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日本で一番有名なファーストフード店。窓際の小さなテーブルの上には、お子様向けのハピハピセットが置かれている。ハンバーガーに、ポテトに、多分コーラのSサイズ。おじさんの前には、水。
「ほい」
そしておまけのオモチャだ。大人気アニメの主人公のフィギュア。僕も好きで見てるけど、主人公よりも一緒に旅をしてるクールな剣士の方が好きだったりする。
僕の中では三番人気の主人公のフィギュアが、手の中にぎゅうぎゅう押し込まれてくる。
「少年、あのお姉さんの名前を教えなさい」
ただひたすら戸惑う僕の向かいで、おじさんは至極真剣な表情を浮かべているけど。
「ええと……」
素性の知れないおじさんに、琴美さんの名前を教える? そんな馬鹿な。絶対ダメだ。
「個人情報保護法に違反するんじゃないでしょうか」
「はははは!」
どうして笑われてしまったのか、僕にはちょっとわからなかった。けど、おじさんはご機嫌な表情で歯を見せてくる。
「苗字が高橋さんなのは知っているぞ。音楽大学に通っていて、ピアノが上手なお嬢さんだということもな」
「知り合いなんですか?」
「うむむ。なぜ、ほにゃららさんを知ってるんですか、って言わないんだ?」
呆れた。ひっかけるつもりだったのか。
僕がブスッとした顔をしたからか、おじさんもムッとした表情を浮かべた。更には手を伸ばしてきて、ポテトをつまんで食べ始めている。
「美しい人の名前を知りたいってのは、人間として当然の欲求だ。少年だってテレビにかわいらしいアイドルが映っていれば、なんて名前か知りたいだろう?」
「確かにそうですけど」
僕なら、名前が出てくるのを待つか、インターネットで調べる。それで、わからなかったら諦める。
「でも、琴美さんは芸能人じゃないですから」
「……そうか。そうだな。その通りだ。一般人と芸能人じゃ勝手が違う。少年は常識を弁えた立派な小学生のようだな。実に感心だ」
おじさんは大げさにうんうん頷いて、水を飲んでいる。
僕はすっかり安心して、一緒になってポテトをつまんだ。
「ハンバーガーも食べなさい」
「でも、もらう理由がないし」
「ポテトは食べられるのに、ハンバーガーはダメなのか?」
確かに。ついうっかり、気楽な気分でポテトをつまんでいた自分に笑う。
「成長期の子供が遠慮したらいけないぞ。無理矢理連れてきて悪かったし、お詫びだ」
そうだった。おじさんのペースに巻き込まれて、なぜかこんなところで向かい合って座ってしまっている。名前も知らない怪しげな男じゃないか。しつこいし、強引だし……。
「やっぱりいいです。僕、帰ります!」
「そうか?」
立ち上がった僕の右手にかけてあるプールバッグに、おじさんはフィギュアを勝手に放り込んでウインクをしている。
「またな!」
また会ってどうしようってんだ。
気持ち悪い。
未使用のプールバッグをブンブン振りながら、暑い道の上を歩いて帰った。
体の表面を太陽にじりじりと焼かれながら、気分はズンズンと沈んでいく。
嘘をついた。プールに参加するって言ったのに、行かなかった。胸がきゅうっと締め付けられる。もし、来てませんよって先生から家に連絡が行ってたらどうしよう?
汗だくで帰った僕を迎えたのは、背中を向けたままのお母さんだった。クーラーの効いたリビングで、お気に入りのドラマの再放送に夢中になっている。
「水着洗っときなさいよー」
「うん」
振り返らない背中に、ガッカリするような安心するような複雑な気持ちになりながら洗面所へ向かった。乾いた水着を洗面器に張った水に漬けて、洗うフリ。未使用のタオルを取り出して、ため息。これをどうしようか、僕はなにをやってるんだろうっていうダブルの後悔で目を伏せる。
ちょっと悩んでから、洗った水着をタオルで包んだ。そして、スイムキャップの存在を思い出して、慌てて取り出す。すると、ハピハピセットのおまけのフィギュアがコロンと床に落ちていった。無理矢理押し付けられて、結局つれて帰った主人公はニカっと笑ったご機嫌な表情だ。
非常識なおじさんの姿を思い出してしまう。
変な人だったな。
僕は一人の女性を守ったんだ。気の利いた受け答えで危機をかわした。
あれ?
