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狼少年の憂鬱  作者: 澤群キョウ
VOICE
73/85

ヒントとトラウマ / 玲二

 長い道のりを歩いて帰ったせいでへとへとだった。

 ぐったりした俺をかわいそうに思ったのか、一路がバタバタと歩き回っている。

 水を出してくれたり、風呂の準備をしたり。慣れない作業を一生懸命進めて、もしかしたら誰かに教えてもらったのかもしれないけど、二時間もすると全部が出来上がっていた。


「玲二、お風呂にはいったらいい」

「一路は?」

「僕は後でいい。狭いし、ゆっくり入って」


 小さなサイコロみたいな四角い風呂は窮屈だけど、汗を流したらずいぶんほっとした。

 窓は強烈なオレンジ色でいっぱいになって、そろそろ夜がやってくると告げている。


 鳥の鳴く声が遠くから聞こえてきて、ずっと暮らしてきた自分の家とここが、遠く離れているんだと感じた。


 俺が知っているのは父親の姿だけだから、この家で父さんが育ったのが不思議に思えた。周りは緑だらけの、不便なばっかりのこの小さな家で、どんな子供時代を過ごしたんだろう。祖父母ももういないし、伯父や伯母の類もいないって聞いている。母さんと生きるために捨てたんじゃないなら、若い頃に失ってたんだよな。あんまり深く考えてこなかったけど、父さんは一人で辛くなかったんだろうか。


「玲二、大丈夫?」


 帰るなり倒れこんでしまったし、大木のところで泣いたりしたから、心配してくれているんだろう。一路にあんなに顔色を窺われたのは初めてで、これについてもとても不思議な気分になっている。


「大丈夫だよ、ありがとう」


 膝を折りたたんだまましばらく湯船に浸かった。


 あの時感じたどうしようもない切なさの正体が知りたくて、しばらく考えた。

 でもよくわからない。ぼやっとしたイメージの塊が入り込んできて、それが心を突き動かしたのはわかるんだけど。実際の距離よりもずっといつきと離れたような感覚が湧き出して、それでたまらなく寂しく、心細くなってしまった。


 お湯をすくって顔を洗い、まだ重たい足を引っ張りあげると、脱衣所で一路が待ち構えている。


「もういいの?」

「いいよ。ごめん、心配かけて」

「うん、あの木のところでなにかあった?」

「なにもなくはないけど」


 よくわからないと答えると、一路は大まじめな顔で頷いて、一気に服を脱ぐと風呂に飛び込んでいった。そしてあっという間に出てくると、俺よりも先に台所へ走って行って、夕飯の準備をし始めている。


