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狼少年の憂鬱  作者: 澤群キョウ
さみしくとも明日を待つ
40/85

最後の日 / 玲二

「玲二、園田ちゃんが来たぞ」


 ドアの向こうでバタバタと音がする。

 本当に不思議なんだけど、ライはどうやってあんなに音を立てているんだろう。歩いているだけじゃないのかな。


「玲二、会わなくていいのか」


 コンコンとドアが叩かれて、俺はただぐったりと頭を下げるだけ。


「この間の、もう一人の方は会ったじゃないか」


 なんだよ、もう一人の方って。二人は別にセットでもなんでもないよ。


「玲二、出てきてくれよ……」


 しょんぼりとした、景気の悪い声。

 幸運を運ぶなんて大層な使命を持っている割にずいぶん元気がないよな、ライは。


 心の中でいくら呟いても、ライには届かないみたいだった。

 向こうの声も全然聞こえなくなって、母さんもいなくなった家の中は随分寂しい。

 歩いているだけでやかましいくらいだから、静かではないんだけど。


 部屋にこもって一週間。

 祖父の言う通り、一歩も外に出ていない。

 良太郎に駅まで送れって言われたけど、出られなかった。

 

「玲二、いつきちゃんが来たぞ」


 ライが行ったかと思ったら父さんがやってきて、ドアをコンコンと叩く。

 俺の使っていた部屋の向かいにはライが留まっていて、俺はその隣で寝起きしている。

 なんにもないガランとした部屋には、カーテンと照明くらいしかない。


「届け物があるんだって。いつきちゃんだけじゃなくて、先輩からもチョコレートが届いたぞ。誰なんだ、先輩って。仲良くしている子がほかにもいたのか」


 誰だ、先輩って。心当たりはない。


「おお、玲二、りゅうちゃんからだぞ。りゅうちゃんもまだ、玲二が大好きなんだな」

「りゅうちゃん?」

「りゅうちゃんです。初めて見た瞬間からずっと、玲二が気に入ってた」


 いたたまれなくなって立ち上がり、ドアにかかっていた鍵を開けた。


「ああ良かった。玲二、ちゃんと食べなさい」

「チョコレートは苦手なんだ」

「駄目だ。我慢してでも食べなさい」


 ライを黙らせたかっただけなのに、押し付けられてしまった。

 こんなの、水なしで食べられるわけがない。

 そうなれば部屋から出ていかなければいけない。風呂には入りたいけど、鏡を見るのが辛い。


 二つの紙袋をぶらさげて部屋に戻り、鍵をかけようと思ったんだけど、父さんがすごい勢いで中に入ってきて、驚いてしまって阻止できなかった。


「ライ君、お茶を二つ頼む」

「わかりました」


 父さんは相変わらずの調子で、家にすみついている幸運を運ぶ鳥を結構こきつかっている。普段の留守番に使うせいで、良太郎もあっさり俺のもとへ通されてしまった。


「なあ玲二、そろそろ外に出よう」

「もういいよ」

「よくないだろう。餓死する気か?」


 戦わなきゃ道は切り開けない。

 父さんはそう言って笑うと、ライの運んできたお茶をお盆ごと床に置いて、俺の向かいに座った。


「玲二、前に話した通り、予言は曖昧なものだ。お前が十六歳で確実に人生を絶たれるとは言っていない」

「わかってる」

「それは良かった。じゃあ話してもらおうかな。どうしてそこまで落ち込んでいるのか。予言の話以外にも理由があるんだろう?」


 そんなものはない。そう思ったけれど、また違和感を覚えていた。

 母さんはやけに弱々しくて気になってけど、父さんはちょっと、余裕すぎないだろうか。


「なにか知ってるの?」

「なにをだい」

「ほかにも俺に隠していることが……あるんだよね」


 あの時の父さんの言葉をはっきりと覚えている。

 俺に隠してることが二つあるって。


「そうだよ。だけど隠しているから言えないし、それに今は違う問題について検討している」

「なにについて?」

「だから、玲二がそこまで怖れる理由だ。あの話を聞いた時、とても辛かったと思う。お祖父さんの言葉も堪えただろう。だけど、お前にはちゃんと支えてくれる人がいる。いつきちゃんも、葉山君も、ライも、リアも、私も、それにもちろん母さんも」


