八月罠日 / 玲二
午前九時半、月浜駅南改札口。
バスの停留所がたくさん並んでいるせいで、人の流れは激しい。
左右前後、すべての方角から人が流れては去っていき、落ち着かない。
「立花君、おはよう」
図書の整理のアルバイト、二日目。
随分悩んだけど、昨日もちゃんとやって来た。
一昨日の体調不良はちょっとおかしすぎたと思うけど、土壇場でサボるというのもちょっと嫌だったから。
「おはようございます、蔵元さん」
「いつも早いね。じゃあ、行こう」
ひょろっと細い男二人で歩いて、図書館へ。
実際の現場は図書館ではなくて、その近くの建物だったんだけど。
花火大会の日の自分は、おかしかったと思う。
どうしてあんな態度に出てしまったのか。
曖昧な記憶しかないけど、園田にずいぶんなれなれしいというか、ベタベタ触ってしまったようで。
良太郎からも突っ込まれるし、園田からも心配されるし、自分で自分がわからない。その上始まった直後で気を失うなんて、なんて迷惑な存在なんだろう。次に会った時には謝らないと。
今はもうすっかり通常、平常の自分に戻っていると思う。
妙な感覚はないし、記憶もすっきりと繋がっている。
だから大丈夫だと思ったんだけど、今度は先輩から紹介されたアルバイトそのものがやたらと奇妙だった。
大きな市立図書館を過ぎて、辿り着いたのはどう見ても廃墟。
割れた看板に、散らかった廊下。動いていないエレベーター。
からっぽのオフィスをいくつも通り過ぎて、二階の一番奥の部屋が「現場」だと責任者の男は言った。
確かに、中にはいると大きな本棚がいくつも並んでいて、本が大量に詰まっていた。
タイトルと冊数を記録して、移動させるんだとか。
どこに運ぶとかそういう話は割愛されて、俺はとにかく全部の本を棚から出すよう指示されている。
埃っぽい部屋の隅に置かれた机で、蔵元さんは本のタイトルを記録する係。
アルバイトはその他に五、六人いるようだったけれど、彼らは主に別の場所へ運ぶ役割を負っているようだ。そのどこかは遠くないところらしく、台車や車などの用意はない。手で抱えて階段を降りて、外へ持ち出しているらしいけれど、詳しいことはまったくわからない、そんな変な仕事だった。
なので、現場には基本的に俺と先輩だけしかいない。
その他の人はぶらぶら現れては、チェックの済んだ本を持って去っていく。
本当に図書館の仕事なのかよくわからない。説明を求めようにも、責任者がいない。
こんな不可思議な仕事なのに、蔵元さんは楽しそうだった。
そしてなぜか、途中で来平先輩も姿を現した。
人の好さそうな顔の来平先輩は蔵元さんの横に立って、調子はどうか、進み具合はどうだ、なんて質問をしている。でも、ここでの仕事を請け負っているわけではないらしい。
狐につままれたような気分で一日目を終えて、二日目。
今日も世界から打ち捨てられたようなボロボロのビルに辿り着いている。
「あと少しだよね。頑張ろうね、立花君」
蔵元さんに微笑まれ、俺もなんとなく笑顔を浮かべて答えた。
なんだか変な場所なんだけど、この頼りない雰囲気の先輩を一人で残すのも気が引ける。ここの本棚に置かれているのは得体がしれない、貴重なのかそうじゃないのかわからない手作りのような本ばかりなんだけど、蔵元さんはいきいきとした様子でそれらをチェックしていて。
真の本好きならわかるのかな。
俺にはちょっと、難しい。作者もタイトルもふざけた雰囲気のものばかりで、見ていると妙に力が抜けてしまう。
スカスカになった本棚の森を進んで、奥へ。
手作りの奇妙な本が並んだ棚の前で、マスクと軍手を身に着けた。
どうしようもなく埃っぽくて、すごく不愉快だったから。
「立花君、へえ、偉いね。僕も手袋を用意すれば良かった」
