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01.キングルの農場ⅰ

 果てなく積み上がっていくものがある。猛火の怒り。黒々とした絶望。それらは、世界がどうしようもなく糞ったれだと教えてくれた。この世は明確に不平等で、慈悲も容赦もない。それはずっと変わらない、世界の全てだった。


 近よるな。呪いがうつる。


 その言葉を聞いた直後のことだった。ライアス・エーデルワイスは体を半回転させて怒りのこぶしを相手にぶつけた。そこに思考はなく、全てが反射的で衝動のまま振るったこぶしだった。 

 ライアスよりも三つ年上のエミシアという名の男は耕された土に背中を沈めた。ライアスはエミシアの体を押さえつけて馬乗りになる。

「おまえ。いま。俺の妹を侮辱したな?」

「離れろ――」

 ライアスが顔面にこぶしを落とした。その一撃はエミシアの前歯を折り、鼻から血を吹きださせた。

「ほら。もう一度なにか言ってみろよ。今度はそのいらない舌を引き抜いて串刺しにして、炙って犬の餌にしてやる!」

 エミシアは涙ぐんで呻くばかりになる。

「なにか言ってみろよ!」

 ライアスはエミシアの頭を掴み上げて激昂した。

「ライアスやめて!」

 ライアスの腕にしがみついたのは妹のレイニー・エーデルワイスだった。

「離せレイニー。こいつに思い知らせないと。俺たちを馬鹿にしたらどうなるかを」

「だめだって!」

 ライアスは小さな妹の体を軽く振り払おうとしたけれど、眉間に皺を集め、必死にしがみつく妹の姿を見て躊躇った。レイニーの細く白い腕がライアスの怒りを吸いあげていく。

 それでも、これまでに積み重なった怒りの重さは消えない。

「おまえら! なにをやっているか!」

 農場のど真ん中で騒ぎを起こしたせいで、農場主のキングル・オリヴァンダーに見つかってしまう。

 農場の隅の屋根付き小屋で、木製の椅子をゆらゆらと揺らして、アップルパイを頬張っていたキングルは険しい顔で立ち上がった。残りのアップルパイを口の中に詰めこんで、その空いた手で鞭を拾う。牛が直立したかのような重そうな体を引きずって、のそのそと近付いてくると、無言でライアスに鞭を打ちつけた。