 どこからともなくリアが飛んできて、俺の頭に留まる。

 やめてほしいんだけど、リアはどうやら人の頭に乗るのが好きらしい。


「食べながら考えよう」


 父さんは勝手に紙袋の中身を出して、お盆の上に並べた。

 小さな赤い袋から出てきたのは、ものすごくあからさまなハート型の巨大なチョコレート。

 もう一つは、チョコレート味のパウンドケーキだった。


「情熱的だね」


 父さんは俺にハート型のチョコを差し出してきたけど、こっちじゃない。たぶん勘違いしている。


 園田特製のパウンドケーキを、父さんは手でひとかけらちぎって早速食べている。


「これはおいしいな」

「そっちはもう食べないで」


 代わりに巨大なハートを差し出して、パウンドケーキを自分に引き寄せた。

 俺が苦手だから、きっと甘さ控えめで作ってあると思う。

 柔らかくてしっとりしていて、幸せの味がするに違いない。


「俺、あの話を聞いてから毎日同じ夢を見ていたんだ」


 巨大なハートがパリンと割れる。

 父さんは口の中でチョコレートを溶かしながら、俺の話の続きを待っている。


「森の中を逃げる夢だった。俺の隣には狼がいて、一緒に戦ってくれるんだけど、結局かなわなくて最後は巨大な手に潰される」

「悪夢だね」

「その夢は毎日ちょっとずつ変化していて、狼がだんだん離れていっちゃったんだ。俺と一緒に走る距離が短くなって、誕生日の朝にはとうとう消えていた」

「その狼、名前はわかるかい?」

「……どういう意味、その質問」

「夢診断ってやつだよ。名前は、ついていたかな?」


 ついていた。

 夢の中の俺はあの狼の名前を知っていて、何度も呼んだ。

 だけど、覚えていない。


「あの狼も俺の名前を呼んでいたと思う」

「なるほど」


 簡単な話だ、と父さんは言った。

 自分には力がないんだと思い込み、誕生日が来るのが恐くなってそんな夢を見たんだと。


「玲二、その夢をまた見るんだ。それで、狼を探しなさい」

「探すって?」

「必ず森の中にいるし、お前を守ってくれるから。今ははぐれているだけだから、探して合流しなさい」


 そんなことが可能なのかな。

 夢なんてコントロールできないものだと思うけど。


「ライ君、ナイフを持ってきてくれないか」

「わかりました」


 ライにナイフを持ってこさせると、父さんはパウンドケーキを細く切り分けてくれた。

 全部食べたら、勉強しなさい。

 夜になったら眠って、狼を探しなさい。

 見つけ出したらその時が、新しい出発の日だよ。

 二年生になれなかったら困るから、学年末試験だけは受けなさい。


 ケーキを食べている俺に、父さんはゆっくりとこう言い聞かせた。


「チョコレートをそのまんま食べるなんて、ずいぶん久しぶりだよ」


 ごめん、父さん。先輩からのチョコを食べさせてしまって。

 園田の作ってくれたケーキは本当においしくて、なんだか涙が出てきそうだった。


 あんなことを言って傷つけたのに。

 良太郎にうっかり漏らしてしまったあの言葉、もしかして聞いているのかな。


 このまま暮らし続けていたら、俺は狂ってしまうだろうと思う。

 それとも、百井みたいに「人でなし」になるのかな。

 そうなればひょっとして、道は開けるかもしれないけど。

 あんな風に他人を呪いながら生きている男の隣になんて、並びたくはないだろう。


 父さんの作った手の込んでいない食事を食べて、寝る前にしばらく机に向かった。

 ドアの修理はまだ少し先になる予定で、すうすうと入り込んでくる冷えた空気のお陰で頭は冴えている。


 父さんは道を示してくれた。

 諦めない、希望に満ちた未来を。

 このすくんで動かない足を、なんとかしなければいけない。

 

