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狼少年の憂鬱  作者: 澤群キョウ
ジャスミン
83/85

ストーリー / いつき

「どこに行ってたの、いつき」


 やっぱり見つかってしまった。


 当たり前なんだよね。結構な時間だもん。今から行っても学校には間に合わない。

 兄弟はみんなもう家を出たあとで、いつもはぎゅうぎゅうの玄関から靴がなくなっている。一番大きな靴がないから、お父さんも出勤したあとだ。


「えっと」

「そんな格好で、ずいぶん長いお散歩だったみたいだけど」


 お母さんが一番に起きるんだもんね。朝から炊事、洗濯、やることがいっぱい。

 一番の仕事は子供たちの送り出し。上の二人は勝手に行けばって感じなんだろうけど、私と葉介にはお弁当を作ってくれている。


「ごめんなさい」

「どこに行ってたのか聞いてるの」

 

 まずは仮眠を取りたいところなんだけど。

 一晩中起きていて眠たいったらもう、頭がぼーっとしちゃっている。

 玲二くんの笑顔を見たところまでは、アドレナリンの力で元気だったんだけど。

 でも一路くんがすぐに気づいてやって来たあとは、立花家の面々と居候がみんな集まっちゃって大騒ぎだった。朝早くからパーティみたいで。


 お母さんは泣いてばっかり。一路くんは少し複雑な顔で離れたところに立っていて、鳥はもう、なんていうか、鳥だった。

 で、落ち着いているのは例によってお父さんだけで、私に感謝しつつ、ずいぶん気遣ってくれた。一晩中いてくれてありがとう、だけど家に戻らないと心配されちゃうねって。

 そんな格好なんだよね、お父さん的にも、そうだったと思う。

 だらしない部屋着の私を、車で近くまで送ってくれた。

 で、ようやく帰宅して、玄関でお母さんに見つかったという流れ。


 いつもはお客さんを通す和室で、やたらと改まった雰囲気に緊張しちゃってる。

 でも、高校生の娘が朝帰りなんだもん。怒られるのは当たり前だし、誤解されても仕方ないと思う。


「玲二くんのところに行ってました」


 嘘をつくにも当てがない。優香のところに行ってたなんて言えない。もうとっくに朝練に行ってしまっただろうから。千早と実乃梨も以下同文で頼れない。

 どうしようもなくて正直に答えると、お母さんはやれやれと呟いた。


「どうしても行かなきゃいけない用があったの?」

「うん」

「どんな用?」


 ここなんだよね。説明できないの。

 なにをどんな角度からどうごまかしたら納得してもらえるのか、私は全然アイディアを持ち合わせていない。しかも、眠気がすごいし。


「いつき」


 いつもよりずっと強い、お母さんの声。


「ごめん、説明できない。でも、変な理由ではないの。すごく大切な、その……」

「大切な?」


 こんなところで切ったら、誤解が深まりそうな気がするんだけど。

 でも、しゃべる以前に頭の中がしどろもどろになってしまっている。


「その、別にね、いやらしいこととかではないんだけど」

「あのねえ」


 電話のベルが廊下の向こうから聞こえてきて、お母さんは私に怒りの表情をひとつ残して去っていった。

 助かったけど、困っちゃうな。言い訳考えなきゃ。なんて言ったらいいの?

 とにかくただただ一緒にいたくて行っちゃった……じゃヘンかな。

 馬鹿正直に話してしまいたいけど、うーん! ダメだよね!


 懊悩と眠気でがっくんがっくん揺れる私を、ふすまの開いた音が叩き起こした。


「いつき」

「ふぁい」


 ぼけっとした私にため息をついて、お母さんはこう続けた。


「立花君のお父さんから電話があってね。今日のこと、ちゃんと話に行きたいって。悪いことはなにもしてないから叱らないでって言われたわよ」


 うう、お父さん。ありがとうございます……。


「今度の日曜日に来て頂くことになりました」

「はい」

「徹夜したの? 学校には電話しておくから、もう寝なさい」


 朝ごはん食べる? シャワー使う?

