改心 / 一路
人間の世界に続く森の入り口は、大きな谷に引き裂かれている。
いつだって濃い霧が立ち上っていて、知らずにやってきた人間はひゅーんと落ちてしまうようになっている。この仕掛けを作ってくれたのは近所に住んでいる魔女たちで、僕らとは協力関係にあると言っていいだろう。
それでも時々、この罠にかからないやつがいるんだ。
谷があって、その向こうになにかあるらしいってかぎつけてくる連中が。
そういう奴らが来た時にすぐ対処できるよう、入り口のそばにはいくつか見張り台が設けられていた。
鳥たちがいるから、あんまり使わないんだけど。だから、基本的に誰も来ないから、僕は見張り台の上でごろごろしていた。
今日が八月何日なのか全然わからない。
帰ってきてから何日経ったのかよくわからない。
例の季節についてはなんとか解消できたから、イライラもずいぶん減ったと思うけど。
だけど、日本に戻るのは気が進まない。
イライラが減った分冷静になって、玲二が僕を許すはずがないって前よりも強く思っているから。
『一路、どこにいるの?』
ごろごろしていた僕に、突然お母さんの声が届いた。
なんだ? すごく近い感じがする。
『入り口のそばの、緑の見張り台の上だけど』
『すぐそこね。お父さんが来たから、運んでちょうだい』
え、お父さんが?
慌てて台から飛び降りて走ると、谷の向こう側に人影が見えた。
本当だ。お母さん。いつ来たんだ?
谷を渡る見えない道を走り抜けて、二人のもとへ急ぐ。と、思ったのに。もう一人後ろに隠れていた。
「一路、迎えに来たよ」
うわ、なんだよもう。お母さんはどうして玲二も一緒だって言わなかった?
「そんなのいらない」
「とにかく向こう岸に移動しましょう」
お母さんは玲二を背中に乗せて、びゅーんと走り抜けていってしまった。
くそ、そういうことか。
僕ににこにこ笑顔を向けているお父さんを置いていくわけにはいかない。
「もう、なんだよもう。早く乗って」
「一路に乗せてもらうのは初めてだな」
いつも通りのお父さんだ。まったくもう、お父さんはなんだって嬉しそうなんだよな。
狼に姿を変えて、背中に乗せて。お母さんが走り抜けていった道を、僕も続いた。
異質なものが入ってきたのはすぐに察知されて、木の陰には大勢の気配がする。
すぐに僕の家族だってみんなわかったみたいだけど、近づいてこない。お父さんがたまに来た時には、いらっしゃいって言ってくれる人もいたのに。今日は誰もいない。
玲二のせいだと、僕は思った。
玲二の中に潜んでいる気配の正体がわからなくて、みんな戸惑っているんだと。
僕だって、今のこの玲二に全然慣れていないんだ。
余裕たっぷりで、いるんだかいないんだかよくわからなくて、逆らえない感じもして、なのに「すごく強い」ってわかる。得体が知れない。
「ここ、見覚えがある」
当の本人はどこ吹く風で、きょろきょろ辺りを見回しながら歩いている。
「ずいぶん昔に一度だけ来たことがあったわ」
「夢で見たんだ。一路と一緒に走った気がする」
玲二は僕に向かってにっこり笑ってきて、慌てて顔を背けた。
あの時の記憶、いまだに苦いまんまだ。僕のせいでけがをしちゃって、記憶があいまいになってしまって、本当に悲しかった。あの時僕が無茶をしなければ、玲二は大切な兄弟のことをしっかり覚えていて、今みたいにならなかったかもしれない。そう思うと苦しくて、ムカムカしてしまう。
「一路」
我慢できなくなって、先に走って家に戻った。
ああ、でも家じゃダメだよな。来ちゃうんだから。
道から外れて森の中に紛れて、適当なうろの中に入って丸くなった。
なんだか、胸がドキドキしている。
玲二が来るなんて思ってもみなかった。絶対来ないって言ってたのに、どうして気持ちを変えたんだろう。
もしかして、龍にいじめられたのかな。それで僕に助けてほしくなったのかな。
誰かが玲二に「仕掛けた」ってカラスも言っていたし。どんな方法かわからないけど、玲二だって無敵じゃあない。ポカンと殴られたらすぐに倒れてしまうだろう。
そういう乱暴なやり方をするむちゃくちゃな奴がいるかもしれないもんな。
だったら、許してやらなくもない。ありがとう一路、やっぱり頼りになるなって言ってくれたら、いつでも迎え入れてあげられるようにする。
木のうろの中で笑っていると、急に影がさして暗くなった。
「一路」
うわ、玲二。誰だ、ここを教えたのは。
それに、来るのが早すぎるんじゃないのかな。ちゃんと挨拶は済ませたのか?
