ひとりの夜 / 玲二
インターホンが鳴った時、ちょうどリビングにいた。
小さなモニターには、園田と良太郎が並んで映っている。
「ライ、上に行っててくれる?」
「園田ちゃんが来たのか。そうか。あの、玲二」
「なに?」
「いや、なんでも……ない」
これはなにかやらかしているな。
今度は一体なんだろう。でも、仕方がない。出るしかない。
「少し待ってて」
ボタンを押して答えてから、玄関へ向かった。
体のふらつきは随分収まったけど、多分、顔色が良くないといわれるだろう。
「玲二、おお、大丈夫か?」
「うん、まあ、なんとかね」
園田は良太郎になんて説明したのかな。
そもそも俺がたいした説明をしていないんだけど。
「具合はどう?」
「よくなったよ」
二人をリビングに通して、台所に向かった。
「紅茶しかないんだけど、いいかな」
「俺はいいよ」
「私も」
母さんがコーヒーを飲まないから、戸棚の中には茶葉しか入ってない。
癖のある味のものは避けて、無難なダージリンの缶を選んで用意をしていく。
「玲二、携帯なくしたってホント?」
お茶を用意している間にも、質問はいろいろと飛んできた。
そりゃそうだよな、俺だってこんなに状況不明な誰かがいたら、どうしたのか気にするだろう。
「そうなんだ、なくした」
「なにがあったんだよ」
「ちょっと気分が悪くなって、その時にうっかり落としたみたいで」
事前に考えておいた理由を並べていく。
嘘は嫌だけど、巨大な怪鳥に掴まれて飛んでいるうちにどこかにいったなんて、口が裂けても言えない。
「花火の時もおかしかったけど、お前ちゃんと病院に行ってんの?」
「行ってるよ。あの日はちょっと、なんでかな、風邪気味だったからかな」
「風邪と貧血は別じゃない?」
話しかけてくるのは良太郎ばかりで、園田は黙ったままじっと座っている。
いいな、この光景。俺の家に、園田が来て座っているのって。
良太郎が一緒に来てくれてよかった。園田だけだったら、なにかしでかしてしまったかもしれないから。
「紅茶に紅茶味になっちゃったね」
園田の作ってきてくれたパウンドケーキをつまみながら、俺は二人に向けて「もう大丈夫」のアピールを続けた。
安心して、今日は早く帰ってもらわなきゃいけない。
夜になったらWatersに行って、この間の事件の解決をしなきゃならないから。
「明日から来られるの、玲二くん」
「うん。駅で待ち合わせしていい?」
「うーん、俺、お邪魔だったみたいだな」
「そんなことない。来てくれて嬉しいよ」
「本当か、玲二。お前にそんな風に言ってもらえると思わなかったな」
朗らか、爽やか、高校一年生。
こちらの世界にいつまでも浸っていたいのに、現実はそれを許してくれない。
母さんは朝から文句を言いに行っていて不在。父さんは仕事。
ライはあの日本当の姿を世間に晒してしまったから、自分の住処にいられなくなったんだとか。とにかく「いつもの」場所にいてはならず、ほかに行くあてもないとかでうちの二階に住みついている。
あの日、森の中で死にかけていた俺を助けに来てくれた人は何人かいた。
まずは遠屋。同時にかけつけて、マスターを蹴り飛ばした母さん。
俺を励ましてくれた白い小鳥と、遠屋に呼び出されて現れた「ミツ」という名の誰か。
血をだらだら流して呻くばかりの俺に、ミツは自分の手を当てた。
するとみるみる傷が塞がって、なんとか命だけはとりとめられた。
癒しの力は物にも及ぶらしく、レンタルのスーツまで直してくれて本当に助かった。
「ミツの力は悪意がない。だから、もしかしたら効くんじゃないかと思った」
遠屋はそう言い、母さんは歯を剥いて唸る。
ライには隠れるよう指示が出され、消せる火の粉はすべて消すよう全員に指示が出たらしい。俺はふらふらで、ほとんど聞いていないんだけど。
Watersの固いソファの上でぐったりしているうちに、時間ばかりが過ぎていって辛かった。
体は動かないけど、でも、どうしても園田に会いに行きたくて。
母さんと父さんが助けてくれて、ほんの少しだけど会うことができた。
あの日、思わずキスしてしまったんだけど。
邪魔が入らなかったんだよな。
母さんに怒られるかと思ったけど、なんにも言われなかった。