 十二時を過ぎた頃、仮の部屋に戻って布団に横たわった。

 目を閉じて集中していく。

 あの日から見なくなった、不思議な夢。

 あそこへ入り込んで、狼を捕まえなきゃいけない。




 その風景に、見覚えがある気がした。

 何度も入り込んだ森への入り口が見える丘の上。

 そうだ、園田と一緒に寝転んで、さんざんいちゃいちゃした場所だ。

 花が咲き乱れて、鏡のように美しい泉があって、鳥のさえずりが聞こえるところ。

 今日はピクニックシートもないし、園田もいない。

 あの時俺に語り掛けてくれた泉の中にも、誰もいなかった。


 狼はいつも森の中にいるから、丘を下りて木々の間に入り込んだ。

 巨大な手が追いかけてこないか不安でたまらなかったけど、どこからか小鳥の鳴き声がしてきたおかげで落ちついて、少しずつ森の中にも光が差してきて。


「……」


 狼の名を思い出して、呼び掛ける。

 そうだよ、お前は俺で、決して離れられない存在じゃないか。


「出てきて、力を貸してよ」


 一緒じゃなきゃ、歩いていけない。

 この先にそびえたっている大きな壁を破れない。

 非力な俺も、鋭い牙を持っているお前も。


「そうだろう?」


 木々の間を影が走り抜けていく。

 銀色の獣は何匹もいて、だけど、あいつは混じっていなかった。


「……」


 何度も何度も呼び掛けたけど、ダメ。

 ぱっと目覚めて、ひどく悲しい気分になっていた。



「すごいじゃないか、玲二」

「なにが?」


 母さんがいないと、食卓に並ぶものは簡素になって、全然華がない。

 だけど、夢の話を聞いた父さんは随分喜んでくれた。


「コントロールできないと思ってたのに、ちゃんとできたんだろう?」


 そのうちお前の相棒も見つかるさ、と父さんは笑った。

 その隣で、ライも木の実をむしゃむしゃ食べて嬉しそうにしている。


『玲二、私も協力するわ』

「リア」


 また頭の上に乗って、白い鳥がさえずる。

 この声、夢の中で聞いたかもしれない。

 なにをどう協力するかはわからないけど、頼もしい言葉だ。


「リアの声が聞こえる」

『心を閉ざしていたからじゃないかしら』 


 それは確かに、そうかもしれない。


『テレーゼは私の親友で、玲二は私の息子同然よ』

「母さんは?」

『心配しないで、無事でいるから。時々連絡をくれて、玲二のことばかり気にしているわ』


 今日は少し元気になったと伝えてもいい?

 白い鳥はテーブルの上に飛び降りて、俺の手をつんつんとつついた。


「いいよ、大丈夫」

「玲二、母さんはどうしてるって?」

『テレーゼはいつでもあなたたちと共にいる』


 急に詩人になっちゃって、そんな風に伝えるのは恥ずかしい。

 だけど父さんの期待に満ちた目を見たら、やっぱり伝えざるを得なかった。




 昼間は自習して、夜は必死になって狼を探した。

 何度も何度も彷徨っているうちに、森の中の地形を覚えてきて。

 狼の住処がある場所をいくつも巡って、そして。


 二月二十八日。

 絶望の淵に落ちてから三週間。とうとう、あの狼を見つけた。


「……」


 名前を呼びかけると、ひと際美しい毛並みの狼はすっと立ち上がった。

 岩の上で、まっすぐに立ち、空に向かって吠えている。

 すると唐突に例の巨大な手が落ちてきて、戦いが始まった。


 足元をいくつかの影が行き過ぎていく。

 白と黒の鳥が飛んできて、俺と狼に加勢してくれた。


『行くよ、玲二』


 俺の声が聞こえる。手を広げると、大きな透明の壁が出てきてすべての攻撃をはじいた。

 巨大な手がひるんで、狼が飛び出していく。大きく口を開けて噛みつき、黒い鳥が炎をあげながら飛来してきて、白い鳥もすごい勢いで突っ込んできて、俺は狼のあとについて、敵の指の一本にしがみついて叫んだ。


