僕らの日々 / 玲二
カーテンの隙間から入り込んでいる光はとても明るくて、昼なんだとすぐにわかった。
昨日目が覚めた時は日曜日だと言われたから、今は多分、月曜日。なのにすぐ隣で狼が寝ている。
「一路、起きて」
ずいぶん長い間眠りこけていた。頭が重くてぼやっとしている。嫌な夢ばっかり見たと思う。気分もずんと沈み込んでいて、不快だった。
だけど体から熱は随分出ていったと思う。夜の間はだるくて動けなかった。ちょっとだけ体を起こして水を飲んでいる間に、ちょうどよく一路も目を覚ましたんだっけ。
ベッドに置いている左手を、ざらざらとした舌が撫でていく。
「舐めるのは嫌なんだってば」
手を引っ込めると、狼は寂しそうな目をしてベッドから飛び降り、人に姿を変えた。
「ごめんなさいね」
「母さん」
そうだ。帰って来たんだった。
「ずっとここにいたの?」
「心配だったから」
今度は人間らしい愛情表現をされてしまった。胸にぎゅっと抱きしめられるっていう。
「玲二」
誕生日に連れていかれてから二か月半。母さんのいない家は少し暗くて、乱れていて、俺はそれが嫌でたまらなかった。
あれから起きた出来事を考えると、心配するのは当然すぎるというか。それ以上のものがあるに違いなくて、黙ったまましばらく抱かれた。
「良かった、無事で」
母さんはさんざん俺の黒くなった髪を撫でながら、何度も名前を呼んできた。
死ぬかもしれないって予言にあれだけ怯えていたんだから、引き離されて不安だったはずだ。そのあと、実際死んだらしいし。一路だけがこっちに来たのも心配だったんだろう。
「おかえり、母さん」
スープを作っているから飲みなさい、と母さんは微笑んだ。
一階に降りてみると、今まで通りの片付けられたリビングが待っていて、それにやたらとほっとしてしまった。
「気分はどう?」
時刻は一時二十分。昼休みが終わって、午後の授業の真っ最中だ。
一路はどうしているかな。いつきと良太郎がいるから、学校生活は問題がないだろう。
「だいぶいいよ」
「髪、ずいぶん伸びたわね」
「そうだった。切りに行きたかったんだけど」
家のことをやっていたら時間が足りなくてと話すと、母さんはおかしそうにくすくすと笑った。
「玲二のお陰で家がきれいだった」
「母さんほどは出来ないよ」
食事の準備があんなに大変だなんて思わなかった。
鳥の餌代も結構かかっているし。ライとハールは大型だからなのか、食べる量が多い。一路が一番多いけど。
「雨の中で倒れてたって聞いたけど」
「ああ……」
そんなつもりはなかったんだけど。
気持ちが落ち込んで、家にいると苦しくなってしまって、ちょっと気分転換に外に出たら、あんなことになってしまった。
その理由について、母さんには話せない。恥ずかしくて。
「顔が赤いわ。まだ熱があるんじゃない?」
「そうかもね」
気分転換するなら、髪でも切りに行けば良かったんだ。
公園で寂しくブランコに乗るなんて普段ならやらないことをしてしまったのが間違いだった。
「シャワー浴びてくるよ」
「シーツを変えておくから、ゆっくりしてらっしゃい」
真昼間から頭を洗って、風呂に浸かった。
本当に長く伸びてしまって、長髪といってもいいくらいかもしれない。
お湯の中に浸って目を閉じて、心を静めていく。
今日はあいつはいない。俺に命をくれた誰か。あの誰かが顔を覗かせると急に心が乱れて、どうしようもなくなってしまう。俺が弱いのか、あいつが強いのか。どっちもなのかな。こんなに薄っぺらい体じゃ簡単に押し負けてしまうのかもしれない。
久しぶりにひとりでゆったりした時間を過ごした気がする。
最近ずっと心がざわめいてばっかりだったから、すごく気分がいい。
まぶたの裏に浮かんでくるのはいつきの顔で、今すぐ会いたいと思った。今なら会っても大丈夫だろうから。
いや、駄目だ。
ざぶんとお湯の中にもぐって考え直した。
あいつがいつ出てくるかなんてわからないんだから、今は駄目だ。我慢しなくちゃいけない。
去年とかわらず、あんまり誰とも触れ合わない暮らしにしなきゃ。
一路に頼んで、コントロールできるようになるまで……。