 お母さんらしい台詞がバンバン投げかけられたけど、今の私は全部パス。

 部屋まで戻ってベッドに倒れこむと、お母さんがクーラーのスイッチを入れてくれた。


「心配かけるようなこと、しないでよね」


 カーテンが閉められて、最後はおやすみ。

 お母さんのやさしさが身に染みる前に、私はもう夢の中にいた。


 家に戻ったら怒られるだろうって思っていたけど、それでも幸せだった。

 だから、すぐに誘い込まれた夢も、しっかり薔薇の咲く幸せな黄色の世界。


 黄色い花の敷き詰められた場所で、玲二くんが笑っている。

 それだけ。私もただ笑顔を返すだけ。

 

 遠くから鳥の鳴く声が聞こえて、空を見上げたら雲ひとつない晴天で。

 ああ、幸せだなあ。鳥が鳴いてるなあ、ああ、もしかしたら、玲二くんの家のみんなかなあ。




 はっと目覚めると、電話がなっていた。

 デフォルトのメロディは確かに、鳥の鳴き声に似ているかもしれない。

 

「もしもし?」

『いつき、寝てた?』

「玲二くん!」


 もしもしだけでバレちゃうなんて、よっぽどだらしない声だったんだろうな。

 今、何時だろう?


『なにから話したらいいのかな。なんだかちょっと、俺もぼーっとしてるんだ』

「仕方ないよ」

『そうかな』


 そうだよ、だってただ寝てただけじゃないんだから。

 あ、一時過ぎてる。結構寝ちゃったな。


「具合はどう?」

『いいよ。あんなことがあったのに、結構いいんだ』


 それは珍しいかも、玲二くんにしては。

 そう考えるとおかしくて、笑ってしまった。


『いつきに会いたいな』

「私も」

『ずっと一緒にいたのにまたかって一路に怒られた』

「みんな心配してたから、そう言われるのは仕方ないよ」

『そうだよな。様子をちゃんと見なきゃって注意されてて』


 言われてみれば、玲二くんは特にげっそりしてもいなかったし、からからに乾いたりもしていなかった。

 どういう力がどう働いているのか、私にはまったくわからない。

 経過観察については、お母さんや一路くんたちに任せた方がいいと思うけど。


『本当は今すぐ行きたいんだけど、それは迷惑だからダメだって父さんが言うんだ』

「そうだね。お母さんにはちょっと、軽く叱られたし」

『軽くで済んだの?』

「玲二くんのお父さんが電話くれたから……」


 受話器の向こうから届く玲二くんの声は、すっきりしていて、明るくて、不調を感じさせる要素が全然ないように感じる。


『ごめん、叱られるようなことになって』

「謝らないで。玲二くんのためなら、なんでもするんだよ、私」

『大好きだよ、いつき』


 あ、なにこれ。

 すごく響く。寝起きだからなのかな。玲二くんの声の破壊力、すごいんだけど。


「私も大好き」

『明日は休めって言われてるから、仕方ないからおとなしくするけど、明後日はちゃんと学校に行くよ』

「大丈夫なの?」

『うん。今までで一番調子がいいかもしれない』


 本当なのかな。

 でも、半端な状態から初めて解放されたんだもんね。

 すごくスッキリしているのかもしれない。


『それで、帰りに一緒に寄ってほしいところがあるんだ』

「どこ?」

『明後日に話す』


 それまで秘密にしたいから、明後日まで電話もできないんだ、だって。

 勝手だなあ、立花玲二。

 

 だけど、幸せな夢から覚めたばかりの脳に、少し低い声が優しく響いて、なんだかますます愛が深まったような気分がする。



「お昼食べる?」


 部屋から出て台所をのぞくと、お母さんはいつもよりぶっきらぼうにこう確認してきた。


「うん、ありがと」

「誰と電話してたの」

「玲二くんだよ」


 お母さんの眉間にぎゅっと皺が寄った。

 好感度さげちゃったかな、玲二くん、ごめん。


「説明する気はまだないの?」

「難しいんだよね。なんて言ったらいいのかわからなくて」

「なにがどうしたら説明が難しくなるのかなあ」


 変なことはしてないんだけど。

 でも、実際にあった出来事だけまとめると、誤解のもとしかない感じがする。

 彼氏の双子のお兄さんと一晩中話して、朝になってぎゅうって抱きしめて、愛を確認しあったら王子様の目が覚めた、みたいな。


「もういいわ」

「えっ?」

「今の顔でわかったから。もしかしたらって思ってたけど、いつきにはまだ色っぽい話は早いみたいね」


 どんな顔してたんだろ。やだ、お母さんが呆れるほどの表情だった?