瞬間的に頭の中に蘇る、僕が口走った今世紀最大のミス。
――でも、琴美さんは芸能人じゃないですから
背中をゾワゾワと撫でる、これが悪寒というものか。しまった、やってしまった。おじさんはあの後、なんて答えた? 僕は馬鹿だ。嘘つきな上に馬鹿だ。一気に混乱の渦に落ちて、頭の中を駆け巡る不快感と戦う。
会話はさらりと流れて行った。もしかしたら、おじさんは気付いてないかもしれない。いや、しらんぷりしながら、しめしめって思っていたのかも。でも、名前を知っただけだ。名前だけでなにができる? いや、名前がわかれば、騙して呼び出したりだとか、琴美さんについて詳しく調べたりできるかもしれない。
水着とタオルを持ったまま、廊下を散々うろついて、五往復目の終わりで自分に喝を入れて、洗い物を洗濯ばさみで挟んで干すと、僕は家を出た。
「おう、少年。どうした?」
目的地の前にたどり着いたものの、そこからどうしたらいいか迷って扉の前でウロウロしていた僕はこの声にかなり驚いた。ビクッとした。マンガみたいに、うわあっとなった。
「もしかして協力してくれる気になったのか。そいつは嬉しいね!」
笑顔で僕の肩をバンと叩いて、おじさんが扉を開ける。呆れたことに鍵はかかっていなかったらしい。
意を決して、あがりこむ。
この間と同じ位置に座って、まずは持ってきたフィギュアを机の上に載せた。
「なんだ?」
「これ、お返しします」
真剣に言った僕の言葉に、おじさんは笑った。外で鳴いている蝉よりも大きい声で。体を反らせて、それはそれは楽しそうに笑った。
「なにがおかしいんですか」
「いや……、だってお前、オマケだろう、それ」
その通りだけど。
「いらないなら捨てればいいのになあ。少年、律儀だな」
まだゲラゲラと笑っている。涙まで浮かべているおじさんの顔を見て、僕は心底恥ずかしい気分だった。いや、恥ずかしいとかじゃない。ここに来た目的はフィギュアの返却じゃないんだ。これはあくまできっかけに過ぎない。
「あの!」
「あははは」
まだ大きな声で笑いながら、おじさんは僕にお茶を出した。多分麦茶と思われるものが安っぽいコップに注がれて、散らかったテーブルの上に二つ並ぶ。
「ええと、あのですね」
「なんだろうか」
どう切り出したらいいのか、悩む。僕が思わず口走ったセリフ、ちゃんと聞いてましたか? いやいや、これじゃだのバカだ。だけどなんと聞いたら確認できるんだろう、うっかり口走ってしまった琴美さんの名前を、聞いてたかどうかって。
言いよどむ僕。そして、ニカッと笑うおじさん。
「なあ、素敵な名前なんだな、彼女。イメージ通りだった」
ああ、なんてことだ。
「コトミってどういう字を書くんだ? やっぱり、楽器の琴に、美しいとかか」
ビンゴだけど、どうでもいい。それより、やっぱり聞いていた。自分の間抜けさも、しれっと聞いてない体を装っていたおじさんにも腹が立つ。
「どうする気なんですか? 琴美さんの名前を知って、なにをする気なんです?」
「なにって……別になにもしやしない。ただ、美しい姿に似合った美しい名前だなって、うっとりするだけさ」
なにを言ってるんだこの人。
「では少年、逆に聞くが、俺がどうすると思っているんだ?」
「えっ」
思わぬ質問にあって、焦る。そしてどう答えたらいいのか混乱した挙句、つい言ってしまった。
「ストーカーとか」
笑っていたおじさんの顔が、急速にきゅっと引き締まっていく。
「少年。それをいうなら、ストーカー行為、が適切だな。ストーカーする、と言ってしまう気持ちはわかる。だが日本語としては正しくないし、俺のような紳士に向かって使う言葉ではない」
前半の指摘をちょっとだけ重く受け止め、その後に続いた言葉には顔をしかめた。そんな僕を見て、おじさんも眉間にしわを寄せている。
「確かに、少しばかり怪しい男として映っているだろうとは思っていた。突然声をかけ、なれなれしく接し、見た目も小汚い」
「はい」
「だがな、……おい、今『はい』って言ったな、この野郎! まあいい。それはいいんだ。とにかくだな、ちゃんと知れば、わかってもらえるはずだ」
なにをだろう。
おじさんはえっへんと腕を組んで、仁王立ちしたまま黙っている。
「なにをですか?」
「……少年、頼むぜ」
え、どういう話なのか、全然わからない。
「一目瞭然だろう。俺が、悪事を働くような人間じゃないって」
おじさんは大きく目を見開いて、僕の顔を覗きこんでくる。
タバコを吸う人独特のイヤな臭いに、思わず顔を反らした。
「ちゃんと見なさい。人の目を見て話しなさいって教わったろう?」
「いや、ちょっと、あの」
「なんだ? ほら。ほらほらほら! この輝きが目に入らぬか!」
最後には手で両方のまぶたを押し広げて顔を近づけてくるおじさんのあまりの大人げのなさに、僕は吹き出してしまった。多分ツバが飛んでたくさん顔にかかったはずなのに、おじさんはまったく退かない。
「わかったからもうやめて!」
「わかればいい!」
満足そうに微笑むおじさんに、本当に力が抜けた。こんな変な大人に会ったのは初めてだったから。
だけど久しぶりに、僕はすごく楽しい気分になっていた。