蔵元さんは終始ご機嫌な顔で、この奇妙な職場になんの疑問も持っていなさそうだった。一緒に昼ご飯を食べにいった時も、にこにこと笑っていて。
邪気のない様子に、園田を思い出してしまう。雰囲気が少し似ているかもしれない。俺をまっすぐに見つめて、とりとめのない話をしては笑っている。
「蔵元さん、あの部屋埃っぽいですけど、大丈夫ですか?」
本を出すたびに塵が巻き上がって、気になって仕方ない。
昨日着ていた黒いシャツは埃で真っ白になっていた。
でも、蔵元さんは全然気にしていなさそうで不思議だ。
「そう? 綺麗な部屋じゃない?」
綺麗な部屋ではないと思う。控え目な表現が使えないほどぼろぼろだ。壁にはヒビ、床のタイルはあちこち割れているし、蜘蛛の巣が何カ所か張っていたと思う。
ぎりぎりなんとか人が通れるくらいの片付き具合で、急ぎで本を移動させなきゃいけないとかそういう理由があるのかと考えていたけれど。
「マスク持ってきたんで、もし必要なら」
「大丈夫だけど、でもありがとう。そんな風に気遣ってくれるなんて、優しいんだね」
じゃあ一枚もらおうかな、が蔵元さんの結論だった。
俺の方が気を遣われているような。
なんだろう、この違和感。
昼飯から戻って、仕事を再開させる。
蔵元さんは古ぼけたノートパソコンで一覧を作って、俺はまた奇妙な本を運んでいく。
少しするとまたなぜか来平先輩が現れて、蔵元さんにあれこれ話しかけていた。
「なあ、りゅうちゃん、たくさん仕事をしたなあ。そろそろ休んだらいいと思うんだ」
無責任な発言をしないでほしい。いや、早めに切り上げた方がいいとは思うけれど。そういえば、他のアルバイトの姿が見えない。偶然見かけなかっただけなのか、それともサボっているとか?
今日の夕方仕事が終わってから、給料が出るかどうかも怪しい。蔵元さんが楽しそうだし、大丈夫だよなんて言うから抜けられずにいるけど。無言で解散になっても驚かない。やっぱりおかしい、このアルバイトは。
破れたブラインドがかけられた窓際を歩いていると、なにかが視界の端を横切った気がした。
気になって、立ち止まる。すると一瞬だけ、ポケットの中で電話が揺れた。
父さんからの着信だった。
かけ直すべきなのかな。怪しさ爆発だけど、一応仕事中だし。でも。
花火大会の日の朝。電話があった。今日は外へ出たらいけない。そう言われたのに、完全に無視をしてしまった。
あの日、俺はどうしようもないレベルで浮かれていたんだけど、それが遠いところからでもわかったのかもしれない。なにせ銀色の狼なんだから。
でもあの時の俺の頭の中は完全に園田しかいなくて、母さんの言いつけも、狼の血についても、全部すっぽりと抜け落ちてしまっていた。どうしてかはわからない。夢のせいだと思う。体の奥底から湧きあがる欲求に支配され、発情しちゃって、園田と繋がることばっかり考えていたから。恥ずかしくて仕方がない。あの時気を失わなかったら、俺は一体なにをどうしていただろう。恐ろしい。園田を泣かせるような展開にならなくて、本当に良かった。
そんな状態だったから、父さんからの電話を取りにくいし、かけにくい。
電話は父さんのものだけど、俺に連絡してくるのは母さんだから。
玲二、一体なんのつもりなの?
冷たい声で言われたら立ち直れなくなりそうで。
紳士でいようとか、獣にはならないとか、薄っぺらい誓いだ。
油断すればあっという間。堕ちるだけなら簡単なんだと思う。
いいつけを守れそうにないという気まずさと、いつまでも連絡を取ろうとしない気まずさと。しばらくの間電話と睨み合う。
気まずくて気が付いていなかった。圏外だ。おかしいな、こんなに人の多い場所で。ビルの谷間で電波が入りにくいとか?
