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言葉の意味を知っていても、それが一体どういうものなのか本質を理解できていない場合がある。
僕の場合、「倦怠期」がそれにあたった。その言葉の意味は知っていたけど、どういうものなのか感覚としてよくわからなかった。理解できたのは師匠と過ごした日々のおかげだ。
僕は師匠が好きになっていたから、学校帰りなんかによく遊びに行っていた。
友達と一緒にいる時の息苦しさは、あの狭いアパートで解消される。仕事をしている時にお邪魔しても、師匠は文句を言わなかった。一息入れようって時には、僕がいると楽しいなって笑ってくれた。
楽しかったからつい、ペース配分を間違えてしまったんだと思う。師匠の家の本棚に並んでいたものは全部読んでしまったし、僕から振れる話題は多くない。それに、師匠の仕事も段々忙しくなっていって、構ってくれる時間が減った。それを、ちょっとつまらなく感じてしまったんだ。
濃密な時間の後にやってきた、僕と師匠の倦怠期。
なんとなく足が遠のき始めた頃、みんなの態度も変わった。飽きてたんだ、例のサイトに。
だから、ちょうどいいタイミングで新しい流行に僕も乗ることができた。覚えたての「絶妙なペース」で、そこそこつきあって、クールに振舞った。誰かが遅れていればそっと手を差し伸べ、一歩下がったところで全体を見ている、頼れる陰のリーダーみたいな感じで。
僕と師匠はお互いの名前を知らない。僕が師匠の家に行くか、師匠が学校の前あたりで待ち伏せするか。直接会う以外に連絡方法はない。
最近どうしてる、なんてやり取りはない。たまに部屋に行ってみれば、そういう時に限って留守っていう日が続いてしまって。
だから僕は、長い間師匠に会わなかった。
出会った夏から一年近く経った、小学六年生の夏休み直前のある日。
友達と連れ立って、家へと帰る。わいわいと、夏休みの予定なんかを話しながら歩く。
すると道の先に、見覚えのある後姿を発見した。師匠だ。道のど真ん中で仁王立ちしている、相変わらずのよれよれのTシャツにハーフパンツ姿のこ汚い三十一歳。
師匠は震えていた。遠くからでもわかるくらい、ブルブルと大きく震えていた。
「なんだあの人」
友達のうちの一人が気がついて声をあげる。みんな、なにが? と師匠に注目する。
僕はひとり、師匠の先に目を凝らしていた。誰かがいたからだ。もっともっと遠くに立つ人影。二人いる。
三歩ほど前に出て、誰なのか気がついた。琴美さんだ。こっちに向かって歩いてくる。そして、横にもう一人。男の人がいる。
どうして師匠がブルブルと震えているのか、よくわかった。
琴美さんは相変わらずの清楚なお姉さんだったけど、隣の男と腕を組んでいた。その男がまたなんていうか、どうしてその人を選んだのって聞きたくなるような、ド派手な金髪を固めて立てて、夏だっていうのに袖を破いた革ジャンを着た、すごく頭の悪そうな感じの人で。
この世に降りた女神。音楽を愛する素敵なお嬢さん。そのはずが、あんなチンピラ丸出しの男とイチャイチャしながら歩いているっていう地獄の光景が道の先で繰り広げられている。
師匠はきっと、泣いているんだろう。
友達は異様な様子の師匠を、笑っていた。なんだあの変なおっさん、なんて声が聞こえる。
そして、本当に突然に、師匠は……着ていた服を全部脱いだ。
もちろん、みんな叫んだ。うわあーって。僕達から見えるのは師匠のひょろっとした貧弱なお尻だ。まさかのまさか。白昼、堂々、住宅街の、道のど真ん中で全裸。そして僕達の叫び声を聞いて、お互いしか見ていなかった琴美さんたちが顔を前に向けたら、そっちはアレだ。なんていうか、もっと卑猥な全裸。
「キャアアアアアア!」
当然の反応だろう。絹を裂くような悲鳴っていうのは多分こうなんだなって思う、琴美さんの叫び。僕たち小学生はおろおろ。琴美さんは顔を手で覆ってしゃがみこんで、そして……、チンピラは走った。師匠のもとに。
僕はただ、見ていた。師匠がチンピラにボコボコにされるのを。
「てめえ、この変態!」
師匠は何も言わない。殴られた痛みでちょっと唸ったくらいで、なにも言わない。みんなは動けないまま、でも、刺激の強い光景から目を離せない。僕もだ。師匠、師匠、師匠……!
