儚い道へ / 玲二
「うわ、玲二くん、あれ見て」
ビンゴの二等でもらったのはブランドもののバッグ。三等は腕時計。
一等は旅行券で、どうして豪華なイベントがおまけについてきたのか、船を降りたらようやくわかった。
船着き場の近くにはバスが待っていて、車体には派手なラッピングがしてある。
「結婚式場見学ツアーだって」
豪華クルージング、ビュッフェ付き。さらに今はオータムフェアで、素敵な賞品が当たるビンゴ大会もついているらしい。
「あれに紛れ込んじゃったのかな?」
別に貸し切りなんて言われなかったのに、と園田はくすくす笑っている。
「早くいこ、玲二くん」
バスの横を二人で走り抜けていく。そんなつもりはなかったけど、勝手に紛れ込んだ上景品をかすめとっていったなんて、確かにやましい気分だ。
適当に走っていくうちに海岸にたどり着いて、二人で並んで海を見つめる。
「さっきのお客さんたち、みんなあのツアーに参加してたのかな?」
「そうかもね、カップルばっかりだったし」
「何歳か聞かれたんだ。どうしてあんなにびっくりするんだろうって思ったけど、十六じゃ驚くよね」
その時、俺もいたらすぐにミスがわかったんだろうな。
園田の十六歳はセーフだけど、俺の十五歳はアウト過ぎる。
「さっきのビュッフェ、おいしくなかったね」
園田は楽しそうにあははと笑って、俺にぎゅっと抱き着いてきた。
遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。たぶん、ダメよって言ってるんだろう。
だけど俺は、警告を無視して園田の背中に手をまわした。
「園田、俺、単純だしすごくバカなんだ」
「どうしたのいきなり」
「さっきの答え、嬉しかった」
ビンゴに邪魔されたからって、曖昧にできない。
真剣に考えて出してくれた答えだってわかったから。
だったら俺も、今の自分にできる精一杯をちゃんと伝えなきゃいけない。
白いニットも、その奥に隠れている体も、全部柔らかい。
だけど、海風にあたったせいか頬が冷たかった。
ひらひらと揺れる髪の毛も、砂に埋もれたボア付きのブーツも。
園田の全部が愛おしくてたまらない。
「俺、まだ付き合おうって言えないんだけど、だけど、園田にキスしたい」
腕の中で、園田が俺を見上げる。
なんて図々しいセリフなんだって自分でも呆れるくらいなのに、返事はこうだった。
「いいよ」
大きな目がぱたんと閉じる。
おそるおそる頬に触れて、指先で撫でて、顔を近づけて。
微笑んだ形の唇を、俺は夢中で味わった。
何度か軽く触れたあと、強く押しつけて、それから優しく噛むようにして。
誰もいないからって長々と、ずっと望んでいたように。
園田は全部受け入れてくれて、されるがままでいてくれたんだけど、我慢できなくなって舌を入れようとしたらさすがにびっくりしたのか逃げていってしまった。
といっても、まだ腕の中にいるんだけど。
真っ赤に染まった頬がとても可愛い。
「やだ、もう……。いきなり」
「ごめん」
「そういうのは、ちゃんと彼女にした後でお願いします」
呆れられちゃったかな。
何度か聞こえていた警告も、途中からは聞こえなかった。
リアも驚いているかもしれない。だけど邪魔しないでくれたから、あとで礼を言わなきゃ。
幸せだった。
ただの十五歳と十六歳のふわふわした恋愛から出た言葉だとしても、嬉しくて、満たされた気分だった。
初めてしっかりと触れた唇の感触がいつまでも残っている。髪からする香りも、抱き寄せた時に触れた腰の細さも、なにもかもが全部手の中にあって、俺の身勝手さを忘れさせていく。
苦しいばかりの毎日に、園田は必要なすべてを与えてくれる。
