ランナウェイ / いつき
「いつき、ちょっと」
朝、二年一組前の廊下で背中を叩かれた。
振り返ると友香がへんてこな笑顔で立っている。
「今日のお昼話があるんだけど?」
どうしよう。振り返ると、玲二くんはやさしげな微笑みを浮かべて、うなずいてくれた。
「行っておいでよ」
「でも」
「たまにはいいじゃないか」
そっか。じゃあ、いいかな。
「友香、授業が終わったら行くね」
ちゃんと返事したのに、変な顔をされてしまった。
もしかして試験の勉強会の話かな。島谷君と二人きりがいいとか、そういう展開だったりして。
二人とも成績はいまいちみたいだし、参加した方がいい点取れそうだけどな。
「違うよ、勉強会の話じゃなくて」
お昼になって友香のところへ行くと、席替えがあったのか窓際の一番後ろという絶好の位置になっていた。
窓から吹き込んでくる微風が心地いい。
だけど、友香の眉間には皺がぎゅぎゅっと寄っている。
「ちゃんとよりを戻せたんなら、そう言ってよね」
「よりって?」
「立花君……、玲二君と仲直りしたんでしょ?」
「仲直りっていうか、別に喧嘩もしてないし」
そういえばそうか。私、ちょっと変だったんだよね。
どうしてあんな風になったのか考えてみたんだけど。
もしかしたらストレスなのかなあって感じで。
「すっごい距離が縮まったように見えるんですけど?」
「それは、うん。縮まったと思う」
「本当なの? 仲良くなったり離れたり、わけわかんないよね、いつきたちって」
そうだよね。他人から見たら、もっとわけがわかんないよね。
つい最近まであった謎の玲二離れはすっかり収まってて、代わりにもう愛でいっぱいになっちゃってる。玲二くんの爆弾宣言があって、よくわからなくなって、だけど家に来てくれて、ふすまを挟んで向かい合って。
あの時、すごかった。
玲二くんが私の心をわしづかみにしたのがはっきりわかったから。
心がぎゅうっと掴まれて、取られちゃったような感じで。
玲二くんは私の心を両手で優しく包み込むようにして、キスしてくれた。
それでもう、だめになってしまった。
玲二くんなしじゃもうだめ。そんな感じなんだけど、人には説明し辛い。
「確かにそうだけど、もう大丈夫なの」
「また離れたりくっついたりするんじゃないの?」
「ううん。今度ははっきりわかる。玲二くんとずっと一緒なの」
友香の返事は「ふうん」で、首を思いっきり斜めに倒している。
「うまく説明できないんだけどね」
「まあいいよ。そこまで断言したってことは、今回は確証があるんでしょ?」
それになんだか急にかっこよくなったよね、だって。
「暗い感じがするとか言ってたくせに」
「そういうのがなくなったように見えたよ、さっき。すごく大人っぽくなったというか」
「やっとわかったんだね、玲二くんの魅力が」
一時期あった荒々しさはかけらも残っていない。
私が感じていた玲二くんの魅力そのものの姿になったと思う。
穏やかで、知的で、優しくて。ついでに頼りになりそうで。
げっそりして細いのもいつの間にか改善されて、繋いだ手の力も強い。
髪もさらさらだし。余裕が漂っていて、見ているだけでときめいてしまう。
「もしかして大人になっちゃったの、いつき」
「ん?」
「まだか」
友香だってまだ十六歳なのに。なに言ってんだろう。
そう考える自分がいかに子供だったか、気が付いたのは六時間目が終わりかけたころだった。
いろんな表現があるよね、いろんな状態について。
友香の使用例でいうと、私はまだ大人じゃない。
友香はそうなのかな。そうだよね。そんな話をちらっとしていたもんね。
夏は島谷君と旅行に行きたいとか話していたもん。
玲二くんは、大人……なのかな。
あの余裕な感じ、もしかして、一人で先に大人になってて、それで……とかだったらどうしよう?
わあ。胸がざわざわする。
中学の時だって、彼女がいる様子はなかったし。
今は私と大体一緒だし。
大体ってほどじゃ、ないか。隙間がいっぱいあったんだった。
中村さんとか、百井さんとか。その気になったら相手はすぐに見つかりそうなんだけど。
うわ、どうしよう。こんな想像、最低だよね。ここ最近でそんな経験してるとか、ないよね。ないよね?