 鞭はライアスの右肩に当たり雛鳥の悲鳴のような音を出した。ライアスは激痛に呻き、地面に転がる。

「仕事中になにをやっているか!」

 キングルは再び鞭を振り上げる。今度はエミシアを睨んだ。

「待ってください! こいつが急に殴りかかってきたんです。俺はなにも……」

「そうなのか?」

 地面に倒れるライアスに、キングルは問いただした。

「なに言ってやがる……! おまえが俺の妹を侮辱したからだろ!」

 まるで殺人者の目で、エミシアを睨んだ。法が許しこそすれば、殺してやるのにと強く思っていた。

 エミシアはぶんぶんと首を横に振りまわす。キングルは苛立ちから眉間に眉を寄せる。

「暴力をふるったのはライアス……。おまえなんだな?」

 ライアスは何も言い返せなかった。キングルは冷めた息を吐きだして、近くの男たちにライアスを捕らえるように命じた。

「問題を起こすなと、いったい何度言えば分かるんだ。このまえも言ったはずだぞ? 次はただじゃすまないと。おまえは三日間の仕置房いきだ」

「待ってくれ!」

 ライアスは数人の男たちに抑えつけられる。

「三日間だと? ふざけんな! そのあいだ、誰がレイニーを守るんだ!」

「そんなに妹が心配なら、もう二度と騒ぎを起こさないと誓え」

「分かった! もう暴力はしない! だからお願いだ……! 今回は見逃してくれ!」

 キングルは鞭をしならせて地面に打ちつけた。そして自分の権威をひけらかすように胸を張った。肥えた肉にシャツが引っ張られて、胸元のボタンが弾け飛びそうになる。

「頼み方が違うな」

 キングルは薄ら寒い笑みを浮かべてライアスを見下ろした。

 ライアスの腹の底にじわりと広がっていく。黒い、消せない絶望が。屈辱に顔を歪めて、土を握りしめ、すりつぶした。手のひらに爪の跡を残す。

 自分はとても無力な存在だと突きつけられた。富も権力も持っていない。ただの少年なのだと。対するキングルはこの農場で絶大な権力を持っている。どんなに屈辱的であっても偉ぶる権力者には従順でなければいけない。それは自分と妹が、この糞ったれな世界で生きていくために一番かしこい選択なのだと、ひたすらに自分に言い聞かせる。いつか絶対に、その肥えた顎をぶん殴ってやると誓いながら。

 ライアスは額を地面に押し当てた。

「許してください……。お願い……します……」

 その言葉を聞いてキングルは満足そうに笑う。踵を返して言った。

「だめだ。連れていけ」

 ライアスは怒声をあげた。人というよりも獣に近い憎しみの咆哮だった。男たちに担ぎ上げられて仕置房へと運ばれる。言葉にならない怒声を振りまきながら身をもがくが、数人もの大人の力で抑えつけられてしまえば、十六の少年の抵抗では意味をなさなかった。

 エミシアはもがくライアスの様を見て、トカゲのように目を細めて笑っている。それがライアスの視界に映った。

「おまえ! 俺がいないところでレイニーを侮辱してみろ! 絶対に許さない! 次は殺してやる! 絶対だ!」

「黙らんか!」キングルの鞭がとんだ。ライアスの肩を赤く腫らす。口に布を押し付けられて、言葉を発することすらできなくなる。身をよじり、手足をばたつかせるが、自分をより惨めにさせるだけだった。

 レイニーの顔を見た。レイニーの潤んだ瞳が見つめ返した。この瞳の意味をライアスはよく知っていた。何度も見た瞳だった。自己嫌悪と罪悪感に苛まれていく瞳。もう二度と、そんな目をさせないと誓った瞳。どうして、いつもこうなってしまうのか。ライアスは腹の底に残り続ける怒りと後悔を吐き出そうと喉を震わせるが、塞がれた口では何も言えなかった。


 仕置房とは農場の隅に建つ小さな小屋のことを指している。農場内で誰かが不祥事を起こせば懲罰を目的としてそこに監禁される。通常は半日、長くても一日もすれば解放されるのだが、三日間は異例だった。少なくとも、ライアスとレイニーが農場で働き始めてからの十年間では一度もないことだった。

 小屋は石造りで窓はなく、入口は鉄格子で閉じられている。当然、外から鍵がかけられているので、中から開くことはできない。地面がむきだしの床ではムカデが這っていた。小屋の隅には小さなカンテラが置かれているが、それ以外に灯りが無いため薄暗い。

 ライアスは地面を蹴って音を立て、部屋の隅の小さな穴へとムカデを追いやった。

「なにが仕置房だ。くだらねえ」

 ライアスは地面に横たわる。

 この農場はまるで小さな王国のようだった。国王はキングル・オリヴァンダーであり、彼は民主的などという言葉を知らない愚かな独裁者だ。彼の機嫌を少しでも損なえば鞭に打たれ、たとえ期限を損なわせないように上手に振る舞ったとしても、彼が勝手に不機嫌であれば鞭が飛ぶ。キングルはお城が十分に収まるくらいの広大な土地を所有している。その七割を農地として、二割をオリヴァンダー家の屋敷として、余った残りの一割ほどを労働者たちの居住区としている。農場の労働者は五十人を超えており、その全員が敷地内で暮らすことを強いられている。

 仕事だけでなく住む場所まで与えて貰えるのは、雇い主であるキングル様の深い慈悲によるものだ。と農場で働く誰かが言っていた。ライアスはそれを聞いて、馬鹿で糞野郎だと唾を吐きかけたくなった。飼い殺しにされているだけだろ。と後ろからど突いてやりたかった。