 誰かの名だったと思う。

 だけど今は、思い出せない。

 よく知っている名前だった。

 とにかく、巨大な手は滅びた。

 体に大量のひびをいれて、崩れ、風に吹かれて飛ばされていった。


『玲二!』


 狼が飛んできて、俺を地面の上にひっくり返す。

 頬を舐めて、狼のくせに満足そうに微笑んだ。


『大丈夫、まだ続いていくからね』


 森の木々が頭を垂れて、空へ向けて道を作っていった。

 虹が何本もかかった道の先には、誰かが立っている。




 あれはたぶん、園田だったんじゃないかな。

 顔を見る前に目が覚めてしまった。

 だけどこれからも続く俺の生きる道に一番必要な人のはずだから。


「父さん、見つけたよ」

「そうか」

「敵も倒した」

「そうか」


 だから大丈夫。

 髪がずいぶん伸びてしまったのが気になったけど、制服に着替えた。

 ずっと切りっぱなしにしていたスマートフォンは、電池の残りがまったくないらしく、拗ねたように電源を入れてくれないまま、うんともすんとも言わない。

 仕方がない。今日は一人。大丈夫、必ず会えるから。


 久しぶりに吸った外の空気は鋭くて、いちいち肌に刺さるように冷たかった。

 だけどすがすがしい。こもりきった生暖かい空気とは違って、爽やかな香りがする。

 いつもの商店街を抜けていく。

 予言の話を聞いたばかりのころは、そこらじゅうにあるすべての物影が恐ろしかった。

 だけど今は大丈夫。


 古びたタイルを踏みしめて進んでいくと、改札前に一輪の花が咲いていた。


「玲二くん、おはよう」

「どうしているの?」


 いつきは頬を膨らませて、なにそれ、と怒った。


「お父さんが連絡くれたの。今日からちゃんと行くからよろしくねって」

「父さんが?」

「うん。メル友ってやつなんだ」


 いつの間にそんなことになったのかな。

 ぼけっと考えていると、いつきは唐突に俺に抱き着いてきた。


「心配したんだよ」


 コートのせいで、いつきの体が少し遠い。

 だけど髪の毛からは相変わらずいい香りがして、俺を一気に幸せな気分にしてくれた。


「ありがとう」

「二度と会えないかと思った」

「俺も」


 サラリーマンもOLも学生も大量に行き過ぎていく中で、映画の主人公よろしく朝っぱらから抱き合ってしまった。

 恥ずかしいけど、でもこれも必要なプロセスなんだと思う。

 

「行こうか」

「うん」


 また電車に乗って、学校へ向かって、良太郎にも謝った。


「なんだよ、立花。ついに来たのか」


 本城には嫌味を言われたけど、そんなのは気にしない。


 試験勉強をして、来年度の準備を進めていく。

 ぬかりなくやって、ちゃんと進級できるようにしなくちゃいけない。

 秋からずっと怪我したり、府抜けていたから。

 ちゃんと支度してから、答えたいんだ。


「ねえ、玲二くん、なにがあったの?」


 いつきの問いに。

 あの時の俺の出したあんまりな質問に、真剣に答えてくれたから。

 まだ十六歳でしかないけれど、あの決意は本当だと俺は思っているから。


「説明したいんだけど、試験が終わってからでいいかな?」

「今じゃダメなの?」


 電車から降りた帰り道。

 勉強会に参加したあとで、もうすぐ九時になるくらいの時間だった。


「うん。それと、もう一つ条件があるんだけど」

「なあに?」

「俺と一生一緒にいてくれる?」


 ざくざくと響いていた足音が止まった。

 いつきはしばらく驚いたような顔をしていたけれど、俺をじっと見つめてから、にっこり笑った。


「……いいよ」

「じゃあ、ちゃんと進級出来るってわかったら話す」

「一生一緒にいるんだよ? 今話してもいいんじゃない?」

「留年して後輩になっちゃったらかっこ悪いから」


 いつきに話そう。俺の抱えている事情を全部。

 狼の一族から弾かれても、このあたりの連中たちから疎まれても。

 なんの力も持っていなくても構わない。

 ちゃんとルールを守って、つつましく暮らしていけばいいから。


「おやすみ、いつき」

 

