03.『チャコレナ』占い師のいた街ⅰ
チャコレナ。キングルの農場から一番最寄りの街を目指せば半日もかからずにたどり着く街。そこは食事処・食料店の豊富さで有名な街だった。特にパン工房の数は第一の都市『カナメリア』を凌ぐほどだと言われている。そのパン工房の多くでは、キングル・オリヴァンダーの農場で収穫された小麦が使われている。
ライアスはチャコレナの街の中心地を歩いていた。通りには店が多く、人通りも多い。どこを歩いても焼ける小麦の匂いが鼻をくすぐった。
レイニーはこの街にいるだろう。そう高を括っていた。妹は金貨もなにも持っていないのだから、食料も移動手段もなしに遠くの街へ行けるわけがない。そのはずなのに、いくらチャコレナの街を歩いてもレイニーの姿は見つからなかった。いっそのこと大声で名前を呼んでしまおうかと考えたが、冷静になってやめた。そんなことで、のこのこと現れるならば、そもそもあんなふうに別れなど告げやしない。手掛かりがあるとはいえ、レイニーを見つけ出すことはやはりそう簡単なことではなかった。
「おいおいおい。おぬし。そこのおぬし」
しわがれた老婆の声がした。
声の方を見ると、道の端で小さな机と椅子を並べて、そこに老婆が腰かけていた。建物の影で顔がぼんやりとしか見えない。どうにも怪しい雰囲気があった。
「おぬし。導きを欲しているな? どれ。私が占ってあげようか」
ライアスは老婆に歩み寄り、尋ねる。
「あんた。占い師か?」
「そうじゃ。そうじゃ」
老婆はニヤリと笑う。前歯が二本欠けていて、目尻の皺はとても長い。腰は大きく曲がっていて、風が吹けば飛ばされそうなほど体は小さい。
「婆さん。占いよりも聞きたいことがあるんだが……」
「今日は特別に安く占ってやろう!」
「このくらいの背丈で黒髪の女の子を見なかったか? 凄い美人だ」
「まずは手始めにおまえの年齢を当ててやろうか……」
「だから占いはいいって。それより見なかった? 俺の妹なんだよ」
「うーん……。分かったぞ! おまえ。十七じゃな?」
「ちが――」
「十六じゃな?」
呆気に取られて、ライアスは黙った。老婆はずっと、答えを求めてライアスを見上げている。
「十六……」
「ほらそうじゃ!」老婆は手を叩いて誇らしげに笑った。
「ふざけた婆さんだ」ライアスは顔をしかめ、頭をかいた。
「婆さん。悪いけどさ、占いをやるほど金に余裕はないんだ」
「心配なさんな。おまえのありえんくらい貧相な格好を見れば金が無いことくらい分かる」
「おい、ばばあ。失礼だぞ」
「初回だからおまけにしてやろう」
老婆は身に纏う灰色のローブの中に手を入れて、透明な水晶玉を取り出した。
「百アンじゃ」
「金はとんのかよ!」
「格安じゃぞお」老婆は愉快そうに笑う。机の上に水晶玉を置き、手をかざして、目を閉じた。
「ほれ。おぬしが望む導きを語るのじゃ。さすれば水晶玉は答えよう」
「だから婆さん! 俺は占いなんかやる気はねえって何度も……」
最初は、そんな気がする程度の小さな変化だった。老婆から少しずつ生気が失われていく。それが確かに起こっていることだと気づいたときに、水晶玉がカタカタと音を鳴らして揺れた。水晶玉の中心に光がやどる。
ライアスがその老婆の力を信じるには十分なことが起き過ぎた。
「レイニーの……レイニーの居場所を占ってくれ!」
「おお! これは……! なんと悲劇な……!」
老婆が目をこじ開ける。
「なんだ! 言え!」
「わしは明日死ぬようじゃな!」
「レイニーは!?」
老婆は両手で顔を覆い、しくしくと泣き出した。