連絡を取らない言い訳が出来て安心したけれど、別の衝撃が俺を待ち受けていた。
作業に戻ろうと電話をしまえば、目の前には理解しがたい光景。
蔵元さんを抱えて、来平先輩が部屋を出ていこうとしている。
ぐったりとした蔵元さんを右肩に抱えて、廊下をよろよろと去っていく。
「来平先輩!」
どういう展開なんだ、これは。
休んだらいいよって言われて、寝ちゃったのか? それもおかしいけど、黙って抱えて出て行くのも変じゃないか。
「蔵元さん!」
後を追って、廊下へ出る。
呼びかけているのに、来平先輩は知らん顔だ。
「どうしたんですか」
逃げているのかな。でも、遅い。あんなにがっちりした上半身なのに。
声をかけても無視されるなら、行くしかない。
走ってみればすぐに、二人の背中に追いついた。と、思ったのに。
廊下の途中にあった扉がいきなり開いて、三人飛び出してきた。
「ライ、早くしろよ」
最初に声をあげたのは、一番右。小柄で目がきゅっとつり上がった、猫を思わせる男。
誰だ、こいつら。
他のアルバイトの中にはいなかった。いたらきっと覚えていたと思う。
三人とも特徴のある外見をしているから。
真ん中の男は真っ黒だった。肩まで伸ばしたまっすぐの髪も、暑苦しい長袖のシャツとズボンも。顔だけが真っ白く浮き出していて、目が冷たい。爬虫類を思わせる鋭さに、汗が額を流れていく。
左の男はとにかく大きい。天井に頭がついているかもしれない。顔はよく見えない。腕も足も胸も腰も全部が太くて、人間とは思えない形状をしている。
「ごめんな、あの男の子、気分が悪いんだってさ」
小柄な男はニヤニヤと笑っている。
「どうして黙って連れて行くんだ」
「黙って? マジかよ。お前ひょっとして、見えているのか?」
質問の意味がわからない。見えているのか? 見えているさ、今目の前にいるお前らの姿なら。
「答えろよ」
「どういう意味で聞いているのかよくわからない」
「俺たちの姿、見えているのか?」
「見えているけど……」
廊下の一番向こうで、来平先輩たちの姿が消える。
階段は右に曲がった先にあるはずなのに、突き当りでぱっと消えたように見えた。
「試そうぜ」
「まだ二日ある」
「二日なんて誤差みたいなもんだろ」
小柄な男と、黒づくめの会話。意味がわからなくてイライラする。
「やるのならば、お前がすべての責任を持て」
「そりゃないよカラス。俺たちはチームで動いてるはずだろ」
一番左の大男はなにも言わない。
なんて思った瞬間、世界が揺れた。
唐突に下っ腹に入ったインパクトで吹っ飛ばされて、もと居た部屋へ戻される。
蔵元さんの使っていた机に背中をぶつけて、ひどい痛みに悶えながら床へと落ちた。
古めかしいノートパソコンが俺の隣に落ちて、ひどいじゃないかと文句を言っている。
ディスプレイにはなにも映っていない。落ちたショックで消えたのか、壊れたのか。ひょっとしたら最初からなにも表示していなかったのかもしれない。黄ばんだコードで繋がれたマウスも一緒に落ちてきて、割れてはじけて散らばっていった。
景色なんかどうでもいいんだ。
それより、苦しい。息が出来なくて、口をぱくぱくしている。普段どうやって息をしているのかが思い出せない。
「わざと避けなかったの? 立花玲二君」
身を起こすことすら出来なかった。
彼らが名前を知っている理由も、どうしてこんな目に遭わされるのかも。なにもかもがわからないし、考える暇もない。
「ちゃんと見せてよ、全部」
今度は後頭部に打撃が入って、顔から床に突っ込んでしまう。
音が消え去り、床が崩れて、体が浮いて。落ちてしまうとわかったけど、体が動かない。結局また叩きつけられて、目の前が真っ暗になった。
意識は朦朧。ギリギリあるけど、消える寸前だ。
冷たい床にぴったりとくっついて息も絶え絶えの俺に残されているのは、聴覚だけ。
声が聞こえる。あの、一番右にいた猫みたいな男の声だ。
「なんだかこのまま死んじゃいそうじゃないか。どうなってるんだ?」
誰も、彼に答えない。あの三人が揃っているかどうかわからないから、独り言の可能性もある。
さっきの電話、俺に伝えようとしていたのかな。
変な奴が近づいているんだって、母さんにはわかっていて、しらせようとしてくれていたのかな。
アルバイトの話をしておかなかったことを、深く深く後悔した。
一昨日も出かけるなって言ったけど、きっと理由があったんだろう。俺がちょっと変だから、警告っていうか。そばにいなくても全部お見通し。あれ、ひょっとして、デートに入った邪魔の数々も、もしかして母さんの仕業だったりする?
