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02.キングルの農場ⅱ

 ライアスが仕置房から解放されたのは、監禁されてから四日目の朝のことだった。

 その日の陽射しは強かった。久々に外に出たライアスを懲らしめるかのように熱する。加えて、薄暗い部屋の中にずっといたせいで、外の光がやたらと眩しかった。日の下に出ただけで、ライアスの額にはうっすらと汗が滲む。

「大丈夫ですか? だいぶやつれた顔をしています」

 仕置房の扉を開けた男は、キングルの屋敷に仕える執事だった。執事は扉の鍵を胸ポケットにしまう。

「なあ。あんたにとって呪われた子ってなんだ?」

 そうですね。と執事は考える素振りを見せた。「あなたが訊いたから答えますが」と前置きをする。

「悪魔……。ですかね」

 ライアスは執事に掴みかかった。切れ長の目で、碧天色の瞳で、執事を睨みつける。

「人間なんだよ……! 俺たちと変わらない、人間だ!」

 執事は憐れむ目で見つめ返す。

「こう見えて、私はあなたに深く同情しているのですよ」

 執事は含みを持たせて言う。馬車に踏み潰された路上の花に声をかけるように。ライアスは執事を力任せに突き飛ばして、踵を返した。そして居住区に向かって走り出した。

 朝は早く、労働者たちの居住区は静寂としていた。自身の足音がはっきりと聞こえる。

 質素な家々が建ち並ぶ居住区は、住民たちが思い思いの場所に家を建てているため迷路のように入り組んでいる。それでも、ここで十年暮らしているライアスにとっては居住区全体が自分の庭のようなものだった。いつもどおりに最短の道をたどって自分の家に向かった。

 家の前までたどり着くと、深く深呼吸をした。取手に手を触れたまま扉を引けなかった。そこに妹がいなかったとき、自分がどうなってしまうのか分からなかった。胸の鼓動がうるさい。覚悟を決めて、戸を開けた。

 家中を見渡した。壁際に木組みのベッドがある。ベッドには藁を詰めた布団が乗っけられている。部屋の中央には長方形の木製テーブル。その上にはカンテラと、調理器具やら調味料が乱雑に置かれている。テーブルの横には椅子があり、背もたれにはライアスのズボンが掛かっている。部屋の角には窯があり、その横に薪が積まれている。レイニーはどこにもいなかった。

 ライアスは膝から崩れ落ちた。胸を押さえて、背中を丸めた。ひたすらに胸が痛く、吐きそうだった。さよなら。と言って消えたレイニーの覚悟は本物だと知った。そして最悪の場合を頭が勝手に考える。崖から飛び降りた母親と、重なる。

 しばらく身を丸めて動けずにいると、ベッドの下に書物が落ちているのを見つけた。ライアスはふらふらと立ち上がり近づくと、ベッドの下に手を入れて書物を拾った。

 それは『グール・レイプトン』の冒険記だった。レイニーが宝物のように大事にしていたものだ。それがベッドの下から出てきた。まるで見つけられないようにそこに隠したみたいに。

 レイニーは毎晩寝る前に、決まってその書物を読んでいた。母がまだ生きていた頃、レイニーは街の書店でその冒険記に一目惚れをして、母に買って欲しいと強くねだっていた。そのときのことをライアスは鮮明に覚えている。レイニーがあそこまで何かを欲しがったことは後にも先にも他になかったから、とても印象的だった。

 ライアスは書物を開き、パラパラとページをめくった。世界中に点在する絶景や珍しい生物たちが美しく派手に記されている。ライアスはページをめくる手を止めた。一ページだけ綺麗に破り取られている。

