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狼少年の憂鬱  作者: 澤群キョウ
熱帯夜
63/85

夕日の涙 / いつき

「わ、本当に全部できてる。感心感心!」


 八月の上旬、夕方、そろそろ空に橙色が差し込みはじめる頃。

 バイトを終えたところに友香がやって来て、私の夏の課題を確認してニコニコしている。


「ちょっとだけ貸して。すぐに返すから」

「もう、友香、写すつもり?」

「ううん、違う違う。わからないところだけ、ヒントにさせてもらおうかなーって思って」


 どうせ島谷君と一緒にコピーするつもりなんだろうけど。

 絶対にダメ! なんていうほどの根性と生真面目さが私にはない。


「部活が忙しすぎるんだよ。バイトもできないし、貴重な空き時間が全部課題っていうのはちょっとね。わかるでしょ、いつきなら。玲二君に会えない夏休みなんて嫌でしょ?」


 それはまあ、わかるけどね。わかるけど。


「丸写しはどうかと思うよ。間違ってるところがあるかもしれないし」

「またまた。玲二先生と一緒にやったんでしょ? 間違ってるわけないじゃん」


 そうか。それも見越してのお願いだったんだ。

 確かに、玲二くんが見てくれたから大丈夫だと私も思うけど。

 ちゃんと授業を聞いてるんだよね、玲二くんは。こっそりスマホをいじったりなんて絶対にしないだろう。


「デートするために早めに終わらせたんでしょ。やーね、いつき」


 自分だって同じようなことを考えてるくせに。なにが「やーね」なんだか。


「またプール行くの?」

「プールの予定はないかな」

「ふふ。また言われたらいいじゃん。いつきの水着姿、ほかの男には見せたくないんだ!」

「やめてよ、もう」


 本当は言われたくて悩んだんだけど。

 でも、見せたくないなら、最初から行かないかなーって思ったりして、提案できていない。


「それとも、水着以上をもう見せた?」


 友香はニヤニヤしながら私の頬をツンとつついた。

 たぶん、ちょっとからかおうと思っただけなんだろうけど。

 私は心を見透かされてしまったんじゃないかって、ドキっとしちゃって、目をまんまるにしたまま固まってしまった。


「え、……あれ、そうなの、いつき」

「ううん、違う、違うよ」

「えー、そんな反応しておいて。いいじゃん照れなくて。だよね、最近めちゃめちゃ距離が縮まってたもんね」


 玲二君も大人っぽくなったとか、最近べたべたしすぎて一つになりそうだったとか。

 友香の攻撃は止まらず、困って、悩んで、結局私は心の中にこびりついていたわだかまりについて、一足先に大人の階段を上った先輩に相談を持ち掛けることにした。


「えー、そこまでいって、しなかったの?」

「うん」

「え、本当に? 大丈夫なの、玲二君性欲ちゃんとあるの?」


 わからない。あるとは思うけど。

 あの時玲二くんは「見てわかったかも」と言ってて、それはたぶん、なんらかの肉体的な変化があったことを意味しているんだろうと思ったけど、だけどちょっと、じろじろ見るのはマナー違反だったかなと考えてしまって、なんとか見ないように顔の向こうの壁とかに視線を向けていたんだけども。見て確認した方がよかったのかな。いや、ダメだよ。そんなの。デリカシーのカケラもない。でも見たら展開が違ってたかな? 大体こっちから迫ったのに、恥ずかしがるなんておかしいよね。


「んー、でも、大事にしたいからってことなら、それでいいんじゃない?」


 嫌だって言われたわけじゃないんでしょ、だって。

 確かにその通りなんだけど。


「にしてもやるね、いつき。ずいぶん思い切ったね」

「あの時はなんだか、頭が変だったと思う」


 どう思ってるのかな、本当は。玲二くんはまじめで、すごく誠実で、いきなりあんな真似をした私を、こう、いやらしい子だって思ったりしてないかな。


「そんなわけないじゃん。絶対嬉しかったって」

「そうかな」

「今度玲二君の爪のアカ持ってきてよ。飲ませるから」

「島谷君に?」

「そうだよ。もう、会ったら即だもん。すぐおっぱい揉んでくるから」


 なんて生々しい。

 顔がカッカと熱くなって、友香から見てもわかったんだろうな。ごめんね、って手を合わせてウインクされてしまった。


「まだ責任とれないから我慢するって、なかなかいないよ。いい男捕まえたね、いつき」

「そう考えていいのかな」

「お兄さんたちに聞いてみたら?」

「やだ、そんなの絶対聞きたくない」


 お兄ちゃん、彼女が下着姿で迫ってきたら我慢できる?