孤独な暮らしなら慣れてるんだから。
いつきは待ってくれるから、信じて、自分のできることをしていこう。
風呂からあがると、母さんがお茶をいれて待ってくれていた。
「ありがとう」
「いいのよ」
「母さんのありがたみが身に染みたよ」
今、自分がちゃんと自分自身でいられて本当に良かった。
感謝を伝えられたことにほっとしながら、熱い紅茶を飲んで、オマケに出てきたプリンもちゃんと食べた。
心は軽くなったし、部屋の空気も入れ替わってすがすがしいけど、体はまだ重たい。
こんな風に熱を出して寝込んだのは初めてのような気がする。ふらつく体をベッドの上に横たえると、ぐらぐらと揺れる感覚が収まってほっと息を吐いた。
『玲二、良かったわ、目が覚めて』
ぱたぱたと飛んできたのはリアで、俺の顔の真横に降り立ってピロロと一声鳴いた。
『聞こえる?』
「聞こえるよ」
『そう、良かった。表情が穏やかだから、今日は大丈夫かと思って』
助けてもらって以来聞こえるようになったはずが、最近は通じない日も多かった。やっぱり邪魔されているのかな。
うまく聞き取っていないのは俺の方なのに、リアはちょこんと首をかしげて、謝ってきた。
『玲二、助けてあげられなくてごめんなさい』
「なに言ってるの」
『……肝心な時に限ってうまくやれなかったから』
ほんの一瞬の中に、躊躇が隠れている。
敏感にそれを感じ取ってしまって、心がまた波立っていくような気がした。
「それっていつの話?」
『一昨日よ。玲二がいつ出て行ったのかわからなかったから』
「それだけじゃないよね」
本当は俺は、知りたいんだと思う。
自分が死んでしまった話について、ちゃんと、詳しく。
『いいえ。一昨日よ。おじいさまは昼寝をしていて、私はライとつい話し込んでしまったの。それを一路に打ち明けられなくて、探しに行くのが遅れてしまった』
一路にも悪かった、とリアは言う。
一路がどれだけ怒って、取り乱したか。鳥たちで集まってさんざん反省したんだと聞かされる。
兄弟間の温度差も大きい。
一路は俺を知っていたけど、俺は一路を知らなかった。
ずっと玲二を見てきたよと言われても、俺には全然わからない。
心の中にできた波が形を変えていく。
苛立ちから、寂寥に。
すると少し落ち着いたような気がした。
『一路はあなたと一緒にいたいの。一緒に生まれた大切な兄弟を守りたいってずっと考えてきたから、どうしてもすぐそばにいたいと考えてしまう』
「わかってる」
『一路ももう少ししたら落ち着くと思うわ。それまで少しだけ、甘やかしてあげて』
リアは俺を息子同然だって言ってたから、一路に対してもそう思っているんだろうな。
「じゃあ今日は、一緒に寝るよ」
暑苦しいけど仕方ない。人の姿じゃない分だいぶマシだろうから。
弱った体は休息を求めているみたいで、リアが去ったあと、じっとしているうちにいつの間にか眠ってしまっていた。
目を開けた時には部屋はもう真っ暗で、何時なのか確認しようと起き上がると、布団の中に狼が一匹潜んでいるのがわかった。
「一路?」
『玲二』
びっくりした。声が聞こえる。
「お帰り、一路」
『玲二、具合はどう?』
「良くなったよ。風呂にも入ったし、気分も落ち着いてる」
答えたら、一路もびっくりしたようで、目をまあるく見開いて銀色に輝かせた。
『聞こえるの、玲二』
黙ってうなずいたら、狼は布団から飛び出してのしかかってきた。
俺が散々いやだって言い続けているのに顔をべろべろ舐めて、止めてくれない。
母さんもやってくるし、これはきっと狼の標準的な愛情表現なんだろうな。
むしろ俺がしないのがおかしいくらいに思っているのかもしれない。
兄からの愛情は少し過剰だけど、これ以上突っぱねるのも悪いし、しばらくの間じっと舌の攻撃を受け続けた。
『玲二、顔がベタベタになった』
「一路のせいだろ」
『うん』
嬉しそうな返事をして、一路はようやく俺の上から降りていく。
「いま何時?」
『七時を過ぎたところ。僕はさっき帰ってきた』
「制服ちゃんとかけた?」
『うん。クリーニングから返ってきたばかりだから。ちゃんとしたよ』
床の上に軽やかに降り立った狼は、一瞬で姿を人のものに変えた。