誰かが通報したのか、パトカーがやってきた。
師匠はぐったりとうなだれたまま、手錠をかけられて、連れて行かれた。
呆然としたまま家に帰った。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
これから師匠がどうなるのか、そればっかり考えた。
夜が来て、眠れなかった僕は空を眺めた。習ったはずの夏の星座は、どこにあるのかよく見えない。ただ、月だけが存在感をアピールしていて眩しい。
多分だけど。師匠はきっと自分の心を琴美さんに見せたかったんだろう。胸の中まで全部見せて、どれだけ自分が琴美さんを思っていたのか、伝えたかったんだと思う。
だからって裸になったって意味ないんだけど。だけど僕はきっと、そういう理由だったんだろうと思った。師匠にはそういうバカなところがあるんだ。たくさんたくさん時間を共有した僕は、それを知っている。
蒸し暑くなってきた部屋に戻って、布団の中に潜る。薄暗い部屋の、布団の中で僕は泣いた。あの時どうして師匠のところに行ってあげなかったんだろう。琴美さんが男の人といるのに気がついた時に、走って行ってあげればよかったんだ。せめて、Tシャツを脱いだところで師匠のところに辿りついていれば、ああはならなかった。捕まらなくてよかったし、殴られなくて済んだ。あんな女忘れちゃいなよって言ってあげられた。慰めてあげられたし。お小遣いでハンバーガーを奢ってあげられたし。もう少し遅かったとしても、殴られてる途中で間に入って暴力をとめて、一緒に逃げたりできたはずだ。
師匠はきっと今頃警察にいるんだろう。
いつかドラマで見た、留置場ってところで膝を抱えているに違いない。
師匠に、僕以外の友達はいるのかな。
誰か、身元を引き受けてくれる人はいるのかな。
助けてあげればよかった。
あそこで女神の裏切りにあって悲しみの淵にいた師匠のこと。
僕にはそれができた。僕にだけは、それができたのに。
そんな風に深く反省したくせに、僕はなんにもできなかった。
一週間も経ってからようやく、アパートに寄っただけ。
そこにはもう師匠はいなかった。
大事な友達だったのに。
僕の悲しみに寄り添ってくれた大切な人。僕は、その人の深い悲しみに寄り添ってあげることが、できなかった。
*
「よう、少年!」
突然かかった声に、僕はぴょんと小さく飛び上がった。驚いたから。
全裸事件から三ヶ月。秋も深くなったある日の放課後。
僕は一緒にいた友達に慌てて別れを告げて、師匠のもとへ走った。
「久しぶりだな。元気だったか?」
「……うん、元気だったよ。師匠は?」
「この通り」
ニカッと、相変わらずの笑顔が浮かぶ。それに僕は嬉しいやら、脱力するやら。
「たまには弟子に奢ってやろうと思ってな」
景気のいい師匠に連れられて移動した先はごくごく普通のファミレスで、午後三時、奢ってもらったのはチョコレートパフェ。小学六年生と三十一歳の男が揃ってチョコパフェっていうのは、よく考えたら気味の悪い光景だ。だけど僕の頭は質問でいっぱいで、そこまで気が回らない。
「できたんだぜ、少年に協力してもらったゲーム」
パフェが運ばれてくる前のテーブルに、人気の携帯ゲーム機専用のソフトが一本出される。
「お礼に進呈する。本体は持ってるか?」
「うん」
確か誰かが買いたいって話していた、学園推理アドベンチャーのゲームだ。超能力のある中学生の主人公が、住んでいる町で次々と起こる怪事件を解決していくっていう内容だったはず。
「あの、師匠……」
「ごめんな、引っ越したの言わなくて。あそこにはちょっといられなくなってなあ」
「捕まったからでしょ?」
「さすが。師匠についてならなんでも知ってる」
ワハハと笑う笑顔に、僕は心底呆れた。
「知らないよ。名前すら知らないのにさあ!」
「そうだったな」
それ以上、師匠からはなんの話もない。
僕の心の中にあふれた「聞きたかったあれやこれや」は、どうしたわけか口から出てこない。
「チョコレートパフェ、お待たせしましたー」
ぐるっと高くそびえたつ生クリームを、二人でほおばる。
甘ったるいパフェが半分くらいなくなったところで、なんとか、声を絞り出した。
「今はどこに住んでるの?」
「すぐそこだ。ほら、レンガのアパート、あそこの二階」
意外な近さに、ますます呆れて声がでない。ついでに眉間に力が入って、僕は多分、変な顔をしている。
「いつでも遊びに来てくれ。二〇六号室だ」
「わかった」
「少年」
「なに?」
しばらく二人で見つめ合った。なんの言葉もない、妙な空気のまま。
すごく不思議だったんだけど、この奇妙な沈黙で、僕たちの倦怠期は終わった。
師匠の元気そうな姿を見ていたら、どうでもよくなったんだ。
「やったら感想聞かせてくれよな」
「うん」
「友達にも勧めてくれよ」
「ずうずうしいなあ」
「口コミの効果はバカに出来ないからな。頼むぞ、少年」
こうして僕たちは友情を取り戻した。なんであの時裸になったのか、真相はわからないままだ。だけど、僕はそれでいいと思う。普通だったらなんであんなバカな真似したんだって聞いたり、責めたりするだろう。だからこそ、僕だけはそうしないって決めた。唯一師匠に教えてもらった「人生で大切な教え」を実践する時だと思うから。大体、聞くまでもないわけだし。その理由は僕の想像に過ぎないけど、きっと正解だと思う。
それに、僕がそうしたように、師匠もいつかその理由をふっと語るかもしれないから。
その時は静かに、うんうん、わかってるよ、師匠は純粋な人だからねって言ってあげるんだ。
今日もまた、僕は師匠の家に遊びに行く。学校の友達との付き合いもしつつ、師匠とも友情を育んでいる。
「なあ少年、聞いてくれるか」
とうとう、その時が来たと思ったんだけど。
「俺、今、恋してるんだ」
僕は思わず吹き出してしまう。
「今度はそこのファミレスのウェイトレスさんとか?」
「どうしてわかったんだ。少年はエスパーか!」
師匠の不敵な笑顔からはそれが本当なのか、冗談なのかわからない。
「失恋しても脱いだらダメだよ」
「そんなことするか!」
したくせに!
僕が心でしたツッコミが聞こえたのか、師匠は大きな声で笑った。
その屈託のない笑顔に、僕も大きく笑った。




