渾名
「あれっ。これなんだ?」
白熱したサッカーゲームの戦いを一休みして、宅配で頼んだピザを平らげた後、剛士は雑誌の棚から一冊の本を取り出した。
魔法少年ジョニーシリーズの第一巻『ジョニー・リネカーと黄金虫の研究』だ。
漫画誌に挟まれて一冊だけハードカバーのしっかりした装丁の書籍が含まれていたので目立ったんだろう。
リビングに一巻目だけがあるのは、たしか、架純ちゃんが最新刊で回収された伏線を確かめると言って読み返していたからだった。
「こんな文字ばっかりの本、よく読むよなあ」
剛士は、パラパラと頁をめくりながらも、拒否反応を示す。
面白いのになあ。
すぐに関心をなくしたのか、剛士の目線は棚の漫画誌に移る。
「オレは漫画だけで……って、よく見たら『6月号』がいっぱい並んでるじゃんか。全部ちがうやつかよ。一体、何種類読んでんだよ」
「十四誌よ。月刊誌が十一、隔週誌が一、週刊誌が二」
架純ちゃんが、さらりと答える。
そうか、そんなに読んでいたんだ。
それでも、前世の影響で僕が読みたいと思っている、ヤングなんとか系の大人向け漫画誌は含まれないんだよね。
中綴じの雑誌で、表紙が大抵、綺麗なお姉さんの水着グラビアになってるやつだ。
最近、たまにコンビニで立ち読みをしてるんだけど、周囲の他人から、変なませた子供がいる的な目で見られるので居心地がよろしくないんだ。
そういう意味では早く大人になりたい。
剛士の、視線が手元にあるジョニー・リネカーに戻る。
「これも、星野姉が読んでるんだ」
「あたしも読んでるよー」
「僕も読んでる」
この場の自分以外が読んでいたという事実の発覚に剛士は「ええっ」という顔をした。
「ジョニーの本は、いっけんぶあつくて事典みたいだけど、字が大きいからそんなに大変じゃないんだよ?」
「そ、そうか、そうだよな、あれ、日本人が書いてるんじゃないんだ」
「ああ、英国人作家だね。だから、生まれはサッカーと同じってことになるね」
サッカーと同じ。
僕の口から発せられたキーワードが、剛士の頭のなかでリピートがかかっているのが端から見ていてわかる。
剛士の本を見る目が変わった。
未確認生物を警戒する感じから、冷たい都会の真ん中で偶然出会った懐かしくも遠い同郷から来た人を見る感じくらいに。
思考回路が、あまりにサッカーを中核にまわっていて、分かり易すぎる。
そんな剛士は、改めて『黄金虫の研究』を頭から頁をめくりはじめると、しばらく没頭して読み始めた。
僕ら三人は、その様子をしばらく生暖かい目で見ていた。
やがてキリの良いところで、剛士は名残惜しそうに本を閉じた。
「……これ、借りてっていいか?」
「「「どうぞ、どうぞ」」」
この世に、また新たにジョニラーが生まれたのだ。
その日から、剛士は家によく遊びに来るようになった。
ゲームをして、ジョニーの続きを借りていくのが黄金パターンだ。
やがて、完全にジョニー・リネカーにハマってしまった剛士は、サッカーの試合でゴールパフォーマンスをするときに、ジョニーポーズを取り入れるようになった。
前髪の先を指先でこする、あれだ。
女子のあいだで、この話はすぐに広まり、我が小学校の女子にとってジョニー・リネカーは必読の書となった。
図書室にあった各一冊は、常に予約待ちとなり、街の書店でも一時品薄になるほどの事態だ。
なんだこの影響力は。
やがて、剛士は『魔法使い』の渾名で呼ばれるようになった。
本人も、そう呼ばれるのはまんざらでもないようだ。
原作では『閃光』だったのに。
あれは『陽狩→ひかり』だから『閃光』という単純な理由だったんだよな。
でもまあ『ライトニング・ひかり』だと、高速が売りのインターネット接続サービスみたいで何とも言えない感じだったから、これで良かったかもしれない。
剛士も『魔法使い』なんて呼ばれても、名前負けしない美技ぶりを試合で見せつけるからさすがだ。
僕は、しょせんは『そうりょ』だけどね。
ある日のこと、剛士はこの頃の習慣通り、家に来て僕とサッカーゲームで遊んでいた。
段々と星野姉妹と僕らの実力差も縮まり、なんとか戦いになるようになってきていた。
日頃の精進の賜物である。
ふと、僕は剛士の横顔を見る。
僕らは親友で、いつも一緒だ。
原作だと、ほとんど同じコマに描かれるシーンしかないくらい一緒なんだ。
このままずっと、原作どおり一緒なんだろう。
──あれ?
僕は、僕自身の思考に疑問を覚えた。
なんでそんなことに気づかなかったのだろう。
原作どおりなら、僕と剛士はこのまま高校サッカーの部活まではずっと一緒だ。
原作どおりなら。
でも、僕は自分で原作を変えてしまったんだよな。
つまり絶対にこの先も剛士と高校まで一緒にいるという保証はないってこと?
突然のように巻き起きた思考のせいで、すぐ隣にいるはずの剛士が、いきなり遠いところに行ってしまったかのように思えた。
なんとなく信じて疑ってこなかったことの、足元がぐらついたせいで、僕自身の意識まで揺れているように感じた。
僕は急いで、不吉な予感を欠き消すように否定する。
二人ともが望まない別れなんてくるだろうか。
普通に考えれば、僕らはこのまま地元の御覧ノ坂高校に進学するだろう。
サッカーが嫌いになるなんて可能性はほとんどないだろうし、サッカー部に入部するだろう。
そこは原作と同じになる可能性が高いんだ。
ただ、決まった未来がなくなっているだけなんだから、そこは前世の世界とそんなに違わなくなっただけのことだ。
そこまで、恐怖するようなことが起きているわけじゃない。
そんなことを考えて、僕は、言い知れない不安が巻き起きてしまうのを押さえつけた。
おかしなことに、自分でも気づくのが唐突過ぎたので、押し寄せるような未来の不透明感に、僕は目を背けてしまったんだ。
まるで自らの手で開けてしまったパンドラの箱の存在を、不都合で認めたくないものであるかのように。