少し前の俺の姿。薄茶色の短い髪と、同じ色の瞳。
「今日は僕、玲二におみやげがある」
「おみやげ?」
「もうご飯だから、一緒に行こう」
二人で揃って階段を下りていく。
もう足はふらついていないし、熱もないみたいで、体も軽い。
「これ、これ。僕が作った」
食卓には既に夕飯が並べられていて、初めて、四人分の食事が配置されていた。
俺がいつも座っている席だけ皿が一枚多くて、上にはいびつな形のケーキがおかれている。
「クラブで作ったの?」
「そう。今日初めてお菓子を作った。いつきに教えてもらって、玲二が好きな味にしたから」
ひょっとしたらこの兄は、自分で食べるのを一生懸命我慢したんじゃないのかな。
自分の好きな甘ったるい味にしたかったけど、俺のために抑えたのかもしれない。
「ありがとう」
「形は変だけど、味は大丈夫。いつきたちが教えてくれた」
「わかったよ」
父さんも帰ってきて、すぐに夕食が始まった。
初めて家族が全員そろったからと、ささやかに水で乾杯をして。
一路は俺からちっとも目を離さず、母さんも全部食べなさいと何度も言ってきて、父さんはその様子が満足なのか微笑みを絶やさない。
母さんの作ってくれた食事はおいしくて、一路の作ってくれたデザートまでしっかり完食できた。
いびつなケーキは間違いなく、いつきの味がする。そこに兄の愛情まで加わっているんだから、回復しないわけがない。
病み上がりの俺は後片付けの手伝いへの参加を許されず、父さんの隣に座ってぼうっとしていた。
「明日は学校に行けそうか?」
「大丈夫だと思う」
不安はあるけど、日常を放棄するのもなんだか違う気がする。
もうちょっと気を楽にして、一路に頼ってもいいんだって、今日は素直に思えたから。だから明日からはこれまでよりも、平気なんじゃないかな。
母さんの隣でばたばたするばっかりのお手伝いを終えた一路に、声をかけた。
例のコントロールの仕方も教えてもらいたかったし、自分なりに気が付いたことについても聞いて欲しかったから。
「俺の中にいる誰かの影響が、強い時と、弱い時があるんだけど」
「うん」
「強い時には感情が抑えられなくて、過剰になっているように思ったんだ」
「過剰?」
俺の部屋のど真ん中で、二人で向かい合って座っている。
一路は興味深げにふんふんと頷きながら、真剣に俺の話を聞いてくれた。
「いつきと二人でいた時に、本城と中村が来たんだ。やかましかったから別な場所に移動してほしくて、最初はそう言った。だけど、聞き入れてもらえなくて」
それで、声を荒げてしまった。
だけどそれだけじゃない。あまり自覚はなかったけど、俺の望んだように行動させる力が働いたんじゃないかって、そんな気がしたんだ。
「玲二の望んだとおりにさせる力?」
「そう。本城と中村にたいしてはうるさい、そばに寄るなって思った。いつもなら、あいつらは軽くかわしてくる。なんだかんだごまかして、いつまでもいるんだけど、あの時は不自然なくらい意気消沈してどこかに行ってしまった」
俺の態度が今までにないものだったからじゃないかと思ったけど。
それだけじゃなかった。俺は本当に、最低で。
「確かに本城は元気がない。結もそう」
「だろう? いつきもそうだったと思うんだ」
「いつきは……、うん。玲二を少し、怖いと感じてる」
「怖いだけ?」
一路は急に口をへの字に曲げて、しばらくの間黙っていた。
ひょっとしたら、ショッキングな言葉が飛び出してくるかもしれない。
ひやひやしながら続きを待つと、こんなセリフが続いた。
「今日は少し、ほっとしていた」
俺もほっと一安心だ。もっと強い否定をされるかもと思っていたから。
「玲二は、いつきをどうしたいと思った?」
「一緒に居たいって思ってる」
「じゃあ、いつきは玲二といたくなった?」
一路は首をかしげて、俺をじいっとまっすぐに見つめている。
「どうしてそれがダメ?」
「そんな単純じゃないんだ」
「じゃあどういう風になる?」
こんな風に追及されるかもしれないとは思っていた。覚悟はしていたし、答えもいくつか用意していたけれど、口に出すにはまた別のエネルギーが必要だ。