 そのページには心当たりがあった。

「鏡の湖……」

 それは北西の街。シュトリタットにある湖。いつかここへ行ってみたいんだと、レイニーから何度も聞かされた場所だった。その妹の目の輝きと共に、よく覚えていた。

「もしかして、ここに……?」

 ライアスは本を閉じた。ふらついた足取りのまま家を出た。家を出てすぐに三人の男どもに囲まれた。ライアスが外に出るのを待っていたらしい。その中にはエミシアもいる。

「どうした? 顔が真っ青だぜ?」

 いくつかの笑い声。怒る気力も湧かなかった。

「うるせえ。金を返せ」

「金? なんの話だ?」

「もういい。金はいい。レイニーの居場所を知ってるなら教えろ。知らないなら道を空けろ」

 エミシアたちは顔を合わせて笑い合った。まるで彼らは世界の汚物のようだった。

「知らねえなあ。崖から身投げでもしたんじゃねーか?」

 殴ってやった。一発。うす汚く張り付いた笑顔には腫れあがった顔が似合うと思ったから。一発では足りなかったから、もう一発殴ってやろうと思ったが、周りの男どもに邪魔される。

「てめえ……!」

 エミシアは頬を押さえながら、ライアスの顔を殴り返した。痛みはなにも感じなかった。それからは一対複数での殴り合いになった。ライアスは自分が何をしているか分からなくなった。ほぼ気を失った状態で、目の前にあるものに、ただ暴力を振るい続けた。

 気付けば、ライアスは地面に横たわっていた。体中が痛い。立ち上がると頭痛と眩暈がした。辺りには男どもが転がっていて、みな意識を失っているようだった。ライアスは歩き出して、通り道に横たわるエミシアの背中を踏みつけた。

「レイニー……」

 そうつぶやいて、居住区を後にした。


 次にライアスがおもむいた場所はキングル・オリヴァンダーの屋敷だった。屋敷には広い庭があり、高い塀に囲まれている。ライアスの正面には開閉するだけでも苦労しそうな立派な門扉がある。門扉は王冠を模した設計になっているようで、上部の輪郭は山々が連なったような形にデザインされている。キングルの過剰な傲慢さがよく表れていた。

 門扉から中を覗くと、もう一つ居住区を作れそうなほどの広い庭があった。その向こうに大きな建物がある。あの城のような建物でキングルが悠々と暮らしているのを想像して、ライアスは腹のそこから不快感がこみあげた。

 門扉の近くに執事がいた。庭の手入れをしているようだった。声をかけると、執事は驚いた顔をした。

「また会いましたね……!」

 執事は黒い正装を身にまとい、物腰は落ち着いている。顔の掘りは深く、たたずまいに隙を感じさせない男だった。

「ライアス・エーデルワイスだ。キングルと話をしたい」

 執事は困ったように頬をかいた。

「申しわけないですが、あなたを入れるわけにはいきません。勝手に人を招き入れないように主人から仰せつかっています……」

「こっちは緊急なんだ!」

 執事の男はライアスの顔を見つめてから「分かりました」と頷いた。

「キングル様のご都合を伺いますので、しばしここでお待ちを」

「緊急と言ってるだろ! さっさとここを開けてくれ!」

「緊急かどうか。それを決めるのはあなたではないのですよ。ここでは」

 執事は踵を返して、建物の方へ歩いて行った。しばらく待っていると執事が返ってきた。無言のまま門扉が開かれる。

 ライアスが中へ入ると、執事は「案内します」とライアスの前を歩いていく。ライアスはその後ろを付いていった。

 屋敷の中へ入ると、広い玄関ホールがあった。そこには三つの扉と二階に続く螺旋階段がある。執事は三つの扉の内、応接間への扉を開けてライアスを招き入れた。

 応接間にはテーブルを挟んで大きなソファがふたつ対面で並んでいる。それでも部屋が広すぎてスペースを持て余していた。壁に目をやると『緋色の砂丘』を描いた絵画が黄金色の豪勢な額縁に飾られていた。

 キングル・オリヴァンダーはいなかった。

「ここで少しお待ちを」

 執事は扉を閉めて、壁際に立った。

「少しっていうのは十秒か? それとも一時間か?」

「それはキングル様次第です」

 ライアスは落ちるようにソファに座り、舌を打った。

「その顔、どうしたのですか?」

「顔?」

「殴られた跡が……」

「ああ。こんなのいつもだ」

「そうですか……」

 執事はそれ以上喋らなかった。

 しばらく待つと、キングルが応接間に入ってきた。

 キングルのすぐ後ろにはキングルの八歳の息子、ジョーイがキングルの後をくっつくように歩いていた。農場にも度々現れていたからライアスも存在は知っていた。キングルと似たような体付きをしていて、体は丸い。親に似て、いつも頭の悪そうな顔をしている。