今目の前にいる園田は穏やかに微笑んでいて、良太郎の軽口に楽しげに反応している。
あんな真似してよかったのかな。悩ましいけど、聞くのも難しい。
「ああ、よかった、玲二が元気で」
心配したんだぞと良太郎は言う。
「今度、ちゃんと穴埋めにデートしろよ?」
「あはは。玲二くん、じゃあまた明日ね」
善良な二人はちょうどいい長さの滞在を済ませて、爽やかに去っていった。
二人の消えたリビングに戻って、まずはひとつ、ため息をついた。
嘘ばっかりだ、俺の言葉は。
気分は悪いし、携帯も一体どこへやったのやら。病院になんて行くわけもないし、危うく死ぬくらいの大けがを負った理由は、普段は高校に通っている怪鳥に爪で思いっきり掴まれたからだし。
「玲二、もう大丈夫か?」
「いいよ」
二階からライが降りてきて、ソファに座る。
ライに貸し出された部屋にはなんにもないから、多分ここの方が心地いいんだろう。
広い肩には白い鳥がちょこんととまっている。母さんのともだちで、リアという名なんだそうだ。俺をずっと見守っていて、イルカにジャンプさせたり、海鳥を突撃させた犯人だったりする。
「あの二人、俺もとても好きだな」
「園田と、良太郎?」
「ああ。善良なる魂の持ち主だから、いつか力を貸せるかもしれない」
チチチ、とリアの鳴き声が響く。
鳥同士、仲良くなったのかな?
「ライの力ってなに。いい夢みるだけじゃないのか?」
「いい夢をみさせるのと、いい出来事を呼び寄せるんだ」
『玲二、ライは幸運を運ぶ鳥なの。彼自身ではその相手を選べないんだけど、時々誰かしらに幸せをもたらすんですって』
俺の肩に飛び移って、リアが説明をしてくれた。
あの日からリアの声ははっきりと聞こえるようになった。
優しい声は、頭の中に心地よく響いてくれる。
「確かにあの姿は、めでたいと思えるかも」
ああ、だから名前が「来」なのか? 福が来る、の来。
「あの時羽根を置いて行ったのは?」
「選ばれた者がいると、羽根が抜けるんだ。それを手にすると福が来る。自然に抜けたものじゃないと効果はないんだけど、だけど、玲二が死んだら嫌だから、むしってみたんだ」
俺が助かった理由は、ライのおかげかどうかわからない。
遠屋が来て、母さんも来てくれた。
意識が朦朧としていたから、詳しくはあんまり覚えていない。傷をふさいでもらったけど、輸血までは間に合っていなかったから。
クロとカラスがいたのも覚えている。彼らはなにも言わず、前にも出てこなかった。
「ごめんな、玲二。もっと力になりたいのに、やれなくて」
今夜、ライは来られない。正体が「この世にはない姿をしている」者は、人間に姿を見られた場合、長い間謹慎しなければならないそうだ。
俺のすぐ隣でずっと看病をしてくれたけど、犯人については語ってくれなかった。
一度帰宅してきた母さんと、電車で月浜に向かった。
向かいのホームを走り抜けていく電車は混雑していて、駅につくたびに大勢の人を吐き出していくけれど、こちら側はその逆。座席は埋まっていないし、立っている人もあまりいない。こんな時間に母さんと二人で出かけるなんて、今までにあったかなと思う。
母さんは不機嫌そうに口を閉じたままで、俺になにも言わない。
だけど、怒っているばかりじゃなくて、少し悲しそうな顔をときおり見せてくるので、そっちの方が気になっていた。
最近やっと誰かの声が心に届くようになったけど、まだそれだけ。戦いの力を持っていない俺が、何度も危ない目にあっているんだから、心配なんだろう。
安心させたいのに、納得させられる材料はゼロ。
どれだけ構えていたって、人を超えた力で襲われてしまったら勝てっこない。
本当に一言も会話をかわさないまま、Watersに着いてしまった。
入るのを少しためらってしまう。この間ここに担ぎ込まれた時も、母さんと遠屋は随分揉めていた。家に連れて帰りたい母さんと、とにかく一度様子を見せろっていう遠屋と。これまでの経緯で仲が悪くなってしまったのか、それともそもそも合わないからうまくいかなかったのか。
「玲二」
ドアに手をかけようとした俺に、とうとう母さんが口を開いた。
「なに?」
「今日、お父さんに迎えを頼んでいるから」