「公園で倒れちゃった日、俺、蔵元先輩に声をかけられたんだ。ライがどうしているのか知りたいって」
「うん」
「俺が先輩といるのを見かけて、いつきがついてきてたんだ。なんの話か気にしてくれてたのが俺は嬉しくて、しかもこっそり後をつけてきたのを隠さずに、ちゃんと話してくれて、いつきがますます可愛く思えて」
「可愛いって思ってもいいじゃないか。いつきは本当に可愛い。僕も可愛いと思う」
「可愛いってだけじゃないんだよ。独り占めしたいとか、もっと深く繋がりたいって思っちゃうんだ」
「独り占めしたらいいじゃないか。いつきだって玲二がそう願ったら喜ぶ」
はっきりと言いたくはないんだけど。
やっぱり言わないと分かってもらえないかな。
ごまかせないだろうか。
「それ以上なんだよ」
「どういう意味なの? それ以上だとなにが起きるの?」
「俺は少し強引に出ちゃって、途中で気が付いたんだ。このままじゃいけないって。強く拒否したら、なんとか抑えられた。だから中途半端な状態になって、いつきは混乱したんだと思う」
あの時のぽやっとしたいつきの顔は可愛かったけど。
だけど、違和感があっただろうとも思った。
俺は自分がとんでもないことをしているって気が付いて、かなり激しく落ち込んでいた。よりによっていつき相手に、本人の意思を無視して好き勝手しようとしたなんて、本当に最低最悪、男の風上にも置けないわけで。
「全然わからない。ちゃんと教えて」
言いたくないから言ってないんだけど。
いつでもだれでも心を繋げている狼人間には、こういう曖昧にしておきたい感覚はわからないんだろうな。
何度か表現を変えながら説明していくと、三十分後にようやく、理解のチャンスが訪れたようだった。
「俺はいつきと、心だけじゃなくて、体も繋がりたいって思ってるんだ」
一路はさんざん首をかしげたけど、誰かに入れ知恵でもされたのか、急になるほどの表情を作ると、にっこり笑った。
「交尾したかったのか、玲二は」
ダイレクトな表現に落ち込んでしまいそうだ。
こんなにハッキリさせなきゃならなかったのかな。わからないけど、とにかく他言しないように頼むしかない。
「したらいい。いつきだって喜ぶ」
「喜ぶかどうかはわからないけど、向こうが良くても、駄目だ」
「なにが駄目なの」
「俺はまだまだ不安定なんだろ? こんなによくわからない状態で、万が一があったら困る」
「万が一でなにが起きる?」
「子供が出来たらまずいだろ!」
もう直接言うしかないと思ったものの、口に出すと体から力が全部抜けていくような感覚があって、辛かった。
しかも一路にはまったく伝わっていないみたいで、なにがまずいのかな、みたいな顔で首をかしげているし。
「とにかく、俺としては駄目なんだ。子供がどうのっていうのは置いといて、いつきやほかの誰かを意のままに操ってしまうかもしれないっていうのは、恐ろしい力だから」
「そうか」
「ライも言ってた。人を操るなんて、許されない行為だって」
自分が抑えたくても、無意識のうちに……なんて恐ろしい話でしかない。
コントロールできるようにならなきゃ、絶対に駄目だ。
「わかった。よくわからないところもあるけど、玲二が嫌ならちゃんとした方がいい」
「頼むよ一路。俺に教えて欲しい」
「ご飯全部食べる?」
それは大丈夫。
母さんも帰ってきてくれた。
これ以上、みんなに心配をかけたくなんかない。
一路の目は優しく、悲しそうに見える。
俺をどれだけ思ってくれているのか、想像もつかない。
いつきのためにも、自分のためにも、それに、一路のためにも。
しっかりしなきゃって、強く思った。
「大丈夫、玲二は賢いから、すぐに掴める」
兄弟の存在を知らなかったことを、俺は後ろめたく思っていた。
両親のいる幸せを独り占めしてきたんだって。
だけど一路の中には、恨む気持ちなんかかけらもないんだろう。
「ありがとう、一路」
「僕は結構厳しい。頑張ってついてくる」
「わかったよ」
この勝手な力をなんとかできるまで、頑張っていくしかない。
いつきへの思いは胸に収めて、しばらくの間兄貴と特訓の日々を送ろう。




