最高のパス
僕の右足を離れたボールは、走る矢吹を追いかけて滑る。
右サイドでは西が、僕にボールが渡ったらスペースを狙って走るって指示のとおりにダッシュしてディフェンスをひとり引き付けてくれている。
左サイドでは、いったんぐるりとペナルティエリア内に入り込んでからアウトに逃げ出すという動きをすることで、剛士がふたりのディフェンスを翻弄していた。
そうしてできた隙を逃さずに矢吹が、攻撃のために前がかりに押し寄せていた春間ディフェンスラインの裏側へと侵入していく。
「裏に抜けられた!」
「キーパー!」
剛士や西についていた選手たちが叫ぶ。
矢吹とサッカーボールは、運命で糸に繋がっていたかのように絶好の地点でめぐりあいを果たした。
後ろからきたそれに振り向きもせず、軽やかなステップを踏み足を伸ばす。
ちょっと僕のパスを信じすぎじゃないだろうか。
そのままワンタッチで、ゴールキーパーとの一対一のチャンスにまで持ち込んだ。
「追加点はゆるさない!」
俊足かつ反射神経に優れる白鳥琉生が、矢吹に一瞬の猶予も与えないプレッシャーをかけて横から迫る。
実際、最初のトラップを少しでも手前に落としていたならシュートを撃たせてはもらえなかっただろう。
「たあーーーっ!」
矢吹が、ストライカーのお手本のような素早い振り抜きでシュートを蹴る。
キーパーが左右に腕を伸ばしながら、シュートコースを狭めるために突進してきた。その右脇腹のわずかに横をボールが抜けた。
しかし、渾身のシュートはクロスバーに嫌われる。
ゴールの枠を大きな音をたてて打ち鳴らすほどに強く当たったボールは、真下のライン上で跳ね返る。
もう一度、クロスバーに軽くキスをしたボールはまた地面にバウンドしたあと、すがって抱きつくように飛びついたキーパーによって確保された。
「ゴール……か?」
静けさがあたりを支配した。
ゴールを割ったか割らなかったかが難しいところだったからだ。
やがて、審判によってノーゴールの判定が正式にくだされ、場は安堵の吐息と溜め息が混じりあう空気に満たされた。
「うわあっ!」
頭を抱えて倒れ込む矢吹。
100回目のパスから放ったシュートを決めきれなかったのが、よほど悔しかったのだろう。
あんなオーバーアクションをする矢吹は初めて見た気がする。
「いい飛び出しだった!」
「キャプテンのプレッシャーも良かったです!」
春間のキーパーと白鳥はお互いを労う。
たしかに矢吹にもボールにも触れはしなかったが、あの少しの迷いもさせてくれない寄せの早さがゴールをさせなかったのは事実だ。
僕は矢吹に駆け寄り、右手を差し出す。
「立て。立つんだ、矢吹」
「鷹月君……」
「これから先、僕のパスはもう数えないつもりか?」
矢吹が掴んだ手を引いて、彼を立ち上がらせた。
小さな手に、あまりにも軽い身体。
どうしたらあんなにパワーのあるシュートが放たれるのかが摩訶不思議のワンダーボディーだ。
「うんん……鷹月君がパスをくれるなら、僕はそれを数えるよ」
「じゃあ、まだ終わりじゃない」
「……うん。そうだね」
僕らは頷きあうとポジションに戻る。
次の、101回目のパスを最高のものにするために。
試合は動かないまま、後半の時計は進み続けた。
剛士たち前線の3人が、白鳥琉生をゴール前から引きずり出そうと仕掛けを繰り返すがなかなか実現しない。
得点に飢える春間は、田貫のアイデアを軸に攻め立てる。
だが大上先輩の中盤での追い立てと、守備ラインでの木津根の誘い込みにボールを狩り取られてスコアを動かせない。
同点のまま時間が過ぎていった。
しかし僕に焦りはなかった。
少しずつではあるが、この試合を勝利に終わらせるために積み上げてきた運命の分岐点への布石が完成しようとしていたからだ。
後半の折り返しを越えた頃。
僕は、大上先輩からのパスを受けた。
プレスに来た相手をいなしてかわし、前を見渡す。
「また、11番にボールがいったぞ!」
「なるべく自由にパスを出させるな!」
「陽狩をフリーにするなよ!」
春間にとっては田貫がそうであるように、チャンスメイクをする選手にボールが渡ることで一気に守備の集中力が高まる。
僕のキックで何が起きるのかに、多くの目が注視していた。
今が潮時だと思った。
勝利を引き寄せる得点を決めるための攻撃。
ここから出すパスが、それを得るためにこの試合で最大のチャンスになる。
僕にはその確信があった。
そして、そのパスの受け手は────
「西っ!」
走り出している西の前に、ぽっかりと開けていた右サイドのスペースへと、強めのスルーパスを供給する。
西についていたはずのマークは完全に遅れていた。
「な、何っ?」
驚いてディフェンスは西の後を追うが時は遅しだ。
もう赤色の専用機に緑色の量産型が追いつけるわけがないほどの差が生じていた。
