アンラッキーフライデー / いつき
九月も中旬に差し掛かって、夕方の空気は随分涼しい。
今日も一緒に玲二くんと帰ってきたけど、すぐに着替えて駅前に戻っていた。
改札口の見える席でコーラを飲みながら、探偵気分で見張っている。
気にしなくていいよって言われたけど、どうしても心配だった。
百井さんの言っていた「会合」がなんなのか、玲二くんに声をかけたのはどうしてなのか、ひょっとしたら参加しちゃうんじゃないかって。
月浜に六時って言ってたから、そんなに時間に余裕はない。
家でゆっくりするとしても、三十分が限界だと思う。
それなら私はまわれ右して、改札口を見張るしかない。
紙コップの隣にスマートフォンを置いて、ぽちぽちぽちぽち、何度も時間を確認した。
月浜までは電車で二十分くらいかかる。玲二くんはきっと待ち合わせには早く行くタイプだから、現れるとしたらそろそろなんじゃないかな、と、思うんだけど。
コーラを一口飲むたびに、罪悪感を覚えている。
こそこそ見張るような真似をして、そもそも玲二くんがなにをどうしたって、自由なのに。もしも、一番最悪なパターンとして、百井さんと特別な関係になっていたとしても、私には別に関係ないんだし。
すごく悲しいけど、玲二くんは私のものじゃない。たとえ付き合っていたとしても、結婚しているわけじゃないんだから。
あの日、好きって伝えた日からたったの三ヶ月。償いを求めるほどの深い仲だなんてとても言えない。おでこにチューした程度でしかない。
私はまだ、玲二くんの特別じゃあないんだから。
一人で勝手に悲しくなって、コーラが空になったらびっくりするくらい虚しい気持ちになった。
やめよう、こんなの。
でもそう決めた瞬間、現れてしまった。
私が一番会いたい、でも今一番見かけたくなかった、玲二くんが。
定期券を自動改札に荒々しくあてて、月浜行きのホームの様子を窺った。
やっぱり目立つな、玲二くんは。背が高いし、素敵なオーラが出ちゃっている。
三両隣の車両に乗り込んで、胸をおさえた。
後をつけるべきかどうか、まだわからないでいる。
次の停車駅で降りたらいい。
でもやっぱり、百井さんなんかと一緒にいて欲しくない。
たまたまどこかに用があるだけ。偶然こっちの方向に向かっているだけ。
そう願ったけれど、玲二くんは月浜駅で降りた。
ちょうど帰宅ラッシュが始まった時間帯で、学生も社会人も大勢が改札を出入りしている。見つからないようにしながら見失わないようにするのは難しくて、揺れる薄い茶色を必死で追いかけた。
幸い、玲二くんは改札を出てすぐの場所で止まった。
私は少し離れたところ、柱の影から様子を窺っている。
人がいっぱい流れ流れて、とうとう、玲二くんが動いた。
思わず身を乗り出して、脱力。
百井さんじゃない。あの人はいつか見た、図書館のアルバイトに誘われた時に一緒にいた先輩だ。
あの人と玲二くん、どういう関係なんだろう。
アルバイトで一緒になったのかな?