確認なんてできない。そんなの聞くとか、下品すぎるし。
ああ、モヤモヤする。
でも、愛してるって……言ってくれたし。
あの時の眼差しが嘘なはずがないもん。
真剣だったな、玲二くんの目。あんなにかっこいい人が私の隣にいて、ぎゅってしてくれるなんて幸せすぎる。
「園田ちゃん、授業終わったよ」
あれ、本当だ! 誰もいない。
「ごめん葉山君、ありがと」
「一路は帰ったけど、玲二と一緒に来るでしょ?」
「今日からだったっけ」
「二人きりになる邪魔してごめんね?」
とんでもない。いつもお邪魔させていただいて、感謝してます。
もうすぐ一学期の期末試験だから、恒例の勉強会が今日から始まる。
一路くん、そういえば最近ちょっと元気がないみたいなんだよね。
大丈夫なのかな。
最近すっかりフニャフニャな私だけど、ちゃんといろいろ考えてはいる。
一路くんが少し心配だし、試験はやっぱり緊張するし、夏休みの予定をどうしようかなって。
玲二くんの前に行くと全部ふわーっと溶けてなくなって、心が全部玲二くんのものになってしまってどうしようもなくなっちゃうんだけど。
それでもなんとか試験を終えて、恒例の打ち上げもやって、あと三日もすれば夏休みというところまで来ていた。
私の中でフィーバーしていた玲二熱はほんの少し収まって、今は冷静に向かい合って話せるようになったと思う。
「いつき、夏休みはまたアルバイト?」
「うん。でも、ちょっとだけね。ゴールデンウィークは問題なかったし、少しくらいなら大丈夫かなって」
あれから相原君の姿を見ていない。
あんまり見たくもないんだけど。
最低女って言ってたし、もう心配しなくていいよね?
「玲二くんは予定があるの? 帰省するとか?」
「ううん、ないよ。母さんの方には行かないし、父さんの実家には誰もいないから」
お父さんの実家といえば、春休み。
そっか、あの時一路くんに会ったんだった。
七月のど真ん中の昼下がり。いつものハンバーガー屋さんで、玲二くんと向かい合っている。
梅雨は明けたはずなのに今日は雨で、少し冷房が寒く感じられるくらい。
「すっかり忘れてたな、玲二くんの秘密を聞くの」
「そうだったね」
「教えてくれる?」
玲二くんはにっこり笑って、私の頬を指先でそっと撫でた。
「じゃあ、夏休み中にでも」
「今はダメなの?」
「外で話すような内容じゃないんだ」
二人きりになれる日があったら、その時に、だって。
二人きりか。
そういえば、玲二くんのオトナ問題も心にひっかかったままだ。
信じてるんだけど。
でももしかしたら、私の前に誰かいたかもしれないし。
「いつき、なにが心配?」
「え?」
顔に出ちゃってるのかな。
でもこれも、外で話すような内容じゃないよね。
「一路くん最近あんまり元気ないみたいだけど」
「ああ」
言い訳に使っちゃってごめんね、一路くん。
だけど、最近本当にしょんぼりしていて、気になっている。
「確かに元気がないんだ」
「どうしたの?」
「俺がいつきばっかり構ってるから、妬いてるんだよ」
わあ。その顔、反則だよ。
なんでそんなにかっこよく笑うの、玲二くん。
どうして急にそんなに素敵になっちゃったの、玲二くん。
大好きなんだけど。そんな玲二くんが私を見つめていて、恥ずかしいくらいなんだけど。
見つめられれば見つめられるほど、頭が溶けて思考が低下していくみたい。
「いつか言わなきゃいけないだろうから、今言うよ」
「なあに?」
なんだろう。また愛の告白されたら、爆発しちゃうよ。
「俺と一路は兄弟だけど、もって生まれたものが全然違うんだ」
「そうなの」
「だから俺は三月まで、一路の存在すら知らなかった」
え?
びっくりしすぎて言葉が出ない。
そんなのってあり得る? お父さんとお母さんが内緒にしてたってこと?
「ビックリするよな」
「うん」
「俺も驚いた」
そりゃそうだよ。
どうして秘密にしてたの?