「手伝うよ」

「うん」


 といっても、することはほとんどない。

 あとはお茶を注いで、箸を用意するくらいだ。来る途中で買ってきた使い捨ての食器を並べて、二人だけの食卓を囲む。


「いっぱい歩いたから今日は早く寝るといい」

「そんなにおかしかったかな、俺が泣くのは」

「すごく変だ。あんなの初めて見た」


 確かに、俺も泣いた記憶なんてほとんどないけど。

 ここまで手厚くされるなんて。

 よっぽど頼りなく見えるのかな。


「電話してくる」

「どこで?」

「圏外なんだよ、この家の中」


 固定電話はこの家にはない。圏外とは思ってもみなかったから、着いた時には驚いた。

 家にも連絡しておきたいし、なによりもいつきの声が聴きたい。


「お母さんには無事だってちゃんと伝えてる」

「ああ、そうか」


 いつでも無線で繋がっているなんて、本当に便利だ。

 だけど、相手の気持ちが常にわかっている状態がいいものなのかどうかは、俺にはわからない。


「いつきに電話してくる」


 一路は少し難しい顔をしたけど、仕方ないと思ったのかもしれない。行ってらっしゃいと送り出してくれたので、あかりのほとんどない外へ出た。


 聞こえる虫の音はもう秋のものだ。

 標高が高い場所だから、空気も涼しい。

 外灯はほとんどなくて辺りはまっくらで、スマホの明かりを頼りにゆっくりと進んでいく。

 いつまで経ってもアンテナが立たないけど、このあたりの人たちはどうやって暮らしているのかな。それともちょうどここだけピンポイントで電波が入らないのか。


 ふらふら進んでいくうちに、表示が変わっていく。

 でもとても不安定で、かけようとすれば圏外になり、諦めればかすかにアンテナが立ったり。

 電波の谷間をふらふらと進んでいるうちに、スマホは急にぶるっと震えた。


 メールが届いたらしい。送ってきたのはいつきと、良太郎。

 先に良太郎からのものを確認すると、元気か、来週からまたよろしくとだけ書かれている。

 真っ暗な道の中で、時折風に揺らされた植物が音を立てている。

 ざわざわと傾いで、よそ者がいるぞと噂されているような気分だ。


 玲二くん、電話がつながらないのでメールを送りました。

 お父さんの実家にいるって聞いたよ。もしかして圏外なのかな。

 早く玲二くんに会いたいです。


 闇の中に浮かんだ文字を指でなぞっていくと、いつきの声が聞こえるような気がした。

 優しい声を、俺も直接聞きたい。どうしたら誰にも邪魔されずに会えるんだろう。

 世界で二人っきりみたいな気分になりたい。大きな瞳に俺の姿だけを映してほしい。


 メールを届けてくれたくせに、電話機はまた圏外の表示を浮かび上がらせていた。

 見つめているうちに光は弱くなって、そして、ふっと消える。

 振り返ると、一路が待つ家のあかりだけがぼうっと浮かんでいて、それもゆっくりと消えていくような気がして。


 慌てて前へ進んだ。

 一路ならきっと怖くないだろうけど、俺は違う。なにも見えないし、空気が冷たく感じられて、それは人生で一番辛い記憶をよみがえらせてくるから。


 空気の粒が凍って、集まって、白い影を作っていく。

 

『立花玲二君、また会ったね』


 もういないはずなのに。自分の力で打ち払えるはずなのに。一路ならすぐそこにいる。俺を待っている。怒っているけど、そばにいてくれるんだから、恐れなくていい。


『さあおいで』


 そのはずなのに、目の前に立っている。ちがう、こんなの幻だ。だって死んだはずだろう、ライが言っていたじゃないか。全員始末したって。


『一緒に遊ぼう』


 そうじゃない。死んだからだ。そこにいるのは、彼がもうこの世の者じゃないから。

 人でなしは、人間が命を失ってから生まれるもの。真夜と百井は、恨みを抱えて死んで、仲間になった……。


「消えろ」


 名札にはなんて刻まれていた? 俺を打って打ってどん底に突き落とした男の名前はなんて言う? いやだ、あんな思いを二度としたくない。


『ひどいことを言うね。僕をこんな姿にしたのは誰なのかな』


 息が苦しい。俺がしたんじゃない。爪を振るい、牙を突き立てたのは一路だ。

 だけどそれは、俺のためで。


『君の正体は一体なんなのか。ねえ、教えてよ』


 カザマキだった気がする。でもそんなの、意味がない。

 あの時持っていた棒をふらふら揺らしながら寄ってくる敵に、俺は嫌な思い出に縛られたまま動けない。

 どうして、動けない?

