願いを叶えて
反射的に、僕は言った。
「うわー。そうきたかー」
「……」
「………?」
皆川さんが、次の言葉を発するまでに謎の間があった。
「鷹月って、たまに変なリアクションするよな」
「ん? でもまあ、小学生でさ、自分のことを好きかもしれない子がクラスメイトにいて、それでこっちでも気にしてたりしたんだけど、ある日、その子がお引っ越しすることになって離れ離れになるなんて……これって、あるあるだよねえ」
「まあ、そうだけど。なんか年取った、おっさんみたいだぞ?」
皆川さんは僕の反応にどうも不満げだ。
たぶんもっと動揺すると想定していたのだろう。
たしかに自分でも不思議なくらい冷静な気がする。
とりあえず感じたことを言ってみただけなんだけど、本当によくあるような話だとは思う。
それこそ、日本中のどこかで日々起きていそうなほどに。
だからまずは、そういうことも有り得るよなっていうのが感想だった。
「そっかー。森川さん、引っ越しちゃうんだね……」
ところが、おかしなもので驚きが後からジワジワとやってきた。
しばらく脳が理解を拒んでいたのかもしれない。
「──って、引っ越すの!? えっ? ええっ?」
「意外と落ち着いてるかと思ったら、時間差で驚くなよ……」
「引っ越しといえば、あの、居住地が変わるという、あれだよね?」
「そうだよ! 引っ越しって言ったらそうに決まってるだろ」
皆川さんは、つっこみながらも、そこはかとなく嬉しげな声で話す。
やはり僕の心が揺さぶられる感じを予想していたのだろう。
自分で、ものすごく驚いている自分自身に驚くくらいのことになっている僕に、皆川さんは事の次第を説明してくれた。
森川さんは、やはり小学生の身分にはありがちな親の仕事の都合とやらでの引っ越しをすることになってしまったらしい。
急なことで、八月のうちにはもう行ってしまうらしく、二学期からはもう別の小学生に転校するのだと。
そこは転生ではなくて転校であることをかんがみれば、もう一生会えないとか、そういうことでもないわけではあるが。
「由希のやつ、このことをアタシにまで黙っててさ……信じられるか?」
「あ、そうなんだ」
女子との通話で「信じられる?」って質問されたからには「えーうっそー信じられないー」って返すのが正解だったのかもしれない。
だがあいにく今の僕には、そんなふうに気を利かせられる余裕がない。
森川さんの家の引っ越しについて、皆川さんも森川さんから教えられたわけではなくて、お互いの親経由で知らされたのだという。
「あいつ、誰にも言わずにいなくなるつもりなんだよ」
「そうなんだ?」
僕の脳裏を「さがさないでください」と一言書かれた置き手紙のイメージがよぎる。
だが、そういうことではないはずだ。
波止場に佇み、コートの襟をたてて遠くを見つめ、汽笛の音を聴く森川さんの図を振り払うように心の中から立ち退かせた。
今は夏だ。コートはなかろう。
ただ先程までは快適に思えていた室内の冷房が、一転して効きすぎているように感じているのは事実だ。
たぶん僕は今、混乱しているのだろう。
森川さんが、引っ越しのことを告げないのは彼女なりの気遣いなのだと思う。
そういう人だ。
嬉しいこと楽しいことは分かち合おうとするけど、悲しいことはひとりで抱え込んでしまう。
「アタシ、みんなにはいいけど、せめて鷹月には最後に会っておきなよって言ったんだけどさ」
「うん」
「由希のやつ、会わずにいたいって言うんだよ。何でだ?」
何でと言われても、返答に窮してしまう。
僕にも、すんなりとは森川さんの意図がわからない。
なぜだ? なぜだ? と問いかけを頭のなかで繰り返すうちに、赤色の好きな三倍速のあの人が「坊やだから」と答えるイメージが浮かんだが、そんなわけがなかった。
森川さんはガ◯マではない。
前髪をクルクルしたりはしないし、肖像が異様に巨大だったりもしない。
引っ越しをするのは、ザ◯家ではなくて森川家だ。
どうにも本格的に混乱しているらしい。