「なんと可哀想なわし……」
「付き合ってられねえ!」ライアスは舌を打った。硬貨一枚を手に取り、力強く机に叩きつけた。大きな音に、老婆は「ひゃあ!」と奇声をあげた。
無言で立ち去ろうとすると、どこからか小石が飛んできて老婆とライアスの間を通り抜けた。老婆は悲鳴をあげて、体を丸くする。
小石の飛んできた方向を見ると、離れたところに二人の子供が立っていた。年齢は背丈から推測するに六歳くらいだろう。
「インチキ占い師!」
子供たちは再び小石を投げた。老婆に直撃する。老婆は子供相手にすっかり怯えて、小さく短い悲鳴を繰り返しながら、机の下に潜った。
「隠れるな! 卑怯者!」
二人の子供は老婆を罵りながら近づくと、机の上にある水晶玉を手に取った。
「この水晶玉が無ければ、インチキ占いはもう出来ないだろ!」
「ああ! 返してくれ! それはワシの大切なものなんじゃ!」
老婆は泣きそうな声で訴えるが、子供たちは応じない。
「黙れ! インチキ占い師! こんな水晶玉。ここで割ってやる!」
「やめるんじゃ! それだけは……!」
老婆と子供達のやりとりを見て、ライアスは慣れ親しんだ不快な感情が膨らんでいくのを感じていた。
机の下でうずくまる老婆の姿が、レイニーの姿と重なった。妹は理不尽に虐げられることが多かった。その度に、レイニーは小さく丸くなって怯えていた。この老婆のように。
ライアスは手を伸ばして、子供たちから水晶玉を取り上げる。
「おい! なにするんだ!」
子供たちは怒り、ライアスを睨みつける。
「こいつはインチキ占い師なんだぞ!街の人はみんな知ってる! 旅人を騙してお金を奪ってるんだ! 悪いやつなんだ! だから俺たちが成敗するんだよ!」
「うるせえ」
ライアスは小さく言った。幼い子供たちを怯ませるにはそれだけで十分だった。
「おまえたちがこの婆さんに騙されたのか?」
「ち、ちがう……」
「おまえたちは軍の人間か?」
「ちがう……。けど……」
「だったらおまえたちにこの婆さんを懲らしめる資格はねえだろ」
でも、と子供たちは反論の言葉を探そうとするが、言葉が見つからずに、その場でもじもじとしているばかりだった。
「確かに、この婆さんはインチキかもしれない。けど俺の前でこんなもん見せるな。それはもう、こりごりなんだよ……」
ライアスの言葉を受けて、二人の子供はお互いの顔を見つめ合った。分が悪いと判断したのか、駆け足でその場から離れていった。
ライアスも離れようとすると「おい」と老婆に呼び止められる。
振り向くと、老婆は地面を這って机の下から体を出した。
「どうやらさっきので、腰が抜けてしもうてな……。おぬし、悪いがワシを家まで背負ってくれぬか?」
ライアスはあからさまに怪訝な顔をして見せる。
「どうして俺が……」
そのとき、ライアスのお腹が鳴った。その音を聞いて、老婆はニヤニヤと笑う。
「ワシの家には馳走もあるぞ?」
人間誰しも食欲には敵わない。金を使わずに食事にありつけるならば、それはおいしい話だった。ライアスは唾を飲み込んでから老婆を背負った。
「おぬし、名は何というのじゃ?」
背中から老婆が語り掛ける。
「ライアス・エーデルワイス」
「そうか。そうか。いい名じゃの」
「ふつうだろ」
「ライアス。さっきはワシを助けてくれてありがとうの」
感謝の言葉を素直に受け止められるほど、ライアスはその言葉に慣れていない。だから老婆の言葉はこそばゆくて、聞こえなかったふりをした。
「婆さん。あんたの名前は?」
「バーニャじゃ。これも良い名じゃろう?」
