悩み下手 / 一路
僕がラーメンを食べに行くと、悪いことが起きるって決まりでもあるのかな。
「待って、一路。ちょっと話を聞いて」
いつきに良くない力が及んでいると聞いて、僕はいてもたってもいられなくなった。あの龍に文句を言ってやろうと思ったんだけど、部屋を出ようとしたところで引き留められた。
玲二は僕の手を強く掴んで離さない。
「なんの話がある? 悪いのはあっちだ」
「俺だってそう思うよ。人間には手を出すなって散々言ってたくせにって。だけど俺、ちゃんと決めなきゃいけないから」
「決めるって、なにを」
「これからのことだ。これだけ状況が変わってしまったんだから、ちゃんと考え直さなきゃ駄目だと思う。父さんと母さんも一緒に。一路も頼むよ」
まずは着替えるようにって、玲二は言った。
ぐずぐずと制服を脱ぎだした僕に、ラーメンはおいしかったかって。
おいしかったさ。この間とは違う味を選んだけど、どっちが良かったか決められないくらい良かった。もう一つ別の味があったからまた行きたいけど、玲二が嫌な目に合うんならもうやめにしなきゃいけない。
不機嫌なまま夜ご飯を食べて、それが終わったらすぐに「話し合い」が始まった。
「俺がここで育った理由は、あの予言からなんとか逃れようとしたからだよね」
玲二が語り始めて、僕たちは言葉の続きを黙って聞いている。
「予言が果たされてもう危険がないなら、人間として暮らすのはおかしいって言われたんだ」
「あの龍に言われたの?」
「そうだよ。もちろん、いきなり変われって言われても無理だ。だけど、その先について、なんにも用意がないのも事実だって思った」
「その先についてって」
「いつか無理になるんだろ、こんな風に暮らしていくのは」
後回しにしてきたあれこれについて、考えなきゃいけない時が来たんだと玲二は言う。父さんや母さんの慰めを全部てのひらで押し返して、自分の「人じゃない」人生をどうするか、決めなきゃいけないって。
「そんなのまだ何年かしてからでいい」
「考えなしにただここにいたいなんて言っても、遠屋は納得しないだろう」
あんな龍なんて無視したらいい。
だけど玲二が考えているのは、遠屋なんかじゃなくて、自分の一番大切な人についてだった。
「いつきは俺が見えなくなってる。それだけならいいんだ。一緒にいればわかるみたいだし、俺を忘れたわけじゃない。だけどこれ以上なにか起きたら耐えられない。いつきが俺のせいで不幸になったり、普通に暮らせなくなるのは嫌だ」
「だったら遠屋に話を通せばいいじゃないか」
「これからどうするかちゃんと示せなければ、意味がないと思う」
僕たちはずっと、玲二がちゃんと力に目覚めたらいいと願ってきた。
その力は狼のものだったはずなのに、全然違う形になってしまって、そのせいでなんだかわけがわからなくなっている。
玲二が悲しそうな顔をして部屋に戻っていったあと、お母さんは大きなため息をついた。
「仕方ないさ。状況が予想外なものに変わってしまったんだから」
お父さんがわかりやすくまとめてくれて、僕は首をかしげてしまった。
「じゃあやっぱり、待ってもらうしかない。あの力は玲二が望んだものじゃない。大体、玲二があんな目にあったのはあいつらのせいなんだから」
「一路、あいつらって誰なんだ?」
しまった。
お父さんには言わないでいるつもりだったのに。
「知っているのか、なにか」
「……知っているよ。だけど、もう消えたんだ」
「消えた?」
「わからないけど、玲二が生きてるって知って混乱して、自分から消えたんだ」
「全員がかい」
全員という言葉が正しいのかどうか、僕にはわからない。
玲二に憎しみを抱いて、あんな目に合わせたのは真夜だと思う。遠屋は間違いなく、あいつを見逃していたと思うけど、それが本当なのかどうかはハッキリしていない。
「お父さん、ごめん。僕が犯人だと思っているだけで、本当はどうかはわからない」
「一路にもわからないのか」
お父さんは鋭い人だ。普段はぼんやりのんびりしているように見えるのに、小さなヒントがあれば多分なにもかもわかってしまうんだろう。
「うん。だけど、確実に一人は消えてる。自分の力で消えちゃったんだ」
これ以上、お父さんからの追及はなかった。
良かった。僕は、あんまり話したくないから。
玲二を陥れたのは真夜だけど、直接手を下したのは人間だ。
あいつらは黒くて悪い人間で、お父さんとは違う。
だけど、言いたくない。お父さんがどう思うか、僕は少し、怖いと思っている。
僕は悪いこどもなのかな。
当たり前のことをしているつもりなんだけど。
だけど、人間の世界がまだ全部わかってない。
玲二の世界を見てきたのに、僕は玲二を理解できていない。
「一路、悪いけど今日は自分の部屋に戻って」
いつものように部屋に入ったら、断られてしまった。
鍵はかかってなかったけどな。それでも、僕が入ったらいけないのかな?
