不慣れな暮らし / 一路
「一路、起きろよ」
ゆらゆらと揺れている。
僕は毛布が気持ちよくて、まだここで転がっていたいんだけど。
「学校に行くんだろ。遅刻するぞ」
遅刻ってなに?
「学校は時間が決まってるんだ。見てたんだろ、俺の生活を」
だって今までは時差があったんだ。だから、こんなに眠たくなかった。玲二の朝の支度はすごく興味深かったな。真っ白いシャツを着て、首に青い紐を巻いたり、巻かなかったりして。
「初日から遅刻なんて最悪だぞ、一路」
玲二は多分毛布を引っ張ったんだと思う。それで僕はベッドから落ちて、床に転がった。
やっと少し目が覚めて、体をぐっと伸ばした。
閉まりたがっている目を開けると、玲二はもう制服に着替えたあとだった。
『おはよう、玲二』
「なにか言いたいなら人の姿になってくれないかな」
聞こえないのか、まだ。やだな、玲二に声が届かないのは。不便だ。
「おはよう」
「あと、俺のベッドに入ってくるのもやめてくれ」
「一緒に寝たいんだ」
「暑いんだよ、毛布に毛皮じゃ」
いつきがやって来た日、玲二は僕が勝手に部屋に入ったことを怒っていた。
だけど夜になってから、ごめんなって。あんなに怒ることじゃなかったって謝ってくれた。
玲二は今までひとりの時間が長かったから。家にいても、自分の部屋でひとりで静かに過ごしていたから、だから慣れていないんだと思う。
本当なら、いつも僕が一緒のはずだった。学校へ行くにも、勉強するのも、どこかへ遊びに行くのも。僕はずっと玲二と一緒に走るのを夢見ていたから、ついつい隣に入り込んでしまう。
「顔洗って、着替えて」
「あの服、すごく窮屈でいやだな」
「俺と同じ顔でだらしない格好しないでくれよ」
う、そうか。みんな僕を玲二と勘違いするかもしれない。
いつきもそっくりだって思ってくれていた。
しゃべったらすぐに気が付かれちゃったけど。
「一路、遅いぞ。早く食べなさい」
顔を洗いに洗面所へ降りていくと、お父さんも窮屈そうな服を着ていた。
今日からお父さんも仕事に行くんだった。本当は仕事に行かなきゃいけなかったのに、玲二の面倒をみて、僕の生活の準備をして、忙しかったから。仕事をほかの人に頼んだって話していた。
「リア、悪いけど二人のことを頼むよ」
リアはピロロ、と高らかに鳴いて答えている。
ライとハールはまだ寝ているのかな。いいな、学校がなくて。
「じゃあ私は先に行くから。なにかあったら連絡してくれ」
そういえば、どうやって連絡したらいいんだろう。
うーん、玲二に不慣れとか言ってる場合じゃない。僕の方がよっぽど不慣れだ、この生活。
玲二に時々引っ張られながら駅に向かうと、いつきがもう待っていた。
「おはよう、玲二くん、一路くん」
玲二が嬉しそうに笑って、僕はほっと一安心。
僕といるときはあんな風に笑ってくれないから、ちょっとうらやましい。
と考えている場合じゃなくて、人が多い。自動改札というこの機械が、僕は苦手だ。
「そこに軽く置けばいいんだよ」
「そっか、慣れてないんだね」
定期券というやつを買った時に、お父さんと練習したんだけど。
いきなりピンポーンと音が鳴ったり、うまく置けない場合は扉が閉まったり、わけがわからなくておっかない。
早くしろって怒られて、仕方なく定期券を入り口の上部分に置いた。
今日はうまくできてほっとしたら、様子がおかしかったのかいつきはくすくす笑っていた。
人でいっぱいの電車に揺られて、人生初の学校に行きつく。
ピンク色の花びらがたくさん舞い落ちる道はなかなかきれいだけど、門の奥に入ってまたうんざりしてしまった。同じ格好の生徒たちが山のようにひしめいていて、ぺらぺらの紙を持って騒いでいたから。
「お、園田ちゃん、玲二!」
声をかけてくれたのは、良太郎だった。
玲二をよく理解してくれて、頭の回転の速い素敵な人間。
「また同じクラスだよ、園田ちゃん。玲二は残念だけど別だった」
「そうなんだ、またよろしくね。あとね葉山君、こちらは玲二くんじゃないの。お兄さんの一路くん」
僕がにこにこしているだけだったからか、いつきがかわりに教えてくれた。
「え、兄貴の方だったの? 玲二は?」
「ここにいるよ」
「うわ、あれ? 玲二なの? なんで黒くした?」
良太郎はどっちに注目したらいいか悩んだ挙句、玲二を構うのが先だって決めた。具合が悪かったのかとか、心配したとか。良かった、玲二にいい友達がいて。
「玲二さーん、やったね! 同じクラスだよっ」
唐突に腕にぎゅっとしがみついてきたのは、髪の短い女の子だった。
「嬉しいな。仲良くしてね。あと勉強も教えて」
「僕玲二じゃない。玲二の兄弟の、一路」
「え? なに?」