 一日中休むことなく、鍬を幾千回も振り下ろして得られる対価は一ルエルと五十アン。それはごく僅かな硬貨でしかない。その日分の食料を買い込めば消えて無くなってもおかしくなかった。たとえ他の地に移りたいと願っても、それができるだけの硬貨を集めることは気が遠くなるほどの年月が必要になる。

 十年前。ふたりはこの劣悪な環境で働くことになった。親はいなく、それしか選択肢はなかった。父親はレイニーが呪われた子として生まれたときに行方をくらまし、母親はふたりを育てるが、呪われた子の親として周囲から虐げられて、それに耐えきれなくなり崖に身投げした。それはライアスが六歳になり、レイニーが四歳のときのことだった。

 ライアスは黒ずんだ天井を見つめ、妹のレイニーのことを思った。

 もう仕事を終える頃だろう。あれから酷いことを言われていないだろうか。無事に家に帰れただろうか。ご飯をちゃんと食べれているだろうか。一人で寂しい思いをしていないだろうか。レイニーへの心配ごとは増えるばかりで消えていかない。ライアスの頭の中はそればかりに支配されて、落ち着かなくなって立ち上がると、鉄格子の扉を力任せに蹴った。鉄が震える鈍い音がした。次に壁のいたるところを叩きつけた。壊れろ。壊れろ。と念じながら何度も叩いた。壁はびくともしていないが、それでも叩き続けた。

「ライアス!」

 外から声がした。鉄格子の扉の向こう側から猫が喋ったみたいな愛くるしい声。それはレイニーの声だとすぐに分かった。

「レイニー!」

 ライアスは扉に駆け寄って、鉄格子の隙間からレイニーの顔を覗いた。黒い長髪に紺色の瞳。小さな鼻に淡いピンクの唇。端正な顔立ちをしているのに土汚れだらけの格好がみすぼらしい。妹にこんな格好しかさせてやることができないのかと、胸が痛む。

