最後の光 / 一路
玲二の目だけがはっきりと見えていた。
ここがどこだか思い出せないし、体中が痛くてたまらなかった。
青白く光る奇妙な場所のすべてがぼやけているのに、弟の瞳が濁って、ゆっくりと死んでいく様子だけがくっきりと浮かび上がって、僕の意識へ飛び込んできた。
『玲二……!』
生気を失ったのは目だけじゃない。
全身の力が抜けて、膝が折れ、倒れて、水しぶきがあがって僕の上に降り注いだ。
遠屋に呼び寄せられた。
ちっとも敵わなくて、一方的にやられてしまった。
痛くて痛くて、ひっくり返って、今。
玲二が。
水の中に落ちている。
さっきまで立っていた場所には、黄金の輝きが残っている。
とても大事なそれが、急に動き出す。
玲二が見つめていた先に立つ龍のもとに、引き寄せられていく。
「遠屋!」
叫んだつもりが、声はほとんど出なかった。
龍は余裕の笑みで僕を一瞥するだけ。
なんの力にもなれなかった。
そう思った瞬間、なにかが視界を横切っていった。
龍ももちろんそれに気が付いた。だけど、伸ばした手は間に合わなかった。
すごいスピードで上空へ舞い上がり、急ブレーキ。
白い光はみるみる大きくなって、くるりと一回まわると、僕たちに向けて大きな声で鳴いた。
あれは……。
『ノイエ!』
ライの声が聞こえる。無理やり体を動かして声の方へ向けると、ライがぐったりとしたハールを抱き起しているところだった。
あれがノイエ?
まさか。ものすごく大きいぞ。
今朝はまだ雛だったじゃないか。
「ふざけるな!」
遠屋が叫んで腕を振り上げる。
だけどやっぱり間に合わない。
翼を広げてキラリと輝いたと思ったら、次の瞬間もういなかった。
『ノイエ、どこだ!』
ライの呼びかけに応えはないのかな。
なんだあの子は。まだ生後一週間も経ってないのに。
『一路、あの龍を抑えるんだ』
ライに抱えられていたはずのハールが立ち上がっている。
初めてぐったりしたところを見たと思っていたのに、もう翼に炎を宿して、僕に向けて合図を送っている。
それでやっと気が付いた。胸と背中についていた傷はすっかり癒えて、痛みもまったく感じない。
ハールが猛スピードで飛んで遠屋を吹き飛ばし、僕も両手を広げて、体を一番強い姿に変えた。
ああ、なんてことだろう。
玲二は僕にとうとう、わけた力を返したんだ。
僕のサイズにあっている。一ミリも足りないところがなくて、余っている箇所もない。
爪の先から、耳の横に生えている長い毛並みの部分まで、余すところなく力に満ちていると感じた。
『早くしろ!』
冷たい水を蹴って一気に距離を詰めて、遠屋の首筋に深くかみついた。
まだ人間の姿の首の肉を、肩近くまで噛んで引きちぎり、吐き出して捨ててやる。
龍は怒って姿を変えて、尻尾を振った。水の上を走る長い尾は玲二の体のぎりぎり上を走り抜けて僕を打とうとしたけど、飛んで避け、短い腕の近くに乗って今度は爪で鱗を思いっきり抉ってやる。
『一路、園田ちゃんたちが危ないんだ。攻撃はやめてくれ!』
ライが叫んで、ハールは突撃をやめて上空へ旋回して戻っていく。
僕も慌てて龍の背中から降りたけど、だけど向こうはやる気だし、僕もこんなに高揚したのは初めてじゃないかと思う。
今なら本当に、誰と戦っても勝てる気がしている。
これまでの根拠のない自信じゃなくて、内側から溢れる力が僕を押し上げているように感じた。
『いつきがどうしたの!』
『危害を加えられるかもしれないんだ。それで玲二は手を出せなかった』
手を出せずに、どうなったんだ。
そうだ、さっき、見たんだ。
玲二の目から光がなくなった瞬間を。
倒れて、それで? 倒れただけじゃないのか?
『玲二はどうなったの!』
龍が僕を睨みつけている。
怒りに燃えているのがわかった。
昼間僕を勝手にここに連れてきた時とはまったく違う。
余裕のなさ、焦り、苛立ちに満ち溢れた、憎しみを固めたような恨めしい目をしている。
『ライ!』
『玲二はお前に狼の力を全部渡して、それから、自分の力をマスターに差し出したんだ』
玲二の抱えていたすべてが、外に出て行ってしまった?