「玲二じゃないよ」
説明しようとすると、別の誰かが現れてまた声をかけてきた。
「立花、俺いつきちゃんと同じクラスになったよ。なにかあっても恨みっこなしだからな」
「僕、玲二じゃない」
「は? なに言ってるんだよ」
周りが騒がしいし、玲二は僕とは逆の方を向いて良太郎と話している。
だから、みんな僕が玲二じゃないってなかなか気が付かないみたいだ。
ほかにも髪の色が茶色い人はいるけど、僕ほど明るい男の子はいない。
それに、割と背も高い方だったみたいだ。それじゃ、僕が玲二だと思われても仕方ないのかな。
「立花君、元気だった?」
更にやってきたのは、玲二を大好きになっちゃったセンパイって人だ。
先に声をかけてきた男の子は顔を歪めて、女の子はびっくりしたみたいに口に手を当てている。そんな二人をちらりと見たけど、センパイは気にしない、って心に決めて、僕の手を強く握った。
「ずっと休んでたみたいだったから、心配したよ」
「あー、あたしも。玲二さんどうして休んでたの?」
玲二は人気者なんだなあ。僕は少し嬉しい。
いつきが一番大事だけど、他にも仲がいい人がいたら楽しいだろうから。
僕の周りには狼と鳥と、あとはリスとか狐とか、森の仲間くらいしかいなかったから。
騒がしいのは好きじゃないけど、こういう元気な人間が大勢いると、うきうきするって少しわかった。
「センパイ、僕は玲二じゃない」
「え?」
「玲二はこっちに」
振り返ると、玲二はいなかった。いつきも、良太郎も。
あれれ。どうしよう。
困っていると、慌てた様子でいつきが走って来た。
「ごめんごめん、一路くん、教室一緒にいこ。同じクラスだから、案内するね」
「いつきちゃん、なに言ってるの?」
「あのね、この人は玲二くんじゃないの。双子のお兄さんで、一路くんっていうの」
いつきが大きな声で話すと、僕を囲んでいた三人は全員わあって口を開けて驚いたみたいだった。
そこでいつきも、僕の手をつかんでいた二人に気が付いたみたい。
「中村さん、蔵元先輩、玲二くんは先に教室に行ったんで」
「やだー、園ちゃん早く教えてよ」
「そうなんだ。ごめんね、えっと、いちろう君?」
「僕、一路」
「そうなんだ。わかった。ごめんね、間違えちゃって」
そっくりだから仕方ないよねー、と髪の短い女の子が言って、中村結だよと名前を教えてくれた。その隣の男の子は、本城元気。センパイの名前は、蔵元龍というらしい。
龍って、人の名前になるんだなあ。
センパイはひょろひょろっとしていて女の子みたいで、多分森の奥に住んでいる静かなタイプの龍なんだと思う。
教室に入って、先生の話を聞いたけどちんぷんかんぷんだ。
僕は前に呼ばれて紹介されて、そのあともちんぷんかんぷん。
いろんな人がやってきて質問されたけど、半分くらいはなにを言われているかわからなかった。良太郎といつきがやってきて間に入ってくれたからなんとかなったけど、ひとりきりだったらまずかったかもしれない。
この日の学校はすぐに終わって、帰る時にもいろんな人に声をかけられたけど、もう帰るからって教室を出た。
僕の教室は一組で、玲二は五組。端と端だ。玲二と一緒に帰ると言うと、良太郎といつきも一緒についてきてくれた。五組の教室を覗くと、僕と同じように玲二も囲まれて困っているみたいだった。
「玲二さん、めっちゃかっこよくなったよね」
さっき間違えてきた結が、玲二の腕にしがみついて体をくねくねさせている。更に、すぐそばにあいつがいた。百井沙夜。しがみついてはいないけど、玲二のすぐ後ろにぴったりつくようにして、なにをやってるのかな、あいつ。
「夜の玲二さんって感じでヤバイよお」
結のべたべたぶりは相当なもので、体をぴったりくっつけて、まるでひとつになろうとしているみたいだった。
いつきがほっぺを膨らませて、良太郎はびっくりしている。
「玲二、帰ろう」
僕が声をかけると、玲二は振り返って手を挙げて、結も楽しそうに僕たちに向けてぱたぱたと手を振った。
「あ、玲二さんのお兄さん! 時間いっぱいあるし、一緒に遊びに行こうよ!」
「俺は帰るよ」
「えー、なんで? 玲二さん全然遊んでくれないじゃん」
文句を言いながら結もついてくる。結がやかましいからか、いつきはなんにも言わない。沙夜はあとをそっとついてきて、良太郎は苦笑いしているだけ。
「玲二、今度一路と一緒にうちに寄って行けよ」
「ああ、ありがとう」
良太郎は学校の近くに住んでいるので、すぐに去っていった。
結は駅まで一緒で、電車が逆方向なんだそうだ。
残ったのは僕と玲二といつき。そして黙ったまま後ろについてくる沙夜。
『なんの用?』
