05.『チャコレナ』占い師のいた街ⅲ
バーニャは屋外に出ると、近くの丘に登り、地べたに腰を下ろした。
「おぬしも座るのじゃ」
言われて、ライアスはバーニャの隣に座った。丘には草花が咲いていて、夜風にゆらゆらと揺れている。遠くを眺めると、街の中心地が見えた。中心地ではまだ明かりがいっぱいに灯っている。
「悪かったの」
バーニャは夜の空を見上げながら言った。
「あの子たちの言ったことじゃ。けれど、許してやって欲しい」
「事情があるようだけど、それでも、やっぱり俺は許せない」
バーニャは夜空からライアスにゆったりと視線を動かした。
「人生には、誰にしも傷があるのじゃ。おぬしと同じようにな」
バーニャの眼差しは鋭く、目尻に伸びる深い皺が目立った。これまでのふざけた老婆とは、まるで別人のようだった。
「あの子たちにはもう一人兄妹がいたのじゃ。一番上の兄がな。けれど二年前に亡くなってしまったのじゃ……。それがわしら家族の傷じゃよ」
遠くに見える街の中心地で明かりがひとつ消えた。風が静かに吹いて、ライアスとバーニャの間を縫っていく。
「呪われた子に殺されたっていうのは本当なのか?」ライアスが訊くと、バーニャは「同じようなものじゃ」と曖昧な肯定を返した。「この国に生きる者たちにとってはな……」と付け加える。
「北の国との戦争は呪われた子が起こした事件が引き金だった。知っておるな」
ライアスは無言で肯いた。
それは百五十年ほど前からだと言われている。呪われた子は十五年おきにこの国に産まれるようになった。そして、呪われた子たちはこの国で大きな事件を何度も起こしてきた。北の国との戦争の引き金になった事件も、そのひとつだった。
「死んだあの子は軍人じゃった。他の多くの軍人と同じように、あの子は戦場で命を落とした。そして残された遺族は思うのじゃ。そもそも戦争が起きなければ死んでいなかった。全ては呪われた子のせいだとな」
「だから呪われた子であるレイニーを憎む……?」
「そうじゃ」バーニャは静かに頷く。
「馬鹿げてる……! やっぱり、レイニーは関係ねえじゃねえか……! レイニーは戦争を引き起こしてなんかいない! なんの罪も犯してねえ!」
「それはあの子たちも分かっておるのじゃ。自分たちが道理に適っていないということを。だからこそ、怒りや憎しみが行き場を失うことが恐ろしいのじゃ。誰かを悪と決めつけないと、不運を受け止めることは難しいのじゃよ。おぬしにも心当たりがないかの?」
「俺は……」
ライアスはなにも言えなかった。自分が世界を憎むのと同じように、彼らも呪われた子を憎んでいる。それを知った。憎しみ合いの循環が世界を壊し、造っている。
バーニャは一度咳払いをした。吐いた息の余韻を残して、再び話を続ける。
「本当はあの子たちは、おぬしのことも、おぬしの妹のことも受け入れたいのじゃ。だからきっと、今も葛藤しておる。憎しみを乗り越えようとしておる。それに時間がかかってしまうのはしかたないことじゃ。あの子たちにとって、今宵は長い夜になるじゃろうな」
だから許してほしいのじゃ。最後に付け加えたバーニャの言葉に、考えておく。とライアスは答えた。
バーニャは悲哀を帯びた瞳でライアスを見つめてから、視線を外した。
「なあ。ライアス。おまえが得た憎しみは、あの子たちよりも大きかろう。だからそう簡単なことではないと分かっておる。けれどいつか、それを乗り越えられる日が来るといいのう」
バーニャの横顔を見た。夜空を見上げている。星空になにかを願い、憂いているように見えた。
「そうじゃ。おぬしの占いをまだしておらんかったの」
おもむろに、バーニャは水晶玉をローブの中から取り出して、地面に置いた。
「占いはいいって。どうせ当たらねえだろ」
そうはいかない。とバーニャは首を振る。
「お金を受け取っておるからの。それに、どうせ当たらないなんてことはない。これでも昔は凄腕だったんじゃ」
「どうだか」
からかうように言うと、バーニャは不機嫌そうに眉を寄せた。
「まあ、見ておれ」と水晶玉に手をかざして目を瞑る。