まさか、浮気とか……なわけはないか。双子なんだもんね。
「だけど一路はちゃんと全部知ってて、俺と暮らすのをずっと望んでた。だから今、どうしても一緒がいいって言うんだけど」
「じゃあ、夏休みくらい一路くんと過ごしたらいいんじゃない?」
「俺はいつきと一緒がいいから」
冷たいかな、だって。
冷たいとまではいえない、かな。大体基本的な生活は一緒にしているんだよね?
私にもしも双子の妹がいて、一緒にいたいから彼氏とは会わないでって言われたら?
少しくらいはつきあってもいいけど、全部が全部べったり一緒は確かに、息苦しいかも。
申し訳ない気持ちがあっても、玲二くんとだって一緒に過ごしたいと思うはず。
それにしても、離れて暮らしていただけじゃなくて、知らなかったなんて。
ブラコンなんだなって思っていたけど、そんな理由があるんじゃ仕方ないよね。
「じゃあ、花火大会とかは一緒に行こうよ」
「去年さんざんだったもんな」
「今年もどうかなって葉山君に聞いたら、二人で行くんでしょって言われちゃったんだよね。だけどいろんなところでやるし、二人で行くのと、みんなで行くのがあってもいいと思うんだ」
私の提案に玲二くんはにこっと笑うだけだった。
また浴衣を見たいなって。
んん、去年と同じでいいのかな、こういうのって。毎回新調すべき?
一路くんは結局終業式の日まで元気がないまんまだった。
つまらなさそうに下ばっかり向いてて、暗い顔で。
玲二くんから嬉しい提案はなかったのかな。それとも、ちょっと一緒に出掛けようくらいじゃ物足りないのかな。
妬いてるなんて言われちゃったから、私も声をかけ辛い。
「一路、花火一緒に見に行こうぜ」
「花火?」
「バーンって空に打ち上げるんだ」
「僕、休みの間は帰るから」
少し離れたところで交わされている会話が耳に流れ込んでくる。
帰るって、帰省するって意味だよね。
玲二くんは行かない、一路くんは帰る。
二人の間にある「違い」って、そんなに大きいの?
「ずっと?」
「ずっとじゃない。でも、いっぱい帰る」
「課題は平気か?」
「なんとかする」
葉山君、完全に保護者だよね。
ほほえましい光景なんだけど、玲二くんとうまくいってないのはかわいそうに思える。
一緒に帰ろうって声をかけようとしたんだけど、一路くんは速足でさーっと教室から出て行ってしまった。
今年はかなり細かく夏のスケジュールを確認しあって、アルバイトのない日は一緒になって課題に取り組んだりしていた。玲二くんが家に来たり、図書館やカフェで会ったり。またプールに誘ってもいいのかな。あんな風に誰にも見せたくないって言われたいけど、それなら水着はNGって話なんだよね。
とにかく課題を仕上げようっていう生真面目な提案を聞いて、デートの約束は八月に回されている。
玲二くんはアルバイトも帰省もないけど、どうしてもチャレンジしたいことがあるとかで、あんまり遊びまわっているひまはないんだとか。
「チャレンジってどんな?」
夏休みの初日に私が聞くと、玲二くんは少しまじめな表情を作って、こう答えた。
「将来進むべき道を今のうちに用意しておきたいんだ」
それ以上の説明はなくて、チャレンジの内容はさっぱりわからない。
そういえば、進学についてもそろそろ考え始めなきゃいけないんだよね。
私はどうしたらいいのかな。玲二くんにただついていくってわけにもいかないだろうし、自分で決めなきゃいけない。
……お嫁さんになりたいけどな。
や、お嫁さんって職業じゃないよね。誰かと結婚するってだけだし、高校卒業していきなり結婚とか、いくらなんでもあり得ないっていうか。玲二くんにも迷惑だろうし。
頭がいいし、大学くらい出るよね、玲二くんは。
私はなにが得意なんだろうな。なにがしたいって、あんまり強く思ってることはない。
だめだな。玲二くんで頭をいっぱいにするのもある程度でやめておかなきゃ。
まるで幼稚園児みたいな自分を反省した、夏休み七日目の朝。
今日はアルバイトがなくて、立花家で数学の課題をやる予定になっている。
どうも、玲二くんはもう終わってるみたいなんだけど。
