08.『カナメリア』邂逅ⅲ―謎の少女―
塔の頂上に着いてもなお、ヨルス・エイの舌は回り続けた。
「私が故郷へ帰る度に父は私に言うのです。おまえに商才は無いやもしれぬと。心外ですよ。確かに私は香水の匂いが強烈なマダムにマタタビ蝶の鱗粉にも負けていないと言ったことがありまして。もちろん。私からしたら褒め言葉のつもりでした。しかし、そうは受け取られずに散々に怒鳴られたものです……。しかし、その程度の失敗なんて誰にでもあるでしょう? だから私は父を見返したくて――」
「ヨルス」
何度目かの呼びかけで、ようやく彼の口が止まった。
「おっと。これは失礼しました。どうやら話に夢中になってしまったようで……。もう着いたんですね」
もうではないが。とライアスは思ったが口に出さなかった。一刻も早く、レイニーを見つけ出したかった。
展望塔の頂上は緩い曲面を描く鉄柵に覆われていて、まるで鳥かごの中に放り込まれた気分になった。
「この景色。私は二回目なのですが、やはり絶景です」
ヨルス・エイは鉄柵を掴んで街を見下ろした。
「あなたもそう思いませんか?」
ライアスは目前に広がる街と空と大地を眺めた。比類なき都市のその全貌が見えた。地上からは迷路の様に感じられた道も、上から見れば案外網目状に整っていることが分かる。道に沿って綺麗に立ち並ぶ石造りの建物はどれも重厚感があった。そして想像した倍を超えて、街は大きかった。これが一国では無くて、たった一つの街であるという事実に驚愕し、感嘆の息を呑んだ。
「あそこの堂々たる宮殿が見えますか? ほら。大きな城壁に囲まれている……」
ヨルス・エイが指さす方向に目をやると、確かに宮殿が見えた。
「あれが王宮です。屋根や外壁の一部に特殊な鉱石を使用しているそうで、夜になると美しい青緑色に輝くのですよ。王宮の真隣にある平坦な建物が中央総司令部。軍の中枢です。王宮とは打って変わって無骨な姿といいますかなんというか――」
「ヨルス」ライアスは言った。咎めるつもりは無かったが、つい口調は強くなった。
「ああ……。そうですよね。これは失礼しました」
ヨルス・エイは申し訳なさそうに眉を吊り上げた。
「分かっていますとも。景色を鑑賞するのはもっと暇なときに取っておくことにしましょう」
キリリと目付きを引き締めてヨルス・エイは街を眺めた。
「レイニー氏の特徴を聞いても?」
「美人だ。とびっきりに」
いたって真剣だった。端的にレイニーの一番の特徴を伝えたつもりでいた。けれど刺すような視線に触れて横を見ると、目一杯に拡大させたつぶらな瞳が何かを訴えかけている。
「本気で妹さんを探す気があるのですか?」
「あるに決まってんだろ!」
「ならばもっと具体的な特徴を教えてくれませんか? このままでは私、ミャオ族を探し続けますよ。生憎、人様の美人は分からないもので……!」
ヨルス・エイの白く長い髭が痙攣しているみたいにひくひくと震えている。ライアスは言葉を選ぶために、少し思案した。
「身長はこのくらいで……」
手を地面と平行にさせて、自分の肩まで持っていく。
「髪は長い。服装は俺とそんな変わらないはず。たぶん。ベージュ色のシャツとただのハーフパンツ。肌は白くて、目は大きくて、鼻は小さめ……」
「なるほどです。もっと具体的な特徴も欲しいですね。髪の色とか。瞳の色とか」
「言った方がいいのか?」
「妹さんを見つけたいならば」
ヨルス・エイは街並みを見下ろしながら、瞳を盛んに動かしている。
「髪は黒い……。瞳は……紺色……」
何にも気付くな。とライアスは願った。
ヨルス・エイは頭上の二つの耳を真っ直ぐに立てたかと思うと、すぐに降り畳んだ。位置を変えながら、撫でるように街を眺める。
「もしかして……。右耳の下に星形の痣がありますか?」