 なんと答えられても嫌だし、「そんな真似したのか」って逆に問い詰められそう。


 頭ではわかってる。玲二くんの答えがいかに理想的かっていうのは理解できている。

 だけど、心の片隅に卑屈な考えがあって、それがチクチクしているんだと思う。

 あんまり魅力的じゃなかったのかな、とか。大きさが足りないのかな、とか。下着が子供っぽく見えたかなとか。


「あのさ、友香もそんな風に言われたいと思う?」

「なに?」

「大事にしたいから、しないって。それともそのまま、その、したいと思う?」

「え、うわ。そんな質問されると思わなかった」


 今度は友香が顔を真っ赤にして、しどろもどろになってしまった。

 

「うんとね、そうだなあ。でも全然違うからな、彼氏のタイプが。だってすごくしたがるんだよね。付き合ってるなら当然だよねくらいのスタンスでさ」


 聞いたらいけなかったかな、こんなプライベートな質問は。

 すっかり後悔していた私に、だけど、友香はかなり真剣に答えてくれた。


「拒否したらいけないかなって思っちゃうんだよね。こっちから告白して、付き合うようになって、仲良くなってね。そんなにしょっちゅうじゃないけど、してるから。今更イヤだって言ったら離れて行っちゃうかなって不安なの。確かに気持ちいいけど、もしかして妊娠しちゃったらどうしようっていうのはやっぱり考えるし、気分が乗らなかったり、痛い時もあるし。今日はちょっとって言って明らかにガッカリされたこともあって。だから正直に言えなくて、我慢してる時もあるんだ」


 こんなセリフを言わせてしまってよかったのか、悪かったのか。


「友香」

「あはは、ごめん。なに言ってんのかな? だけどさ、玲二君のセリフって、本当にいつきが好きだから出てきたんでしょ」

 

 悩む私に、友香はにっこり笑ってくれた。


「いいからもう添い遂げちゃいな。それでいいじゃん」

「うん……」 

「じゃ、課題はお借りしますね」


 夕ご飯を食べていくか聞いたら、もう帰るからと友香は荷物をまとめ始めた。


「さすがにちょっと恥ずかしいかな」

「ごめん」

「いいよ。私も誰かに話したかったんだと思う」


 初めての彼氏で、勝手がわからないよね。


 友香は笑いながら、お互い頑張ろうという言葉を残して帰っていった。



 男と女って難しい。

 充兄ちゃんは彼女がいるって言ってたけど、どうなんだろうな。どこまで進んでいるんだろう。

 うむむ。こんな下世話なことばっかり考えるのは良くないか。

 どんなカップルもみんなそれぞれだよね。

 私が向かい合わなきゃいけないのは、玲二くんだ。

 二人でどうするかちゃんと話し合って決めて、それでよしとしなきゃいけない。


 一生一緒にいてって言われたし。

 ずっと隣を歩いて行くよって言ってくれたし。

 ん? それじゃあ、あとは日取りを決めるだけなのかな。


「なにニタニタしてんだ気持ち悪い」

「ニタニタなんてしてないもん」

「してたじゃねーか」


 草兄ちゃん、よく見てるんだよね、私のこと。

 最近それがよくわかって、ありがたいなって思ったんだけど。ニタニタって表現はどうなのよ。



 私が結婚しますって言ったら、お父さんもお母さんはどんな反応するかな。

 あの好青年ならいいよってすぐに許してくれるかな?

 結婚式の日取りを決めて、準備して、新居に一緒に引っ越して。

 そうしたら、玲二くんと私の暮らしが始まるんだ。


 玲二くん、家事全般ちゃんとできそうだし、安心だよね。

 お金の管理とかもしっかりできそう。

 浮気の心配もいらないよね。これで騙されているんだとしたら、世の中のすべての人を信用できなくなりそう。


「なんだよもう、妄想なら部屋に帰ってからしろよ」

「え、あ、ごめん」

「ふふ、いつき、なんだか楽しそうね」


 いいことあったの、ってお母さんまで聞いてくる。

 

 私は、玲二くんに大切にされているのかな。

 私は玲二くんを信じているんだから、そう思っていいんだよね。


 どうしてこんなに好きになったんだろう。

 時々見かけて、素敵だなあって思ってて。

 話すようになったら、イメージ通りのまじめな人だなって確信して。


 だけど、新学期が始まったばっかりの頃、ちょっと荒れてた理由はなんだったんだろう?