 ジョーイは眠そうに目をこすりながら、大きな欠伸をしている。「パパ。この汚い人だれ?」とライアスを指差した。

 キングルはそれを聞いて「汚いか。あっはっは」と面白がった。

「汚れが移るといけない。おまえはママのところに行きなさい。できるね」

「うん。できる」

「いい子だ」

 キングルに頭を撫でられると、ジョーイは満足した顔で応接間の外に出ていった。

 キングルはライアスの対面のソファに座る。光沢が出るほど綺麗に磨かれたテーブルの天板に目をやり、不満げに執事の男を睨んだ。

「俺が来るまでに紅茶くらい用意できなかったのか?」

「申し訳ありません……! すぐに用意しますので」

 執事が下げた頭を戻すよりも前に「もういい!」とキングルは一喝する。

「まったく、使えんやつだ……。そうだ……! どうやらジョーイが粗相をしてしまったみたいでな。この後でいいからベッドのシーツを綺麗にしておけ。いいな?」

「はい……」

 執事は再び頭を下げた。

「それでだ……」

 キングルはライアスに向き直った。

「おまえに言わなきゃいけない話があった気がするが、さてなんだったかな……?」

 嘲笑して、人を小馬鹿にする態度はエミシアたちと何も変わらない。

「妹のレイニー・エーデルワイスについて話したい。俺が仕置房に入れられている間、妹から何か言われてないか?」

「ああ……! そうだそうだ……! 思い出したぞ」

 キングルは手を叩いた。その仕草や声。表情までが全て芝居じみている。

「おまえの妹はな。ここで働くのを辞めるんだとさ。自分を今まで大切に守ってきたお兄ちゃんを置いていき、ここを出ていくと言っていたぞ」

 これを伝えたくて楽しみにしていたのだろう。キングルは大きく口を開けて笑った。

「これは傑作だ! 最後の最後で妹に見離されるなんてな! 可愛そうなお兄ちゃんだ。あっはっは!」

 ライアスは拳を握った。手が震える。

「あんたはそれを許可したのか。ここを出ていってもいいって」

「おまえ。なにか勘違いしてないか? 俺は一度も、誰にもここで働けと強要した覚えはない。他では働き手にすらなれないやつらが、どうしてもここで働きたいと言うから雇ってやっているんだ。出て行きたいというやつをわざわざ止めるなんて面倒するわけがない。他に変わりはいるからな」

 キングルは口角を上げた。脂肪で重たそうな頬を吊り上げる。

「それに、ちょうど良かったんだ。あいつはもう十四歳になったそうじゃないか」

「なにが言いたい……!」

「分かっているくせに……。呪われた子は十五の歳になると死ぬ。おまえの妹もそうだ。あと一年も待たずに死んでしまう」

 キングルの言うことは間違っていない。呪われた子は十五の歳になった日。朝日とともに死ぬ。しかし、この男の口から聞くと、たとえ真実でも無性に腹が立った。

「ここで野垂れ死ぬよりは、よそで死んでくれた方が面倒事は少なくて済むってもんだ」

 キングルは野太い声をあげて笑った。

 ライアスはずっと昔から、自分に課していることがある。この世界が妹を苦しめるなら、自分は世界と戦い、抗うことをやめない。そういう誓いを。

「まったく馬鹿な女だ。この農場の中で縮こまっていたほうが、まだ幸せだったろうに。そんなに地獄をみたいのかねえ……。おまえは辞めるなんて言ってくれるなよ。おまえにはまだまだ労働者としての価値はある。あと、その生意気な口調をいい加減に――」

 ライアスがテーブルを踏みつける音が部屋に響いた。キングルが驚いて顔をあげたときには、ライアスの拳が目の前にあった。拳はキングルの鼻骨をへし折って、顎にたまった厚い脂肪が波打って揺れる。キングルは勢いよくソファごと後ろにひっくり返った。短い手足をじたばたとさせて起き上がろうとするが、なかなか起き上がれない。その姿はとても滑稽で、農場主としての威厳はそこに無かった。