ライアスは喋らなかった。手のひらにじんわりと汗をかいた。認めることでどうなるかくらいは分かっていた。バーニャの家でそうだったように、また確執を生む。黒い髪に紺色の瞳。そして右耳の下にある星形の痣。全て呪われた子の特徴だった。
「なるほど。今までの会話……。どうりで話しづらそうにしていたわけです。納得がいきましたよ」
「でもレイニーは違うんだ!」
「安心してください」
ヨルス・エイは目を合わせてニッコリと笑った。商人として磨き上げた、信用を勝ち取るための微笑みで。
「私たちミャオ族は呪われた子に対して思うことは少ないですから。彼らに対して人間が抱くような憎しみを我らは持ち合わせておりません」
「そう……なのか……?」
口争になると身構えていたライアスは警戒を解く。口からゆっくりと息を抜いた。
「ええ。ミャオ族は呪われた子から直接的な被害を受けたことがありません。だから憎む理由も嫌う理由もありません」
「そんなもんなのか……?」
「そんなものなのです。傷つけられたことのない刃には、基本的に無関心が働くものです。その刃が喉元に突き付けられるまでは……。能天気だと思いますか? 愚かだと思いますか? 実際そうなのです。我々ミャオ族や人間は他の種族と違って理性という強い武器を手に入れました。しかし、我々の未熟な精神と脆弱な本能では、その武器を完璧に使いこなすことなどできやしないのですよ」
ヨルス・エイは街の景色に視線を戻した。せわしなく眼を左右に振ってレイニー・エーデルワイスを探し続ける。
「難しいことは分からない」
ライアスが言うと、ヨルス・エイは勝ち誇ったように胸を張った。
「あなたはもっと旅をするべきですよ。旅をするほど知見は広がります。私が言ったことも分かる日がやってくることでしょう」
ライアスはカナメリアの街を眺めた。感動すら覚える壮大な景色。その街にいた魔法使い。お喋り好きなミャオ族の商人。別の街にはインチキな占い師。愛に満ちた家族。呪われた子を受け入れようと努める兄妹。全て、あの糞みたいな農場で生きているだけでは決して起こりえなかった出遭いだった。世界は広い。そして、希望は残されている。ほんの一握り分だけ。
「だから旅はいいものなのです。ライアス氏は、どこか行ってみたい場所はありますか?」
「シュトリタット」
記憶の中にいたレイニーが答えた。けれど間違えてはいない。愛する妹が行きたいと望む場所ならば、そこはライアスにとっても望む場所となる。勿論、妹と一緒に。
「素晴らしいです! ぜひ行ってみるべきですよ。実は私もシュトリタットには大事な商売の話がありまして、後日に訪れる予定なのですよ。もちろん他の街にも立ち寄る予定があるので、残念なことに、ご同行というわけにはいきませんが……」
「別に。俺だって、すぐにシュトリタットに行くつもりなんてねえよ」
ライアスは雲が落とした影を見つめた。
シュトリタットに行くよりも前にライアスにはやらなければいけないことがあった。妹を見つけることは大前提。そして次にシュバルツ・クレー。この国に、そしてレイニーに呪いをかけた魔法使い。やつを探し出し、妹の呪いを解いてやりたい。
「そうなのですね。でも、もしもシュトリタットで出遭うことがあれば、ぜひ鏡の湖を案内させてください。あそこは本当に――」
ヨルス・エイは急に口を噤んだ。薄茶色の毛に覆われた耳をピンと立てる。
「いたかもしれません……!」
「どこだ!」
ヨルス・エイの視線の先に目を凝らすが、砂粒ほど小さな人たちしか見えなかった。
「右耳の痣は見えませんね。髪に隠れてる。でも背格好と、ちらりと見えた顔はレイニー氏の特徴ままでした」
「どこにいる!」
「今は……あそこのトルリオル大聖堂の近くを西南の駅に向かって走っています。慌てた様子です。なんでしょう……? 誰かに追われているのでしょうか?」