「でも、寂しい気持ちでいるのは辛い」
「いいんだ、今は」
「玲二」
「落ち込んでないと、怒りが抑えられなくなっちゃいそうなんだ。だから今は一人にしてほしい」
玲二の伏せた目は、じっと床に向けられている。
僕には向かない。光を放つ天へも、しばらく向けられそうにない。
「あの龍は卑怯だ。人には手を出すなっていうのに、ひどいことをする」
僕の言葉に玲二は少しだけ口の端をあげたけど、やっぱりすごく寂しそうな横顔で。
「おやすみ、一路」
そう言われたら、出ていくしかない。
同じように寂しくなった僕に悪いと思ったのか、背中の向こうからこんな声がした。
「一緒にいてくれてありがとう」
なんの役にも立ってないのに。
僕はもっと玲二の助けになりたい。
考え出すとなかなか寝付けなくて、結局遅くなってから屋根の上にあがった。
玲二の力が一体どういうものなのか、完全にわかるのはいつになるだろう。
状況はちっとも変ってないのかもしれない。
今のままじゃ狼の群れにも戻れないし、ここでも受け入れてもらえないし。
『彼を受け入れる者は増えたはずだ』
今日は呼んでないんだけど。
屋根の上に現れた黒い影の隣には、腹立たしい顔も並んでいる。
「呼んでないけど」
「立花一路、マスターはお前たちを追い払いたい。この土地にいてほしくないのだが、その前に立花玲二がなにも持っていない証明が欲しい」
ひとでなしはじっと黙ったまま、カラスの隣で座り込んでいる。
なんなのかな、この二人は。
「玲二がなにを持ってたらいけないの?」
「マスターが昔失ったものだ。詳しくは知らないが、誰かと諍いになって奪われたらしい。それ以来、弱っているのだよ」
「龍の力なのかな、それ」
「本当はすべて見ていたのだが、記憶を奪われた。あの龍には忌まわしい敗北だったから、それを知る蛇が憎たらしいのだろう」
「じゃあどうしてこの土地にいるの?」
「言いふらされたくなくて、奴が縛っている」
驚いたな、いきなりこんな話をしてくるなんて。
「カラスは玲二の味方?」
「さあな。だが、立花玲二の力の影響だと思うのだ」
「なにが?」
「記憶の一片を取り戻した」
なるほど。
玲二は打ち消しの力を持っているから、そんなことも起きるのかもしれない。
「僕に話して平気なの?」
「力を失っているとはいえ、ほんのかけら程度。あの龍は存分な力を持っている」
おしゃべりな蛇が多少なにかを話しても、気にしない?
そうかな。気に入らないものは全部許さないように見えるけど。
「とにかく、やつと争わぬことだ」
「どうして? 強いからとでも言うつもり?」
「龍が動けば、人の世界にも大きな影響を及ぼす」
さすがにこれには、関係ないとは言えなかった。
僕は良くてもお父さんが困るかもしれないし。
また言いたいことだけ言って去ったらしく、カラスの気配は消えていた。
受け入れる者が増えた。カラスも、玲二の味方になった?