すると、水晶玉がカタカタと揺れた。まただ。とライアスは思った。一度目に占ったときと同じように、水晶玉の中心に青白い光がやどっていく。光は夜の暗闇で、バーニャの周りを包んだ。風の音が止んだと思ったが違った。風がバーニャを避けて流れている。まるでバーニャだけが区切られた別の世界にいるかのように、闇夜を受け付けない。どんな占いの結果を言われたとしても信じるつもりはないが、これだけのものを見せられると、バーニャには何かしらの特別な力はあるのだろうと認めざるを得ない。
やがて、バーニャが目を開けると水晶玉の光が次第に弱くなっていき、ついに光は消えた。
「一度きりしか言えない。よく聞いておけ」
バーニャは遠い記憶を思い出すかのように夜空の星々を見上げた。
「おぬしは旅先で小人族に出会う。小人族は首飾りを持っておる。その首飾りを強く欲しなさい。それがおぬしの運命を決める」
占いの結果を言い切ると、バーニャは大きく息を吐いてから、水晶玉をローブの中に戻した。
「小人族は魔法族と一緒に絶滅したはずだろ」
「らしいな」飄々とバーニャは答える。占いの結果を言い切って満足した顔で。
「ふざけた占いだ」
「ふざけてない!」
バーニャは顔を真っ赤にして否定した。
「わしは占った結果をそのまま伝えたんじゃ!」
「分かったよ……」
ライアスは溜息を吐いた。
「覚えておくことにする」
「それが賢明じゃ」
とバーニャはにっこりと笑い頷いた。コロコロと表情が変わる。
「今日はもう寝るよ」
ライアスは立ち上がる。バーニャは地べたに座ったまま動く様子はない。「残んの?」
「ああ。ここにおるじゃ。満点の星空の下で命尽きる。わしの最後で、ささやかな願いじゃ」
そういえば、そんな占いあったな。とライアスは思い出す。占い師としての誇りなのか、才能の枯れた自分の占いを健気に信じている。誰も信じなくなってもバーニャだけが信じている。
「そういえば、明日死ぬんだったな」
ライアスは言った。バーニャから返事はなかった。老婆の小さい後ろ姿に、おやすみ。と伝えて、丘を下っていった。
家に戻ると、居間の灯りは消えていて、すっかりと静まりかえっていた。二階に上がると、一室だけ扉が開いており、そこが用意された寝室のようだった。背の低い戸棚に、ひとりサイズのベッド。柄の無いシーツ。客間なのか、生活感を感じさせるものは何もなかった。
ライアスはベッドに横たわり、眠りについた。
翌朝になり、チッチッ、とタキビ鳥の鳴き声でライアスは目を覚ました。
戸棚の上に、昨日カーラが洗った服が畳んで置かれていた。ライアスは着替えてから部屋を出た。
静かで、涼しい朝だった。
一階に下りて居間に行くと、そこには誰もいなかった。家の中を見て回るが、人の気配を感じられない。ライアスはしばらく考えてから、ひとつの心当たりから家を出て、昨夜、バーニャと登った丘の頂上に向かった。そこに彼らはいた。
バーニャを囲んで、彼らは泣いていた。バーニャだけが穏やかな顔をして、地べたに座っている。
ライアスは家族の輪の中に近づかずに、少し離れた場所でバーニャの様子を眺める。そして分かった。
バーニャは死んでいた。
青白い肌。動かない皺。薄くなった唇。全てが死人の特徴だった。キングルの農場では、病気でも医者にかかるお金がなく、そのまま亡くなった人間が何人もいた。バーニャは彼らと同じ顔をしていた。
ライアスはバーニャの顔をじっと見つめ、脳裏に焼き付けた。なんのためにそうしているかは分からなかったが、必要なことだと思った。
やがて、空から一匹の鳥がバーニャの前に降りてきた。鷹のように大きいが鷹とは違う。胴体の毛は黒く、頭と羽は白い。その境目の色があまりにもくっきりと分かれていて、不自然で歪だった。
「天上の鳥が迎えに来たわ」
アンナベルが言う。
「バーニャ婆の魂を、天上の国に送ってくださるわ」
その鳥は紺色の瞳にバーニャを映すと、短く丸い嘴を空に向けて、高い声で鳴いた。慟哭しているかのような、胸に痛々しい鳴き声が響く。
天上の鳥は鳴き止むと、白い翼を広げて空に飛び立っていく。真っ直ぐに、垂直に、どこまでも高く昇っていき、ついには見えなくなった。