二人はすぐに並んで去って行って、多分階段を降りてしまったんだと思う。
駅前のデッキは入り組んで迷路のようで、あとから追いかけてみたけど、もう見つけられなかった。
この後百井さんも合流するっていう可能性もある。
会場の名前を思い出せれば、場所だってわかるだろう。
でも思い出せないし、それにこれ以上詮索するのはきっと良くないだろうから。
ここまで来ておいて今更とは思うけど、もういいってことにしよう。
玲二くんを信じればいいだけだし。
またまわれ右をして、改札へ向かった。
ここまで来ておいて帰るだけって、本当に間抜けだと思う。
信じるとか言っちゃって、そもそも最初からちゃんと信じていれば良かっただけの話なのに。
自動改札には人が川のように流れこんでいる。月浜はこの辺りでは一番大きな駅で、乗り入れている私鉄もたくさんある。バスもあちこちから集まっていて、地元のラッシュがいかにこじんまりと収まっているかがよくわかった。
早い流れに乗るために用意しようと立ち止まって、鞄の中で定期を探す。
こんな風に都会に慣れていない田舎者丸出しだと、油断して見えるのかもしれない。
「ねえ、君。一緒に遊ばない?」
いきなり肩を掴まれて、びっくりしてしまった。
振り返ると、黒いニットキャップをかぶったお兄さんがにこにこ笑っていて、飲みに行こうよ、なんて言っている。
「もう帰るんで」
「なんでー? いいじゃない。金曜日だよ」
何曜日でも関係ないし、そもそも未成年だし。
「大丈夫、可愛い子には奢っちゃうから」
いいです、行きません、結構です。
言ってるのに、肩や腰に手をまわしてきて、お兄さんはすごく強引だった。
誰か助けてくれないか、周りを見ても全然ダメ。みんな改札に吸い込まれていくばっかりで、出てきた人もチラっと見たらすぐに去っていってしまう。
「じゃ、レッツゴー!」
「やめてください」
はっきり断る以外にないんだって思ったのに。
手を払いのけた途端、お兄さんの表情が変わった。
「いいから来いって言ってんだよ」
逃げようとしたのに手首を掴まれてしまった。痛いし怖いし、わけがわかんない。
どうしよう。玲二くんをもっとちゃんと追いかけていけば良かった。
腕を掴む力はどんどん強くなって、足がふんばりきれない。
携帯はカバンに入れっぱなしで、空いている左手で一生懸命探ろうとしているのに、体が強張っているせいか空を切るばかりで。
このまま連れていかれたらどうなるんだろう。おまわりさんか、駅員さんがいないかな。ああ、駄目だ。改札の中で揉めてる人たちがいる。駅員さんもいっぱい集まって仲裁してるし、周りの人もそっちに気を取られている。
「やだ」
逃げたいのに、逃げられない。どうしよう。玲二くん、玲二くん!
「ちょっと、お兄さんやめてよ、嫌がってるでしょー?」
掴まれていた腕の上になにかが乗った。
ひやっと冷たい手。
「いつきちゃん、ごめん。待たせちゃって」
本城君だった。制服姿で、まだ鞄も持っている。
「俺の彼女なんで、すいませんけど引っ込んでてくれます?」
ニットキャップのお兄さんはしばらく、ああんだのなんだオメエなんて言ってたけど、本城君がまったく引かなかったからか、諦めて去ってくれた。
私はすっかり力が抜けちゃって、へなへな。
「大丈夫? 週末のこの時間、この辺りは危ないよ。強引なナンパが多いので有名なんだから」
「知らなくて」
「だろうね、あっちにベンチがあるからちょっと休もう。顔色が悪いよ」
人混みの中を、本城君に手を引かれながら歩いてしまった。
案内された先には待合所みたいな場所があって、ベンチは埋まっていたけど、本城君は優しそうなお姉さんに頼んで席を譲ってもらって、そこに私を座らせてくれた。
すごく情けない気分だったけど、体に全然力が入らない。しょぼしょぼと譲ってもらったベンチの端っこに座ったら、やっと胸に詰まっていた空気が一気に出ていった。
「怖かったでしょ?」
「うん」
「良かった、通りかかって。ちょうどそこで服を見てたんだ」
本城君が指をさしているのは駅直結のファッションビルで、若い人向けの店が大量に詰まっているところだった。
「秋物が出揃ってきたからね」
俺の家は歩いて十五分くらいなんだよって、本城君は聞いていもいないのにペラペラと話している。駅前はごみごみしているけど、少し歩いたら住宅街になっちゃうんだよって。
地元だから偶然、こうして通りかかったのかもしれない。