「なんだと!」
それはレイニーではないかもしれない。なんて考えはもう頭の中に無かった。妹への過度な愛が期待を確信に染めあげた。あとは妹のもとへと走るだけとなった。
ヨルス・エイの肩をがっしりと掴む。
「ヨルス! ありがとう!」
「たいしたことはしておりませんよ。早く彼女を追いかけてやってください」
ライアスは転がり落ちるように長い階段を下る。本当に転がってもいいと思った。エーテル展望塔から出ると、西南の駅に向かって走った。ひたすらに走り続けた。カナメリアの街の土地勘は分からない。とにかく西南に向かって進んだ。疲れなど感じなかった。レイニーに会える。そう思うだけで、足が勝手に前に運ばれていった。
小径の十字路で、ひとりの少女が目の前を横切った。走って揺れる長い黒髪。背格好はレイニーに似ていた。そんな気がした。考えるよりも前に、とっさに少女の腕を掴んだ。
「レイニー!」
「ちょっと! 離しなさいよ!」
少女が振り返る。黒い髪。白い肌。細く通った鼻筋。金色の瞳。その顔はレイニーでは無かった。身長もレイニーよりやや高い。
「離してって! 早く!」
切羽詰まった声だった。
「あ、悪い」ライアスは掴んでいた腕を離す。
「いたぞ! あそこだ!」
少女が走って来た方向から声がした。眼をやると、深青色の軍服を着た男たちがふたり向かってくるのが見えた。格好を見る限り軍の人間なのだろう。
「ああもう! 見つかったじゃない! あんたのせいよ!」
少女はライアスに詰め寄ると、ライアスの服の襟を掴んだ。
「責任。とってよね!」
さらに少女は袖を掴んだ。直後、ライアスの体が宙に浮いて視界が逆さになった。
「は?」
何が起きたかすぐには分からなかった。視界には逆さまな少女の姿が映った。地面が頭上にあり、空が足もとにあった。そしてようやく、自分が投げ飛ばされたのだと理解した。視界はそのままぐるりと半回転して、背中と臀部に強い衝撃を受けたとき、地面は正しい位置に戻っていた。
「おまえ! なんのつもりだ!」
威圧的な男の声。痛みに耐えながら顔を上げると、二人の男が怪訝な顔をしてライアスを見下ろしていた。
「テオ! ここは頼んだわよ!」
後方から少女が声を飛ばす。
「協力者だな……!」
「あ?」痛みで不機嫌だったライアスはとりあえず目の前にいた男に威嚇した。誰彼構わず怒りを振りまくことはライアスが得意とすることだった。
「違う! 俺はいきなり投げ飛ばされて――」
軍の男達は訊く耳を持たなかった。いきなり飛び掛かってくると、そのまま二人がかりで体を押さえた。
「離せ! 糞が!」
ライアスは大暴れするが、男ふたり分の体重をどかすことは出来なかった。
その間にも、ことの発端となった少女は走り去っていく。
「待ちなさい!」
軍の男達は叫んだ。ライアスから視線を逸らし、少女の背中を焦燥として見つめた。その隙をライアスは見逃さなかった。顔を持ち上げて一番近くにあった手首に噛みついた。舌に血の染みる味がした。軍の男は悲鳴をあげて地面に転がた。右足が自由になり、もう一人の男を蹴り飛ばした。立ち上がり男達から離れると、近くに積まれていた酒樽を蹴り崩した。酒樽は男たちの前に転がって道を塞いだ。もたつく男たちの後ろから、さらに人がやってくるのが見えた。面倒なことに全員軍服を着ている。
「協力者がいる! そいつも取り押さえろ!」
細い通路で人が増えても、道をさらに圧迫するだけだった。男達が転がった酒樽に手間取っている間に、ライアスはその場を走り去った。
逃げ去った少女に追いつくのはそう難しいことではなかった。ライアスは体力と体の頑丈さには自信があった。それはキングルの農場で自由と尊厳を犠牲に手に入れた屈辱の象徴でもあった。
「おい!」
走る少女の横に並び、ライアスは声をかけた。