「今まで世話になったな。牛野郎!」

 ライアスは吐き捨てるように言うと、屋敷の外へと出ていった。

 ライアスが建物を出て、庭の門扉をくぐろうとしたときに、後ろで銃声が鳴った。それは朝の静けさを砕くような雷鳴に似た轟音。ライアスは胸に手を当てた。そして後ろを振り返る。




 イール・スミス。それが執事の名前だった。しかし、この屋敷の中で、その名で呼ばれたことはない。

 イール・スミスは元軍人だった。ライアスを止めることだってできた。それでも、何もせずに見届けることを選択した。

 キングルが殴られた瞬間、イール・スミスは胸がすくような思いがして、次に体が少し熱くなった。そして、その体の熱が高揚感によるものだと気づいて動揺した。

「今まで世話になったな。牛野郎!」

 不幸な少年。ライアス・エーデルワイスは部屋を出て行く。イール・スミスは無様にひっくり返った主人の大きな体を起こそうと近づいた。すると、キングルに胸元を乱暴に掴まれた。

「おまえには護身用に銃を持たせているよな?」

「はい。持っていますが……」

「撃て! 撃って殺せ! あいつは絶対に許さん!」

「あの少年を……撃てと……?」

「ああ! もう身寄りのないガキ一人だ! 死んでも騒ぐやつはおらん。何も問題ないじゃないか!」

 みっともなくひっくり返ったまま、怒りと憎しみを混ぜた歪な表情で、キングルは笑う。

「できません……」

 イールは首を横に振った。するとキングルに頭を鷲掴みにされる。脂肪ばかりでも体は大きい為か力は強い。

「おまえ。主人の命令に逆らう気か……! 今ここに鞭があれば、おまえの尻の割れ目がふたつに増えるくらいに叩いてやったところだ!」

「承知しました……」

 イール・スミスは立ちあがり、屋敷の二階へと上がった。壁に掛かった銃を外して、窓を開いた。ライアスの背中が見えた。まだ銃で狙える距離だった。

 イール・スミスは一年前まで軍人だった。北の国との戦争は三カ月程前から休戦に入っているが、イール・スミスが現役だった頃は戦争の最中だった。そのため、銃の扱いは嫌というほど磨いている。己が戦場で死なないために。

 だから、外さない自信があった。

 イール・スミスは銃を構える。走るライアスの背中に銃口を向けた。

「まだ若き少年よ。あなたは知らないのです。この世界で一度不幸に縛られてしまえば逃げられない。その中で足掻けば、より鋭利な不幸があなたを傷つける。だから……せめてここで……」

 太陽が少年の背中を照らしている。どんな不幸の中でも折れない信念と覚悟を持った背中を燃やしている。

 イール・スミスは引き金を引いた。

 戦場で何度も聞いた音が鳴った。結局、軍を退く最後まで、この音は好きになれなかった。

 哀れな少年が振り返り、目が合った。イール・スミスは何事もなかったかのように銃を下ろして、応接間へと戻った。

 ひっくり返っていたキングルはどうにかして自分で無様な格好から抜け出したようで、一緒に倒れていたソファも元に戻っていた。キングルはソファに深く腰掛けて、濡れた布巾で鼻を押さえている。

「やったか?」

 イール・スミスが応接間へ戻るなり、キングルは尋ねた。

「はい。彼は地獄に旅立ちました」

 なるべく表情を変えずに言う。キングルはニンマリと笑ってから、声をあげてひとしきり笑った。

「初めてだよ。おまえを雇って良かったと思ったのは」

「それでは、私は後処理をして来ますので……」

 高笑いを続けるキングルを背にして、イール・スミスは応接間を後にした。




 銃声が響いたとき、近くの森から鳥が飛び立った。ライアスは立ち止まり、胸に手を当てた。死が体を貫いたと覚悟したけれど、胸に穴は空いていなかった。銃弾は当たっていない。振り向くと、屋敷の二階の窓に執事がいた。手に銃を持ち、銃口の先は空を指している。見上げると、太陽が眩しく光っていた。

 執事は踵を返して姿を消した。


 ライアスは再び走り出した。農場の外に向かって。

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