「本城君、ありがとう。すごく助かった」
「いつきちゃんの役に立てて嬉しいよ」
いつもよりも気取っていない、飾り気のない笑顔だなって思った。
いい人なんだよね、本城君って。軽く見えるけど周りにはちゃんと気を遣ってるし、嫌なことはしてこない。クラブではいつもそっけなくしているから、申し訳ない気分になってしまう。
「いつきちゃん、どこに用事があるの? よかったら付き合うけど」
「ううん、帰るところだったの」
「帰るの? 来たばっかりなのかと思ってた」
見透かされてしまっているような気がして落ち着かない。
あの時、百井さんが会合がどうのこうのって話した時、本城君もちょうど来たところだった。ひょっとしたら月浜で六時って聞いていたのかもしれない。私が玲二くんを尾行していたって、わかっているんじゃないのかな。
「じゃあさ、ジュース一杯だけつきあってよ」
「ジュース?」
「そう。あっちのデパートの地下にしぼりたてのおいしいジュース出す店があるんだ。俺の友達がバイトしてて、サービスしてくれるから」
そのくらいいいでしょ、って本城君は笑っている。
助けてもらっておいて、嫌! なんてさすがに言えない。
さっきだって、ひょっとしたら暴力沙汰になっていたかもしれなかったし。
そういえば、玲二くんも月浜で絡まれたって話してた。
「わかった、じゃあ、ちょっとだけ」
「うわ、嬉しいな。行こう。立てる?」
差し伸べられた手はさすがに握らなかったけど。
なんだろう、モヤモヤしてしまう。
玲二くんに対しても本城君に対しても後ろめたくて、ドキドキしている。
「よー、モトキ。……おいおい、結はどうしたんだよ」
ジューススタンドにはたくさんジューサーが並んでいて、それぞれ違う色のジュースを中に湛えている。うわ、高い。一番安いミックスジュースでも四〇〇円もする。
「結とは終わっちゃったんだよね」
「そのめちゃめちゃ可愛い子が新しい彼女?」
「違うよ、今アタックしてるんだ。すっごいイケメンの彼氏がいるから参っちゃうんだけど」
本城君とお友達の会話はすごく軽やかなんだけど、容姿についてあれこれ言われるのは恥ずかしい。めちゃめちゃなんかじゃないし。そもそも、服だって全然気合が入ってないし。
「お薦めは?」
「ぶどう。今日から始まったんだけど、めっちゃ美味しいよ」
巨峰のジュースは一杯六八〇円也。お友達価格でどのくらい安くなるのかわからないけど、うーん、五〇〇円くらいになるのかな?
「あ、いつきちゃん、いいよ。俺が払うから」
「でも、助けてもらったのに」
「あれは男なら当然の仕事。ここに付き合ってもらったのは俺のわがままだから。だから奢らせて、ね」
返す言葉が見つからなくて、ぶどうのジュースを受け取ってしまった。
氷が入ったフレッシュジュースは本当にいい香りだし、甘くて美味しかった。
本城君、モテるんだろうな。
見た目もいいし、これだけスマートに色々やれちゃうんだから。
今まで一体何人と付き合ってきたんだろう。
なにをするにも手さぐりで、照れてばっかりの私たちとは大違い。
ジュースを飲み終わったらちゃんと改札まで送ってくれて。
良ければ家まで付き合うよ、なんて言葉も頂いて。
さすがにそこまでは出来ないよ、なんて私も答えて。
本城君に、嘘をついてしまった。
お兄ちゃんに迎えに来てもらうからいいよって。
本当に来てもらってもいいんだけど。
ああ、モヤモヤしてる。胸が痛い。
浮気したわけじゃないし、そもそも男の子と一緒にいるのが浮気にあたるのかというと全然違うんだけど。でもなんだか、どう心にケリをつけたらいいのか全然わかんない。
全部、私の浅はかさのせいだ。
玲二くんを信用しなかったし、モタモタしていたせいで声をかけられちゃって、本城君の厚意にものすごく甘えちゃって。しっかり成分がカケラもない。こんなんでどうするの、私、本当に。
ぎゅうぎゅうの電車の中でため息をついた。
次の駅が近づいて、斜めにわわっと傾いて。
ドアのそばだから一回降りなきゃいけない。
そしてまた、ぎゅうぎゅう。帰宅ラッシュって本当に大変だよね。こんな時間にはたまにしか乗らないから、余計に沁みるっていうか。
「園田さん」
ぎゅうぎゅうの隙間から聞こえてきた声に、びっくりしてしまった。
私の真横。サラリーマンとサラリーマンの間にぎゅっと挟まれて、相原君が笑っている。
「えっ」
やだ、どこから現れたの?