玲二はなにを思っているのか、しらんぷりをしているみたいだ。
いつきもさすがに気がついて、不安そうな顔で時折沙夜の様子を見ている。
『あんたには関係ないでしょ』
ん、返事があった。無視してくると思ったのに。
『関係あるよ。どう考えても玲二を陥れたのはお前たちなんだから』
『その罰は十分に受けた。私はもう余計な手出しも口出しもしない』
『じゃあついてこなくていいじゃないか』
玲二にはどんな風に見えているんだろう、この人でなしとやらの顔は。
僕の目には美しい、まるで美術品のような顔だちに見えるけど、その奥に潜んでいる邪な魂はちゃんと感じる。
『うるさいわね、この犬ころ』
こいつ、一番言ってはいけない言葉を使ったな。
強目に警告をすると、沙夜は慌てたように人混みの中に紛れていった。
いつきと二人きりになりたがる玲二の腕を引っ張って、家まで戻った。
僕たちを出迎えてくれたのはライで、家の仕事をしていたのかな、エプロンを巻いている。
「お帰り、玲二、一路」
「なにその格好は」
「なにって、エプロンだ。掃除をしていた」
「母さんのだろ、それ」
似合わないな、だって。玲二の声は少し冷たくて、ライはしゅんとうなだれてしまった。
「玲二、今日どうして先に行った?」
「ん? いつの話?」
玲二は制服を脱いで、着替えをし始めている。
そうか、これをもう脱いでもいいんだな。良かった。僕も着替えよう。
「朝、良太郎たちと僕を置いて行った」
「ついてくると思ったんだよ」
意地悪だなあ、玲二は。いつきが戻ってきてくれなかったら、どうしていいかわからなくなるところだった。
「みんな親切だから、ちゃんと話せばわかってくれるだろうし」
「玲二がいるのにほかの人に頼るなんて変じゃないか」
「一路、脱いだ服を人の部屋に放るのはやめてくれ。ちゃんとハンガーにかけないとしわになる」
話をごまかしたな。
いつきみたいに頬を膨らませると、玲二はため息をついて僕の脱ぎ捨てたシャツを拾った。
「ブレザーとネクタイとズボンはハンガーにかけて。自分の部屋に頼むよ」
「その白いのは?」
「これは洗うから」
自分の分も持って、玲二は部屋を出て階段を下りていく。
僕がついていくと、洗濯機の前でまたため息をついてみせた。
「一路、パンツ一枚でうろうろしないでほしい」
「窮屈だから……。そうか、じゃあこれでいい?」
人間の姿だから服について言われちゃうんだ。狼になれば、裸でも文句は言われないぞ。
獣の姿になった僕を、玲二は無言のままじっと見つめた。
結構長い時間見つめて、やっと洗濯機にシャツを放り込んで、粉とか水を入れて機械を動かし、ぼそりと呟いた。
「俺、最近ずっといらいらしてる」
それは、中に潜んでいる誰かのせいだ。
その誰かは玲二に命をくれたけど、命だけじゃなくて自分も一緒に入って影響を及ぼしている。本人そのものは出てこないけど、どういうつもりなのかな。乗っ取ろうとしているのかな。それにしては少し、悠長な気がするけど。
今なら簡単に玲二の体が手に入るだろうに。
僕のわけた力は完全にもう残っていない。僕とのつながりが断たれたのがなによりの証拠になっている。
「記憶も抜け落ちているし、結局力のことは解決してないし、たまに怒りが抑えきれないような感じがあるし、どうしたらいいかわからなくて、気持ちばっかり焦ってて」
ゆっくり対処していくしかない。玲二がもっと今の状態に慣れたら、コントロールができるようになるはずだから。
僕よりもちょっと細い足に顔を擦り付けると、玲二はしゃがみこんでぎゅっと抱きしめてくれた。
「ごめん、一路」
いいんだよ、玲二。僕はお兄さんなんだから。
わかってほしくて頬を舐めると、玲二はぱっと僕から離れてしまった。
「舐めるのはやめてほしい」
僕に舐められるのはイヤなんだって。
なんだよ、玲二。狼なんだぞ。気にするなよそんなこと。
ぷりぷり怒りながら部屋に戻ると、ハールが制服をハンガーにかけている真っ最中だった。
『なにしてるの、僕の部屋で』
「玲二に言われただろう? 人間の生活に慣れるべきだ、一路。予定は狂っちまったが、日本でいろいろ学んだらいい。お前のためにもなるだろうから」
なに人間の格好してるんだ、ハールは。いつもはずうっと鳥の姿でいるくせに。
『すまない、一路』
後ろから謝って来たのはライで、最近は常にびくびくしている。
『ライには言ってない。玲二が悪い』
『玲二は狼になったことがないから、仕方ないわ』
なんだよもう、この家の鳥たちはみんな玲二の味方なのか。
リアはお母さんの友達で、ハールは僕の親友なのに。
「玲二と仲良くやってほしいから言うんじゃないか」
だからハールも人の姿になってるってわけ?