「ハールがここにいるって教えてくれたんだ。不便だな、やっぱり、通じ合えないでいるのって」
ようやくわかったのか。遅いよ、まったく。
「本当はちゃんと挨拶したかったけど、みんなよそよそしくって近寄ってもくれないんだ。俺、本当に不気味に見えるんだな」
玲二は笑っているけど、たまらなく寂しそうだった。
それは僕が一番見たくない顔で。それでつい、許さないぞって決めていたのに、伸びてきた手に黙って撫でられてしまった。
「一路、ごめんな。俺のこと一番に考えてくれているのに、ちゃんと考えなくて。そこまでとは思ってなかったんだ。本当にごめん」
心がぐらっと揺れてしまっている。たったこれだけなのに。
僕たちは双子で見た目はそっくりだけど、決定的に違うところがある。
声。玲二の方が少し低くて、心地よく響く。
『玲二、誰かにいじめられたりした?』
「そうだな。いろいろあった」
『僕の助けが必要だった?』
「うん」
ああ、くそう、なんだ。玲二め、撫でると一番気持ちいいところをいつの間に覚えたんだ。もう、簡単には許さないつもりなのに!
「一路がくれた狼のかけら、まだ俺の中にあったよ。隠れて見えなくなってるだけだったみたいだ」
『ふうん……』
「今から返すよ」
『どうして?』
「俺には使いこなせないから。このかけら程度じゃ、変身はできないんだ」
玲二はもしかして、決定的に僕から離れる決意をした?
返すなんて。どうしてそんなことを言うんだろう。
「一路、俺の血の中には間違いなく同じものが流れている。だから、力のかけらがなくても兄弟だし、同じ日に生まれた運命を背負っているのも変わりはない」
『だからいらないっていうの?』
「俺の中には大きな別の力があって、一路からもらったものを生かせない。だったら返して、完全に一路のものにした方がいいと思ったんだ」
『僕の力はいらない?』
「俺たちは兄弟で顔はそっくりだけど、中身は違うだろ。力だって違っていていいんだ。お揃いの双子もいるだろうけど、それぞれが違うものをもって、お互いに苦手な部分を埋めあえればいいんじゃないかなって、俺はそう思ったんだ」
一路が強い狼でいてくれれば、自分は安心して別なものになれる。
玲二の目はやっぱり穏やかで、賢そうで、頼もしかった。
時々現れていた傲慢な雰囲気はどこにいったのやら、影も形もない。
自信に満ちているけど、別人が出てきている気配はなくて、玲二そのものに見える。
つまり、玲二は本当に僕とは違う力をはっきりと目覚めさせて、自分のものにしてしまったんだろう。
玲二の言いたいことはわかる。
僕が無理にちぎったかけら程度じゃ、確かに狼として生きてなんかいけないと思うし。
目覚めたところでたいしたパワーもない、半端者になるだけだろう。
新しく宿った力を使えるようになればいいって僕が言ったはずなのに。
だけど、僕は、その先に狼としての目覚めがあるんじゃないかって期待していたんだ。
ずっと眠りこけていたこの森の住人としての姿がようやく起きだして、僕の隣を一緒に駆けて、じゃれあって、泉の水を飲んで、満天の星の下で体を寄せ合って眠る日が来るんじゃないかと思っていたからであって。
玲二はちっとも姿を変えない。
ただの人間の姿のままだ。許せないし、とても悲しい。
『好きにしたらいい』
僕を見捨てたわけじゃないのは、わかったけど。
『終わったら帰って。おじいさんに挨拶でもして来れば?』
「道がわからないから、案内してくれよ」
絶対いやだ。
玲二は僕をまた優しく撫でてきて、あやうくふにゃふにゃになりかけたけど、鋼の意思で全部撥ねつけて無視してやった。
どうせどこかでハールが見ているから大丈夫だろう。
やがて玲二はあきらめたのか去って行って、しばらくするとハールがバッサと地面に降りてきて僕を叱った。
『いつまで拗ねているんだ、一路』
『拗ねてなんかない。玲二が悪いんだ。狼にはならないなんて考えるから』
『狼になれないのは玲二のせいじゃない』
ハールは大きなくちばしで僕の手をつついて、寂しそうだったぞなんて言っている。
寂しいもんか。いつきの方が大事なんだろ、玲二は。
早く日本に帰っていつきと抱き合えばいいんだ。