ゲームキャラだったら、味方を攻撃しているところだ。
誰か僕に、ステータス異常を回復する魔法を掛けてはくれないだろうか。
それからしばらく、僕は皆川さんと通話を続け、森川さんに会いに行くか行かないかで問答を繰り返した。
森川さんに会いたくないわけじゃないけれど、会わないでいたいのが彼女の意志なのであれば、それを尊重したいのが僕の立場だ。
対して、ぐだぐだ言ってないで、僕も森川さんも本当は会いたいんだから会って話をするべきだというのが皆川さんの見解だ。
本当は会いたいと決めつけられる根拠は不明。
「このまま思い出にしちまう気かよ!」
皆川さんの声が、耳に響く。
なんだかドラマの台詞みたいなことを言うなあと思った。
でも、そのとおりだろう。
僕らの接点は学校だけと言っても過言ではなかったから、お互いに手を伸ばさずに離れてしまえば、このまま会うこともなくなってしまうことになる。
きっと僕らは、どこか別の場所で大人になって、月日が経ったあとで、かつて小学生だった頃に気になる人がいたなって、懐かしく感じるような思い出にしてしまうのだろう。
それでもいいのかもしれない。
森川さんが好意を持ってくれていると知ってから、僕はそれに値する自分でありたいと背伸びをしてきた。
あの人のおだやかで優しい性格のおかげで、それを重圧に感じることはなかったけれど。
彼女に、なるべく自分をよく見せるようにしてきた。
鷹月孝一の、いいところだけを見てもらえるように、自分なりにやってきたつもりだ。
たぶんだけど大きな失敗はしていないはずだ。
だからここで終わりなのだとしたら、僕は森川さんを幻滅させずに済んだことになる。
僕が森川さんをとても素敵な人だと思っているように、彼女もそう思っていてくれているなら、僕は彼女の思い出のなかで、この先、大切にしたい綺麗な一欠片として永遠に生き続けることができるのかもしれない。
前世の僕が、関わった決して多くはない人々のあいだで否定的な印象を残していて、尊敬に値しない醜い姿ばかりで記憶されているであろうことと比べるならば、大きな成果を上げたとみていいんじゃないだろうか。
思い出はいつか美化されていって、ひょっとすると僕は森川さんの心のアルバムのなかで超絶イケメンキャラにへと実像から乖離していくように書き換えられていくのかもしれない。
「それはそれで……悪くはないのかも」
僕の反応は、当然ながら皆川さんを満足させるものではない。
「鷹月は由希と別れたいのかよ!」
「そんなことはないけど」
「だったら、ここは由希のことを連れ去るくらいのことするところじゃないのかよ!」
極端なことを言い出した。
「かけおちとかいうやつ?」
「そうそれ!」
そんな無責任なことができるはずもない。
現実的に考えても無理な話だ。
品行方正なタイプの森川さんが応じるとも思えない。
「じゃあ、せめて何年後に迎えにいくとか、そういう約束をするのはどうだ?」
それも無責任だ。
そうでありたいとは思っても、何年か先になって、僕が森川さんにふさわしい人物に成長しているという保証はない。
前世のようにはならないと誓ってはみても、実際、前世の僕とそう変わらない未来が訪れてしまうのだとしたら、とてもではないが森川さんに会わせる顔がない。
「なあ、鷹月。由希が、もしやっぱり会いたいって言い出したなら、会ってくれるよな?」
「それはもう。僕は別に会いたくないわけじゃないから」
「よし……」
皆川さんは一方的に、また連絡すると言って通話を切った。
現実感をなくしたままフワフワしていると、数分後に、また連絡があった。
「由希と話したんだけどさ」
「うん」
「あいつ、鷹月に会うことが鷹月に迷惑になるって思ってるんだよな」
そんなはずがなかった。
見当違いの気遣いだ。
森川さんがお別れの前に時間をさいて会ってくれるのなら、感謝こそすれ迷惑になんて思うはずがない。
「いつもそうなんだよ、誰かのことばっか気にしててさ。自分の気持ちを後回しにし過ぎるんだよ、由希は!」