「俺は鳥の姿だとかえって目立つからな」
『もっと小型になったらいいんじゃないか』
「そんな器用な真似はできん」
『姿を変えられるなら、発展させられる』
「発展ってなんだ、ライ」
ライは三つの姿を持っている。人と、小鳥と、本来の姿。
体の形を変えられるなら、練習次第でほかの姿にもなれるはずだとライは言う。
『もともとある力を応用して、違うことができるようになるんだよ』
「たとえば?」
『俺は人が好きだから、人になりたいと思っていたんだ。そうしたら仲間が、姿を変える力をわけてくれた。俺は本来の姿だと目立って困るって話していたら、それなら目立たない鳥に姿を変えたらいいじゃないかって』
「どういう意味かよくわからないぜ」
僕の部屋で話し込まないでほしいと思っていたけど、いいことを聞いた。
僕は必要な力は全部持っている。獣の姿にもなり、人にもなる。心を見聞きし、本来の姿に戻れば戦いはお手の物だ。
だから僕らにはそんな発想がなかった。力の発展。
持っている力を応用して、違う技へと変えていく。
『それ、玲二にもできるかな?』
『どうかな。玲二にあるのは、見えないのと、反射があるかもしれないくらいだ』
見えないの応用について考えたけど、僕たちにはいい案が出せなかった。
『玲二の力は謎が多い。声が届く時もあるし、効く力もある』
『悪意のない力なら効くんじゃないかってライは言っていたわよね』
僕には悪意なんかないよ。
リアの発言にすっかり気を悪くして、僕はふてくされた挙句、いつの間にかうとうとしてしまって。
夕方、いい匂いがすると思ったら玲二が夜ご飯を作ってくれていた。
昼間ライがしていたのとは違う形のエプロンを腰に巻いて、包丁でとんとん、鍋をことこと、上手にできるんだなって僕はただ感心するばっかり。お父さんも帰ってきて、三人でご飯を食べた。
玲二はちゃんと後片付けまでしてくれて、えらいなあって思っていたら、リアに怒られてしまった。お手伝いしなさいって。玲二はお母さんの手伝いをしてきたからなんでもできるのよって。でも僕がそばに行ったら、大丈夫だよ、ひとりでやれるからって追い返されてしまった。
仕方なく、お父さんの隣でぼけっと座っていたら、玲二がやってきてなにかをテーブルに置いて行った。
「これ、なに?」
「アイスクリームだよ」
ふたを開けると白くて冷たいおいしいものが入っていた。
初めての味に夢中になって、あっという間にからっぽにしてしまって、僕は少し悲しいくらいの気分になっている。
「気に入った?」
玲二はお茶を運んでくると、こう僕に問いかけてきた。
「うん」
もっと食べたい。
「じゃあまた買っておくよ」
ふて寝をしている間に買い物に行ってたんだ、玲二は。
なにやってるんだろうな、僕。
これじゃあ玲二の方がお兄さんみたいじゃないか。
ハールの言う通り、少し頑張ってみなきゃいけないみたいだ。
だけど、張り切ってコップを台所に運んで洗おうとしたら、手を滑らせて落っことしてしまった。
僕はただしょんぼりと立ち尽くすばっかりで、後始末は結局、玲二が全部やってくれた。