だから一緒に帰りましょうね、と母さんは微笑んだ。びっくりするくらいぎこちない笑みに、また激しい違和感を覚えている。
「やあ、待っていたよ、立花玲二君」
彼らはどうして俺をいちいちフルネームで呼ぶんだろう。
すごく疑問なんだけど、聞く気にはなれない。答えてくれないような気がして。
Watersの中には既にいくつか影が潜んでいる。
クロと、カラス。それからもう一人、百井がいた。
「どうして百井がいるんだ?」
暗がりから昏い眼差しがこちらに向けられている。
笑っているような、怯えているような、不気味な表情のせいで悪寒が走り抜けていく。
「いたらいけないのかしら」
「全部お前の仕業だったのか?」
にらみつけると、怯えたように暗がりへ半歩下がった。
だけど消えたりはせずに、そこにとどまっている。
店の中は小さな照明が一つつけられているだけで、隅は完全に闇に閉ざされていた。
「これより勝手な発言は許さない。皆、いいな」
遠屋の発言で、店は一気に静まり返った。
なんの音もしない空間に、それぞれの顔がぼんやり浮かんでいる。
時刻は二十時一分。
店の中央にあるテーブルに集まるよう告げられて、俺もソファに座った。
「君は呼んでいないのだが」
最初に咎められたのは母さんで、遠屋だけではなく、全員から鋭い視線を向けられている。
「玲二は戦えないの。あなたたちも見てわかったでしょう? あの呑気な鳥の爪にすら負ける。今までにされてきたことを考えたら、私が同席しなきゃなにが起きるかわからないわ」
「今日は私がいる。勝手な真似はさせない」
「店を出た途端に手を出そうって腹ね」
「ならば店を出たところで待っていたまえ」
遠屋の圧力なのか、母さんは入り口に向かって押されていく。なにもないからっぽの空間に追いやられて、とうとうドアから出て行ってしまった。
ガンガンと扉が鳴ったけど、入ってこられないようだ。
発言はないまま、二十時十分。ノックは止んで、話し合いが再開される。
「では始めよう。あってはならない事態が起きた。争いをしてはいけない、互いに余計な手出しをしないという約束を破ったのは誰か、確認させてもらおう」
被害にあったのは、俺。
傷を負わせたのはライ。
「ではまず立花玲二君、あの日何があったのか、君から話してくれ」
用事があって月浜駅へやってきて、帰ろうとしたところでクロにつかまった。
廃ビルに招き入れられ、話していると急にライが姿を変えて、俺を爪で強く掴んだ。
「ライが姿を変える前に、誰かの声がしたんだ」
「誰の声かわかるかな?」
「俺は知らない。ライにも聞いたけど、言えないとしか答えない」
クロはうつむいて目を閉じたまま動かない。
カラスは表情のない顔をまっすぐ前に向けたままで、こちらも動かなかった。
「ライが君を襲ったんだね」
「そうだけど、あれはライの意志じゃなかった。ライは俺の力になろうとしてくれていたんだから」
「それが君にわかるのかな?」
人を馬鹿にしたような口調に、苛立ってしまう。
だけど俺が反論をする前に、遠屋の視線は次へ移ってしまった。
「ではクロ。立花玲二君を呼び止めたというのは本当かな?」
「それは、本当だ」
「なぜ?」
「本当の姿を見せてもらおうと思ったんだ。隠しているから」
「見られたのかな?」
「いや、ないと言い張って、変えない」
遠屋はこちらを見ない。この一方的な事情聴取は一体、どこへ向かっているんだろう。
「それからどうなった?」
「ライが止めようとして入ってきて、俺は、……邪魔だと突き飛ばした」
「では、ライはそれに怒って我を失ったのかな?」
「違う! ライはあの時俺に逃げろと言った!」
遠屋の手が挙がって、俺に向けられる。
大きな手のひらを突き付けられて、口をつぐんだ。
「クロはどう思った?」
「わからない、俺には」
「誰かの声がしたか?」
「した気もするし、しなかった気もする」
嘘をついているんじゃないのか。
またイライラしたけれど、次の瞬間ふっと収まった。
心の中がすべて見通されてしまうんだから、嘘をついたところで無駄なんだ。
「ではカラス。君もその場に居合わせた?」
「ああ。クロに呼ばれた」
「クロはなぜ君を呼んだ?」