西は完全にフリーで走り、前を行くボールに追いすがる。
遅れたディフェンスを責めることは難しいだろう。
僕は後半に入ってから一度も、一度たりとも西にパスを出さなかった。
必ず西は走っていたのにだ。
前半のうちに、西のクセであるファーストタッチを必ずミスするくだりは済ませておいた。
思えば、その姿を春間の選手たちに見せておいたのが運命の分岐点の始まりだったかもしれない。
それから何度かのプレイで、彼らは西にある印象をもっただろう。
この交代選手は、陽狩剛士や矢吹隼ほどの危険さはないと。
たしかにそれは事実だ。
西は春間サッカークラブのレギュラーの誰と比較しても優れた選手ですらない。
平凡なプレイヤーだ。
だけど彼の平凡さは、春間のひとりひとりが苦手とするプレイによっては、西のほうが上回る平均値の持ち主でもある。
そういう完全には侮りがたい選手だ。
なのに剛士や矢吹のような原作チート持ちの人物の派手さを見たうえでは、どうしても霞んでしまう。
だから春間の選手たち全員を完璧に油断させたうえで、西に大チャンスを掴んでもらう。それは可能だと思った。
今や白鳥琉生は、ゴール前を離れはしないものの剛士がいる左サイドへと意識も身体も偏って守備位置を決め込んでいた。
どう考えてもそちらが現実的な判断だからだ。よくわかる。
変幻自在に動きまわる矢吹にも、春間のディフェンス全体の注意は向きがちだ。
比べて西はどうだったか。
僕が後半に入ってボールを受けた何度もの回数分だけ、西はパスをもらうために絶えずに走っていた。
何度も。何度も。
最初のうちはディフェンスも警戒していた。
だがこう無駄走りを繰り返していては、集中も切れるというものだ。
そうして今、西をフリーで走らせてしまった。
普通だったら、ボールはこないかもしれないと、必ずは走るのを止めるかもしれない。
普通だったら、自分よりも剛士や矢吹をパス相手に選ぶだろうと諦めてしまうかもしれない。
でも西が普通じゃないってことを、僕は知っている。
小学生のあいだずっとチームメイトだった西のことだから、諦めずにボールがくるまでは、ずっと走り続けるやつなんだって信じることができるんだ。
白鳥琉生や春間の選手たち、それに白鳥真理は、陽狩剛士や矢吹隼のことをよく研究し分析している。
知られていることはわかっていたし、対策もとられてしまっている。
じゃあ、まだ彼らには知られていない僕らの武器はなんだろうか。
それを考えたときに思い当たったのがレギュラーではない西の『諦めの悪さ』だった。
たくさんのことを簡単に諦め、投げ出した前世をもつ僕からすれば、西の諦めの悪さはちょっとしたチート能力みたいなものだ。
たぶん西はこの後半に僕がいっさいパスを出さなくても、そういう指示を出しておいたからには最後まで走り続けただろう。
このことはまだ白鳥真理にはリサーチされていないはずだし、今年にチームに加入した木津根も西の特徴としては挙げていなかった。
本当なら西は後半途中からの出場予定だったから、仕掛けるのは試合終了間際を考えていたけど、前野先輩の離脱がかえって僕に頃合いを待つ時を与えてくれた。
これ以上を待てば、何度走らされても諦めない西の姿に、一旦はボールはこないんじゃないかと考え始めたディフェンスも、こいつは無限に走り続けるんじゃないかって思考が浮かび、あらためて警戒をしはじめるかもしれない。
だから僕は後半のあいだ西についていたマークが最も甘くなるまでを観察していた。
それと合わせて、剛士と矢吹の動きによって白鳥らのポジショニングが変化していくのを確めながら、僕はやがて潮が満ちたことを感じたんだ。
「な、なによ……どフリーじゃないのよ!」
白鳥真理が驚きながらも、怒る声がする。
予想外だったのが明らかだ。
西はまだ止まることのないボールを必死に追っている。
サイドの広いスペースでついに足が届こうとしたとき、僕の蹴ったパスは変化を始める。
「えっ? えっ? ええっ!」
戸惑いながらも追走を続ける西。
ボールは左にカーブするラインをとりはじめた。
ゴールへと方向転換をしたのだ。
「な、ん、だ、これ~!」
止めなければゴールからずっと右のコーナー近くに抜けていくと見えたボールは、曲がり込んでペナルティエリアへと滑り込む。
ゴールマウスからの角度斜め45度。
僕の出したパスはそこにまで西を導いて停止する。
キーパーが反応して飛び出す。
白鳥琉生も危険なところまで侵入してきたボールをクリアしようと走り込む。
だが西が数歩早い。
距離。角度。キーパーとの位置関係。
西のシュート技術なら、3回のうち1回は決められるだろうチャンスだ。
「うおりゃァァ!」
迷うことなく西は右足を振り抜く。
