といったものを根こそぎ落としたような脱力した眼で、ただ対象として少女を捉え続ける。

「貴方は戦争を止めるために、自ら人質としてこの国にやってきました。肝の据わった王女様がいたものだと感心しましたよ。おかげで戦争は停戦状態となり、懐かしき平和を互いの国民は享受しています。全て貴方が望んだとおりになっている。なのになぜ、今さらになって逃げ出そうとしたのですか?」

 少女は黙って外を見続けた。北の方角に続いていく地平線を。

「やはり故郷の空気が恋しくなったのですか? 北の国の王女、ルミア・リアンド様」

 ルミア・リアンドは窓から視線を外して、鋼の徽章の男を睨みつけた。男は気怠そうな眼の奥でルミアの顔色を用心深く見定めている。

「あなた達のことが信用できなくなったからよ」

「どうして?」

「信用できない者に全てを語れると思う?」

「それはご最もかもしれません」

 鋼の徽章の男は溜息を吐いた。まあいいや。と力なくこぼす。

「ならば我々は貴方様から信用を勝ち取ることに尽力しましょう」

 男は踵を返し部屋の出口へと歩いた。

「再び逃げられたら困るので、扉の外に見張りを三人置かせて頂きます」

「信用を勝ち取るんじゃなくて?」

「優先順位の問題です。信用して貰う前に逃げられてしまわれたら元も子もないので」

 扉はゆっくりと閉められた。

 ルミアは椅子から離れると、扉に耳を当て聞き耳をたてる。外から見張りの声がした。部屋に窓はあるが、地上から高く脱出経路にはならない。密室に閉じ込められたと同じだった。

 椅子に戻ると黒髪のウィッグを頭から外してベッドに放り投げた。それは逃走のために変装用として用意したものだったけれど、結局すぐにばれてしまい、ほとんど意味をなさなかった。露わになった金色の髪を指で梳かす。

 ルミアがいる王宮の一室は自分が人質の身であることを忘れるほどに贅沢だった。赤い革椅子がふたつに天蓋付きのベッド。椅子からベッドに移るのも億劫になるくらい部屋は広い。元々は王族が使う部屋の一つだったようだが、今では誰も使っていないらしい。この国の王族は昔ほどに栄華を保持していない。国の実権は軍に奪われ、国王は国の象徴としてのみ君臨する存在になった。王国とは名ばかりの軍事国家。周りの国々からはそう思われている。王族の数は減り、全盛時代の遺産となった仰々しい王宮で、持て余した部屋があることは必然のことだった。

 しばらく経ったあと、扉がノックされて、背の高い男が部屋に入ってきた。

「ミンリィ!」

 男はミンリィ・ガーネットだった。ミンリィは北の国、リアンド王国の人間で、元はルミアの教育係でもあった。今は諜報員として、この国の軍に潜伏している。ルミアがこの国に自ら人質としてやってくる決断ができたのも、彼がいることを事前に知っていたからだった。

「お静かに……!」

 ミンリィは眉を顰め言った。教育係をしていた頃に、ルミアに注意を促すときと変わらない真面目な眼だった。

「あまり大声を出すと、外の見張りまで声が聞こえてしまいます」

 ミンリィは釣鐘型の蓋が被さったトレイを持っていた。大理石の丸テーブルの上にトレイを置く。テーブルにはレース模様の白いテーブルクロスが掛かっていた。

「お食事を持って来ました」

 トレイに被さっていた蓋が外されると、三つの小皿に各々食事が盛られていた。スペアリブ、シチュー、ジェノベーゼのサラダ。

「食欲が湧かないわ」

「気持ちは分かりますが食べないと……。全て毒見済みなので安心ですから」

 ミンリィは微笑んだ。真面目過ぎるがゆえの不器用な笑顔。その笑顔が彼らしくて、ルミアは好きだった。どんなときも心を平穏にしてくれる。ルミアは渋々テーブルの前に座った。

「あの死んだ眼のだらしない男は誰なの? あれがいなかったら今頃逃げ切れていたのに……!」

 ルミアはナイフを手に持ってスペアリブを小さく切り分けた。

「まさか……レオパルド軍長のことを言っておられるのですか?」

「軍長? え、あんなのが軍長なの?」

 背中の後ろで手を組んで、ミンリィは肩を竦めた。

「ユーリス・レオパルド。彼は只者ではありません。まだ若く、加えて軍への忠誠心が疑問視されているためか軍長にとどまっているようです。が、実力と実績は申し分ありません。いずれ彼が軍の実権を握ることになってもおかしくないと私は思います。戦争が再燃すれば、我が国の最も脅威となるのは間違いなくあの男です」

「買い被りすぎよ」

「いいえ」

 ミンリィは首を振る。

「正当な評価です。彼は頭が切れ、抜け目のない男です。軍に諜報員が紛れていることにも彼は感づいております。ルミア様が逃走していた際、彼は捜索を命じる部隊を作為的に絞っていました。諜報員に逃走の手助けをされることを嫌ったのでしょう。現に私は何もできず、軍部の中で足止めをくらっていたのです」