「わあ!」と少女は肩をびくりと震わせる。
「驚いた……! あなた足速いのね。まさか追っ手を連れてきてはいないでしょうね……」
少女は走りながらも後ろに目を配った。
「よくも俺を巻きこんでくれたな!」
「あなたが邪魔したからじゃない! とにかく……! あんたは共犯者ってことになったんだから、私に協力するしかないの!」
「ふざけるな! 俺にはやらなきゃいけねえことがある! こんなことに巻き込まれてる時間なんてねえんだよ!」
「だったら……ここで捕まるまで逃げ回ればいいじゃない! 言っとくけど、軍に捕まったらただでは解放されないわよ?」
少女は息も切れ切れに言う。
「今からでもおまえを軍に突き出せば――」
「もう遅いわよ! そんなの罪を軽くしようとしてるだけにしか思われないわ!」
少女の黄金色の瞳がライアスの顔を覗く。山稜から差し込む朝日を思わせる、うるさいほどに輝かしい瞳。とても国の軍に追われる悪党の目ではなかった。
「おまえ。いったい何をしたんだよ! なんで軍に追われてる!」
「そんなこと、今話している場合じゃないことくらい分からない?」
これまで相当無理をして走って来たのか、少女の顔は赤い。会話の節々から漏れる息が疲労を感じさせた。とにかく少女は必死そうだった。けれど、ライアスからすれば知ったことではなかった。まだ、レイニーを見つけられていないのに、ただ意味もなく面倒ごとに巻き込まれている。自分の不甲斐なさにライアスは舌を打った。
「選びなさい!」
少女は前方を指さした。真っ直ぐ視線を伸ばした先に駅がある。それは西南の駅だった。
「私たちが駅に着いた頃にちょうど列車が出るわ。私と列車に乗って追っ手を撒く? それとも、ここに残って軍に捕まる? 選んで!」
ライアスは立ち止まった。振り返って、カナメリアの街を視界に収める。
「ちょっと噓でしょ! なにやってんの!」少女も困惑して走りを止めた。
「レイニー……」
ヨルスが見つけたと言ったのは本当に妹だったのか。この少女と間違えたのか。いずれにせよ、レイニーがこの街にいる可能性がまだ残っているならば、妹に遭えるチャンスを棒に振っていいのか。ライアスの頭の中で思考が廻り、同じ場所を循環した。決断はできず、冷静にもなれない。
「優柔不断……!」
呆れた感情をそのまま吐き出したような声。彼女の声には不思議と高貴さがあった。
「事情があるのは分かった。勢いで巻き込んじゃったのは申し訳ないと思う。それでもはっきりと言わせて貰うけど、ここで迷うのは馬鹿らしいわ!」
ゆっくり会話している時間は無かった。だから少女は口早に言う。
「分かってないみたいだから教えてあげる。あなたがここに残った場合、無実の罪で牢獄に監禁される。これが明らかに一番最悪のケース……! 私と一緒にあの列車に乗った場合、それより最悪なことって起こるの?」
「俺は……」
ライアスはカナメリアの街に背を向けた。少女の視線を頬に感じる。呆れと、苛立ちと、決断を迫る視線。
「こんなところで、これ以上足止めをくらうわけにはいかねえんだ……!」
ライアスは選択した。不本意ではあるけれど、少女と一緒に逃げる選択を。何か運命めいたものが、自分からレイニーを引き剥がそうとしているように感じてしまう。もう二度と妹に近づけないようにと。そんな気の迷いを振り払うようにして、ライアスは走り出した。
二人は街と外のちょうど境界を走った。街の外を見れば、まばらに建つ納屋と住居の間から彼方に広がる平原と広葉樹の雑木林が見えた。果てのさらに果てまで線路が伸びている。
西南の駅に近づくと、駅の周りに細い柱が等間隔に並んでいるのが見えた。入口付近の柱の上部には石板のプレートが貼り付けられていて、プレートには駅の名前が刻まれていた。そのプレートの真下に二人の軍人が退屈そうに棒立ちしていた。