後半のファーストタッチがこのキックだ。
「何っ?」
「シュートじゃない!」
ペナルティエリアを右から左に、ほぼ真横にボールが飛ぶ。
僕は原作のトライサンダーシュートに似た軌道に、既視感を覚えた。
「ひ──陽狩剛士がきてるわ!」
真理の指摘したように、剛士が逆サイドのからフリーで走り込んできていた。
ディフェンスを置き去りにして、白鳥琉生とキーパーが西に引っ張られている今、剛士はゴール左で絶好のシュートチャンスを得たかに見えた。
「頼んだ、陽狩!」
西が叫ぶ。
この場面でシュートを撃つ度胸がないような西ではない。
自分の視界に、白鳥琉生の後ろから走ってくる剛士の姿を確認して、白鳥の注意が自分に向いている今なら剛士のほうが確実性が高いと判断したのだろう。
そういう土壇場での冷静さがあった。
ひょっとしたら、西はうちのチームで一番のメンタルの持ち主かもしれない。
「くっ! やられた?」
真後ろにターンした白鳥に絶望の色があった。
しかし──
「剛士、来てるぞ!」
僕は叫んだ。
危ないときには出てくる男、田貫がスライディングで剛士のシュートコースに飛び込むところだったからだ。
「やらせるもんか!」
「ふっ! やっぱりな!」
「な、何っ?」
剛士はダイレクトで撃つようにしか思えなかった構えから西のパスをトラップに切り換えると、その場でひとつ切り返した。
「くっ……! 簡単に決めさせない!」
田貫は、地面を指で削ってでもスライディングの勢いを留め、剛士とゴールのあいだで邪魔をする位置に食らいつく。
それでも剛士のスキルをもってすれば、チップキックで田貫の上を越えてゴールの枠を捉えることは難しくない。
ただキックの強さが足りないと、白鳥とキーパーの戻りの速さで防がれてしまう。
おそらくは2回のうち1回は決められるシュートチャンスじゃないだろうか。
「フッ!」
だが剛士はヒールキックで、ゴールとはまったく違う方向にボールを蹴った。
「ここでヒール? ──そっちには!」
田貫が目を見開いたボールの行く先、そこには両手を翼のように広げて走る少年、矢吹がいた。
「たあぁーーーっ!」
白鳥が、田貫が、キーパーが、矢吹のシュートを阻止しようと全力で足を、腕を伸ばす。
僕は西よりも、剛士よりもまたゴールの確率が上がったと感じた。
もう3回に2回は決まるシュートだ。
「矢吹──」
──シュートだ!
そう叫ぼうとしたとき、僕はボールの挙動に違和感を見た。
そして、それを蹴り出した剛士の足と背中に、そのボールが矢吹に届けようと放たれたものではないと思った感覚の正体を知る。
「──スルーだ!」
僕は叫んだ。
ビクッと、矢吹の動きが止まり、ボールが急停止したかと思うとまた跳ね上がるように動き角度を変えて飛んだ。
────ライトニングパス・ネクスト!
ボールは僕に向かってやってくる。
剛士のヒールパスは僕に向けられたものだった。
剛士のやつ、僕に決めろっていうのか……
中距離からのシュートになるが、仲間たちがもう存分にディフェンスを掻き回してくれた。
3回なら3回、2回なら2回とも決まるシュートが撃てる。
これが決められないとしたら、それは人類との争いに破れ数千年の雌伏のときを経た地底人がたまたま逆襲の期を今に求め地上に攻め込み、僕の足元がいきなりぐらついたりした場合くらいだろう。
ボールに掛かった回転が、球速が、僕の一番得意なキックを指定していた。
剛士は僕にどんなシュートを撃つかを選ばせる自由すら与えないつもりだ。
ただ撃つだけでいい。
何も考えずに機械のようにキックを当てればいいだろう。
真逆に、どんなに心を乱しながら、あふれる思いをボールに叩きつけたとしても大丈夫だろう。
ありがとう、親友。最高のパスだ。
僕はこの試合にかける感情を足にすべて乗せるようにシュートを放つ。
これは命をかけた戦い。
この世界を知る僕が、それを変えようと挑んだ戦いだ。
運命を変えるなんて、とんだ思い上がりかもしれない。
それでもひとりの女の子の命が断たれることが防げるなら、やるべきことだと思ったから始めたんだ。
だから、このシュートを僕は決める。
白鳥真理を悲しい原作から解放するために。
美しく可憐な美少女が非業の死を遂げる物語こそが人々の心に感動を与え、記憶に残り、ベストセラーになって、アニメと実写の両方で劇場公開されたりするのが世の常であるのなら、僕がこの世界で起こしたことは何も残さない、忘れられた物語となるのかもしれない。
そうだとしても僕は────
シュートは緩やかな弧を描き、ゴールに届けと願う人々の視線と、ゴールからはどうか逸れてくれと頼む人々の視線とをその軌跡に集めながら飛翔した。
そして、枠の右隅に狙い済ましたように飛び込み、ゴールネットを揺らした。