イルカのジャンプも、鳥の激突も、犬の襲撃も全部、人間ではない者の力でもたらされたものなんじゃないか。
思わず笑ってしまった。
息子のデートをのぞき見して、お茶目な方法で邪魔をするなんて。
監視なんて気持ちの悪いことはしていないって言ったけど。
でも、子孫が出来たら困るんだから。
好きな女の子との合体についてばっかり考えているダメ息子がいたら、警告のひとつやふたつしてくるのは当たり前だ。
「笑ってるけど、マゾなの?」
ようやく視界が戻ってきて、絶望的な光景が見えた。
薄暗いけど、電気はついている。
床をぶち抜いて落ちてきたなら一階のはずだけど、そうは見えなかった。地下だと思った。
目の前には靴の裏側。耳の上に乗せられる。つまり、踏みつけられてしまった。
屈辱的だけど動けない。ひいひい息をするだけで精一杯で、手足をコントロールしている余裕がない。
「カラス」
「知るか」
踏んでいるのは小柄な猫男。
真っ黒い影のような男はカラスと呼ばれていて、ずっと奥に白い顔をぼんやりと浮かび上がらせている。
巨大なもう一人は、見えない。
でも、もうひとり分の声が聞こえた。来平先輩だ。
「クロ、あんまりやりすぎたら良くない」
「お前は黙ってろ、役立たず」
どうして、と疑問に捉われたと同時、ぐいぐいと踏みにじられて、痛みのあまり叫ぶ。
「弱い者のふりをしているならさっさとやめるんだな。これ以上のルール違反は許さねえよ。俺たちだって文句はあるけど、ちゃんと守ってるんだからな」
わからない。さっぱりわからない。
なにを聞き出そうとしているのか、それとも単に人違いをされているのか。
なんにせよ最初にこんな暴力を振るう必要はないはずだ。
そんなことを頭の中でぼやくだけの俺は、とにかく無力で。
「答えろよ!」
耳を踏みつけていた足が離れた。けれどそれは暴力の終わりじゃなくて、次の準備のため。後ろに大きく下がった足は次の瞬間思いっきり振り抜かれて、俺の顔のど真ん中に命中した。
また宙を舞って、床に落ちて。
頭がぐらぐら揺れて、気持ちが悪い。
目をまともに開いていられないし、音もとぎれとぎれにしか聞こえない。
怒ったような声がするけど、聞き取れなかった。
これ以上蹴られたら死んでしまう。
顔が熱い。鉄の臭いがする。顔をぬるぬるとしたものが這い回って、足元から冷気が忍び寄ってくる。
夏休みの選択肢、一体どこから間違えていたんだろう。
アルバイトは間違い。花火大会も行くべきじゃなかった。遊園地も水族館も多分母さんの監視が入っていて、まともなデートなんかじゃなかったんだ。
相原のことは良太郎に任せておけばいい。
園田とはそもそも二人で会ったらいけなかった。
高校入試の前、新年早々にもたらされた俺の絶望。
無難で波風のない、退屈で抑圧された生活の中に留まっていれば良かったのに。
ちょっと可愛い女の子に声をかけられたからって、俺はすっかり浮かれてしまって。
愚かな人生。結局なにも起きなかった。だったら、期待なんて持たなければよかった。
闇のカーテンが下りてきて、寒さに震えるかわいそうな俺の前に現れたのは、でも、やっぱり園田で。
悲しい顔をして、黙ったまま俺を見つめていて。
そんな目で見ないで欲しいのに。
手を差し伸べてほしくてたまらない。
いつまでも君と歩いて行きたい。
こんなところで転がっていたくない。
だけど体が全然動かなくて、せいぜい首をちょっと振るくらいしかできなくて。
「いつき……」
俺の願いは、声にならずに消えて行く。
「なに? ちゃんと話して」
俺を散々蹴り飛ばした男は嬉しそうに顔を覗き込んできた。
猫みたいな男だと思ったけど、本当に猫だった。
まあるくて真っ黄色の目。縦長に入った黒。
闇の中で爛々と光っている。
「俺たちの姿、見えてる?」
そこにいるじゃないか。
そう答えればいいのか。
口に出そうとした瞬間、銀色の光が飛び込んできて男を吹っ飛ばした。
「あんたたち、よくもやってくれたわね!」
帰りの予定、聞いてなかったんだけど。
いつの間に戻ってきたのか、狼は俺の前でいつもの母さんの形に姿を変えた。
「玲二、大丈夫?」
「大丈夫……じゃない、よ」
ほっとしたせいか、力が抜けた。
情けないけれど、花火の時と同様、意識を失ってまた暗闇の中に沈んだ。