潤いと、輝きと、優しさと。俺の人生に欠けた柔らかさを用意してくれるんだ。
「玲二、ダメって言ったのに」
だけど俺はバカだから、夕飯の時に母さんに叱られてしまう。
警告を無視して、大好きな女の子に欲情しているから。
母親にお見通しっていう最悪の状況を受け入れているんだから、ちょっとくらい見逃してくれてもいいじゃないかって考えているんだ。
「キスしただけだよ」
「でも」
「男とした時はなにも言わなかっただろ」
あの記憶が忌まわしすぎて、それもつらかった。
人生で一番深くつながったのが、別に好きでもなんでもない同性だっていうのを、なんとか消してしまいたかった。
でも、消せないんだから。上書きするくらいいいじゃないかと思う。
「もう……」
「セックスしないならいいって言ったのは母さんじゃないか」
「やめなさい、玲二」
しまった、父さんもいたんだった。
嫌だな、本当に。普通の高校生なら、こっそり好きな相手と付き合うくらい、誰でもしているはずだ。目の届かないところで一線を越えて、それをそっと隠して、やましさと誇らしさを抱えて生きていても許されるはずなのに。
「我慢しなきゃいけないのはわかってる。いろいろ気をつけなきゃいけないのも。だけど、我慢ばっかりじゃ苦しくてやってられない」
園田は俺に必要なんだ。
光の見えない生活なんて出来ない。
六月までずっと、辛かった。
園田がいるから、どんなことにも耐えようと思える。
テーブルには夕飯が並べられて、ほかほかと湯気をあげている。
暖かい食卓も幸せの象徴だとは思うけど、俺にはもう、あったか家族以外にも大切な人ができてしまった。
「玲二、じゃあ、せめて……」
母さんの声は小さい。絞り出してようやく出しているような、苦悩に満ちている。
「十七歳になるまで待って」
「なんで?」
どうして、十七歳?
「だって、相手の子にだって、時間は必要でしょう? だってまだ、あなたは十五歳で、あの子は十六歳よね。もう少し大人になるまで待ってほしいわ」
母さんの言葉にはキレがない。
なんだよ、十七って。一年でそこまで変わるのか?
俺はまだ結婚とかできないままだけど。
十八ならまだわかる。
なんでそんな中途半端な数字を持ち出すんだろう。
不満を胸の中で育てながら、それでも夕飯は全部残さず食べた。
食器の片付けも手伝って、部屋に帰った。
また、例のあれだ。母さんが時々見せてくる弱々しさ。
悲しみと、苦悩と、切なさと。やるせない、って顔をする理由がわからない。
再来年の二月に、十七歳になる。
あと、一年と三か月弱。我慢していたらどうにかなれるのかな。
その間に俺の力が目覚める公算があるとか? まさかね。
ライとリアの声は聞こえるけど、それだけだ。
彼らにとってはただの標準装備。それが限定的に使えるようになっただけ。
たぶん、特別な力なんかじゃない、これは。
聞こえるだけで、届けられないし。
十七、という数字がやたらと引っかかる。
人生に関わる重大な秘密を打ち明けられたのが、十五歳になる直前だった。
恋愛はダメっていうくせに、十七になったらいいとか、急に譲歩しちゃって。
母さんの過保護ぶりも気になる。いままで、あんなにべたべたしてくることはなかった。
もちろん、大けがしたからなんだろうけど。それでもおかしい。
いつでも駆けつけてきてくれるのはありがたいけど。
廃ビルでぼこぼこにされた時。
それから、この間ライに掴まれた時。
『まだあなたは十五なんだから、大丈夫よ』
そうだ、あの時も言われた。十五なんだから。
俺はつい、若いからすぐに回復するって意味にとったけど、鳥であるリアがそんな風に言うかな?