 色っぽいことなら、ちょっとだけならあったもん。ちょっとだけだけどね! 

 

「お父さんには言わないでおくわ」


 お母さんはグラスに麦茶を注いで、なんだかおかしそうにふふっと笑っている。


「お父さん、立花君のこと気に入ってるからね」

「ほんとう?」


 そんな話するのかな、お父さんが。


「見た目はちょっと違うけど、俺に似た男を連れてきたって言ってたわよ」

「なにそれ。似てる?」

「口下手で真面目そうなところが同じなんだって」


 酔っぱらった時にこんな話をしていたって、お母さんは笑いながら話してくれた。

 そうなのかな。娘は父親に似た人を選ぶってやつなの?

 お父さんは顔が怖くて、無口ってイメージなんだけど。


 玲二くんも無口な方ではある。

 お父さん、真面目かな。うん、真面目そうかな。

 お母さんとの仲はいいと思う。まっすぐ家に帰ってくるし。喧嘩してるところなんて見たことない。


 もしかして、愛妻家だと思ってるのかな、自分のこと。

 だったらもしかしたら、玲二くんとかなり近いのかもしれない。

 玲二くんはきっとそうなるはずだから。


 まだ眠たいけど、今寝ちゃったらきっと夜困る。

 家の手伝いをして、ちょっとだけ勉強して、机の隅に置いておいた進路希望調査の紙を眺めたりした。

 玲二くんが人間になったのなら、ずっと一緒にいられる。

 そうだよ、一緒にいられるようになったんだよね。

 

 急にじわーっと、熱いものがこみあげてきて、馬鹿みたいだけど一人でぽろぽろ涙を落とした。

 嬉しい。諦めていたから。

 いつまでも若いままの玲二くんに、誰もいない静かなところで見送られちゃうのかな、って思っていたから。

 知っている人のいない町で暮らして、二人きりで人目を避けながら、何年かしたらまた別の町へ去って、二人きりで、ずっと二人きりで暮らしていくのかなって、思っていたから。


 まだ、ちゃんと話してないからだよね。

 玲二くんが目覚めて、幸せそうに微笑んで、私はそれだけでもう充分になってしまって、まともに会話を交わしていないから。

 ただ、そのままぎゅうっと抱きしめただけ。

 頭を撫でたり、耳にかかっていた髪をそっとよけたり、頬に触れたりしただけだから。


 さっきの電話もなんだかまだ夢みたいに思っているのかもしれない。

 かけてみようかな。

 ダメかな。なにか秘密にしたいことがあるって言ってたけど。


 じゃあ、文章ならいい?

 スマホに手を伸ばして、きれいな王子様の写真を指でなぞって、メッセージを打ち込んでいく。



 玲二くん、ずっと一緒にいられるのかな



 短くて、半端なメッセージ。

 勝手に指が打ち込んで、送ってしまった。

 返事はすぐにあって、これまた短い。



 ずっと一緒だよ



 長々と愛の言葉を綴る人ではないから、もしかしたらこれが最上級なのかもしれない。

 歯の浮くようなお世辞が欲しいわけじゃないし、肯定が返って来たんだから、これでいいんだよね。



 次の日学校に行くと、一路くんは休みらしく、兄弟そろってこれで三連休になったみたい。


「園田ちゃん、昨日どしたの」


 そうだ、ちゃんと報告しなきゃね。

 また書道部の部屋をお借りして、親友は無事に目覚めたと葉山君に話した。


「勝手に起きたの? それともなにか必要だった?」


 玲二くんが目覚めるために必要だったものについて、私は改めて考えた。

 安心させてあげたら起きてくれるんじゃないかと思っていたんだけど、もしかしたらちょうどあのタイミングで目が覚めただけって可能性も、あるよね。


「わかんない」

「そう? そっか、そうだよね。俺たちとは違う世界の住人なんだから」


 それはもう、一昨日までの話。

 玲二くんはもう、私たちと同じ世界の住人になった。


「園田ちゃんは見たの、新しい玲二」

「ちょっとだけね。でも、全然変わってないよ」

「色は元通り?」

「うん。あれが地の色なんだと思う」


 一路と見間違えちゃうかな、なんて葉山君は言う。

 でも絶対間違えないと思う。ぱっと見だけだもん、二人が似てるのは。

 