 それと、秘密について。まだ聞いてない。

 そういえば、髪と目が黒くなっちゃったんだった。

 一路くんを知らないまま暮らしてきたって話も気になる。



 ベッドにばふんと倒れこんで、小さく唸った。

 いろいろ、わけがわからないこともあるんでした。

 それでもいいと思ってはいるんだけど。


 玲二くんの隣にいると、なんにも考えられなくなる。

 好きで好きで、ずっとこのままいられたらいいのになって、それだけになってしまう。


 本当はもっといろいろ、建設的に考えなきゃダメだよね。

 玲二くんは立派だ。全然流されないし、将来についても考えていて。

 私ももっとまじめに考えよう。挙式のプランとかはそのあとにしなきゃ。

 あと、いきなり迫るのもちょっと控えようかな。


 ああ、でも、初めてはいつにする? とか相談するの恥ずかしい!

 どこかに平均的なデータとかないのかな。参考にしたいのに。

 やだ、もう、ばか、わたし、さっきまでの考えが一気に飛んでる!


 全然まじめに考えてない。

 反省、反省。

 明日もアルバイトだし、早く寝なくっちゃ。



 心を玲二くんでいっぱいにしてから見る夢は、キラキラしていてとにかく甘い。

 白くて長い指で触れられて、ずっとふわふわとして幸せなまんま。

 体中にキスされて、微笑みながらずっと見つめあって。


 

 目が覚めてからぼやーっとしていた。

 あんな風にできるようになる日は、いつになるのかなって。

 

 高校を卒業したあとくらいなら大丈夫かな。一応、法律的には結婚できるようになるんだもんね。




 この夏休みの派遣先は、ゴールデンウィーク同様水族館の物販エリア。

 家族連れもカップルもたくさんやってくるから、忙しいんだよね。写真撮影を頼まれることも結構ある。

 だけど涼しいし、動物園よりはいい。私のいる売店のそばに休憩するスペースはないから、誰かが座りこんでじっと見つめてくる心配もない。


 これまでの経緯から、毎回お兄ちゃんのどちらかが同じ日に一緒に働いて、通勤も同行することになっていた。

 こんなに至れり尽くせりでいいのかなと思う。たかだかアルバイトなのに。

 でも、家にずっといるのもなんだし。毎日毎日玲二くんと一緒っていうのも無理だろうし。

 そっか。玲二くんと一緒に働けばよかったのか。聞いてみればよかったな。

 だけど一緒だとモヤモヤしちゃいそう。ぼーっとするだろうし、女の子が声かけてきたら妬いちゃうかも。

 

「いつき、そろそろつくけど」

「あ、うん」


 今日は充兄ちゃんと一緒のシフトだった。大学生活も最後の年なのに、妹と一緒に親戚のやってる店みたいなところでアルバイトしてていいのかな。


「彼氏のこと考えてただろう」

「なんで?」

「ものすごく油断した顔してたぞ」


 油断した顔か。

 確かに、幸せそのものだもんね、玲二くん関係の妄想をしている間って。

 お兄ちゃんも考えるのかな、彼女との未来について。


「お兄ちゃん、結婚の予定とかってあるの?」

「えっ?」


 うわ、びっくりしてる。ミラー越しにだけど、かなり驚いた顔をしているのが見えた。


「やめろよいきなり、変な質問しないでくれ」


 運転中はダメ、だって。運転中じゃなかったらいいの? 同じように驚くと思うけど。


「ごめん」

「まあいいよ。そんな予定は全然ないし」

「彼女がいるって言ってたよね」

「いるけど、まだ学生だからな。社会人にもなってないのに、そんな計画立てられないよ」


 リアルな返事に、ちょっとだけ心がしぼんだ気がした。

 当たり前なんだけど。卒業即結婚がどれだけ現実味のない話か、そこまで深く考えなくたってわかる。


 お土産コーナーで働いている吉川さんは秋に結婚するらしく、お客が途切れるたびに式の準備が大変だと話している。

 ゴールデンウィークにも結婚の話は聞いていて、その時はとにかく幸せそうに浮かれているばっかりだったのに。夏になったら、招待客の人数がどうの、ドレスのグレードがどうの、相手のお母さんが口を出してきただの、ため息交じりになってしまっている。


