日直
その日は学校で、日直の順番が回ってきた関係で、放課後のチーム練習への合流が遅れていた。
まあ、仕方がないことではある。
10分や20分で、チームメイトからサッカーの実力差が決定的に開いてしまうものでもない。
ただ粛々と、日直としての役目を務め上げさえすればいいのだ。
それももう、学級日誌を書き上げて職員室に提出すれば解放される。
「こっちは終わったわ」
本日の日直の相棒、学級委員の森川由希が声を掛けてくる。
教室にはもう、僕らふたりしか残っていない。
彼女は、黒板消しをクリーナーに掛けていたのだ。
さすがは几帳面キャラで名の通っている委員長だ。黒板消しは、新品同様に白い粉の一粒すら残っていないように見えた。
「こっちも、あと少しだよ」
僕は、応じる。
委員長が横から日誌を覗きこんだ。
「鷹月君は、綺麗な字を書くよね」
「そうかな」
まあ、小学生男子の基準からすると、まともな文字を書いているだろうという自負はある。
精神的には二十五歳の大人が入っているわけだし。
「うん、読みやすい、いい文字よ」
委員長は、こうしてクラスメイトの良いところを見つけては褒め称えて、教室の向上心とモラールを高める活動を自然体で行っているのだ。
聖職者のような人だ。
小学生にして、意識高い系なのだ。
僕は、そんな委員長を素直に尊敬している。
彼女の見た目について指摘させていただくなら、委員長キャラなのに、眼鏡を掛けていないところは、画竜点睛を欠くというべきか残念なところなのだが、そんなマイナスポイントを補って余りあるくらいに、清楚な大和撫子感が全身から放たれているので、僕としては渋々ながら眼鏡に関しては目を瞑ることができた。
非常に、凛としていらっしゃる女子だ。
そんな委員長が、今日に限っては何故だか少し、ソワソワしているように見えた。
「どうかしたの?」
「い、いえ、なんでもないわ」
「そう……」
よくわからないが言いたくないことなら深くは聞くまい。
中身に大人が含まれている分、僕は通常の小学生男子に比べても格段に、デリカシーというものを心得ているのだから。
何か早く帰りたい用事でもあるのだろう。
そう言えば委員長は、さっきからやることがなくて、ただ僕が日誌を書いているのを見守っているだけだ。
「ごめんね。待たせて」
「い、いいのよ。気にしなくて」
委員長は上ずった声で答える。
いつもなら平安貴族のような落ち着いたトーンで話す、あの委員長が。
おかしい。絶対に何かある。
はっ。
よく考えたら今日は、世界的ベストセラーであるファンタジー小説シリーズ『魔法少年ジョニー・リネカー』の最新作『ジョニー・リネカーと妖精王の魔鏡』の翻訳版の発売日ではないか。
委員長は、委員長なだけに文学少女であるはずだ。
まさか眼鏡を掛けてないうえに、文学少女な属性まで持たないのだとしたら、僕は委員長を委員長として認めるわけにはいかない。断固として。
たぶん書店で予約しているのだろう。
早く買って帰って読みたいのだ。
予約特典の限定ストラップも、貰ってしまうのだろう。
家に帰って眺めながらニヤニヤするのだろう。
いや、ニヤニヤはしないか。
僕らの委員長は、そんな子ではない。
僕は、分かってますよという意味を込めて、魔法少年ジョニーファンにはお馴染みの、ジョニーが難しい魔法を掛けるときによくやるクセの、前髪の毛先を指先でこする動作を真似して見せた。
「?」
委員長は、首を傾げる。
「そ、そう言えば、鷹月君、最近はサッカーの調子はどうなの?」
委員長は話を逸らしてきた。
ジョニーファン、つまりジョニラーであることは別に恥ずかしいことではないと思うのだが。
ミーハーっぽいと思われるのはプライドが許さなかったりするのだろう。
それにしても、委員長は分かりきった質問をなさる。
サッカーの調子は、心配しなくても好調だ。
なにしろ世界的人気スポーツだから。
特にレベルの高い、欧州と南米をはじめ、アフリカ大陸やアジア圏でも人気は上々と言えるだろう。
我が国でも、随分とサッカー文化が根付いて来たものだ。
まだまだ、日本国民全体としては、代表チームの成績によって熱くなったり冷めたりするきらいはあるものの。
いや、分かってます。
そういうことが聞きたいんじゃないことは。
「うん、楽しくやってるよ。試合にも、出させてもらってるし」
「そうね、それってすごいことだと思うわ。まだ四年生なのに、六年生たちと一緒に試合に出てるでんですもの。このあいだ、少しだけ見させてもらったけど……」