『お前もなの、百井沙夜』
『なによ、犬ころ』
『なんとでも呼べばいい。だけど、質問には答えろ』
人でなしは暗がりに完全に紛れるらしい。
そばにいるのはわかるんだけど、どこにいるかまではわからない。
月の上を灰色の雲がゆっくりと行き過ぎていく。
星の明かりはささやかで、森の中から見上げる空と同じとは思えないほどに儚い。
『そうよ』
ざわざわと木の揺れる音に紛れて、声がした。
みんな玲二を敵だって認識していたはずだ、ここのやつらは。
例外はライだけだった。ライと、もしかしたら、傷をいやしてくれた誰かもそうだったかもしれないけど。
『どうしてなのか教えてほしい』
『あんたにする話なんかないわ』
『僕はもう少し手掛かりが欲しいんだ。玲二はこれからどうしたらいいか困っている。僕は玲二を、同じ狼の仲間にしたいとしか考えてこなかった』
お母さんも同じだ。突き放していたけれど、お祖父さんたちもそうだったろうと思う。狼になれさえすれば、受け入れられるって。
『玲二はお前たちにとってどういう存在なの?』
この凝り固まった仲間意識が、同族、血のつながりばかりを求める意識が邪魔している。
狼か、狼じゃないか。
世界はそんな、簡単な二択なんかじゃないんだ。
『……わからないわ。私はただ、あの瞳に惹かれただけ』
玲二の瞳。この人でなしは見ていただろうか?
『それって、真夜が消された日のこと?』
『そうね。きっとそうだと思う。あのできそこないがあんなにも冷たく、容赦ないなんて知らなかったから』
あの日も金色に光っていた。
気のせいなんかじゃない。僕も見た。玲二の中に入り込んだ力。
龍が昔失った力、なのかな?
「一路、先に行って。いつきと一緒に」
次の日の朝、まだ眠い僕に玲二はこう切り出してきた。
「なんで? せっかく一緒に行くようになったのに」
「また俺のことがわからなくなってるかもしれないから」
「一緒にいれば平気」
「俺はどうしたのかっていつきが気が付くなら、それでいいんだ。あとから来るとか言ってくれたらいい」
言われなかったら、わからなくなってるってことか。
でも、なんでそんなまどろっこしいやり方をするのかな?
「俺の話は一路から切り出さないで」
「でも」
「いいから頼むよ。もしも一路までわからなくなっていたなら、後で教えて」
そうか。僕までわからないって可能性もあるかな。
僕にはどんな罰を考えているんだろう、あの龍は。
昨日のカラスとの会話がどこかで影響してくるとしたら、いつ、どんな風?
考えながら歩くのは得意じゃなくて、うっかりガードレールにぶつかったりしながら駅につくと、ちょうどいつきもやって来たところだった。
「あ、おはよう一路くん」
普通だ。僕がわからなくて慌てて思い出したとか、そんな風には見えない。
「ちょうどよかったね。じゃあ、行こう」
玲二については触れない。
どういう風になっているのかな、いつきの中は。
僕がわかって玲二がわからないって、すごく異常だと思うんだけど。
「昨日、葉山君とラーメン食べに行ったの?」
「うん、行ったよ」
「またおごり?」
僕は黙ったまま、顔を振った。
見てたよね、いつき。僕がお小遣いもらったところ。
遠屋が玲二の記憶を遠ざけているのは、いつきだけなのかな。
あとは良太郎と……。うーん、そんなにいないか。
先輩も、本城も、結も、玲二がわからなくなってもそんなに影響はない気がする。
むしろ忘れてくれた方が好都合なような。
「すっかり葉山君と仲良しだね」
「うん。良太郎はいい奴」
「私もそう思う」
いつきはそこで、急に表情を曇らせて、僕の前で斜めに首を傾げた。
困った顔は、記憶のつじつまが合わなくなったからなのかな。
いつきと良太郎のつながりには、玲二は欠かせない存在のはず。
「一路くんって、勉強会に参加してたっけ?」
「勉強会ってなに?」
「そうだよね。だって四月から来たんだもん……」
この違和感が重なっていけば、自然と玲二にいきつくんじゃないかな。
「じゃあ、一路くんもおいでよ。みんなでやると楽しいし、わからないところは教えあえばいいから」