部屋を飛び出し、廊下を抜けて向かいへと向かう。
ドアを開けると、リアはライの頭の上に乗っていた。
「玲二、なんだ、いきなり。なにもしてないぞ、俺たちは」
なんにもなかった部屋にはクッションがいくつか転がっていて、少しだけ居心地がよさそうになっている。テーブルに、コップと深めの皿。水のボトルも置いてある。
ライは部屋のど真ん中で胡坐をかいて座っていたらしく、突然の訪問に慌てている。
「リア、あの時どうして俺に、まだ十五だから大丈夫って言った?」
チチチ、と声がする。
ただの相槌なのか、それとも本心を隠すために鳥のフリをしているのか。
「教えてくれよ!」
「どうしたんだ、玲二、少し落ち着けって」
ライが立ち上がると、リアは頭から飛び立ってしばらくの間部屋中をくるくると回った。
「あの時、ライに掴まれてたどり着いた森で、励ましてくれただろ」
「うう……」
「まだ十五だからって、どうして? なにか特別な意味があって言ったのか?」
返事は結局なかった。
リアは翼をバサバサと大きく二回鳴らして、俺の横を通り抜けて下へ飛んで行ってしまった。
「ライは知ってるのか?」
「すまない、玲二。俺にはなんにも……」
そうだろう。これはたぶん、家族の秘密なんだ。
母さんが言えずに抱えている秘密。
ずっと秘め続けているには大きすぎて、かけらをこぼして落としている俺についての重大な、なにか……。
十五歳。
十七歳。
まだ十五。
十七になったら。
すっぽり抜け落ちている数字はひとつ。
十六歳。
俺たちは人間じゃないから。
だからきっと、悪いことが起きるってわかっているんだ。
俺は今は見えないけど、昔は見えた。ぼんやりとした形だったとしても、少しくらいは見えた。
未来を見通すなんて馬鹿げていると思うけど。
だけどそれは、俺の憧れている「普通」の世界の住人にとっての話で。
「母さん」
階段を下りている間に、一番最悪の答えを弾き出していた。
リビングには両親が揃って、表情を硬くして座っている。
「俺、十六で死ぬの?」
これなら全部納得いくんだ。
俺を人間として育てようとしてきたのも。力について話さなかった理由も。
「なにを言ってるの、玲二」
だけど間違いがあって、曖昧な血縁の誰かができたらまずいから。だから子孫は禁止だなんて言うんだろう。
「バカなことを言わないで」
声が震えてる。今にも崩れ落ちそうな母さんを、父さんがそっと支えている。
「そんなわけないじゃない……」
「じゃあどうして泣くの?」
母さんがナーバスになって、Watersの連中に関わるなって言うのも。
もしかして、危険から遠ざけておけば、生き残れるかもしれないから。
俺には言わずに、かすかな希望にすがろうとしてたんじゃないか?
胸の内を全部吐き出すと、母さんのかわりに父さんが答えてくれた。
「そうだ。玲二、私たちはお前に二つ、隠していることがある」
母さんは父さんに抱かれたまま、ぶるぶると体を震わせるばかり。
「二つ?」
「ああ。だが、必要があって伝えてこなかった。だから今、話せるのは一つだけだよ」
「俺、もうすぐ死ぬの?」
「そうじゃない。予言を受けているだけだ。十六で死ぬかもしれないってね」
父さんが言い終わった瞬間、母さんはリビングから出て行ってしまった。
声をあげて泣きながら、駆けていってしまった。
「予言って、なに?」
「狼の一族はみんな、生まれた時に魔女に見てもらうんだそうだ。その時に、お前はこのままでは十六歳で命を落としてしまうといわれた」
「このままでは……?」
「その言葉の意味までは教えてもらえなくてね。だからたくさん考えたんだ、お前をどうやって守ったらいいのか」
父さんはソファの座面をぽんぽんと叩いて、隣に座るように促してきた。
言われた通りにすると、母さんの匂いがして、心が痛んだ。
「私はあんまり信じていないんだよ。テレーゼには楽観しすぎだと怒られるけどね。でも、できる限りをしているし、悲しみにとらわれて暮らすのはつらいだろうから」
「父さん……」
「本当はテレーゼもお前が誰かと一緒に過ごしているのを喜んでいるし、ずっとそうなればいいと望んできたんだ。人間との恋愛は基本的に禁忌らしいけど、お前の気持ちを一番理解できるのは間違いなく母さんだからね」
いつも通りの穏やかな声。
内容を重視すべきなのか、それともこの父さんの変わらなさを信じるべきなのか。