「偶然よ」

 ルミアは小さく切り分けたスペアリブを口に運んだ。この国の味付けはルミアにとっては少し塩辛かった。

「そう楽観的にというわけにはいけません。ルミア様。こういうときは最悪の状況を想定すべきなのです」

「最悪を想定するならば、ミンリィが裏切り者だと既に気づかれてるのかもね」

 冗談のつもりだった。しかし「可能性はあります」とミンリィが相も変わらず真面目な顔で言うから、ルミアは戸惑ってミンリィの顔を窺った。

「とは言っても、私が何事もなく、こうしてルミア様と接見できているのだから、私が諜報員だと確定している線は薄いと思います。泳がされていない限りですが……」

「そうよね」ルミアはほっと息を吐いた。スプーンでシチューをすくい、啜る。

「しかし、あの男を凌ぐためには、我々は相応のリスクを冒す必要があるということはご理解ください」

 ルミアは顔を上げた。「それはどういう――」

 扉が叩かれる音が部屋に響いた。外にいる見張りが叩いたようだった。

「おい! いつまで中にいるんだ!」

 扉越しに聞こえる見張りの声。

「もうじき出る」

 ミンリィは声を飛ばした。そしてルミアの耳元で囁いた。

「次の脱出は数刻後。今夜です。心の準備を……」

 まるで最初から決まっていたかのようにミンリィは告げた。ルミアは驚いて目を見開いたが、声には出さず、ただ肯いた。昼に失敗したばかりなのだから、あまりに早急過ぎると思いもしたが、ミンリィが考えたことならば、それが一番良いのだろうと信頼していた。

 ミンリィは扉を開け、部屋の外に出て行く。見張りの男たちが懐疑的な目で部屋の中を覗いてきた。

「なにをしていた?」

「料理の毒見を頼まれたので、全て毒見を……」

「毒? そんなもの入っているわけなかろう。あの方は――」

 扉は閉められて声が途切れる。

 脱出の時に支障が出ないよう、食事にはあまり手を付けず、空腹感が少し残る程度に抑えた。席を立ち、窓際の革椅子に座りなおした。そこでじっと時が来るのを待つことにした。

 外では夕焼けの空が街を呑みこんでいる。果実の汁を垂らしたような、青みが残る黄色がかった赤だった。北の国、リアンド王国の夕陽はもっと燃えるように、血だまりのように赤い。その赤々しさを象徴するように、昔から好戦的な国だった。当初は王太子殺害事件の報復として始まった戦争も、今となっては国の面目を守るための戦いに移り変わっている。国の指導者以外は誰も報われない空っぽの戦争。そんな戦争を一時的にも停めたくて、ルミアは敵国の人質になった。

 ルミアは革椅子から立ち上がった。テーブルに残した食事はいつのまにか消えて無くなっていた。外の空気を浴びようと扉を開けて部屋を出た。王宮の中庭に入ると、空が突然暗くなって夜が訪れた。月明りに反応して、王宮の壁がうっすらと青緑色に光る。それは絵に描かれたように幻想的だった。中庭の中央に人が立っていることに気付く。軍服を着た小さな男だった。彼は真っ直ぐに近づいてくる。ここは王宮の中、警備にあたる軍人もいた。警戒は何もしていなかった。小さな男は距離を縮めると、いきなりルミアに襲いかかった。ルミアは不意を突かれて倒される。男は片手でルミアの口を塞ぎ、もう片方の手でナイフを取り出した。ルミアの首を目掛けてナイフが振り下ろされる。ナイフを持つ男の手をなんとか掴んだ。単純な力比べになってしまえば、男の力が勝った。じりじりと、首元にナイフが近づいていく。ルミアは近くの砂利を握り、男の顔面を狙い吹っかけた。一瞬、男の力が緩んだ。その隙に体を捻り、男を床に転がした。立ち上がり、男と距離を取った。月明りに照らされて、小さな男の顔が良く見えた。まだあどけない、少年の顔だった。彼は地面に転がりながらも、そして立ち上がった後も、取り憑かれたようにルミアから目を離さない。

『死んでくれないか』

 まるで呪いの言葉だった。底の見えない悪意が脳裏に残り、そして消えない。


 目が覚めた。ルミアは椅子に座っていた。いつのまにか眠りに落ちていたらしい。

 動悸が激しく鳴り、体中からじっとりと汗が流れていた。服が体に張り付いて気持ち悪い。最悪の悪夢だった。

「嫌なこと思い出させないでよ」

 ルミアは窓の外を眺めた。空は暗くなっていた。体の一部分を削られたような、ぽっかりと欠けた月が夜空に浮かんでいた。

「おい。おまえ! なにを……!」

 扉の向こう側で見張りの声がした。直後、ずしりと重い音が響いた。そして扉が開かれる。見張りの三人の男達を引き摺りながら、ミンリィが部屋に入ってきた。男たちは気絶していた。

「さすがね」

「ルミア様に体術を教えたのは私ですから。これくらいは当然です」

 ミンリィは手早く男たちを縄で縛りあげた。

「今からやるのね?」

「はい」

 真剣な顔でミンリィは肯く。

 いざ脱出となったとき、ルミアの脳裏に、あの少年の顔がちらついた。声を枯らしながら、列車に向かって嘆き叫ぶ少年の顔が。

「ねえ。ミンリィ聞いて。昼に私が脱走したときに、巻き込んでしまった男の子がいて……」

「ライアス・エーデルワイスですね」

「名前は分からないけど。たぶんそう。知ってたの?」

「はい。存じております」

「どこかに捕まってるはずなの。助けてあげることって出来ないのかな?」

「警告しておきますが、その少年を救出することに我々の得はありませんよ? 単にリスクにしかなりません」

「ほっとけないわ……! 私のせいで巻き込んだのだから。それに、彼……。なにか必死そうだった」

 レイニー。少年は何度も、その少女の名前を叫んでいた。まるで、自分の魂の一部を呼び戻そうとするかのように。

 ミンリィはひとしきり息を吐いてから苦笑した。

「貴方なら、そう言うと思っておりましたよ」

 直後、扉の向こうから人影が現れた。

「自分で巻き込んどいて助けたいだなんて、おかしな話だ」

 赤黒色の髪に小麦色の肌。切れ長の目に群青色の瞳。それはまさに、あの少年。ライアス・エーデルワイスだった。


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