『ハール、ライ、ちょっと頼む!』
上からも気配がする。
『カラス、クロも! 早く来てよ!』
戦ってる場合じゃない。
僕は玲二を助けに来たのに。
全部出しちゃったら、玲二が死んじゃうじゃないか!
そんなわけはない。
だって力と命は、その、もしかしたら別かもしれないじゃないか。
たぶんダメだろうって、僕は思っていて、きっとそうだろうって感じていたけど、でも、気のせいかもしれなくて。
望みはあまりにも儚くて、僕の足は何度ももつれた。
すぐそこにいる玲二のところになかなかたどり着けない。
体はこんなにも強くなったのに、心はまだまだ未熟で脆いままだ。
玲二の死をまた突き付けられたら、僕はどうなってしまうんだろう?
おそるおそる、だけど急いで、空回りしながら必死に進んだ。
ハールとライの泣き言が聞こえたり、クロの悲鳴が響いた気がするけど、ちっとも気にならなかった。
「玲二……」
声が震えている。僕はもう泣きそうで、怖くてたまらなかった。
もうダメだって、わかっているのに、諦められないだけで、だけどどうしても信じたくなくて、森の神様がいるっていうなら、なにかと引き換えにしてもいいから玲二を助けて下さいってお祈りしてしまっている。
目の前にたどり着いてしまった。
水の中にうつ伏せで浸かっている。
首がほんの少しだけ横を向いていて、だけど表情は見えなくて、体の内側の震えが止まらなくて、僕はまだ、玲二を助け起こせない。
背後からは戦いの音が聞こえてくる。
みんな龍にはとてもかなわないだろう。
今、あの龍は少し取り乱しているみたいだから、四人もいればなんとか誤魔化せはするだろうけど。だけど勝てはしない。ライなんて戦う力なんかこれっぽっちもないんだから。
頭がぐるぐるして、次にどうしたらいいかわからない。
立ち尽くすばっかりの僕は、本当に情けない。
そんなダメな兄を見かねたのかもしれない。
足元にたまった薄い水の表面に、小さな波紋が生まれた。
玲二の白い右手の指先あたりから。
「玲二」
波紋は再び生まれ、水面に広がっていく。
指先に力がこめられ、手が持ちあがり、肘が曲がって、体がゆっくりと起きていく。
まさか。そんな。ばかな。
ばかなって思ったけど、これは嬉しい意味でだ。
信じられない、いわゆる嬉しい誤算というやつだと思った。
体が持ち上がり、片方の膝が立つ。
水浸しの玲二はゆっくりと起き上がって、僕は慌てて駆け寄り、復活した弟の肩を掴んだ。
『一路、助けてくれえ!』
ライの情けない悲鳴に応えようと思った。
わかった、今行くよって。
玲二には休んでろって言うつもりで、肩を掴んだ手に力を込めた。
だけど次の瞬間。
恐ろしいことが起きたって、僕は知ってしまった。
「一路」
玲二の声はいつもよりもずっと低い。
黒い髪は濡れて重くなり、しずくをぽたぽたと垂らしている。
「あの龍を沈めてやろう」
顔は青白い。この場所にいるものはみんな青白く照らされてしまうけれど、照明のせいではない蒼が玲二を染めていた。
僕は驚いて、肩から手を離してしまう。
玲二は僕の右腕を、冷たい左手で掴んで笑う。
「玲二、そんなバカなこと……」
弟は一瞬だけ目を伏せたけど、すぐにまたまっすぐに僕を見つめて、口の端を上げて笑った。
「今はいい。あの龍だ。ぶちのめさないと気が済まない」
僕にはなにがなんだかわからない。
遠屋にボコボコにされてしまったところまでが、ハッキリしている。
罠にかかって、傷を負った。あっさり負けて気を失ってしまった。
ハールが助けに来てくれたと思う。すぐにやられてしまったけど。
そのあと、玲二が来たんだろう。ノイエは玲二についてきたんだろうし、ライも一緒だったんだと思う。
それから、なにがあった?