 前にもこんな風に幻を見た。あの時は打ち破れたのに……。


「あのようなもの、すぐに追い払えます」


 背後から声がする。誰の気配もないのに、聞いた覚えのある声がした。


「あなたの内に潜むけだものの血を追い出してしまいましょう」


 なにかが抜け出していった。銀色のほのかな光はもう俺の前に浮いていて、弱弱しく瞬いている。


「一路の……」


 闇に溶けて消えてしまいそうな銀色を、慌ててつかんだ。手の中でぎゅっと握りしめて、背後の誰かの声を無視して、ポケットへしまいこむ。


「あなたは光。恐れることはありません。すべての者があなたを畏れるのですから」


 ああ、そうだ。この声はあの時の誰かのものだ。

 命を再び得て目覚めた夜に聞いた声。


「このお方はお前のような低俗な者に構いません」


 声がするとすぐにカザマキの影は消えた。苦悶の声も、悲鳴もあげずに、一瞬でぱっと掻き消えて、視界の先には家のあかりだけが残っている。


「誰なんだ」


 呟いたらようやく体が動くようになった。だけど、もう遅い。振り返っても誰もいない、ただ闇が広がっている。


 ポケットの中はからっぽ。手の中にはスマホが握りしめられているだけ。

 電源を入れてみると、あいかわらず圏外だと表示されていた。


『玲二』


 思わずびくっとしてしまったけど、これは一路の声だ。


『どうかした? ずいぶん時間がかかってる』

「大丈夫だよ」


 家の中にいる兄に、俺の声は届くんだろうか。

 いや、届いてないな。ドアが開いて、一路が走ってくる。


「玲二、なにかあった?」


 さっきのが現実なのか幻なのか、俺にはわからない。


「顔が青い」

「誰かいる?」

「ううん、感じない」


 じゃああのU研の奴はいないのかな。百井みたいに完全に隠れているだけなのかな。なにもかもがわからなくて気分が悪い。悲しくて、息ができない。


 抱えられるようにして家に戻って、すぐに布団に寝かされてしまった。俺も起き上がる気力がないから、そのままだらっと転がっている。


「どうして泣いてる?」

「泣いてる?」

「うん……」


 一路の顔もくしゃくしゃに歪んだ。

 あの日起きた出来事は、俺だけじゃなくて一路にも辛かったから。


「外が真っ暗で」

「うん」

「怖かったんだ」


 前にも同じような幻覚を見た。あの時は確か、停電が起きたんだ。

 自覚してなかったけど、本当にどこにも明かりが見えない、真っ暗闇を恐れているのかもしれない。


「死んだ時のこと、思い出しちゃって」

「玲二」

「違う……。俺を殺した奴が出てきた。あいつ、人でなしになったんじゃないか?」

「外には誰もいなかった」


 カザマキだけじゃない。もう一人、背後にいたのに。

 それにも気が付かなかった?


「玲二、僕がいる。だから大丈夫」


 それはわかっているのに。だけど苦しくて、返事ができない。


「疲れたから気持ちがうまくコントロールできないんだ。明日もう帰ろう。ここにはまた来ればいい。いつきに会って安心したらいい」


 電話はできたのか、と一路が問いかけてくる。

 俺は首をのろのろと横に振って、そこで力尽きてしまった。


 体がずっしりと沈んでいってもう動かない。

 意識はまだ眠ってない。目が開かないけど、すぐそばに狼の息遣いを感じている。

 そんなに疲れてしまったのかな。情けないな。まだ一路に、後ろに立っていた奴の話をしていないのに。


『あのけだものに構ってはいけません』


 すぐ隣だ。一路とは逆側に、あの誰かがいる。俺の耳に口を寄せて、囁いてくる。


『せっかくお帰りになられたのです。あなたの大切なものは、ここに』


 大切なものって、なんだろう。

 いや、知ってる。あの大木に手を添えた時に見えたはず。


『必ずお帰りになられると信じて、守り抜いてきたのです』


 深い深い森の中を走る獣がいる。

 一路や母さんとは違う種類の、金色の毛の狼が走っている。

 違う、あれは俺じゃない。勘違いしているんだ。


『またわたくしと共に――』


 視界にレーザーのような光が差し込んできて、よく見えなくなってしまった。

 音もそう。ノイズが混じって、声が聞きとれない。

 

 一路はけだものなんかじゃない。母さんも。俺の大切な家族だ。

 大切なものって? 俺にとって大切なのは、いつきと歩いていける未来だけだ。

 ほかの誰もいらない。わけのわからない力なんて必要ないのに。


 強い光が消えて、視界がもとにもどっていく。


 森の深い緑色の中を、川とは呼べそうにないささやかな流れが走っていく。

 木の根を飛び越える森の獣たちと、それを上から見ている鳥たちの群れ。

 俺は目を閉じたままその景色を見ている。

 

「玲二、大丈夫?」

「だいじょうぶ」


 うつろなまま返事をしてしまった。そうわかっているのに、意識が動かない。

 隣にはふわふわの毛並みのなにかがいて、ぴったりと寄り添っている。

 暖かいけど違う。かつてはあった愛情が今はもうなくて、気持ちは違うところに向いている。

 彼女が胸の下に抱いているのは、ずいぶん昔に追い払った、横暴な……。


「玲二」


 額に手が乗せられている。

 大きな手だ。


「起きないかな」


 起きてるよ。体が動かないだけで。


「このまま連れて帰ろう。一路、支えてくれるか?」

「うん」

「先に挨拶を済ませてくるから、荷物をまとめておいてくれ」


 父さんの声だ。いつ来たんだろう。連れて帰るって、俺を?