 園田家の少し手前で立ち止まって、いつきを抱きしめて、おでこにキスをした。


「そこじゃなくて」


 あんなに落ち込んでいたのが嘘みたいだ。

 怯えて、見失って、迷っていた。

 ずっと光が俺を照らしてくれていたのに。本当にバカだった。


 唇を重ねて、しばらく幸せを味わう。

 でもやっぱり舌だけは拒否されて、いつきは顔を真っ赤にしながら家に戻っていった。




 それから二週間経って、試験の結果は上々。

 出席日数もぎりぎりセーフで、留年はしなくて済んだ。

 学生にとっての一年はもうすぐ終了で、後輩を迎える準備だの、先輩を送り出す宴だので高校生はひどく忙しい。


 そんな中、俺だけはいつもの流れの中にとどまっている。

 無駄な外出はなるべく控えて、誰も刺激しないように穏やかに暮らしている。

 ちょうどライの謹慎期間も終了したらしく、大きな鳥は名残惜しそうに自分の巣へ戻っている。


 元通りに近づいた日常。欠けているのは、母さんだけだ。



 いつきはクラブで今日はいなくて、ひとりぼっちの帰り道。

 一年間の打ち上げと、来年度の部長を決める会があるらしい。

 学校外でやるから、今日は待ち合わせができない。


 まだ真昼間で、肌寒いけれど春の気配もそこら中で感じられるようになった。

 一人で駅前を抜けて、駅へと向かう。

 その途中、電話が鳴った。


『玲二、大変なんだ』

「ライ、どうしたの?」

『すごくいいことがあったんだ。俺の巣に寄ってくれ』

「そういえばこのあたりなんだっけ? でも、どこかはわからないよ」

『大丈夫、案内するから。いつも使っているのとは反対の出口に向かってくれ。それから、高い鉄塔に向かって歩く。トンネルがあるから、そこについたら連絡してくれ』


 幸運を運ぶ鳥が大変だと表現する「すごくいいこと」って一体なんだろう。

 よっぽど素晴らしいことなんじゃないかな?

 そういえば、鳥同士気が合うのか、リアと仲良くやっていた。

 

 いろいろと考えを巡らせているうちに、心配に思うこともあった。

 リアは帰るよう言われていたのに、残ってしまって平気だったのかとか。

 俺と同じくよそ者のリアと仲良くして、ライは大丈夫なのか、とか。


 学校とは反対側のエリアに来たのは初めてのことで、あたりをきょろきょろと見まわしてしまう。

 鉄塔はひとつだけ飛びぬけて高く、目印として見失わずに済みそうだった。

 地味な商店街を抜けていくと、しばらくは家がぽつぽつと建っていたけど、少しずつ畑の方が多くなっていく。

 案外牧歌的な景色の街だった。左側にはこんもりと茂った小さな山があって、いかにも鳥が住処にしそうだなんて思ってしまう。


 まっすぐ前には、トンネルが見える。

 古めかしいトンネルの中には蛍光灯がついているけど、昼間だからかあかりはついていなかった。


 ここがライの言っていたトンネルなのかな。

 まだ先にあるかもしれないと思いながら、ポケットから電話を取り出した。


 そこでやっと、気が付いたんだ。

 この電話、ライを登録していない。

 新しくしてから、カラスには会っていない。


 寒気が足元から駆け上がってきたけど、もう遅かった。

 背後に猛スピードで車が突っ込んできて、けたたましいブレーキの音を立てる。

 止まる前にドアが開いて、中から何人もの真っ黒い集団が降りてきて、それで。


 携帯が落ちて、地面に跳ね返って、ひびがはいっていた。

 俺の目の前のそれを、黒い手が拾って、それで。



 今は、真っ白い部屋にいる。

 意識が飛んでいた。変なにおいがしてクラクラとして倒れたと思ったら、今は見覚えのない部屋。手も足も全然動かなくて、せいぜい頭を振れるくらいしか自由がない。


 なんの音もしない白いだけの場所に、恐怖を感じていた。

 だって、俺がこんな場所にいる理由は一つ。

 


