恋する乙女
なんとなく日々は過ぎ、前世の記憶を思い出してからも佐倉香緒里として生活していくことに慣れ始めている自分がいる。
なんというか順応性が高いのかもしれない。
それはそうとしてサッカーマンガの世界に転生したというのに、サッカーをしない立ち位置のキャラになってしまったのはわりと残念な感じだ。
彼らの試合を観ているとそう思う。
ナチュラルに残像を発生させながら走り回る陽狩剛士や、横スクロールのアクションゲームみたいに伸びやかに飛び上がる矢吹くんを眺めていると羨ましくもなる。
ああいうのは気持ち良さそうだし、ちょっとやってみたい。
まあ、強烈シュートに体ごと吹き飛ばされるとか痛いのはごめんだけれど。
この世界でサッカーをしないってことは、つまり海に行っても泳がないし、スキー場では滑らないようなものだ。
せっかくならやってみたかった。
しかしながら佐倉香緒里の身体でスポーツを本格的にする発想はない。
前世の私と比較するに、まだまだ子供の仕上がってない身体だっていうことを引き算しても運動能力のスペックが非常に低い。
低すぎてゼロを下回ってマイナス評価だ。
単なる徒競走ですら、おっとりの呪いとでもいうような、なにかステータス異常に付きまとわれているかのように脚が思い通りに動かない。
まあ向いてないものは向いてないのだから仕方ない。
前世よりも明らかに可愛らしい美少女に生まれ変わったのだから、おとなしくはんなりとお嬢様ライフを生きるべきだろう。
それにしても……
六年生に進級し、矢吹くんら『僕タク』の面々も最高学年として御覧野第二小サッカー部を引っ張っていく立場になり、新年度のチームが始動している。
昨年の悔しさから、今年こそは全国大会に出たいってことで気合いが入っているのがわかった。
私も応援を頑張ろう、サッカーってサポーターも一緒に戦っている競技だよねってことで意気込みも増し増しだった。
「あのぅ……瀬葉須さん?」
私は少し後ろに控えていた佐倉家の運転手さんに声を掛ける。
「どうなさました、お嬢様。何かございましたか」
「この方々は?」
小学生のサッカーチームを応援している私の両脇を、物々しいシークレットサービスみたいな人が固めていた。
ダークのスーツをピシッと着用し、サングラスを掛けた長身の男性が私の左右に直立不動の姿勢で立ちそびえていた。
なんだかこういう人に追いかけ回されるテレビ番組があった気がする。
それに、やだ、この人たちスーツの左胸が不自然に膨らんでやしませんこと? イリーガルな、イリーガルな方々じゃありませんか?
「大丈夫です。お嬢様」
「そうかしら?」
「この者たちはいないものとお考えて振る舞っていただいて結構です。ただお嬢様の安全を影ながら護っているだけでございますから」
当然のように告げる瀬葉須さんだが、ぜんっぜん影になってないとしか言いようがない。
試合を観ている人々のざわつきが瀬葉須さんには伝わらないのだろうか。
なんだったらサッカーに集中しないといけないはずの選手の子たちが気になってチラ見するくらいだ。
「あのようなことがありましたから、旦那様にご相談したところ『近頃のサッカーとは、そのように危険なものになっているとは知らなかった』と申されましてお嬢様にボディーガードを雇った次第です」
「は、はあ」
「どうかご安心して矢吹殿をお見守りください」
そう言われても視界の端に変な『圧』みたいなのを感じて、全然落ち着かないんですけど。
救急車を呼ぶ騒ぎになったリアクションで何か対策をしたのはわかるけど、これはちょっとないんじゃないだろうか。
「二人とも単独で廃ビルなどのアジトに籠った敵一個小隊を十五分以内に制圧できる実力の持ち主ですぞ」
過保護すぎて怖い。
そして、瀬葉須さんが自慢げなのは何故?