「僕は勉強苦手」
「そういえば、書くのは大丈夫なの? 字の種類が多くて難しいでしょ」
結局、いつきの口から玲二の名前は出てこなかった。
試験が初めての僕への気遣いが優先されたけど、心の中にほんのりと困惑の色がまだ残っている。
「よ、おはようお二人さん」
教室につくと、すぐに良太郎がやってきて、いつも挨拶をしてくれる。
「おはよう葉山君」
「玲二さんはお元気ですか」
いつきの様子が明るい時は、こんな風に声をかけてくれるんだ。
どう出るか、僕はじっと見守っている。
だけど、いつきはきょとんとしたままで、なにも言わない。
「どしたの。一路、どうなの」
「問題ない。ちゃんと元気」
いつきの中の困惑は少し大きくなっている。
この調子なら大丈夫だ、玲二。そろそろちゃんと思い出すだろう。
「玲二を忘れちゃった? 園田ちゃんが?」
朝のやり取りを不審に思ったんだろう、今日も良太郎は書道部の部室へ誘ってくれた。
いつきと玲二はどうしているのかな。楽しそうな気配は全然しないから、一緒にはいないんだろう。
「忘れたんじゃない。わからなくなってるだけ」
「どう違うんだ?」
「直接会えばちゃんとわかる。だけど、そうじゃない間は忘れてるような感じ」
「それは辛いな。なんでそんなことになったんだよ」
ここまでの経緯を話すには時間が必要だった。
だから僕は、なんとなく、重要な部分だけを抜き出して説明したつもりなんだけど。
「よくわかんないけど、嫌がらせされてんだな」
「そう。意地悪だけど強い奴がいる。玲二というか、僕たちに出ていってほしい」
「縄張り争いみたいなものか?」
そうなのかな。こっちでは、たくさんの種類が共存してるってお母さんは話していたのに。お祖父さんも「わけがわからん」って眉毛をピクピクさせるくらい種類が多いって言ってたっけ。
「玲二の力は特別。どういう力かよくわからないから、怖い」
「なるほどね。たいした力なんてなさそうだけどな。すぐ落ち込むし、飯もちゃんと食わないし」
また食べなくなるんじゃないのって、良太郎は心配そうに話した。
確かに、そうなったら大変だ。誕生日の頃は玲二がちっとも見えなかったけど、やたらとお腹が空いたから、僕たちはやっぱり繋がっているんだって思ったっけ。
「玲二はどう考えてるんだ? 園田ちゃんを諦めるとか、そんなこと言ってた?」
「ううん。玲二はいつきとセックスしたい」
「おい、一路、やめろよ」
人間の場合はこういうんだよって教わったのに。違うのか。
「したいの自体は普通だけどね。でも、玲二がそう言ったのか?」
「玲二はよくわからない言い方をした」
「だよな。外で言ってやるなよ、それ。究極のプライベートだから」
「そうなの?」
「平気で言うやつもいるけど、玲二は違うだろ。絶対そんなダイレクトに言われたくないタイプだよ」
「良太郎は言う?」
「俺だって言わないよ。男同士で変なテンションになったらあるかもしれないけどさ。ごく普通の日の、ましてや真昼間には言わないね」
人間って面倒くさいなあ。
発情期もないっていうし。逆か。年がら年中発情期なんだっけ?
「一路はそういうのあるの」
「発情期? あるよ」
「そっか。じゃあ、なにか動物的なアレなの?」
そういえば話してなかった。僕の本当の姿について。
「僕は狼なんだ」
少し怖いような気もしたけど、言ってしまった。
モヤモヤしているのは嫌いだ。ハッキリしていた方がいい。
これで離れるなら、それまでの話だし。
「へえ、なんか、納得だな」
良太郎の中が感心とか、興味で満たされていくのがわかる。
「怖くない?」
「怖くないよ。正体がなんだろうが、一路は一路だろ」
良太郎は目を細めて笑うと、からあげをつまんで僕のお弁当の中にひとつわけてくれた。
「玲二も狼なのか?」
本当はそのはずなんだけどな。
「今は違う」
「そっか。不思議なこともあるもんだな、双子なのに」
良太郎の腕が伸びてきて、僕の肩を叩く。
それでなんとなく、心の底に溜まっていた石が転げ落ちたような気がして、僕もつられて笑った。