『おやおや、目が覚めたかな?』


 部屋のどこかから唐突に声が響いてきた。

 やたらと楽しそうなその声は、続けてこう俺に語り掛けてきた。


『今行くよ、立花玲二君』


 俺を縛っているのは、分厚くて太いベルトだった。足首、腰、胸、肩まで全部固定されて動けないし、口にもなにかが嵌められていてしゃべれない。


 宣言通り、すぐに部屋の一方の壁が開いて、何人かが姿を現していた。

 まったく見覚えのない顔なのに、俺の名前を知っている。


「いや、会いたかったよ。人間を超えた存在ってね、本当に貴重なんだ」


 声の主は先頭に立っている男で、白衣を着ていて、四十代くらいに見える。

 日本人なのかどうかはわからない。とりあえず、アジアの人間ではあるんだろうけど。


「さて。君が話のわかる少年なら、苦痛を味わうことは一切ない。我々は紳士の集団であるからして、協力してくれるのならそれが一番いいんだ」


 ぺらぺらとしゃべる男の背後には、まだ四人いる。

 全員が白衣を着ているのはわかったけど、顔はよく見えなかった。


「君は狼なんだってね。過去にあるんだ、捕まった例が。素晴らしかったよ、あの体の変異、見事な体躯、野生の香り……」


 男は俺に、「本当の姿」を見せるように言った。


「本物かどうかは怪しいところだけど、君の家族については把握しているよ。それと、仲良くしているっていうお友達もね。この意味はわかるよね」


 男の胸にはネームプレートがついていた。白く簡素なプレートには「N.KAZAMAKI」と彫られている。


「可愛い女の子も混じってるって聞いてはりきってる連中がいるんだけど、僕としては楽しませたくはないんだ。パーティするなら、ここでやらないと僕がつまらないでしょう?」


 あの電話は誰からだったんだろう?

 全身から汗が噴き出して、体中を濡らしていく。

 気分が悪い。血の巡りがいつも通りじゃなくて、すごく窮屈で、息も苦しい。


「じゃあ見せてもらっていいかな、君の本来の姿か、狼か。どちらでも構わないよ」


 男はにこにこと笑いながら、俺の口をふさいでいたなにかを外した。

 そして二歩、後ろに下がって、楽しげに手に持っていた棒をくるくると回している。


 嵌められたんだろうな。

 母さんの心配していた通りだった。

 物事を慎重に、安全にすすめるためには、考えすぎるくらいがちょうどいいんだ。


 明日、いつきと会う約束をしていたのに。

 多分行けない。

 一生一緒に居てって切り出したのは俺の方なのに、裏切ることになってしまった。


 俺を差し出したら、なにかいいことがあるのかな。

 腹いせ以外に、ざまあみろって言う以外に、メリットがあるんだろうか。

 他人の憎悪を甘く見たツケなんだろうけど、あんまりにも酷すぎやしないか。


 せっかく、相棒を見つけたのに。

 狼を見つけたのに、結局一緒には走れなかった。

 変身は、しない。俺にはできないままでいい。

 爺さんにはなんの恩もないけど、せめて母さんの役には立ちたいから。

 

「早く!」


 黙り込んでいた俺の胸を、男が棒で打つ。

 痛いし、吐きそうだけど、なんとかこらえた。


「なんのことだかわからない」

「へえ、なかなかいい根性してるね」


 俺が動けないからって、男は何度も何度も棒で胸を殴りつけきた。

 何度も真っ暗になったり、真っ白になったり、それから真っ赤になったり。

 苦しくて息もできなくなったころ、全身を拘束していたベルトが外されて、床に倒れ落ちた。


「早くしろ!」


 そうか、嵌められたのは俺じゃなくて、こいつらなのかもしれない。

 人じゃない者を探している組織が、ただの高校生を捕まえて殺したなんて、とんでもない事態になるんだから……。


 俺が人の姿のままなら、大勢の役に立つってわけだ。


 理不尽だけど。

 悲しいけれど。

 慰めになんかならないけど。


「いつき……」


 散々振り回しちゃってごめん。


「なんだって?」


 体と同じように心も冷え切ってしまっているように思った。

 これまでもたくさん、絶望してきたから。慣れちゃったのかな。

 自分のことだけど、すごくかわいそうだ。

 真っ暗になる前に、いつきに会いたい。

 夢の中の都合のいいいつきでもいいから、会ってから終わりにしたい。


 まぶたの上に、可愛い顔を思い描いていく。

 だけど首筋になにかが刺さって、冷たいものが体の中にぐいぐい押し込まれてきて、邪魔をされてしまって。


 それでまた、独りぼっち。


 真っ暗い冷たい海の底に沈んで、俺の人生は終わってしまった。

 


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