そっか。ライアスは素っ気なく言う。
「道。教えて」
尋ねると、バーニャは人差し指を進行方向に向けて突き出した。
「直進じゃ!」
変な老婆だ。とライアスは思った。バーニャの家に向かって、歩みを進めた。
バーニャの家は街の中心地から外れた場所にあった。到着した頃には夕刻に差し迫っていた。黄昏時の太陽は、肌色の建物が並ぶチャコレナの街を橙色に焦がしている。
バーニャの家は、この街で見かけたどの家よりも大きかった。
「ここじゃ。降ろせ。ライアス」
バーニャは言う。
ライアスはバーニャを玄関扉の前に降ろした。
バーニャは扉前の呼び鈴を鳴らした。しかし誰も出てこない。家中の明かりは灯っているから中には誰かいるはずだった。
「自分の家だろ? 鍵は持ってないのか?」
ライアスが訊くと、バーニャは悲しそうな眼で見上げた。
「それがな。どうせ失くすからと言うて、娘が持たせてくれんのじゃ。ひどい話じゃ。娘は鬼じゃ」
「娘がいるのかよ……!」
ライアスは驚いて訊き返した。この変わり者の老婆に娘がいることが、どうしても想像つかない。
「何を驚いておるのじゃ。この歳でいない方が珍しかろうて。ちなみに孫もおるぞ」
可愛いぞ。天使じゃ。とバーニャは笑う。
「母さん!」
後ろから声がした。振り返ると、女性がこちらに向かって歩いて来ている。紙袋を抱えていて、袋からは細長いパンがはみ出している。女性のすぐ後ろには少年と少女が並んで歩いていた。見た感じはどちらもライアスと歳は近い。こちらのふたりも大きな紙袋を抱えていた。
「おう娘よ! バーニャも丁度今しがた帰還したところじゃ!」
ニコニコと笑うバーニャ。対して、娘と呼ばれた女性の顔は険しい。灰色のローブに身を包むバーニャの服装を一瞥してから言った。
「その恰好……。母さん! もしかして、また占いをしに行ってたわけじゃないでしょうね?」
「してたじゃ。ワシは占い師じゃからのう」
「もう! 占いはやめてって、あれほど言ったじゃない! 適当な占いばっかりするからたくさん恨みを買うのよ?」
「なんじゃと……!」
バーニャのしわくちゃの顔から、たちまちに笑顔が薄れていく。
「ワシの占いが適当じゃと? おまえ。いったい誰が稼いでこの立派な家を建てたと思ってる! ワシのおかげじゃぞ!」
「母さんが凄かったのは昔の話! 私は母さんの身を案じて言っているの! 三日前も子供にお金を盗られて帰って来たばっかりじゃない!」
「あれは盗られたんじゃない! あげたんじゃ!」
「はいはい。そうですか。だとしたらお人好しがすぎますけれど――」
いがみ合う二人の横を少年少女が平然と通り過ぎる。
「あーあ。また始まったよ」
少年が言う。
「先に中にはいりましょ」
少女が言った。
少年の方がポケットから鍵を取り出して扉を開けようとすると、扉は中から開かれた。丸眼鏡をかけた中年の男が顔を出した。
「ごめんさない。リンが大泣きして暴れるもんだからあやしていて……てあれ? 母さんじゃなかったのか……!」
「バーニャ婆はあっち」
少年はバーニャを指さした。
「あらら。またあの二人は喧嘩してるのかい。しかたないなあ」
中年の男は長い溜息を吐き出してから、玄関から出て、二人の仲裁に入っていく。
「あなた。だあれ?」
すぐ隣から声がした。いつのまにか、少女がライアスの真横にいた。つぶらな瞳に丸い鼻。子犬のような顔だった。腕首に透明な結晶石が使われたブレスレットを付けている。ライアスが無愛想なまま黙っていると、少女は「あ! ごめんなさい!」と口に手を当てた。