「ずいぶん落ち着いているんだね」
「いいだろう? 私は動じない、母さんはお前をなんとしても守ろうと、警戒を怠らない」
「母さんだって、そんな予言を恐れなくていいんじゃないの?」
「そうだな。でも、その辺の占いとはわけが違うんだ。母さんはお前を失うことをとても恐れているんだよ」
言わない方が良かったのかな。
だけどもう、言ってしまった。はっきり口に出して、責めてしまった。
足が冷たい水に浸かっているみたいな気分だ。
波打ち際に立っていたはずが、いつの間にか潮目が変わって、このままじゃ飲み込まれてしまいそうな、そんな感じ。
「玲二、忘れるのは無理だろうけど、あまり気にするんじゃないぞ」
「気にするよ」
「悪い言葉に捉われていると悪いことを引き寄せる。私たちはお前を守る。信じて、穏やかに過ごすんだ。いいね」
父さんに抱き寄せられて、ぎゅっとされた。
俺の方がもう背は高いんだけど、すごく力強い。
「母さんに謝ってくる」
知らない方がいいことは、世の中にたくさんある。
俺が悲観しすぎないように。自暴自棄にならないように。
人生を大切にするために、秘密にしてくれていたんだろう。
心がずっしりと重い。
これまでも重たかったけど、段違いだ。
「母さん」
二人の寝室のドアは開いていた。母さんはベッドに座って肩を震わせていたけど、電気はついていない。
あかりをつけないまま、中に進んだ。
寂しそうに小さくなっている母さんの隣に座って、謝った。
「ごめん」
「玲二は悪くない。わたしがいけないの」
「一生懸命やってくれてるじゃないか」
母さんは俺に顔を向けてくれたけど、なにも言わなかった。
ただただ泣くばっかりで。
「言ってくれたら良かったのに。そうしたら俺、あの店には行かなかった」
「言えるわけないわ……」
まあ、確かに。そうだろうな。来年死ぬかもしれないんだから、危険な連中の集まるところには行くななんて……。
言えるはず、ないんだ。
「そうだよね、ごめん」
「ごめんね、玲二。こんな思いをさせたくなかったのに。私がちゃんと出来なくて、本当にごめんなさい」
「謝らないでよ」
どんなに頼んでも、母さんは俺に謝り続けるばっかりだった。
俺はすごく悲しいのに、でも、涙は全然出てこなくて。
どうしてこんなに薄情なんだろう。
母さんがどれだけ心配して、守ろうとしてくれているか、思い知ったっていうのに。
最後にはなぜだか狼に姿を変えて、母さんは俺の顔をずっとなめ続けた。
そしていつの間にか、俺の膝の上に頭を置いて寝てしまった。
父さんがやってきて、入れ替わってくれて、部屋に戻ると小さな白い鳥が待っていた。
『玲二、ごめんなさい』
「リアまで謝らないでよ」
『うかつな発言をしてしまったから』
「いつから俺を見守ってくれてたの?」
『うんと小さいころからよ。幼稚園に通い始めたころからかしらね。テレーゼに呼ばれて、子育てを手伝ってほしいって言われたの』
リアの声は母さんと似ている。
頭の中に直接響いてくるのに、そう感じるのは変かな。
「ありがとう、今日、見逃してくれて」
『警告したのに止めないんだもの』
いきなり大波を起こすわけにもいかなかったからね、とリアは笑った。
そんなことできるのか。すごいな、この可愛い小鳥は。
「もうしないよ」
優先順位が変わったから。
俺はとにかく、十六歳の一年を無事にやり過ごさなきゃいけない。
「リアはあの会合に参加してるの?」
『してるわよ。姿は見えなくても、あの場にいる者は大勢いるの』
俺、本当になんにも知らなかったんだな。
ただの子供として育ててもらっていた。
気付かせないように、細心の注意を払ってくれていたんだ。
今日、園田と一緒にいられて良かった。
キスできて良かった。
次にできるのは、早くても再来年の二月。
あんなに甘い感覚を、しばらく忘れなきゃいけない。
それがつらいと思う自分が、すごく情けないけど。
すがらなきゃ、生きていけない。
なにもかも捨てて構わないっていう答えを希望にかえて、生き抜いていかなきゃ。
園田は俺の太陽。
俺が歩く道を照らすのは月の光だけど、きっと園田が放った光のかけらだから。
自分にそういい聞かせて、この日は眠った。
せめて夢の中ではいい思いをしたかったけど、起きた時にはなんにも覚えていなかった。