 うう、リアルだなあ。

 そうだよね。玲二くんさえいればいいなんて言ってられない。

 個人の問題じゃないんだもん。

 そういえば、玲二くんのお母さんにはまだちゃんと会ってないんだった。

 チラっと見たことはあったはずなんだけど。薄茶色の髪の、背の高い人だった。中学の時に見かけて、かっこいいお母さんがいるなあって思ったはず。


 どうして会ってないのかな。玲二くんの家には何回も行ってるのに。

 出てくるのはお父さんか、謎のおじさんばっかりなんだよね。

 そういえばあのおじさんはもう帰ったのかな。

 学校に来てた理由もそういえばわからないままだ。



「いつきちゃん、おさかなクッキーの補充お願い」

「はあい」


 考えてばっかりいないで、体を動かさないとね。

 今日もおさかなクッキーが一番人気。

 段ボールを運んでいくと、ボールペンもよく売れているらしく、棚がスカスカしていた。


「南部君、ボールペンもってこられる?」


 私と同じ短期バイトの男の子に声をかけると、どこにありますかって頼りない返事がかえってきた。


「カウンターの裏にあるよ。誰かいると思うから、聞いてみて」


 私はたまにしかここに来ないけど、昔っから通っているし、お兄ちゃんのおともについてきていた頃もあるから、職員の人にはすっかり顔が知られている。

 だけど短期の人はそんなの知らないから、なんだこの子ってなっちゃうんだよね。


 同じ季節労働者の割に偉そうだって思われてないかな。そんな心配をしつつ、おさかなクッキーを並べていく。



 夕方になると家族連れは一気にいなくなって、カップルばかりが水族館にやってくる。

 すぐそばの海岸で泳いだ後とか、ドライブで海に来たついでとか。

 ナイトアクアリウムの企画がウケて、大人もたくさん来るようになった。

 

 とはいえ、夜はあんまりおみやげが売れない。おみやげコーナーは一か所だけ開けておいて、あとは閉めることになっている。

 明日のために補充をして、段ボールを畳んだら、私の仕事はおしまいだった。

 

 畳んだ段ボールを台車に乗せて、水族館裏の倉庫へ運ぶ。

 地味な仕事なんだけど、実は裏手の倉庫の前からはきれいな水平線が見える。余計なものがなんにもないから、大きな海にお日様が吸い込まれていく様子がよく見えるんだよね。

 

 遠くからズンズンと音が聞こえていた。

 海の家とか、車のステレオとか、どこかしらから音楽が漏れ出している音。夏になるとどうしても人が増えるから、このズンズン音も必ずと言っていいほど聞こえてくる。

 今日も絶好調で重低音が聞こえてきて、ちょっとガッカリ。

 これさえなければ、シンプルに絶景だなって満足できるんだけど。


 倉庫には先に南部君が来ているはずで、あとは段ボールを置き場に移すだけ。

 いい景色を見たし、さっさと終わらせて帰ろうと思ったのに。

 なぜか倉庫の扉は開かない。


「お、本当だ。かわいい!」


 突然聞き覚えのない声がして、びっくりしてしまった。

 倉庫の影から現れたのは、全然知らない男の子。

 同じくらいの年代に見える。全部で三人。みんなTシャツにハーフパンツで、髪は金色か茶色に染めている。


「南部君の紹介で来ました。田沢です」


 誰なの。

 ほかの二人も名乗ったけど、頭に入ってこない。

 

「もう仕事終わりでしょ。じゃ、行こう」

「誰なんですか?」

「まあまあ、いいでしょ、夏休みだもん」


 手を取られそうになって、慌てて後ろに下がった。


「南部、話通してないの?」


 南部君どこにいるんだろう。倉庫の中?

 一緒に遊びに行ける女の子がいるんすよとか、そんな話をしたのかな?


