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むさしのの  作者: 碧乃 萌蓮
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悲しきモンスター

湿った枯れ葉に沈む革靴の底。乾いた風にひりつく肌。潤んだ瞳に冷たい息。


哀しみと期待に胸が疼く。


悲しいかな悲しいかな、重ねて悲しいかな。


私は私ではなくなるのだ。


私には何の拘りも無い人の手に依って。踏み躙られる尊厳。それには慣れていた。


だからこそ、あってはならないのに。自ら蟻地獄に嵌る様な無様さを甘受する気持ち悪さ。


貴方ならと思ってはいても身が裂かれそう。この辛さは私にしかわからないのに。誰か誰かと願ってしまう。


ここから消え去りたいのに、私しかいないのに、私だけではなかったと、誰かに刻みたくなるような。ふわふわと浮いている様な。ここは何処で私は誰かわからないような。


踏みしめた重なる落ち葉がいずれ混ざり合うだろう虚しさに自分を重ねた。


貴方は誰ですか?


ずっと前から知っているはずの男が、初めての表情で顔を硬らせているのが気色悪い。


手を繋ぐわけでもなく、それどころか隣にすらいない。ただ広い背中を呆然と見つめてまた虚しくなる。後戻りは出来ないし、するつもりもない。


この日をどれだけ待ち望んだかもわからない。自分への憎しみと青春の好奇心を同時に満たせる機会をやっと掴んだのだ。


ただ私の中の綺麗な私が涙する。


そんな私を大切に大切に何度も繰り返し無視して殺すんだ。


さようなら。


何度声をかけても、何度痛めつけても消えない貴女を私は今日こそ黙らせることが出来そうだ。


冷え切った揺るぎない心とは裏腹に熱く分厚い指先が、触れたら壊れる雪の結晶に触れるように、優しく皮膚に触れる。


火傷するかと思った。


電気が走って脳が痺れる。


燃える様な獣の瞳。


世界一汚いものを睨む様に視線を返す。


「やわらか」


ざらついた、低い様な高い様な変な声。


初めて女の肌に触れたわけでもないだろうに、わざわざ呟くところがまた気持ちが悪い。


腕とも呼べない皮膚に沿わせた指を、そのまま形をなぞるように上に運ぶ。


初めてこんな触れ方をされた。


自分の形がわかる。


なにこれ。


人形の出来映えを確かめるように、腕の形をなぞり、関節を曲げて手を握る。


私は人形か?


為す術もなくなれるがままにされているのだから、あながち遠くもない。


指の先に厚い唇が落とされる。


優しく柔らかい。


何かの誓いみたいな仕草はやめて。


気持ちがあるみたいで受け入れられない。


上目遣いで見ないで。


黒い瞳に吸い込まれそう。


整った大きな紅色の唇。


あなたリップでも塗ったの?


ふわふわで皺ひとつ無い。


何それ作りもの?


隙間なく並ぶ求愛中の鳥の羽根みたいに広がる睫毛。一本一本端正に整えたように並ぶ眉毛。


神に愛されてるの?むかつく。


ふと呑み込んだ一息に喉が渇いていることに気づく。


私の唇は水分が少なくて縦皺が無くなったことがない。いつも皮が剥けていて、自分で食べてる。


眉毛は多いし縦横無尽に尖ってるのを知っている。真下に伸びる睫毛は目の半分を覆ってる。後ろ暗い私を隠すみたいに。


見下げた視線の先には、仁王立ちに開いた両の足。よほど女性らしさとはかけ離れている。こんなに足を踏ん張ったところで、地に足がついてる感覚なんてまるでない。


使い古されたローファー、ゴムが弛んだソックス。砂の混じったタイルの床に、膝まで隠れるスカートのプリーツがチラつく。


惨めだ。


中身が想像出来ないほど大きな流行りのスニーカーに、たわんだ裾からも曲線美がわかるスラックス。細い腰から溢れた白いシャツ。開いた首元から覗く骨張った鎖骨。尖った顎先にインスタ映え用に整えたみたいな唇。


舐める様に全身を見てしまった。

なんなら舐めたい。美味しそう。


至近距離で目を凝らして探しても毛穴が見つからない。


レンガの味がしそうだ。知らないけど。


熱に浮かされた変態が鼻息荒く神の意匠を堪能する。真実の瞳に射抜かれて罪を糾弾されないか恐ろしい。目の前の果実を流すわけにはいかないのだ。


長すぎる指が頬を、顔を、頭を包んでゆっくりと引き寄せる。コマ送りかという時間をかけて、唇が重なる。


ミリ単位より細かく接近してる。

匠の技かよ。


包まれた大きな唇に息の仕方がわからなくなる。


吸っていいの?吐いたら匂うかな?


なかなか唇が離れない。


頭が痺れる。酸欠でな。


目を開けると真っ黒な星と目線が衝突する。


「なんで、目……」

必死に嫌そうに絞り出す。


「閉じるのかな、と思って」


モルモットかよ。

いや、モルモットの方がまだかわいいか。


必死に睨みつけた眼光が我ながら弱々しく、虚しく虚空に消えた気がした。


首に、肩に、胸に。

腹に、腰に、脚に。


落とされる唇に身体の境界が曖昧になっていく。


初めは確かに思えた身体の輪郭がいつの間にかぼやけて自分で掴めない。


高揚のあまり朦朧とする意識の中で、時折ぬらぬらと光る眼光の揺めきを追うのが精一杯だ。


何が起こっているのか、把握したいようなしたくないような、多過ぎる初めての情報量に脳がキャパオーバーでショート寸前。


どんな反応をしていいかもわからない。


駄菓子屋のおまけみたいな風船のようなおもちゃを大事そうにつけたり外したり、手で弄んで床に打ちやる。


え、何遊んでんだろ……。怖。何かの儀式かよ。


飛び散った色んな液体が何処から出て、誰が片付けるかもわからないまま、微熱を身体に閉じ込めて帰路を急ぐ。


おうちにかえらなきゃ。


恐る恐る組んだ腕はあえなく振り解かれ、絡まないどころか一度も合わない視線に未来への道は欠片も無いことを思い知らされる。


現実は残酷。


いや、大まかに一括りするのは早計だ。


私が選んだ。道筋は見えていた。目的は達した。イレギュラーは起こらない。


彼が残酷で、然るべくしてそうなったのだ。文句も無ければ、そもそも会話すらない。


さよならも告げる必要がない。


そもそも何も始まっていないのだから。


絶望するのはお門違い。そんな我儘は誰も許してくれない。誰が許しても私が許さない。だけど奇跡を夢見て何が悪い。そんな私を嘲けるのも喜ぶのも嘆くのも、ぜんぶ私。報われない一人相撲。残酷で甘美な自己完結。そこには誰もいないのだ。侵入することは私が認めない。みんな大嫌いだ。こんな私も、死んでしまえばいい。何もなくなれ。まっさらに。


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