「おい。あれって……!」
「見張りかしら……。それとも先回りされてた……?」
「どうすんだよ! 列車に乗れないってことだよな!」
「ここまで来て諦める……? 冗談……! そんなわけないじゃない!」
二人は真っ直ぐに駅の入り口に向かっていった。軍の男達との距離は次第に近づいていく。彼らが気付くのも時間の問題だった。
「まさか、力わざじゃないだろうな……!」
「当たり!」
少女は黒髪を耳に掛けた。すると小麦色の生え際が見えた。血が廻り火照った頬が露わになった。
「相手は二人だけ。だったらなんとかなるわ!」
「なんとかって……」
「大丈夫よ」
それだけ言うと、少女は足を速めた。これだけ堂々と近づけば、当然男達も気付く。
彼らは両手を前に突き出して、何度も「止まりなさい」と叫んだ。強い剣幕で、とにかく必死そうだ。なのに、警告するばかりで背中の銃を構える気配はなかった。
「ほら……。なにもできない」
少女は男の懐に潜り込むと、相手の腕を掴み、巻き取った。華奢な背中で男を持ち上げると、そのまま一回転させて地面に叩きつけた。もう一人の男が少女の背後から襲いかかり、少女を羽交い絞めにしようと腕を広げた。少女は素早く体を反転させて、男の足の脛を蹴った。次に反対側に体を一回転させて、顎に蹴りを入れた。男の顎は揺れ、白目をむいて地面に倒れる。少女の身のこなしは凄まじかった。力強さこそないが、素人目にも分かるほど洗練されていた。
少女の背後で先ほど投げ飛ばされた男が起き上がろうとしていた。地面に手をつき、顔を上げた。ライアスはその男の脇腹を思いっきり蹴った。男は掠れた呻き声をあげると、顔から地面に突っ伏して動かなくなった。
足元には気絶した二人の軍人が横たわる。
ライアスは少女の視線に気付いて顔を上げた。少女は呆気にとられた顔でライアスを見ていた。
「あんた。軍人相手に躊躇いなく手をあげるなんて。どっかおかしいんじゃないの? さすがの私もちょっと引くわよ」
「おまえが言うな」
少女はたっぷりと間をおいてから「もっともね……!」と飄々として答えた。
行くわよ。地面に転がった軍人の傍らで少女は言った。暴力を振るって涼しい顔をしている少女を特段異質だと思わないほどに、ライアスは暴力に慣れ親しんでいた。
駅の中に入るとすぐに列車が見えた。十を超える車両が直列にずらりと並ぶ。車両はどれも黒く、見せかけだけではない重厚感を誇示していた。次々に車両の中に入っていく人々は、まるで闇に吸い込まれていくかのようだった。
「時間がない」少女は言う。「あとはあれに乗れば――」
「それはだめです」
背後で低く冷たい声がして、ふたりはとっさに声から離れた。
またも軍の男が立っていた。けれど、出で立ちはさっきの軍人達とは少し違う。軍帽は被っておらず、風に揺れるベージュの癖毛。左耳に羽飾りのイヤリング。白の天然石を吊るしたネックレス。ほとんど羽織っているだけのような、雑に着崩した深青色の軍服。軍服を着ているという所以外に軍人らしさがどこにもなかった。胸元に付いている鋼の徽章だけが、その他の全てと比べて、やけに重々しい。
「散歩のお時間は終わりにしませんか? お嬢さん」
鋼の徽章の男は口元だけで笑みをつくった。眼は全く笑っていない。
「あら。私はまだ遊びたりないわ」
少女は鋼の徽章の男に向かって突っ込んでいく。体を回転させて蹴りを入れた。男は少女の蹴りを片手で受け止めた。少女を引き寄せて、彼女の腕を掴むと体の後ろに捻り、強く固定した。
「お転婆なお人ですね。もう逃げられないよう、足の骨を折りましょうか。それはさすがに、大事になりますかね?」
「私を傷つけないという約束でしょ……!」
「それをあなたが言いますか。先に約束を破って逃亡したのはあなたなのに」
「それはあなた達が――」