「はぁ……」
溜め息をつく私だが、左右のボディーガードさんたちは無反応だ。
まるで血が通っていないかのように静かで整然と立っている。
サッカー場に近づくのを禁止されるよりはましだと自分に言い聞かせながら、私は矢吹くんらの応援を続けた。
視界の隅に黒い影があるのも、試合を観戦するうちに次第に気にならなくなっていく。
あれだ。
映画がレターボックスとかの画面の規格で上下が黒いときに最初はそれが気になるけど、そのうち忘れるのに似ているかもしれない。
矢吹くんや陽狩剛士がド派手な活躍をして場を沸かせるなかで、今日も鷹月孝一がここぞというところで効いていた。
ちゃんと矢吹くんを応援しようとは思いながらも、ついつい彼を目で追ってしまう。
でも彼は観ていれば、それだけの価値のある動きをしていた。
すべての挙動に意味がある。
時にはなに食わぬ一歩の動作で、相手の攻撃を遅らせたり防いでいたりする。
パスを出すのもタイミングが一秒早くても遅くてもいけない。そう言うパスを出していた。そして、それが二つ、三つ先のプレーで得点になるのだ。
注視していなければわからない。そんな選手。それが、鷹月孝一だ。
他の女の子たちがもっと華麗な技をする陽狩剛士に目を奪われているなかで、私だけは鷹月孝一のことを彼のことをわかっているって、そんな気持ちに酔いそうにもなる。
彼はとても賢いし、マンガのキャラだって考えても普通じゃない。
まるでその場の選手みんなの心を読んでいるみたいにも感じられてしまう。
ある意味じゃ、矢吹くん以上に将来が恐ろしい少年だ。
いってみればエスパーのようですらある。
人類の進化の旗手。仮面ドクターが出現を待ち望んでいるネオアスリートというのは、もしかしたら鷹月孝一のことなんじゃないかとまで思うほどに。
「あら、香緒里ちゃん。久しぶりね」
ある日の学校からの帰り。
玄関ホールの吹き抜けの階段を降りてくるその人に、私は会った。
見上げた先の壁面にはちょうど一枚の大きな肖像画がある。
写実的に描かれた人物。不思議なくらい美しく和服を着こなす白人女性の姿。
私の祖先にあたる丸ヶ璃多姫だ。
まるで、その絵から飛び出してきたかのように彼女の姿は百年以上前の姫の姿と瓜二つだった。
「亜衣姉さん」
「見ないうちに大きくなったね」
左手を手すりに添えながら優雅に段を踏み、女神のように微笑む。
「じゃあ、あの子も今頃はこんなになってるのかしらね」
「……会ってないんですか?」
「お父さんのほうにベッタリだからね、あの子は。仲悪いわけじゃないんだけど」
亜衣姉さんには私と同い年の子供がいる。
外見からはとてもそんな年齢には見えないのだけど。
「しばらく日本に?」
「んー。どうかな。香緒里ちゃんに会ってみたら、あの子にも会いたくなったから欧州のほうにすぐ行くかもね」
「それは……なんというか行ってあげてほしいですね」
「そだね。でも、どうしょっかな」
亜衣姉さんはアンニュイな表情を浮かべる。
親が子供に会うのに、どうしようかもないと思うのは私の前世の庶民感覚がそうさせるのだろう。
家族のかたちなんて、それぞれだし多彩であっていいはずだ。
何より佐倉家の事情は特別に複雑怪奇なことでもあるし。
佐倉亜衣さんは私の従姉にあたる。
亜衣姉さんのお母さんと、現当主である私の父が腹違いの姉弟ということになる。昼ドラか。
今は亡き前当主であった祖父が望まない政略結婚をする前、恋愛関係にあった女性が秘密裏に産んでいたのが亜衣姉さんのお母さんだ。昼ドラだな。
産まれてしばらく、亜衣姉さんは佐倉家とは関わりなく生活していたんだけど、お母さんが亡くなった時に実は貴女はあの佐倉家の……的な展開になって、色々あったけどなんやかんやで認知されたそうだ。
一言でいうなら、色々あった。そういうことだ。
まあ、そんなことで従姉なんだけれど子供がいて、その子が私と同い年くらいの年齢差があるのだ。
「そうそう、聞いたよ。サッカーで世界一になる子と結婚するんだって?」
「うっ、それは……」
「なんだかなあ。どっかで聞いたことのある話すぎるもんね」
亜衣姉さんはウフフと笑う。
過去の自分の話だからだ。
彼女もまたサッカー選手に恋をした女性だった。
かつて日本サッカーを世界に牽引するだろうと将来を嘱望された選手がいた。
彼がオランダのプロチームと十代にして契約し海を渡ったとき、彼女も駆け落ち同然で着いていったことがあった。
「俺はサッカーで世界一になる。そうしたら結婚しよう」
そんな約束を交わしていたと何年も前に亜衣姉さんから聞かされたことがある。
だけど彼は約束を果たす前に不幸な大怪我を負い、選手生命を絶たれてしまう。
世界の舞台でプロとしてやっていくのはもう不可能だった。
でも彼は夢と約束を諦めなかった。
「今となっては単に籍を入れてないだけなんだけど、まあ、意地なんだろうね」
現在、彼は欧州のサッカーを舞台に指導者としてサッカーで世界一になるために戦っているそうだ。
周囲からはもう結婚したらいいという扱いなんだけれど、当人同士が納得して今の関係なのだから、あとはとやかくいう話でもないだろう。
「あなたのお父さん、香緒里ちゃんの彼氏を家に囲い込んだって聞いてちょっと笑っちゃった」
「彼氏……」
「誰かさんみたいに家を飛び出して行かれちゃ困るって思われたんだろうね」
何しろ娘にボディーガードをつけるくらいの父親だ。それはありそうに思う。
ただ佐倉家を出奔するような度胸は私にはない気はするけれど。
亜衣姉さんは階段を降りきると、腰を落として私と目の高さを合わせた。
まっすぐに見詰める瞳の色は薄いアンバーだ。
私はこの人の孤高の狼のような力強い目にずっと憧れていた。
前世の記憶から香緒里としての記憶を客観視できる今、それがはっきりとわかる。
「恋をしている女の子の顔だ」
しばらく私を観察したのち、亜衣姉さんはそう言って何かを決意したように玄関に向かっていった。
「やっぱり、麻衣に会っておかないと。ありがとね、香緒里ちゃん!」
「……き、気をつけて! いってらっしゃい!」
「うん、またね!」
居なくなった途端、屋敷のなかが冷たいくらい静かになって夢から覚めたような気分がした。
風のような人だ。
そして、ヒロイン気質とでもいうのか、ただ居るだけで彼女を中心にその場が染まってしまうような存在感の持ち主でもある。
それはそうだ。
何しろ彼女は『僕タク』に登場しないとはいえヒロインの母なのだ。そういう遺伝子を持っているんだろう。
佐倉亜衣。
私の憧れの従姉の姉さんは、今は遠くにいる私の友にして恋敵?である菱井麻衣の母親なのだから。