僕に狼の力を返して、遠屋に力を差し出して。
それで、どうなったんだ。
水面の上を飛ぶようにして玲二は走っていく。
信じられないくらい早くて、信じられないほど容赦がなかった。
龍の背中に飛び乗って、首の上を走り抜けて、頭にしがみつくと、腕を振り上げ、暴れる龍をものともせず、左目を潰してしまった。
ライも、ハールも、クロもカラスも、茫然として玲二を見つめている。
「やめろ、玲二!」
僕だって遠屋は憎いけど、でも、そんなバカなって思うんだ。
玲二がこんな真似をするなんておかしいじゃないか。
まだ龍の頭にしがみついて、僕が繰り返しイメージしていたよりもずっと残酷に、ウロコをはがしては水の中に捨てている。
信じられない。
玲二は、森の主の力を捨てたんじゃなかったのか?
「玲二!」
「『人でなし』だ」
カラスは珍しく険しい顔をして、こう呟いている。
「なんだって?」
「立花玲二は人質を取られてやむを得ず力を差し出した。その瞬間人間になり、強い怒り、恨みを抱えて死んだのだろう」
「玲二が『人でなし』だって?」
「そうとしか考えられない。『人でなし』の力は、意志の力がそのまま反映される。命を捨ててでも周囲を守ろうとした立花玲二ならば、どれだけ強くても不思議ではない」
そんなバカな。
人の怒りや妬み、憎しみを食べて生きる最低の連中だぞ。
玲二がそんなものに変わるはずがない。
「そんなの嫌だ!」
「立花玲二はあえてその道を選んだ可能性がある」
「玲二がそんなことするわけないだろ!」
力を差し出してなかったんだよ。
単純に、それだけの話なんだ。
玲二には変な力があるから。
だから、遠屋の目をごまかして、パワーアップしたんじゃないのか。
「主の力は幼い雛に渡ってしまった」
「ノイエに?」
「触れた瞬間、秘めていた力がすべて解放された。目に見えない速度で飛び、姿を隠し、仲間の傷を癒したが……」
「なんだ、カラス。ノイエはどうなったんだ?」
ライが慌ててカラスを揺さぶると、蛇は嫌そうに顔をしかめて答えた。
「わからぬよ。だがあの様子からすると、立花玲二の役に立とうとしているのではないかな」
「玲二は癒されなかったの?」
「既に変異していたのだろう」
龍が叫んでいる。苦痛と屈辱に満ちた声に、全員が体を震わせていた。
最強の存在、すべてをねじ伏せる強さを持っているはずなのに、生まれたばかりの「人でなし」に、なすすべもなく青い鱗をはがされ、水の中でのたうちまわっている。
「玲二、もうやめろ」
龍がどうなろうと知ったことじゃないし、まだやるっていうなら僕が相手になる。
だけどとにかく、玲二が誰かを傷つけている姿を見たくなかった。
僕の大事な弟の世界が壊れて、本当にどうしようもない人でなしになってしまうなんて、とてもじゃないけど耐えられない。
お父さんもお母さんも、いつきも、良太郎もみんな悲しむだろう。
百井沙夜みたいに学校に紛れ込むことはできるだろうけど、姿かたちは変わっていないけど。でも、酷い。こんなのは玲二じゃないんだ。
後ろから羽交い絞めにして押さえつけたら、ようやく玲二の攻撃は終わった。
龍の血でしっとりと濡れている。光のせいで全身を禍々しい紫色に染めて、つまらなそうに僕を睨んだ。
「どうして止める?」
「これ以上はダメ。これ以上憎しみばっかりになったら、いつきとはもう会えなくなる」
瞳の色はひどく暗いのに、いつきの名前には少しだけ反応があった。
びくりと体を揺らしたっきり、ただ視線を下に向けて黙っている。
生きていてくれたのは嬉しいのに。
だけどこんな姿になるなんて。
死んでしまったよりも、もしかしたら衝撃が強いかもしれない。
そのくらい、玲二には似合わない。
『私の力を……返せ……』
苦しげな龍の囁きには、まだまだ怒りが含まれているように感じた。
玲二は遠屋を睨みつけているけど、動かない。
僕もどうしたらいいのかわからない。
「これからノイエが狙われてしまうのかな」
ライは不安そうだ。
そんな義理の孫の背中を、ハールが思い切り叩く。
「お前が守ってやらないでどうするんだ」
「そうだ、人質っていうのは? カラス、どうなったの?」
そもそも誰が人質になっていたのかすら、僕にははっきりわからない。
玲二に命を諦めさせるとしたら、いつきしかいないんだろうけど。
「遠屋の用意していた計画はすべて潰えたようだ。あの雛が飛んで、あらゆる悪意を消して回った」
悪意を消す?