「偶然だね、どこかに行っていたの?」
相原君は左右からぐいぐい押されているみたいで、動けそうにない。
だからなのか、笑顔が引き攣っているように見える。
「うん、ちょっと」
「そうなんだ。会えてうれしいよ。この間は渡しそびれちゃったから、良かったら今受け取ってもらえないかな」
「なにを?」
「チケットだよ。エーゲ海の秘宝展。月末までなんだ。明日や明後日じゃ急だろうから、来週どうかな」
「チケットって、あの動物園の時の?」
「そうだよ。本当の美に触れよう。君にならきっとわかるから」
もおー、今日はなんて日なんだろう!
玲二くんを尾行して、後悔して、ナンパされて怖い思いして、本城君が親切すぎて困っちゃって、とどめに相原君って、なんで? 百井さんの担当になったんじゃなかったの?
「映画の時もはっきり断ったよね、行かないって」
「ちゃんと考えてくれた?」
「考えても考えなくても一緒なの。私、相原君とは一緒に行かない」
「え、どうして。考えなきゃ駄目だよ」
「考えても変わらないの。相原君とは嫌なの」
返事は変わらず、「どうして?」だけだった。言わなきゃ駄目なのかな。「そこまで言う?」って思われるくらいの言葉を。
「美術展だよ。いやらしい展示物なんてないから大丈夫」
「行き先の問題じゃなくて、私は相原君と二人で出掛けたくないの。話も全然噛みあわないし」
「どの辺りが」
「今だって全然わかってくれてないでしょ。私は嫌なの。絶対嫌なの。行きたくないの。相原君のこと、好きじゃないの」
「じゃあ、嫌いではない?」
相原君を挟んでいる二人のサラリーマンが、悲しげな顔で私たちを交互に見つめている。
全部聞こえてるんだよね、ああ、もうやだ。今日はもう、なにもかも。
「そういう問題じゃない。私は相原君のことをもう考えたくない。キライだって考えるのもイヤなの!」
いつだったかテレビで誰かがしみじみと話していた。
好きの反対はキライじゃなくて、無関心だって。
急にそれを思い出して、こんな風に言ってしまった。
挟まれてぎゅうぎゅうの相原君の顔が歪んでいく。
悲しみじゃなくて、多分、怒りで。
「そんなにひどいことを言う人だったなんて、思いもしなかった!」
私だって言いたくなかった。
でも仕方ない。とにかく相原君の「対象外」にならなきゃ、話は終わらないんだから。
ぷいっと顔をそむけると、横からは怒りの唸り声が聞こえてきた。
電車は混み過ぎてて、私も動けない。このまま睨まれっぱなし、唸られっぱなしで行かなきゃいけないのかな。
今から連絡して、お兄ちゃんに迎えに来てもらおうか。でも、間に合わないかもしれない。相原君が付いてきて、駅で絡まれたらどうしたらいいんだろう?
「いや、君が悪いでしょ」
すると、相原君をサンドにしていたお兄さんたちが味方をしてくれた。
「そうだよ。あんなに嫌だって言われるなんて普通じゃないよ」
お兄さんたちは私の隣にいる人に、その子をもっと奥に行かせてあげてくださいと声をかけてくれた。私たちのやり取りは結構聞こえていたのかもしれない。スマホを片手に詰まっていた人たちがちょっとずつ避けて、私のために道を作ってくれている。
お礼を言いながら細い道を抜けて行くと、また声をかけられた。
「いつき?」
「充兄ちゃん」
最後の最後でやっと祈りが届いたみたい。
充兄ちゃんは優しいけど、顔は結構怖いんだよね、こってりしてて。
例のしつこい人に絡まれたって話したら、兄ちゃんは力強く頷いてくれた。
大人の影に隠れて、やっとほっとできた。
これってもしかして、玲二くんを信じなかった罰なのかな。
土日に会う約束はしていないから、次に顔をあわせるのは月曜の朝。
それまでにちゃんと、気持ちを整えなくちゃ。
目を閉じて、まぶたの裏に大好きな人の顔を思い浮かべていく。
いつもならすぐに出来るのに。
なんだかうまくいかなくて、私は手に持っていたスマートフォンをぎゅっと強く握った。