「レイニー……! 元気か? 寂しくないか? あれからなにか酷いこと言われてないか?」

「ううん。なにも言われてないよ」

 レイニーの顔は暗い。夜の背景にも、ぽっかりと浮いてしまうほどに。

「なにかあっただろ」

 訊いてもレイニーは答えなかったが、なにかを隠している顔をしている。

「それより。外まで音が響いてたけど。いったい何してたの?」

「ああ……。たいしたことしていない。壁を蹴破ってやろうと思って」

「なにしてんの」

 レイニーは驚きと呆れをひとつの声にないまぜにする。

「そんなことしてるの見つかったら、さらに長く監禁されちゃうよ」

 言われてライアスも気づく。レイニーの言うとおりだった。

「ライアスって、私のことになると冷静じゃない。いつもそう……」

 レイニーは膝を折り畳んで座った。

「私なんかのためにそんな必死にならないでよ……。私にそんな価値ないよ」

「おまえは俺の大事な妹だ」

「今、私のせいでこんな目にあってるのに?」

「おまえのせいじゃない。俺が勝手に暴走しただけだ」

「でも……」

 レイニーは視線を落とす。一度もライアスと目を合わせない。

「私は呪われた子だから。私がいなかったら、こんなことになってないよ」

「そんなの関係ない。いつもそう言ってるだろ」

 すっと差しこんだ沈黙がふたりの距離を埋め尽くした。その沈黙が気持ち悪くてライアスは話題を変えた。

「どうしてここに来たんだ?」

 レイニーはライアスの顔を見ない。ばつが悪そうに視線を左右に振った。

「謝らなきゃいけないことがあるの……」

「なら無駄足だったな。おまえに謝られることなんてない。安心して家に帰れ。これ以上暗くならないうちにな」

「聞いて」

「レイニー……。俺たちはもうじきこのクソったれな農場から出れるんだ。ふたりで貯めた金でな。今はそのことだけを考えろ。他の全てのことは考えるな」

「ライアス!」

 涙を包んだような声だった。レイニーの顔を見ると、また、あの瞳をしていた。自己嫌悪と罪悪感に押し潰されていくような、そんな瞳を。

「お金は盗られちゃったの……! だからここからふたりで出ることはできないの……!」

 レイニーは頬を痙攣させて、唇を震わせた。涙を我慢して、自分にそんな権利はないのだと主張する。

 ライアスは息を吐いた。長く。深く。気が狂いそうで、無性に声を荒げたくなった。そんな自分に落ち着けと命じた。分かっていただろう。世界はいつだって糞ったれだと。

「エミシアか……?」

 ごめんなさい。震える声でレイニーは言った。

「あいつが俺のいない隙に家に入って盗っていったんだな?」

「分からない。顔を隠してたから」

「あいつしかいねえよ」

「私はなにもできなかった……!」

 月下で嘆くレイニーの顔を見つめて、ライアスは自分のなすべきことを理解した。

「殺してやる……!」

「だめ!」

 ようやく、レイニーと目が合った。訴えかける瞳は、その人生には不釣り合いに純粋でいて綺麗だった。

「私なんかのせいで、ライアスまで道を踏み外さないで!」

「はあ? なんでおまえのせいになるんだよ。悪いのはあいつで。だから俺はあいつを殺すと言ったんだ」

「ちがう! 悪いのは私だよ。私が兄さんの人生を壊してる!」

「そんなこと言うな。やめてくれ。俺はそんなこと思っていない」

「これ……」

 唐突に、レイニーはポケットから袋を取り出した。見覚えのある白い袋だった。白い袋は天井裏に。黒い袋は床下に隠していた。そのふたつの袋の中に均等に金貨を貯めていた。

「半分は盗られちゃったけど。もう半分は無事だったの。受け取って」

 鉄格子の隙間をレイニーの細い腕が通り抜ける。ライアスは無言で白い袋を受け取った。

「なんで持ってきた?」

「それは全てライアスのものだから」

「なに言ってる? これはふたりのものだ。もう一度貯めればいい。そうしたら、ここを出よう」

「そんな時間残されてないよ。分かってるでしょ? ライアス」

「そんなこと……」

 ないとは言えなかった。呪われた子は十五の歳になった日に死ぬ。レイニーはもう十四歳だ。残された時間は少ない。

「ねえ。兄さん」

 レイニーの声は優しくて、静かだった。

「あなたはもう……私の人生に囚われなくていい。自分のために生きればいい。だから……ひとりでここを出て」

「そんなわけいくかよ! 俺がおまえを置いていくわけないだろ!」

「相変わらず、妹大好きすぎて困るなあ」レイニーは唇を噛んだ。「私の最後の我儘なんだからさ。それくらい聞いてよ」

「俺はどこにもいかねえ!」

「意味ないよ。もう、私を守ろうとする意味なんてない。私とあなたは、もうこれっきりだから」

「は?」ライアスは鉄格子を掴んだ。「なにを言ってる?」

 レイニーは立ち上がった。ライアスの顔を見据える。

「さようなら。兄さん」

 レイニーは笑った。悲しい瞳のまま。それが無理につくった笑顔だとライアスには分かった。

 レイニーは背中を向けて歩き出す。

「おい待て! レイニー! どこにも行くな! どこにも……!」

「忘れなよ」

 レイニーは言った。

「私のこと全部。呪われた妹のことなんかさ。それが一番幸せだよ」

 レイニーは歩み去っていく。背中は小さく遠ざかっていく。雨が降り出して、暗闇は深まる。

「それが一番幸せだと……? そんなわけあるかよ……! そんなわけあるかよ!」

 雨脚が激しくなる。レイニーの姿は見えなくなった。

 疲れ果てて気絶するまで、ライアスは妹の名を叫び続けた。

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