そんなことまでできるのか、ノイエ。
生まれたばかりの無垢な魂だからなのかな。
「ノイエ、戻ってきて。君の大好きな玲二を助けてほしいんだ」
呼びかけた瞬間、空が白く輝いて、大きな翼を広げた鳥が現れた。
自分の息子のあまりにも立派な姿に、ライはびっくりして腰を抜かしている。
『いちろ、よんだ?』
ん、もうしゃべれるようになってるぞ……。
「呼んだよ。ノイエにお願いがあるんだ」
『いちろはれいじの大事なきょうだいだから、いいよ』
「そう、良かった」
僕は玲二の大事な兄弟だった。
ノイエが言うなら、百パーセント間違いはないだろう。
玲二。僕は玲二を救いたい。
正しい心をもって、まだ見ぬ兄を導いてくれた賢い弟が、玲二のあるべき姿だって思うんだ。
「まずは、あの龍から悪い心を消してほしいんだ。澄んだ泉のように穏やかで、みんなの心を潤してくれるような、優しい龍にしてあげてくれる?」
遠屋は身じろぎしているけれど、傷が深すぎて逃げられないみたいだ。
『ぼろぼろだ』
「玲二が怒ってやりすぎちゃったんだ。傷も治してあげられる?」
『うん』
いやだったろうな、遠屋は。
自分が得るはずの力をかすめ取っていったのがこんな赤ん坊で。
最後まで抵抗していたけど、無駄に終わった。
龍のうろこも、瞳も、きれいに元通りになっている。
だけどサイズはちょっと縮んだかな。
小さくておとなしい、穏やかな龍に生まれ変わってしまった。
『きらきらして、きれい』
無邪気な褒め言葉に負けたのか、遠屋は水の中に潜っていってしまった。
これで良かったとは思うけど、どうなるのかはわからない。
今はまあ、そんなことはいい。マスターだのリーダーだのなんて話は僕には関係ないし。
「ノイエ、次は玲二だよ。玲二を元通りにしてほしいんだ」
『もとどおり?』
「立花一路、それではダメだ」
カラスの横やりが入って、ノイエはパタパタと岩の上に降りてきた。
羽根が真っ白になっている。リアと似た光沢に、僕は少し安堵を覚えた。
「なにがダメなの?」
「人でなしは悪意を源に生きる者。龍と同じようにすれば、彼は消えてなくなるだろう」
「そうなの?」
そういえばそんな話を聞いたっけ。
まったく、なんて存在なんだ。
「じゃあノイエ、玲二から悪い心を消すんじゃなくて、こうなる前に戻してよ」
『こうなるまえ?』
「そう。ノイエが初めて見た時の玲二、覚えているだろ? あの玲二に……」
あれ。戻せるのか?
僕の力は僕の中に。玲二の力はノイエへと移ってしまっている。
それも全部、戻せるのか?
「ひょっとしたらその雛が死ぬかもしれないな」
カラスの呟きに、ライとハールが揃って反応した。
「どうしてだ」
「なんで死んじゃうなんて言うんだ、カラス」
「あの雛はまだ生まれたての未完成の命だった。そこに強大な力が入って、もともとの命はすべて飲み込まれたように見受けられる」
その分は切り離して、本当に元通りに、きれいに戻すことはできないのか?
