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僕はその光景を、ただただ、黙って見ていた。
額から血を流した師匠が手錠をかけられて、パトカーに押し込まれていく。
足が一歩ぶんだけ前に出たけど。
唇が震えて、声が出ない。
(師匠……、師匠……!)
僕は師匠の名前を知らない。多分、苗字は山城さんなんじゃないかな、くらいにしか知らない。
(師匠……!)
*
僕と師匠の出会いは、ちょうど一年前のこと。
通っている小学校は築四十年近いボロいもので、当然ながらプールもボロい。プールサイドで散々日光に晒されて、日焼け止めに意味を見いだせないくらいのコンガリ感にうんざりしながら帰り道を歩いていたら、声がかかったんだ。
「よう、少年。プール帰りか!」
どこからした声なのかわからなくて、僕は辺りを見回した。そして、道路右手のオンボロアパート二階の窓辺でタバコをフカしている中年が発生源なんだと特定し、無視を決め込んで再び、家に向かって歩いた。
「無視かよ。今の小学生はなってねえなあ!」
無遠慮に斜め上から罵られて、もちろんすこし腹がたった。けど、振り返らずに歩いた。だって知らない変なオジサンの相手なんかしたら危ないから。
次の日もプールだった。先生に出席のスタンプを押してもらったプールカードを眺めながら、一人家に向かって歩いていたら、声がした。
「よう、少年、勤勉だな。今日もプールかご苦労さん!」
リズミカルに楽しそうに、その中年は笑顔で声をかけてきた。今日はタバコではなくて、凍らせて吸うタイプの細長いアイスを手に持っている。
「一緒にどうだ?」
小学生は知らない人の誘いに、そう簡単にはのらない。そういう風に大人が教えてくるから。
知らない人から物をもらってはいけない。
知らない人についていったらいけない。
「なあ」
だから僕は無視をした。当然だ。プール帰りの小学生をアイスでつろうなんて、邪まな考えがあるに違いない。たまには男の子が好きな人もいるって聞いたことがあるし。なにをするのかは知らないけど、きっとおぞましいことなんだろうと思う。そんな体験はまっぴらごめんだ。
「少年!」
上からかかる声を避けるようにして、僕は身を低くして走った。
土日を挟んで、月曜日はまたプールだった。憂鬱な気分だったけど、お母さんに心配をかけたくないから笑顔で家を出る。それでバシャバシャ泳いで、真っ黒になったみんなの背中を見ながら先生の話を聞いて、またバシャバシャして。
今日も一人で家に帰る。友達がわいわいと連れ立って帰るのを見送って、最後の一人になってから学校を出た。
「よう、もう真っ黒だなー、小学生!」
また、声をかけられた。その時思ったのは、僕も懲りてないなっていうこと。変なおじさんに声をかけられたくなければ他の道を行けばよかったのに。土日を挟んで時間が空いていたから、もう諦めているだろうとか、普通の会社勤めの人ならいない時間帯だろうとか、楽観的に考えていたんだなって。
「暑かったろう。毎日頑張る君に、ご褒美を用意している!」
しかも今日は、道のど真ん中で待っていた。あごの辺りにひげがパラパラ、髪は肩の辺りまで伸びていてすごくだらしない。着ているTシャツはよれよれだし、下はハーフパンツ一丁。この格好で外に出ていいのは、誰の目にもつかないようにササっと済ませる、朝のゴミ出しの時間だけだと思う。
僕は悩んだ。どうやって避けようかって。来た道を戻るか、おじさんの横をすり抜けていくか。
「アイスだ。先週のは安かったからイヤだったんだろう?」
おじさんが誇らしげに突き出していたのは、有名なメーカーの、年中売ってるバニラ味のアイスクリームだった。この炎天下で僕が通るのをずっと待ち構えていたのだとしたら、あの中身は多分もう液状になっているだろう。案の定、突き出したアイスのカップは汗だくになって、ポタポタと水滴を地面に落としている。あれをもう一度冷凍庫に入れれば固まりはするけど、シャーベットみたいにシャリシャリになってしまって、滑らかさも美味しさも損なわれたアイスではない別ななにかが出来上がる。一度やったことがあるから、知ってる。
「すいません、いりません」
小声で答えて、すり抜けようとしたんだけれど。
「好みではなかったかな? 冷凍庫にチョコレート味も用意しているぞ」
おじさんはニカッとしたまま、とおせんぼしてきた。やっぱり、回れ右、したほうがいいのかな。
「失礼します」
振り返って、一気に走ろうと思った。けど、手を掴まれてしまった。
「待ってくれ」
お母さんに持たされた防犯ブザーはランドセルにつけっぱなしだ。もし周囲にこの危機を知らせたいのなら、叫ぶ必要がある。できるか、僕に。誰か助けてください! 変質者です! って大声をあげられるか?
「すこし協力して欲しいだけなんだ。けっして怪しい者ではない!」
「怪しいじゃないですか」
掴んだ手は離さないし、まず最初に物で釣ろうとしてきた。そんなやり方をしてくる大人に警戒しないのは、よっぽどめでたいチビっこだけだと思う。
「俺はライターをやってるんだ。シナリオを書いている。で、今の男子小学生のリアルな心情を知りたいんだよ」
「ライター?」
火をつけるものではないって、少ししてから気がついた。物を書く人だ。シナリオを書いている。なるほど。だけど、やっぱり見ず知らずの小学生に声をかける方法としては今のやり方は非常識過ぎて、頭から信じるのは、ちょっと。
「すいませんけど」
「頼む! 少年は俺のイメージにピッタリなんだ。小学校の前で随分探したんだけど、少年が一番だったんだよ。だからさ、話だけでも聞いてくれないか?」
暑い道の上で繰り広げられた攻防の末、あまりのしつこさに根負けして、僕はおじさんの部屋に通されていた。
いつでも逃げられるようにって、おじさんは笑いながら僕を玄関側に座らせ、しかもドアは開けっ放しにしてくれた。
部屋の中はクーラーが設置されていなくて、蒸し暑い空気を扇風機が散らしているだけ。
蝉の鳴き声がこれでもかっていうくらい大きな音で聞こえてくる中、見慣れたまあるいカップがテーブルの上にことんと置かれる。
「こっちは俺が後で食べるわ」
さっきまで炎天下で溶かされていたバニラ味は冷凍庫にしまわれて、僕の前には、同じメーカーのチョコアイスとプラスチックのスプーンが並んだ。
「暑いだろ? 遠慮なく食べてくれ」
「……頂きます」
カップのふたを開けて僕がアイスを口に入れると、おじさんは満足そうに笑った。