「玲二くんの方がひょろっとしてるから、わかるでしょ」

「そっか。また痩せこけちゃってんのかな?」

「それはあんまりないみたい」


 明日から来ることも話すと、葉山君は細い目を「一」の字にして笑った。


「良かったね、園田ちゃん」

「うん」

「わ、満ち足りた顔しちゃって。もう、参るね。末永くお幸せに!」


 末永くか……。

 いいな、それ。


「ありがと、葉山君」

「進路はちゃんと考えているのかな、園田ちゃんは」


 それを言われると痛い。

 やっぱり、考えなきゃだよね。


 ひょっとしたら世界放浪の旅に出るかもしれなかったところを、普通に暮らして良くなったんだから、真面目に考えなきゃいけない。


 玲二くんはきっとやりたいことがいっぱいあるんだろうな。

 私ばっかりに構っている時間はそんなにないのかもしれない。

 

「大学ですっごく気の合う女の子と出会ったらどうしよう」

「玲二の話?」

「うん。あるかもしれないでしょ」

「バカね、園田ちゃん。あるわけないよ。いっぺん鏡見ておいで。こんな可愛い女の子なかなかいないんだから」


 そうかな。そこまでとは思わないんだけど。

 それに、人間見た目だけじゃないでしょ。

 賢さのレベルが同じくらいの、話の合う子がいたら、どうなるかな。


「あれだけ秘密を抱えてきた玲二が、自分をまったく理解できない子なんかに走るわけないじゃん」

「そうかな」

「どうしたの、園田ちゃん。普通の玲二じゃ嫌なのかい」

「そんなことないよ!」

「そうでしょ。じゃ、そんな話しちゃダメだよ。俺は知ってるよ、玲二がどんだけ園田ちゃんを深く愛しているか」


 それは私も、知ってた。

 急に環境が激変したからって、不安に思う必要なんてないよね。

 

 

 午後の気だるい授業の間に、自分の中に生まれた不安の正体について考えて、思わず笑ってしまった。

 変化が起きて、嫌われてしまうんじゃないかとか。

 もしかしてもっと新しい、いい人がいるんじゃないかとか。

 あんまり自信がなくて、いちいち不安に思ってしまうあたり、私たちは似た者同士なんだなって。


 心配する必要なんてない。

 きっと、あっちは自分が思っているほど夢中じゃないんだろうなって、お互い自分の愛の深さに呆れているだけなんだ。



 いわゆるバカップルだったことに気が付いた次の日の朝。

 一週間ぶりに朝、玲二くんが家の前にやってきてくれた。


「おはよ」

「おはよう、いつき」


 手が伸びてきて、私の指をしっかりと絡めとっていく。

 温かいし、力強い。

 日差しがほんの少し和らいできた九月の中旬、私たちはまだ夏服で、並んで駅まで向かった。


「今日はどこに行くの?」

「帰りまで内緒だよ」


 どこに行くつもりなのかな。

 夜景のきれいなレストランとか?

 それとも、海の見えるロマンチックな公園とか?

 あんまりそういうイメージじゃないけど、どうですか玲二くん。


「具合はいいの?」

「うん。不思議だけど、本当にいいんだ」

「本当に人間になっちゃったの?」


 小声でささやくと、玲二くんは優しく微笑んで、繋いだ手に力を込めた。


「いっぱい調べられたんだ」

「うん」

「恥ずかしかったよ。俺が考えていること、全部わかっちゃってさ」


 お母さんにも、一路くんにも、遠くからやってきたおじいさんにも、それから鳥の一族にも。全員に心が筒抜けになってしまったって、玲二くんは笑っている。


「そのせいで父さんはあんな性格になったのかなって思うくらいだった」

「なるほど」


 確かに、玲二くんのお父さんなら、心の中を見られても平気そうな気がする。

 雑念とか煩悩とか、見られて困るものの気配は感じられない。

 全然ないってことは、きっとないんだろうけど。


「でもそれで確定したんだ。今までとはまったく違っていて、一番困った特徴はなくなったのがわかった。俺は本当になんにも持っていなくて、あと六十年くらいしたらよぼよぼの爺さんになってしまう普通の十六歳になったんだ」


 そうかな。素敵なロマンスグレーになりそうだけど?