「立花玲二がいたから、正体を見せてもらおうと持ち掛けてきた。我々はずっと立花玲二を見守ってきて、周囲からの隔離をしてきた。それなのにいまだ真の姿を知らないとは、さすがにすっきりしない」
「これまでの二人の話は真実かな?」
「間違いない。立花玲二は嘘を言っていない。クロに連れてこられ、正体を見せるよう迫られた。ライは止めようとし、クロに突き飛ばされ、姿を見せない誰かの声がした瞬間、真の姿に変化し立花玲二を襲った」
クロはぷいと横を向いて、鼻をくしゃくしゃにしかめている。
カラスの公平さに少し驚いたけれど、なんのことはない。彼もまた、嘘をつけないだけだ。
「その声の主に心当たりは?」
カラスはすぐに答えない。
暗がりに溶け込むように顔に影を落としたまま、話さなかった。
これまでの話し合いは、すべて実際の会話で行われている。
それが、俺が聞こえないからなのか。それとも声に出さなきゃいけないからなのかはわからない。
その名を言ってほしい。
そう願いながら、じっと黒づくめの姿を見つめた。
「……マヤだと思った」
「間違いないか?」
「ほかに心当たりはない。あの時ライを止めたが、きかなかった。影響力の強さから考えても、マヤしかいないと思う」
初めて聞く名前だ。
これまでの「会合」でも聞かなかった。全員の姿や名前を把握しているわけじゃない。出席の確認があるわけでもないから、それは当然なのかもしれないけど。
でも、あんな危険な目にあわされるほど、強い感情を持たれなきゃいけない理由があるのか?
「沙夜はどうだ。聞いているか?」
店の片隅でぼんやりと座り込んでいた百井は、はっとしたように顔をあげて、わかりやすく狼狽し始めている。
「いえ、あの……。聞いては……」
「はっきり答えなさい」
「その必要はない」
遠屋の問いに答える声は、店の更に深い暗がりから響いてきた。
おどおどと身を縮めている百井の隣に、唐突に白い顔が浮かび上がってくる。
まっすぐに切りそろえた前髪と、長く伸びた髪。
漆黒に囲まれた顔は、恐ろしいほどに美しく整っていた。
切れ長の目、通った鼻筋に、きゅっと結ばれた唇。
長いまつげに、すべてを見通しているかのような眼差しに息が止まった。
「俺の仕業で間違いないよ、マスター。理由は『気に入らないから』だ。ぬくぬくと人の世界に浸かり切った能無しが、ルールを無視して逃げおおせようとしているのが腹が立って仕方がなかったから、あの間抜け鳥を利用してやったんだよ」
「真夜、質問されてから答えるんだ」
「こんなまどろっこしい真似はそろそろやめにしようぜ、マスター。みんなわかっているんだ。あんたが大嫌いな狼の連中が好き勝手していて、いい加減腹に据えかねているってね」
「口を慎め。勝手な発言は許さない」
声や体形からして、男なんだろうけど。
それにしたって、美しい顔だった。
「マスター、もしかしてそいつの味方なのか?」
真夜と呼ばれた男は遠屋を見据え、挑戦的な火花を送っている。
「誰の味方もしない。裁かれるのは、ルールを破った者だけだ」
遠屋は動じず、視線だけで敵意を跳ね返すと、こう真夜に告げた。
「ライを操り、立花玲二を襲わせた。お前はしばらくの間謹慎だ」
「なぜそうしたかは聞かないのか?」
「気に入らないからと言っただろう」
「それだけじゃない。俺の可愛い可愛い妹を辱めたから、腹が立ったんだよ」
可愛い妹。
辱めた?
「なんのことかわからない」
「とぼけやがって、もう一度腹に穴を開けてやろうか?」
真夜は俺に向かって凄んできたけれど、肩を遠屋に掴まれて店の奥へと突き返されていく。
「最後に聞こう。今回の件は沙夜に頼まれて実行したのかな?」
「関係ないね。俺は俺のために、そいつをどこかに放り出して来いってライに命令しただけさ!」
顔には似合わない激しい声はぷつりと切れた。
どうしていきなり真夜が消えてしまったのかはわからない。
百井はまた身を縮めて、店の隅の暗がりとひとつになろうとしている。
「真夜は謹慎だ。『仲間』に手出しはしないよう、よくよく言い聞かせる」
また、これで終わりだ。
あの激しい態度。謹慎が何百年も続かない限り、俺の身はいつまで経っても危ないんじゃないか?