私にあわせてくれてるんだろうな。もう、だめだな。玲二くんに見とれてばっかりだから。そんな私に気が付いているだろうに、怒りも呆れもせずに付き合ってくれているわけで、今日中にしっかり終わらせなきゃいけない。
顔を洗って、朝ご飯を食べて、洗濯物を干すのを手伝って。
あとは出かける準備だけというところで、玄関のチャイムが鳴った。
「いつき、出て」
ちょうど廊下にいたのでそのまま出ると、意外な人が立っていた。
「一路くん、どうしたの?」
朝日に背を向けているから、顔には濃い影が落ちている。
薄茶色の髪は少し伸びて、ちょっと前の玲二くんを彷彿とさせる。
「謝りに来た」
「謝りに?」
「うん。僕、玲二と喧嘩してた。玲二が僕の思った通りにしないのが嫌で」
例の、一緒にいたいってやつだよね。
「玲二くんから少し聞いたよ。ずっと離れて暮らしてたんでしょう?」
「うん。僕は玲二にたくさん求めすぎてた。押しつけすぎたらだめだって良太郎にも言われたけど、我慢できなくて」
一路君はしばらくうつむいていたけど、小さな声でごめんね、と呟くように言った。
「私に謝ることないんじゃない?」
「ううん。僕は玲二をいつきにとられちゃったのが嫌で、怒ってた」
家で当たったりしてたのかな、もしかして。
最近の玲二くんはぐっと大人になったから、取り合ってもらえなかったんじゃないかなんて思ってしまう。
「いいよ、謝らないで。仕方ないもん」
「本当? いつき、怒らない?」
「そんなわけないよ。急に日本にやってきて大変だったでしょ」
良太郎もそう言ってくれたよって、一路くんはようやく笑顔を見せてくれた。
それにほっとして、私も笑った。
「今日うちに来るよね、いつき」
「うん、行くよ」
「僕は一度故郷に帰る。お母さんの生まれたところ」
「そうなんだ。今日行くの?」
「お父さんとお母さんが送ってくれるから、家には玲二しかいない」
玲二くんは行かないのかなって考えが、本当に一瞬でかき消えてしまった。
逆光のせいで表情がよく見えないのに、瞳だけが輝いて見える。
玲二くんとは違う、銀色みたいなまぶしい光。
見ているうちに、体がぽかぽかしてきたような。
「夏休みが終わるくらいにまた戻る」
「そうなんだ……」
「いつき、玲二とゆっくりしたらいい」
一路くんが去って、予定通りに玲二くんの家へ出かけた。
去年ほめてくれたワンピースを着たら、いつもみたいに一つに結ぶのは合わない気がして、髪はおろしたまま。
額から落ちる汗が髪にくっついて、頬や首にぺったりと張り付いてくる。
今日もいい天気で、午前中だけど日差しはしっかりとした夏らしい強さで、暑い。
「いつき、ごめん、迎えに行けばよかったかな」
「ううん、大丈夫」
急ぎ足で歩いて十分。玲二くんが出てきて、体の熱さはますます強くなった気がした。
「それ、去年の水族館に行ったときに着てたね」
「玲二くんがほめてくれたなって思って」
「よく似合ってる」
家の中は涼しい。一路くんの言った通り、誰かがいる気配がない。
玄関に靴もないし、二人だけという意識が強まっていく。
玲二くんの部屋はいつもきれいに片付いている。
モノトーンでまとまっていて、掃除が行き届いていて。
一路くんは急に帰るって決めたのかな。
もともと予定していたんだったら、玲二くんも見送りに行きそうだけど。
私と約束があるから、優先してくれたのかな。
小さなテーブルを挟んだ向こう側。
玲二くんはすぐそこで、優しいまなざしを向けてくれている。
持ってきたカバンから課題を出したけど、頭が全然切り替わらない。
体がカッカしちゃって、二人きりっていう単語に反応しすぎてて。
「玲二くん」
だめだ、我慢できない。
飲み物を乗せてきたお盆を机の上に乗せようとしている玲二くんにぎゅっと抱き着く。
「どうしたの?」
優しい声が耳を撫でて、それでもう、頭がまっ白になってしまった。
玲二くんをむりやりベッドの上に押し倒して、カバンに忍ばせていた「お守り」を手に握らせる。
「これ、使って」
驚いた顔をされたけど、どう思われてもいい。
ちゃんと、もっと、しっかり繋がりたいから。
「玲二くん、好き」
遠慮がちに背中に回された手に力が入って、抱き寄せられて。
玲二くんの匂いに包まれて、私はうっとりとした気分で目を閉じた。