僕がいなくなって寂しいよって言ったら、いつきはきっと玲二を抱きしめて、優しくしてくれるだろう。
それでうっかり子供ができてしまえば、二人そろって森に招いてあげるんだけどな。
へんてこな玲二の力は、子供にどんな風に遺伝するんだろう。
だけどきっとかわいい子供が生まれるに違いない。いつきは可愛い。キラキラした大きな目の女の子が生まれたら、僕だってかわいがってあげてもいいんだ。
あっちへうろうろ、こっちでごろごろ。
いろんな狼が呼びかけてきたけど、無視してしばらくさまよい歩いた。
テレーゼが帰っているぞとか、つがいの人間が来ているぞとか。
みんなはお父さんをずっと避けていたのに、時々やってきてはニコニコして誰にでも話しかけて、どんなに脅してもちっとも怖がらないもんだから、とうとう仲間に入れてやろうかって態度になってしまった。
わかるんだよな。お父さんが馴染んでしまうのは。
敵意、偏見、危険。そういった要素がまったくなくて、妙になつっこいから。
お父さん、何者なのかな。もしかしたらただの人間じゃないのかも?
おじいさんたちも一時期怪しんで調べていたけど、結局なにも出なかったと話していた。だけどそれは、玲二みたいに目をくらませる力があって、上手に隠されているだけなのかもしれなくないか。
「一路、探したよ」
わあ、玲二! また来たのか!
『僕は玲二に用はない』
「俺にはあるよ」
見つからない位置に隠れたつもりだったのに。
またか、ハール。また教えたのか。僕の親友だろ、なんで教えるんだよ。
「母さんはあきらめ気味だけど、父さんは一路に会いたいんだって。せめて少しだけでも顔を見せてよ」
『じゃあ玲二が帰ったら行く』
「そう言うなよ」
くそう。またいいところを撫でられている。
そこはどうにも抵抗し難い。しょうがないから、撫でられてあげるけど。このくらいで僕が素直に言うことを聞くと思うなよ、玲二。
「もうすぐ花火大会があるんだ。一路も一緒に行きたいと思って」
『知らない』
「去年の花火大会の日、俺を見てた?」
見て……ない。見てない。
花火ってなんだろうなって思って絶対見てみようと決めていたのに。
あの日はおじいさんと喧嘩しちゃったんだ。
お父さんとお母さんも来ていて、玲二をなんとか出来ないか話をしていた。
「一路、どうした?」
体がぶるぶるっと震える。玲二は心配そうに僕の顔を覗き込む。
今日も木のうろの中でごろごろしていたんだけど。
玲二の手が伸びてきて、頬や頭にも優しく触れていく。
あの日とうとう、おじいさんは玲二なんかもういらないって言ったんだ。
なんとかできないか一生懸命考えて、僕になにか見えないか期待してくれていた二人に、おじいさんは本当に冷たく言い放った。
一路がいるならそれでいいじゃないかって。
お父さんはさすがに笑いをひっこめた。
お母さんは少し怒った顔をした。
この森じゃおじいさんのいうことは絶対だ。
一番強くてえらいリーダーだから。
狼は仲間を大事にする生き物だけど、玲二は違うからこれ以上時間も手間もかける必要なんかないってはっきり言った。
命はすべてが完全じゃない。
弱い者は淘汰されて消えていく。
それは当たり前の出来事で、悲しいけど、仕方ない。
おじいさんの言葉は全部正しい。僕はそれを知っていたけど、許せなかった。
『あの日は……』
悲しい言葉をこぼしかけて止めた僕を、玲二は黙ったまま撫で続ける。
「俺、あの日すごく変だったんだ。体がカッカしちゃっていつもと違っていた。考えてみたら、新学期に入ってすぐのころ、やたらと強気だった時の感じとすごく近い気がする」
『あんな風だったの?』
「そう。いつきにベタベタしちゃって。のぼせあがった挙句、いきなり倒れちゃったんだよな」
僕と一緒じゃないか。
おじいさんの言葉に怒ってカッカしちゃって、お母さんたちになだめられてしばらくイライラしていたけど、最後はもう、構うもんかって突撃して、返り討ちにあってのびちゃった。
ん? 一緒じゃあないのかな。だけど、カッカして、バタンと倒れたのは一緒だ。
僕の影響を受けていたとか。もしかして、玲二、そうなのか?