 どうして? まだなにもわかってないのに。もう少しでなにかわかりそうなのに。


 ごそごそと動く気配がする。鼻をすするような音も。

 

『目覚めの時です……』


 右手は開けない。開けたら零れ落ちてしまう。まだだめだ。そんなの、大切な兄弟の絆を手放すなんてできない。

 頑なに握っていたからか、それは左手の中に入ってきた。あるようなないような、軽いような、眩いような。でもきれいだ。体の中に黄金の光が満ちて、悪夢は払われていく。


 ほっとして目を開けると、車の中だった。

 斜め前には父さんの後ろ姿が見えて、俺は誰かに寄りかかっている。


「気がついた?」


 当然、その誰かは双子の兄で、俺が起きたことに安心したようだった。


「どこ?」

「どこかはわからないけど、帰り道」


 倒れ掛かっているせいで外の景色が見えない。窓の中は曇った空ばかりが続いていて、面白くもなんともない。


「大丈夫か、玲二」

「うん……」


 返事をした後に、体が動かないことに気が付いた。

 手足に力が入らないし、頭がぼーっとしている。熱いし、寒い。頭に靄がかかっているみたいで、スッキリしていない。


「寝てていい。熱が出てるみたいだから」

「熱?」

「前に倒れた時よりはマシ」


 ああ、ブランコでたそがれて雨に打たれた時か。

 あんな間抜けな真似、どうしてしちゃったんだろう。

 思い出すだけで恥ずかしい。


「熱中症なんじゃないか、玲二」


 そんなのになるのかな、人間じゃないっていうのに。

 いや、俺は身体的にはただの人間なのかも?

 

 だったら遺伝子もただの人間のものでいいじゃないか。


「水飲む?」


 一路がこんなに優しくしてくれるってことは、相当弱って見えるんだろう。

 あんなに怒ってたのに。あの場所は俺たちにそれぞれ、トラウマを植え付けているのかもしれない。


 なにもなかったわけじゃない。

 あの謎の声の主の正体を、俺は見たのに、理解できていない。

 あの声に導いてもらえば、自分の正体がわかりそうだけど。

 だけど俺は、たぶん、あの声の主を敬遠している。

 これ以上踏み込んだらいけない存在だってどこかで気が付いて、必死になって抵抗したように思う。


 この記憶、はっきりするんだろうか。

 一路に話していいのかな。

 なんにもわからない。

 全部知っている味方が誰かそばにいてくれればいいのに。


「眠ってていいよ、玲二」

「真っ暗は嫌だ」

「真っ暗になんてならない。今は昼だし、家にいれば大丈夫」


 そうだ。平気なのに。

 どうしてこんなに不安なんだろう?



 うとうとして、時々目覚めて、水だけ飲んで、また眠って。

 何回目かのまどろみから覚めると、目の前にいつきがいた。


「玲二くん、良かった。お見舞いに来たの」


 ずっと眠ってるって聞いたから。いつきはそう言って、俺の額を優しくなでた。


「ずっと?」

「明後日から学校だよ」


 頭がまわらないな。あと一週間あるからってあの家へ行って、次の日へばっちゃって、次の日に父さんが迎えに来てくれて……。


「三日くらい?」


 冷たいタオルが顔を撫でていく。いつきは優しく微笑んでいて、すごくきれいで、たまらなく愛おしいと思った。


「いつきに会いたかった」


 二人の未来について話さなきゃならないんだから、寝てるヒマなんてない。


「大丈夫なの?」

「うん」


 起きなきゃ。起きて着替えて、考えなきゃいけない。

 俺の正体を話して、これから歩む道を何通りかシミュレートして説明しなきゃならないんだから。


「きゃあ」


 だけどやっぱり何日も寝込んでいると体がついていかないみたいだ。

 バランスを崩して、しかもいつきを巻き込んで床に倒れこんでしまった。


「ごめん」

「玲二、なにしてる」


 幻だった。

 俺は床にべたっと倒れていてひとりきり。

 一路が手を貸してくれて、ようやくふらふらと立ち上がった。


「いつきが来てた?」

「ううん。こんなに寝込んでるなんて心配かけるから、話してない」


 それは、そうだ。確かに。こんなことばっかりだもんな、俺は。


「会いたいなら元気にならないとダメ。歩ける?」

「うん、行ける」

「三日も寝てたよ」


 夢かと思ったら、それは本当だったんだな。

 一路に手伝ってもらって階段を下りて、ひさしぶりに家のリビングに入った。


 そこでようやく、どうしてこんなに弱ってしまったのか、推測に過ぎないけど、理由がわかった気がした。

 

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