「まあいいよ。とにかく行こう。そこでバーベキューやってるんだ」

「行きません。兄と一緒に帰るので」

「お兄さんなんていいじゃん。恋しようよ」

「付き合ってる人もいるから」

「じゃあ、俺たちとも付き合っちゃおう!」


 見た目は割と普通なんだけど。

 なんだろうこのイケイケな感じ。

 少し無理しているようにも見えて、なんとか逃げられそうな気もする。

 でも、逃げるとか叫ぶとかじゃなくて、出来れば普通に断りたい。


「南部君からはなにも聞いてないし、もう帰ります。兄が待ってるから、一緒には行きません」



 相原君との闘いで得た技……、は、ないか。

 だけど、あいまいな返事をしたらダメっていうのは草兄ちゃんから教わった。

 毅然とした態度で、はっきりお断り。あの時もしてたとは思うけど。

 相原君ほど話が通じない人はそこまでたくさんいないって信じたい。



 くるりと振り返って、歩き出した。

 走ったら追いかけられちゃうかなと思って。

 しまった、段ボールを乗せた台車を置きっぱなしにしてる。

 ううん、いい。そんなことより、自分の心配しなくっちゃ。


「待ってよ」


 後ろから声がかかって、足音が追い付いてくる。


「ごめん、先輩たちから女の子つれてこいって言われてて。あのね、芸能界に顔が利く人もいるの。興味ない?」

「ないです」

「ねえ、お願い。五分だけでもいいからさ。とにかく来てよ。じゃないと俺たち、殴られちゃうんです!」


 三人は私の前に割って入ってきて、一斉に土下座をされてしまった。

 そんなの知らないもん。そんなに必要なら、どうしてもっと事前に準備しなかったのかって話でしょ。


「行きません」

「待って、待ってお願い」


 この人たちにどうこうされる心配はなさそうだって思ったけど、甘かった。

 手をつかまれたが最後、とにかく離してくれない。


 水族館は大きいから、裏口からでもここまでは結構な距離があるし、人通りもほとんどない。

 大声を出したら、イルカのプールには聞こえるかな? 

 だけど今はショーをやってないし、運よくトレーナーがいれば気が付いてくれるかもしれないけど……。


「人を呼びますよ」

「だめ! だめだよ!」


 これも大失敗だった。怯んで離してくれると思ったのに、まさか口をふさがれてしまうなんて。

 三人がかりで口をふさいで腕をつかむなんて。誘拐だよ。どうしよう。お兄ちゃん、助けて。私がいないけどどうしたのかなって気が付いてよ。


 ああ、荷物運びなんて引き受けるんじゃなかった。

 倉庫行きは時間がかかるから、まだ遅いなんて思うほどじゃない。

 

 叫んでいるのに、声が出ない。暴れているのにびくともしない。

 男の子は力が強い。このままつれていかれちゃうの? 連れていかれてどうなっちゃうの? バーベキューやってる先輩が常識的な人で、お前らなにやってんだって怒ってくれるかな?


 だめだよ。そんな都合のいい展開があるわけないもん。

 ここまで私の考え、全部間違ってた。


 やだ、やだ。玲二くん、助けて。


 口を塞いでいる手を思い切って噛んだら、やっと自由になれたけど。

 勢いあまって転んでしまったし、男の子たちは怒ったのか、いきなり頬を叩かれてしまった。


「おとなしくしろよ!」


 また裏目に出てる!


 私の大好きな夕日はみるみる海の中に落ちて行って、あたりは闇に染まり始めている。

 ずんずん響く重低音がこだまして、心には不安が充満して、もうはじけ飛んでしまいそうで。


 どうしよう。怖い。動けない。

 だれか――。



「あなたたちがおとなしくなさい」



 三人が一気に振り返って、そして、突然倒れた。


 ばたばた倒れていった男の子たちの向こうに、真っ黒い影が立っている。


 聞き覚えのある声だった。


「……百井さん?」


 影がゆっくりと近づいてきて、姿がじわじわと見えてくる。


 いつも自信満々の笑みを浮かべていたのに、今日は口をぎゅっと閉じている。

 人を惹きつけてやまなかった大きな瞳は、長い前髪に隠れていて見えない。


「これをもっていて」


 ゆらりと伸ばした手から、小さな四角いものが落ちてきて、私のひざの上に乗った。


「これって」


 見覚えがある、小さな木の札。

 急に思い出した。ハールおじさんが渡してくれた、謎の木札だ。


「前のものは壊れたようだから」

「百井さんからだったの?」

「悪いことからあなたを守るわ。持っていて。いつまでも太陽のままでいられるように」


 百井さんの口元が苦しげに歪んで、慌てて立ち上がった。


「私の心配をしてはいけない。考えないで」

「でも」

「心配されると困るの。早く行って。そろそろ目を覚ますから」


 それは困るけど、百井さんはなにをしたんだろう?

 どこから現れたのか、なんにもわからない。


「行きなさい!」


 はっとして、慌てて裏口へ向かって走り出した。

 途中で一度振り返ると、百井さんの姿はもうなかった。

 不思議だったけど、もうあんな目にはあいたくない。


 水族館の中へ戻ると充兄ちゃんが待っていて、私は安心のあまりへたりこんでしまった。


「どうした、いつき」


 ほっとしたせいかな。叩かれた頬が急にじんじんと痛くなってきて、涙がぽろぽろ落ちていった。

  

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