「あなた、よくも真夜まで……!」
地の底から聞こえてきたのは、百井の恨み節だった。
「沙夜、お前もまだ謹慎だ」
二人とも姿は既に見えなくなっている。
この曖昧ですっきりしない結末を、俺はまた受け入れないといけないのかな。
「立花玲二君、これで終わりだ」
「謹慎っていつまでなんですか? こんな風に言いたくないけど、自由になったらまた揉めるとしか思えない」
「私の裁定に問題があると?」
遠屋の瞳が突如、紅く染まった。
ルビーのような美しい輝きは、俺の心の中を畏れで満たしていく。
「いや、そうじゃないけど、俺は自分の身を守れないから。あんな真似をまたされたら、今度こそ死んでしまいそうで」
精一杯の苦情を言ったのに、反応はゼロだった。
遠屋はなにも言わないまま姿をふっと消して、残っているのは俺と白猫、そしてカラスだけ。
思わずため息を吐き出してしまったけど、最後に少しだけいいことがあった。
「立花玲二、悪かったな。あんな風になるとは思わなかったんだ」
クロは拗ねたような顔をしていたけど、俺に謝ってくれた。
傷はもう平気なのかとか、誰に治してもらったのかを聞かれ、素直に答えていく。
「ミツの力が効くのか?」
「なぜかはわからないけど、傷は塞がったよ」
「どうしてだ。なにも効かないんだろう?」
「あの日から少しだけ、声も聞こえるようになったんだ。ライのは聞こえる。俺からは全然、伝えられないんだけど」
クロは次々と質問をぶつけてくるけれど、突然の変化について、俺もまだよくわかっていない。
「どうしてわからない。試していないのか?」
「失血が多かったから、起きられなかったんだよ」
「ああ、そうなのか。ライはあんなに弱いのに、立花玲二には傷を負わせられたんだな」
クロの最終的なまとめは「ライは自分の弱さを気にしていたから、倒せる相手ができてよかった」になってしまった。
俺としてはとても複雑な気分だったけれど、クロの態度が軟化したのは助かる。
「カラス、ありがとう、話してくれて」
もう一人、黙ったまま座り込んでいる影に礼を述べると、カラスは少しだけ目を細めてこう答えた。
「ただ見たままを話しただけだ」
こちらは見た目、空気ともに変化はない。
本当はカラスに聞いてみたいことがたくさんあるけれど、どこまで頼っていいのかよくわからずにいる。
「あの真夜っていうのは、百井とどういう関係?」
ただひとつだけ、どうしても確認しておきたい。
俺があいつの「妹」を「辱めた」の意味。
カラスは顎に手をやって、静かな声で答えを示してくれた。
「血縁関係ではないが、兄妹だと名乗っている」
「百井が妹みたいな存在っていう意味?」
「そうだ。沙夜は真夜を慕っている。同じ『人でなし』であり、この世の者とは思えない美貌を持つ真夜を、沙夜は崇拝しているんだ」
じゃあ俺が辱めた相手は、百井なのか?
「お前は沙夜の素顔を見ている。それは沙夜にとって最も恐ろしく、許せないことだ。だからお前を憎み、真夜にも訴えたんだろう」
好きで見ているんじゃないんだけどな。
でもそういえば、二人の髪型はよく似ていた。まっすぐに切りそろえた髪は、長さは違うけれど同じ形になっている。
みんなが見ている百井の顔は、真夜と同じになっているんじゃないだろうか。
「百井の顔って、どんな風なんだ?」
カラスは答えず、クロを促して出口へと向かっていく。
そしてドアの前で立ち止まり、俺にこんな言葉を残していった。
「勘違いするな。今日はライと真夜が裁かれただけで、立花玲二に対するわれわれの考え方はなにも変わっていない」
改めて、言葉が胸に突き刺さっていた。
大っ嫌いな狼の連中に、腹を据えかねている。
遠屋は俺たちを疎ましく思っている?
だったら母さんが「身内ばかりを優先する」と言っていた理由も、わかるかもしれない。
店の外へ出ると、十月終わりの冷たい風が吹いてきて体が震えた。
「玲二、大丈夫だった?」
母さんが駆け寄ってきて、俺に大きなストールをかけてくれた。
ふわふわした女性用のストールは少し恥ずかしかったけれど、やたらと暖かく感じられた。