「えっとね、私の名前はカーラ・スタフォード。さっき玄関に上がった男の子はカルー。私のお兄さんよ。で、あそこで喧嘩しているのが、私のお母さんとお婆ちゃん。お母さんの名前はアンナベル。お婆ちゃんの名前はバーニャよ。そして、その喧嘩を止めに入った人が私のお父さん。名前はダリアス」
子犬の様な顔をした少女、カーラはニッコリと笑い、もう一度ライアスを見上げた。
「それで、あなたの名前は?」
カーラは首を傾ける。腰まで伸びるカーラの茶色い髪が左に揺れた。
「俺は……ライアス・エーデルワイス。そこの占い師の婆さんが腰を抜かして歩けないと言うから、ここまで背負ってきた」
「まあ! バーニャ婆が世話になったのね! そしたらお礼をしないと!」
カーラはライアスの恰好をまじまじと見つめてから言った。
「その服、私が洗濯してあげるわ。それとあなた、うちのお風呂に入るといいわ!」
ほら、あがって。と家にあがるようカーラは促す。
「ちょっと! 他所の子を家にあげてどうするつもり?」
カーラの母、アンナベルが後ろから声を飛ばした。バーニャと口論をしていたアンナベルだったが、カーラの父が仲裁に入ったおかげで事なきを得たようで、彼らの次の注目がライアスに移った。
「ライアスはワシの恩人じゃぞ! 馳走をもてなすんじゃ!」
バーニャが言う。
「ライアスはバーニャ婆の恩人なの! お礼をしなきゃ失礼よ!」
カーラが後に続いた。
母のアンナベルは険しい顔のまま「駄目です」と一喝する。
「この子にはこの子の帰る場所があるんだから。もう夕暮れよ。家に帰らせてあげなさい。親が心配するわ」
「嫌じゃ! 嫌じゃ! この悪魔!」
「母さんの頑固者!」
アンナベルは二人の罵倒を相手にしない。ライアスの頭を手のひらで包み、撫でた。
「うちの人が迷惑かけてごめんなさいね。もうじき日が暮れてしまうわ。あなたも家に帰りなさい。親が心配するまえに」
アンナベルの手のひらは温かかった。ライアスが忘れかけていた母の温もりと愛がそこにはあった。
「もうそんな歳でもないだろう。アンナベル。誰でも子ども扱いしたがるのは君の良くない癖だよ」
父のダリアスはアンナベルが抱えていた紙袋を取って脇に抱える。
「なに言ってるのよ。どう見たってまだカルーと同じくらいの歳じゃない。立派な子供よ」
「それ。カルーが聞いたらまた怒るぞ」
そう言って、ダリアスは家の中に入っていった。
「俺に……」
ライアスの低い声にアンナベルは視線を寄せた。
「俺に親はいない。帰る場所も、もう無い」
ライアスの頭に触れている手のひらに僅かだけ力が込められた。アンナベルは目を大きく開いて、ライアスを見つめる。
「だから、わざわざ俺のことを心配するやつなんていない。どこにも」
ポツリと、何かが地面に落ちた。それはアンナベルの涙であり、ライアスは彼女がなぜ泣いているのか分からなかった。ただ呆然として、愛情の涙が零れていくのを眺め、意味もなく腹を鳴らした。
「まかせなさい」
アンナベルは涙をぬぐって背筋を伸ばした。
「ここは食の街『チャコレナ』よ。お腹を空かせた子がいていいわけないわ!」
来なさい。と親指を立てて玄関を指し示す。
「私の料理で、あんたの腹の隙間を全部埋め尽くしてあげるわよ」
アンナベルは服の袖を捲り上げた。意気盛んに家の中に入っていく。続いて、カーラがライアスにニッコリと笑いかけてから家にあがる。
ライアスが立ち尽くしていると、バーニャに背中を小突かれた。
「ほれ。入るのじゃ。ほれほれ」
バーニャに促されて、ライアスも家にあがった。