ノイエに何度も説明したけど、白い鳥は困ったように首を傾げるばっかりだった。
「おい、レイジ、どこに行くんだよ」
悩める僕たちの耳にクロの声が聞こえてきて、慌てて振り返ると、玲二が一人、遠ざかっているのに気が付いた。
「玲二、どこに行くの」
走って走ってやっと追いつくと、玲二は振り返りもせずに、吐き捨てるように言った。
「どこでもいいだろう」
「だめだよ。家に帰ろう。帰ってから考えたらいい」
「あんな家にいたら、すぐに消えてしまう」
僕にはわからない。
玲二がどこまで変わってしまったのか。
もともとの玲二は、もう残っていないのか。
だけどわかってはいるんだ。家に帰れば父さんと母さんがいて、僕がいて、鳥たちがいて、玲二を大切な家族として迎えてしまうことを。
「変わってしまったものは仕方ない。これからの生き方は、これから探す」
「嫌だ、玲二。そんなの、死んじゃうよりも嫌だよ」
生きているのに、永遠に一緒にはいられない。
僕やみんなが玲二を思うほどに、存在を薄め、いつか消してしまうなんて。
「僕たちは玲二を大事に思うのをやめられない」
「そうだろうな。だったらもう仕方ない。いっそのことそこの鳥に今消してもらおう」
「なんでそんなことを言うの。いつきに会えないままでいいの?」
それがどれだけ残酷な言葉なのか、気が付いたのは言ったすぐあとだった。
玲二がいつきを忘れるなんて思えない。
いつきが玲二を見放すはずがない。
なんにせよ、消えるしかないんだ。
強い力を持った人でなしなのに、みんなの愛情のせいであっという間に消えてしまう。
「最悪だな、一年で三回も死ぬなんて」
どうしてこんなことになってしまうんだ。
ようやく龍の手から逃れたのに。
「玲二にもう一回、僕の力をわけてあげるよ」
「無理だろ。死んだら消えるんだ。わかる。もうすぐだよ。最初からわかってた。遠屋に憎しみをぶつけたらその分持つんじゃないかって思ったけど」
投げやりな言い方をして、玲二はそのまま倒れてしまった。
水しぶきをあげて、浅い水の中に浸かって、歪んだ顔で笑っている。
「もうここでいい。このまま消えるよ。みんなには一路から話して。俺は消えていなくなったって」
「そんなの言えない」
「お前のせいでこうなったんだろ」
そうだ。僕のせいでこうなった。
生まれる前から欲張りだったから。
玲二の分もちょうだいって、勝手に奪っていってしまったから。
「ごめん、玲二」
「もういい。仕方ない」
「玲二」
「やめろよ。そんなに早く消えてほしいのか?」
僕は悲しくて、ぼろぼろ泣いた。
玲二は泣かない。水の中で目を閉じて、静かに黙りこくっている。
どうしようもない僕たちの上に、光が舞い降りてくる。
『れいじ、いちろ、どうしよう』
ノイエを犠牲にすれば、玲二はもとに戻せるかもしれない。
だけどそんなの、玲二は嫌がるだろう。
ライとリア、ハールだって、表立って文句は言わなくても、きっと悲しいだろうし。
「僕にはわからない」
情けない兄は涙に暮れて、冷静な弟はこうつぶやく。
「心残りが一つだけあるんだ」
『なあに、れいじ』
「百井にはかわいそうなことをしたから、一言でいいから謝りたい」
玲二がこう言い出したのは、自分が人でなしになってしまったからなのかもしれない。
『わかった』
ノイエは無邪気にこう答えて、翼を広げてひと際強い光を放った。
あいつはもう消えちゃったから、無理なんじゃないかって僕は思ったんだけど。
それがどういう存在なのかはわからないけど、百井沙夜は現れたんだ。
深い深い水の底からゆっくりと、真っ黒い髪で顔を隠したまま、玲二のすぐ隣に。
「本当に来ると思わなかった」
玲二は苦笑いを浮かべている。
浮かび上がってきた百井沙夜は、水面の直前で止まって、まるで水の外の世界には出られないように見えた。
『玲二様』
「百井、あんまり時間がないから、これだけ。ごめんな、助けてくれたのに、最後一緒にいてやれなかった」
『いいえ、今が最後です。この時を待っていました』
「待っていた?」
『お伝えした通りです。人としての命を得る為に、この消えかけた私を使ってください。そのために地の底でそっと永らえてきたのですから』
けなげな人でなしは、水に浸かった玲二の手をとって、おそるおそる唇をつける。
『そのあとも、お伝えした通り。人間になるために必要なものは……』
玲二の目がようやく開いて、百井沙夜の方へ向けられる。
それで満足したのか、人でなしは口元に微笑みをたたえると、水の奥へと消えてしまった。
最後の最後。愛に目覚めた人でなしが起こした奇跡で、玲二の姿が変わっていく。
ゆっくりゆっくり、髪が薄い茶色に戻っていった。
瞳の色も。僕やお母さんと同じ色に変わって、邪悪な闇の色が打ち払われていって。
体を起こして、玲二は大きく息をつく。
だけど苦しそうに、体を震わせはじめた。
「玲二」
支える手が間に合わなくて、再び水の中に玲二は倒れこんだ。
カラスはこんな考察を聞かせてくれた。
今日起きた激しすぎる変化に、体がついていかなかったんだろうって。
僕もそう思う。
命を全部取り出して、人間に生まれ変わって、死んで、蘇って、それからまた再び生を得た。
一日で二回も人間に生まれ変わったんだ。
ついていけなくて当然。
なにをしても目を覚まさない玲二を連れて家に戻ったのは、次の日の朝早くになってからだった。