「普通っていいな」


 玲二くんにとって「普通の人生」は、どんな宝にも勝る貴重なものなんだろう。

 何度も挫けて、邪魔されて、二回も蘇ってようやく手に入れたんだもん。


「玲二くん、進路って考えてるの?」

「ん? まだだよ。諦めちゃってたから、ちゃんと考え直さなきゃいけない」

「どこの大学でも受かるよね」

「いや。最近休んでばっかりだから、真面目にやらないと」


 まっすぐ前にむいた横顔がりりしく見えた。

 またちょっと大人になったみたい。

 真剣な眼差しを遠くに、高いところに向けていて、なんだか眩しく感じる。




 ひさしぶりに一緒に電車に乗って、教室の前でわかれて、そわそわしたまま授業を受けた。

 私以外も結構そわそわしている人が多いとは思う。

 文化祭の前だから、なんとなく浮かれちゃってるんだよね。

 そういえば、うちのクラスはなにをすることになったんだろう。

 全然気にしてなかったけど、勝手に役を割り振られてたりしないかな。


 身の入らない長いばっかりの一日が終わって、放課後。

 玲二くんが現れて、葉山君と二言、三言交わしてやってくる。


「行こうか」


 うん、って言ったけど、どこに行くのか聞いてもまだ教えてくれない。

 地味な商店街を抜けて、いつも通りの電車に乗って、カタカタ揺られて。


 玲二くんの家で大会議でもあるのかと思ったけど、いつも使っている最寄り駅を過ぎてしまった。

 降りたのは、隣の少しだけ大きな駅。


「ここになにがあるの?」


 バス停の並ぶロータリーを抜けて、大きな道路沿いを進んでいく。

 目的地は結構近かったし、想像以上に地味なところだった。


「ここ?」

「うん」


 市役所なんだけど。

 玲二くん、もしかして戸籍に問題があるとか?


「こっちかな」


 うーん、でも、人間になったんで、なんて言わないよね。

 行く先にある住民課は、戸籍の取り扱いをしてるみたいだけど。


 放課後やってきた夕暮れ時の役所には、あんまり人の姿はなくて、カウンターには誰もいない。


「すみません」


 玲二くんはそばにいたお姉さんに声をかけて、私の手をぎゅっと引いて抱き寄せた。


「どんなご用件ですか?」


 玲二くんは大真面目な顔で、私にぴったりとくっついたまま、お姉さんに答えた。


「婚姻届けもらえますか」

「あ、はい。少し待ってね」


 お姉さんはにっこにこの笑顔で用紙を取り出すと、封筒に入れて、玲二くんに手渡してくれた。

 私はちょっと、なんだか混乱している。

 予想外で、嬉しいけど恥ずかしいし、それに問題もあって。


「まだ結婚できないのに」

「うん」


 そばのカウンターで用紙を取り出して、玲二くんは「夫になる人」の欄にさらさらっと自分の名前を書いてしまった。

 それを丁寧にまた封筒にしまって、優しく微笑んだ顔をして、私にそっと差し出して。


「俺、まだ子供だから。これくらいしかあげられるものがなくて」


 手が震えてしまう。


「預かっててくれる?」


 受け取って、胸にぎゅっと抱いて、頷いた。


 さっきのお姉さんが笑ってる。

 私たちの微笑ましいプロポーズめいたものを、優しく見守ってくれているのがわかって、気恥ずかしい。



 市役所を出てから駅前のカフェでコーヒーを飲んだけど、全然味がわからなかった。苦みは全部飛んじゃって、甘いばっかりで。


「明後日行くから」

「うちに来るんだっけ」


 朝帰りの責任の取り方としては、最上級なんじゃないかな、婚姻届って。


 家に帰ったら、とりあえず隣に自分の名前を書いておこう。


 実際に使うかどうかはおいておいたとしても、これはずっと大切にとっておかなきゃだよね。


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