「ふうん、そうだったんだ」
「そ、そうなの。ほら、あの、陽狩君も出てたわね。陽狩君、いつも鷹月君と一緒にいるわよね。サッカーでも、ずっと。本当に、仲が良いのね」
「まあ、幼馴染みだから。家も同じ町内だし」
「そうなのよね。ほんとに、いつも二人、一緒だから……」
委員長の声の音階が、話しながらぐいぐい上昇している。
気のせいではなく、顔も朱に染まっていた。
「どうしたの、森川さん?」
僕はなるべく優しく問いかける。
いつもはクラスに一定の緊張感を張り巡らせる側の委員長が、こんなに緊張してしまっている場面は珍しい。
「……ごめんなさい、私、ほら、鷹月君と陽狩君がいつも一緒だから」
「う、うん、それで?」
「だから今日、これを……」
なんとなく予感めいたものはある。
委員長は『それ』を、どこからともなく取り出した。
薄くて四角い物体。
ラブレターというやつだ。
委員長の場合、恋文と呼称したほうが的を得た表現なのかもしれない。
たしかに彼女の手にあるそれは、普段、日常的に僕が目にするものよりも、かなり慎ましい印象がある。
実のところ、この手のシチュエーションは日常茶飯事だ。
しばらく前に、剛士がラブレターを受け取らなくなったという情報が女子のあいだに広まった。
剛士は、なんだかんだで真面目なやつなので、貰った手紙は必ず読んでいたのだが、あるとき忍耐の限界を突破してしまったのだ。
「どれも、どれも、どれも同じだ! 同じことしか書いてない。あと、なんで可愛いシールとか貼ってあるんだ? オレは、こういうの喜ぶやつだと思われているのか!」
はたから見ている分には、剛士には災難なんだろうけど、少し面白いくらいだったけど、どうしたわけか、僕にとばっちりがくるようになった。
剛士が受け取らないなら、僕を経由して受け取らせる作戦が女子のあいだに広まったのだ。
剛士も、僕が受け取ってしまったぶんは、僕の顔をたてて受け取ってくれる。
作戦は有効なのである。
いや、作戦本来の目的は達成されないんだよ。絶対に。
そんなことになっているので、僕はここのところ、剛士宛の郵便配達員として不本意にも働かされているのだ。
段々と、断るコツも掴みつつあるけどね。
しかし、委員長の森川さんが、この手のことをするタイプの人だとは思っていなかったので意外だった。
他の子と違って、意を決している感があるので、断りづらい。
おとなしく受けとるしかないだろうか。
「あっ」
委員長は、僕の顔を見て、声を上げた。
さっ、と取り出したばかりの恋文を背中に恥ずかしそうにして隠す。
「ご、ごめんなさい。そうよね。こういうの、鷹月君には、迷惑だもんね」
「……あ、そ、そんな」
「だ、大丈夫。私ったら、なんだか一人で舞い上がってしまって……。今のは、忘れて、ね?」
「……う、うん」
僕の顔は、困っているのが露骨なまでに見え見えだったみたいで、それを察してしまった委員長は、すばやくなかったことにしてくれた。
こういうところで普段からの気遣いの人が出てくる。
なんだか悪いことをしてしまった気がする。
でも、剛士には女子の思いなんて届かないんだから、同じことじゃないだろうか。
そう考えて、自分を納得させることにした。
僕は、気まずい気持ちで、残りの学級日誌を書き上げると、委員長には挨拶もそこそこに、職員室を経由して、サッカーチームの練習に遅れて参加した。
「お、孝一。待ってたぜ。やっぱ、お前とパス交換しないと乗ってこないんだよな」
僕は、剛士に迎えられる。
今日も、信頼と実績のイケメンぶりである。
罪作りな男だ。
その日の夕飯では、架純ちゃんが、しきりに前髪の先をこすっていた。
あまりにしつこいので、明美さんがやんわりと注意しているのを、僕は横目に見ていた。
数日後────。
その日は、日直がないので、僕はチーム練習に、頭から出ていた。
メニューは、走り込みと柔軟運動をした後、パス交換を二人組で行う。
当然のように、僕は剛士と組む。
僕は、まずは軽めにパスを出す。
剛士は、トラップしながら、無駄にリフティングを加える。
いつものことだ。
「噂で聞いたんだけど」
剛士は、言葉を発しながら、パスを返してくる。
「うん?」
僕も、パスを返す。
「お前、委員長に告られたけどフッたんだって?」
僕の思考は一時停止した。
そんな僕に向かって、パスが飛んでくる。
「えっ?」
僕の足を擦って、ボールは後ろに転がる。
剛士のパスをトラップし損ねるのは、久しぶりのことだった。