ライアスの拳が鋼の徽章の男に向けて振り抜かれた。鋼の徽章の男は掌でライアスの拳を受け止めた。お互いの肌が反発し合う音と骨が衝突する音が同時に響いた。
「筋がいいな。道を誤らなければ、よき軍人に育ててやったのにな。いや……。やっぱり面倒か」
鋼の徽章の男はライアスの手首を掴むと片手で放り投げた。宙を飛んだライアスの体は床に落下して転がっていく。転がった先に二人の軍人がいた。さっき、駅の入口でライアス達に殴り倒された男達だった。彼らに体を押さえられる。
「離しなさいよ!」
少女はもがいているが、意味は無さそうだった。
「騒がないでくださいよ」
鋼の徽章の男は覇気のない目で少女に訴えかけている。
「どきやがれ!」
ライアスは自分を押さえつけている男達に怒鳴りつけた。しかし、それも意味のない抵抗だった。最悪な状況を打破する方法はなにもなかった。
高く、耳を切り裂くような笛が鳴る。列車の発車を告げる合図だった。まもなく乗り口が閉まり、列車は街を出ていくだろう。
ライアスは自分たちを置き去りにする列車を睨んだ。どうして世界はこうも無情なのかと、声にすることなく悪態を飛ばした。
そのときだった。
ひとりの女の子が乗り口から列車へと駆け込んでいくのが見えた。黒い長髪に白い肌。大きな瞳に小さな鼻。ライアスがこの世界で誰よりも見た横顔。ずっと探していた妹の姿。
「レイニー!」
それは間違いなくレイニーだった。ライアスは腕を地面に押して、上に被さる男達ごと体を持ち上げた。底知れぬ力が体中から湧いた。骨が軋む音がした。体はどうなってもいいと思った。体にしがみついてくる男達の腕を振り払った。彼らの爪がライアスの皮膚を剥いた。血は流れたが痛みなど無かった。
ライアスは走った。
「レイニー……! レイニー! レイニー・エーデルワイス!」
レイニーが振り向いた。同時に乗り口の扉が閉まる。黒い鉄の塊と透明なガラスが二人の間を断絶した。レイニーと目が合った。レイニーは両手で口をおさえた。まるで亡霊でも見るような顔をして、ほんの僅かだけ首を振った。
レイニーの眼の下には薄紫の殴られたような痣があった。右肩から肘にかけて、細い切り傷の跡があった。どちらもレイニーが農場を出るときにはなかった傷だった。ライアスは力まかせに扉を開けようとするが開かない。何度も扉を叩いた。駅員と軍の男達が走り飛んできて、ライアスを列車から引き離した。
「行くな! 行かないでくれ! レイニー!」
汽笛が鳴り響き、ライアスの声をかき消した。列車は蒸気を噴き出し、どうしようもなくうるさい音をわめき散らかして、動き出した。
「おまえを救い出す方法を見つけたんだ! 絶対に俺がなんとかしてやる! だから……だから! どこにも行くな!」
レイニーは何かを言いながら首を左右に振っている。しかし、その声はガラス窓に遮られて聞こえなかった。やっと遭えたのに、再び遠くへと行ってしまう。
「レイニー!」
ライアスは地面に、あるいは世界に向かって叫んだ。正しく怒りをぶつけられる相手は、それくらいしか見当たらなかった。
「おまえがどこへ行こうが、俺はまた、おまえを探し出してやる! 絶対に……!」
妹を乗せた列車は、たちまちに遠ざかり小さくなった。列車の残した黒い煙が青空を汚して、空と世界を真ふたつに切り裂いていく。
抵抗する力を使い果たしたライアスは軍の男達に捕らえられ、牢獄へと入れられた。牢獄は狭く薄暗かった。やがて、ライアスが逃亡時に噛みついた軍人がお返しにとばかりに現れて、少女との関係性について執拗に尋問した後に、頬を二度、腹部を三度殴打して帰っていった。やがて夜が来て、ほとんど寝つけずにいると、鍵が外される音がして牢屋の扉が開いた。
開いた扉の向こうには男が立っていた。背が高く、朴訥した雰囲気の、顔に全く特徴のない男だった。