皆川さんの声に、一層の感情が込められていくのがわかった。
「誰かのことを大事にできるって、そりゃいいことなんだろうけどさ……鷹月、あんただってそうだよ!」
「えっ、僕?」
「そうだよ! 昔から、鷹月のサッカーは陽狩のためのサッカーだったじゃないか!」
「そ、それは……」
あながち間違いではないので反論できない。
「チームが勝つためにさ、気の利いたパスを出したりとか、誰かが空けたスペースを埋めたりとか、守備の危ないところに顔を出したりとかさ」
「──ボランチだからね」
「アタシはわかってるんだからな! 鷹月は陽狩にも負けないすごい選手なんだってことが!」
「……! あ、ありがとう?」
ここでサッカーを褒められる流れになるとは。
皆川さんは、女子のサッカー選手としては将来を有望視されていて、未来の女子代表ではと囁かれているくらいの注目株立ったりする。
そんな人に評価されているなんて誇らしいことだ。
「由希はさ……昔はああじゃなかったんだよ……自分が我慢すれば、何でもうまくいくなんて……そんな……」
「皆川さん──?」
泣いているの、と口にしかけた言葉を僕は呑み込んだ。
「アタシがいけないんだ……まだ小さかったときにさ……由希と大喧嘩して…………そのときから…………でも、今は……今だけは、我慢するところじゃないよ……」
「……」
「由希は……本当に……本当に、鷹月のことを好きになったんだ。だからこのまま、我慢とか遠慮とかして終わりにさせちゃダメなんだよ! そんなことしたら、あいつこのまま一生、色んなことを我慢して生きていく──!」
皆川さんが、たんなるおせっかいを暴走させて話をしているわけではないことを、真摯に友人を心配する強い決意をもって、僕を駆り立てようとしていたことを、やっと僕は理解した。
幼馴染だから、積み重ねてきた何かがあるのだろう。
詳しくはわからないけど確かなことは皆川さんは森川さんにとっては本物の友人なのだということだ。
そうでなければ森川さんのことで、ここまで感情を高ぶらせはしない。
「鷹月」
「……うん」
「誰かのことを大事にできるって、やっぱいいことだと思うよ。だからさ、今回はその『誰か』をアタシにしてくんないかな?」
「皆川さんを?」
「そうだよ。鷹月がどうしたいとかさ、由希がどうしたいとか、もうとりあえずなしにしてさ、アタシのお願いだっていうことにしてくれよ」
皆川さんのお願いは、僕が森川さんと会うこと。
ただそれだけが、叶えてほしい彼女のお願いだった。
オプションとして、かけおちとか将来の約束がついてくるとなお良しとのことではある。
「なあ、アタシの願いをさ、優しい鷹月なら聞いてくれるよな?」
「そういう言い方をされたら、断れないよ……ごめん……本音を言えば、僕は森川さんに会いたい。会いたいんだ」
気持ちは、ずっと強くなっていた。
どうしてこのままお別れをすることが受け入れられそうだったのかが愚かしく感じるほどに。
森川さんのことを思うと、今すぐに、会いたい。
そんな衝動が胸を苦しめる。
「由希も、そうだよ」
皆川さんが、なぜだか確信をもって言うことが真実だと抵抗もなく信じられた。
そうだとするなら、僕が進むべき道はもう決まっていた。
「ありがとう。僕は森川さんに会いに行くよ」
「うん、頼むわ」
「でもどうしよう……」
会うと決めると、新しい問題が生じる。
「会って、どんなことを話したらいいのかな?」
とりあえず、かけおちを持ちかけることだけはない。
だからといって、新しい学校に行っても頑張ってね、って話をするわけでもないだろう。
今はただ、まずは会いたいって気持ちが心を占めているけど、実際に会って第一声をどう掛けるのかを想像すると、まったくの白紙状態だ。
森川さんが、僕と会ってどんな顔を見せるかでも、かけるべき言葉は違いそうだけど。
「そういうのはさ──」
皆川さんは、鼻をすすりながらも鼻で笑う。
「会ってから考えればいいんだよ」