天上の鳥。それは死者の魂を現世から死後の世界へと運ぶ鳥と言われている。いつからか世界中に現れて、死者の元に必ず舞い降りることから、そう言い伝えられるようになった。その鳥が初めて観測されたのは二百年も前のことだそうだ。
バーニャの魂が天へと運ばれていったのを見届けて、ライアスは家族に背を向けた。悲しみに暮れる家族はライアスが近くにいたことに気づいていないようだったが、それでいいとライアスは思った。
丘を下り終えると、通りがかりの人に駅の方向を訊いた。駅は市場の近くにあるということだから、市場を目指して歩いた。しばらく歩いた頃には小雨が降り出していた。傘を持っていないので、赤黒色の髪を濡らしながら歩いた。
道中、ライアスはバーニャとその家族について考えていた。とても優しくて愛に満ちた家族だった。それでも、呪われた子であるレイニーが受け入れられることはなかった。もっとしっかりと話し合えば、分かり合えることもあったのだろうか。それも結局、今となっては確かめようもなかった。
おまえたちは暗闇の底で、ひっそりと隠れて生きていくべきなのだ。運命にそう告げられている気がした。
そんな運命は糞だ。ライアスは怒りのあまり、悲しみのあまり、叫びたくなった。
「レイニー……」
レイニーも、どこかで同じ苦しみを抱いているのならば、早く見つけ出さないといけない。レイニーのことを強く思い、その一心だけでライアスは歩み続ける。
「ライアス……! ライアス・エーデルワイス!」
後ろから声がした。振り返ると、カーラがそこに立っていた。傘もささず、雨に濡れている。
「やっと追いついた……!」
息も切れ切れにカーラは言う。
「ひどいわよ。何も言わずに出て行くなんて……!」
「どうして――」
「どうしてって……!」
ここまで走って来たせいか、カーラの頬は紅潮している。その火照った顔のまま、ライアスを強く見つめた。
「さよならくらい言わせてよね!」
カーラは言い、右手に握っていた小さな青い袋をライアスの胸に押し付ける。
「これ。母さんと父さんから。長旅になるだろうから渡しなさいって」
受け取って中を開けると、数枚の硬貨が入っていた。
「あとこれはカルーに伝えろって言われたんだけど……」
カーラは息を整える。そして言った。
「妹のことは悪かった。いつか旅の先で会おう。……だってさ。自分で伝えなさいよ。て話よね!」
それとね。そう言うとカーラは口をつぐんで、目を伏せた。小雨にちょうど混じり合う悲しい声だった。
「バーニャ婆ね……。今朝、死んでしまったわ」
「知ってる……」
その他の言葉を、ライアスは言うことが出来なかった。
「そっか……」
カーラは何か言葉を探すように視線を動かす。そして腕首に身につけていたブレスレットを外して、ライアスに手渡した。透明な結晶石が使われたブレスレット。その結晶石は淡い水色の霜模様が中心にあるのが特徴的だった。鉱物の知識はライアスには無いが、希少なものに見えた。
「これお守り。バーニャ婆から貰ったものなの。あなたに預けるわ」
「いいのかよ。俺なんかに。大事なものじゃないのか?」
「大事なものよ。だから預けただけ」
褐色の瞳は真っ直ぐにライアスの目を見つめた。
「いつか返しに来てよ。今度はあなたの妹と一緒に」
「カーラ……」
雨の雫がライアスの頬をつたって、地面に落ちる。
「いいのか……?」
「だからそう言ってるじゃない」
カーラは目だけで微笑んだ。その瞳の裏側に、呪われた子に対しての葛藤と、バーニャを亡くした悲しみが隠れていることを思うと、カーラの芯の強さが分かる。
「ありがとう」
心から、ライアスは言った。その言葉をレイニー以外の誰かに正しく使ったのは初めてのような気がした。バーニャにも伝えたかったと、ライアスは思った。
「またね」
そう言って、カーラは走り去っていく。「そのブレスレット、絶対に返しに来てね! 約束だからね!」と時折振り返りながら。
やがてカーラの姿が見えなくなると、ライアスは踵を返して、駅に向かって歩き出した。その道を忘れないように、覚えながら。