「花火はもしかしたら興味ないかもしれないけど、ああいうイベントじゃないと食べられないものがたくさんあってさ。りんご飴とか、一路はきっと好きだろうなって思ったんだ」
『りんごの飴なら、たまにもらうよ』
「違うよ。りんごまるまる一個に棒がささってて、それに飴がかけてあるんだ」
なんだそれは。全然わからない。
首をかしげる僕にふっと笑って、玲二は落ちていた棒を手に取ると、地面をがりがりと削って絵を描いてくれた。
『飴ってどうやってかけるの?』
「熱くすると溶けるんだ。冷えると固まるから、りんごが飴でコーティングされる」
『おいしい?』
「食べたことない。去年はなんにもしないうちに倒れて、ずっと救護所にいたから」
僕もそうだった。いつの間にか部屋に寝かされていた。
「だけど、一路はきっと好きだと思うよ」
じゃあ、たぶん、そうなんだろう。玲二はたまに僕においしいものを買ってくれたけど、その全部がお気に入りだった。
玲二は自分じゃ全然甘いものは食べないのに、どうして僕の好きなものがわかるのかな。
「一路、俺、時々夢に見るようになったんだ。死んだ時の光景とか、俺を捕まえた奴らの夢」
一人でもなんとかできるけど。
玲二ははあっと大きく息を吐いて、僕の前足をぎゅっと握る。
「平気だけど、やっぱり怖くて。一路が一緒にいないのがこんなに不安だなんて思わなかった」
『僕がいた方がいいの?』
玲二の黒い髪が、ふわりと揺れた。
「一路がいつでも駆けつけてくれると信じているから、なんとかもってるんだと思う」
これ以上離れていったら、玲二はどうなるんだろう。
すごく強くなったのに。悪夢なんかに負けるようには見えないのに。
僕はまだ知らない。死んだことなんてないから。
玲二が陥ったあの深い闇は、ただの死じゃない。ひょっとしたら、この後大切な人たちが傷つけられるかもしれない不安と、たくさんのやり残したことと、夢が破れて砕け散っていく光景を見た、絶望の中の死だ。
忘れたままでいられたらどれだけよかっただろう。
玲二は全部思い出して、それでも弱音を吐かずに、なんとか一人で立ち続けている。
震えながらでも、立っている。
「一路、戻ってきてほしい。俺はすごく無力だ。一人だと心細くて辛い。人間になりたいし、いつきと一緒になりたいと思ってそっちばっかり優先しているくせに一路に頼るなんて欲張りだよな。だけど、頼りたい。頼れるのは一路だけなんだ」
ずっと見ないようにしていた玲二の目を、思わず覗き込んでしまった。
怯えたような、悲しんでいるような。
心はあいかわらず見えない。
だけど、わかる。
玲二は本心を全部、僕にわかるように言葉にしてくれたんだって。
『お父さん、僕を待ってるの?』
「うん」
僕が穴から出ると、玲二も慌てて立ち上がった。
その顔は、僕が言うのもなんだけど、妙に子供っぽくて、お母さんに会った時みたいに安心したものに見えて。
仕方ないな。
人間になりたいっていうのは認めないけど、とりあえず一緒に戻ってやろう。




