はじまりの日 / 玲二
六月の終わり、放課後、学校の中庭の花壇前。
ジャージに着替えて集合のはずが、誰もいない。もしかしたら、日時を間違えたのだろうか。小さく不安を覚えている自分に、後ろから声がかかる。
「あれ、一人しかいないの?」
俺は少し悩んで、こう答えた。
「いえ、あと一人、来ます」
来るだろうと思う。授業が終わって教室を出ようとしたところで、声をかけられたから。同じクラス、同じ美化委員である、園田いつきから。
「立花くん、委員、今日だよね?」
長い髪をポニーテールにした大きな瞳のクラスメイトに頷くと、彼女は「じゃあ、あとで」と答えてくれたはずだ。
「あと一人だけ? 今年の委員はみんな大胆だなあ」
委員会の担当をしている白川教諭は大袈裟にため息を吐き出して、更に肩をすくめてみせた。
今日の天気は晴れで、日差しは強い。季節のせいか湿度が高いので、「花壇の草むしり」なんて仕事をサボりたくなる気持ちはよくわかる。
「すみません、遅くなりました」
そこに、ジャージに着替えた園田が姿を現した。白いTシャツにはなぜか大きく蛍光ピンクの「つきはまシーサイドアクアリウム」のロゴがプリントされていて、やけに眩しい。
「二人だけかあ。君は? 何年何組の誰さんだっけ?」
「一年三組の、立花玲二です」
「私も一年三組で、園田いつきです」
「立花君に、園田さんね。わかった。一年三組の担任は誰だっけ、白石さんか。白石さんにはよく伝えておくから、君たちだけは次回もちゃんと来てほしいなあ。三年生ならまあ、いいんだけど。一年も二年もみんないないなんてヒドい話があったもんだよね、二人とも」
どこかユーモラスな白川先生のお願いに、園田はくすくすと笑っている。
本来なら一クラスにつき二人なんだから、全部で三十人くらいはいるはずだ。今日の委員の仕事は花壇の清掃で、最近一気に増えた雑草を引っこ抜いて欲しいと言われている。
四月にあった最初の集まりの時点で、既に来ていない人はいた。五月は更に減っていたから、もしかしたら今日はかなり少ないかもしれないとは思っていたけれど。
委員が二人しか来なかったからなのか、最初からそのつもりだったのか、俺と園田の間に白川先生もしゃがみこんで、草をぶちぶちと引っこ抜いている。
三人で全部やるのか、と思っていたら花壇のそばにある窓が開いて、「白川先生お電話です」という展開だ。
「ごめん、ちょっと行ってくるね」
「はい、先生」
額から汗を垂らしながらも笑顔を絶やさない園田に、なにを思ったのだろう。白川先生は最後にこんなことを言い残していった。
「もしかして、二人は付き合っているのかな? だとしたらちょうどいいね、よろしく頼むよ!」
園田の「違います」という声は届いたのか、それとも照れ隠しだと思われたのか。
白川先生は満面の笑みのまま、手を振って去って行ってしまった。
「白川先生って面白い先生だね」
照れくさい空気の中、草むしりを再開していく。園田は少し恥ずかしそうにはにかんで、俺に話しかけてきた。曖昧に返事をして、日差しに焼かれながら地面を見つめる。
俺は今日馬鹿正直に委員の役割を果たそうとしたのが正しい選択だったのかどうか、悩んでいた。
これまでの十五年と少しの人生で、「人よりも目立ちたい」と思った経験はない。人に迷惑をかけない、常に自分のベストを尽くす、こんな「当たり前」を信条にしてきた。趣味は読書で、外国語に興味があって、将来は通訳か翻訳の仕事をしてみたいような気持ちがうっすらとあって、友人はあまり沢山ではないかもしれないけれどそれなりにいるような、ごく普通の人生を平凡に生きてきた。そう思っていた。
けれど、五か月ほど前に全部ひっくり返ってしまった。ひっくり返されてしまったというか。いや、本当は、平凡なんて、俺には上等過ぎたのだと知らされた。
それからは「目立たない」が人生の基本になった。そうしなければいけなくなった。
でも今日は、まともに委員会の仕事に参加したせいで逆に目立ってしまった気がする。
こんなのは本当に些細な出来事なんだろうけれど、でも、塵も積もれば山となるし。
「立花くん、ごめん、ちょっとだけここ離れてもいいかな?」
無心で雑草をむしる俺の目の前に、きらりと星が輝く。
園田は大きな目をぱたぱたと瞬かせて、申し訳なさそうに首をちょこんと傾げた。
「今日、こんなに人がいないと思わなかったんだ。終わったら部活に行くって言っちゃったんだけど、無理そうだから。伝えて来るね」
「……部活があるなら、行ったら? 一人で大丈夫だし」
「いいの、お菓子作って食べるだけのゆるーいクラブだから。一緒にやって早めに終わらせよ。家庭科室すぐそこだから、ちょっとだけ行くね!」
園田はにっこり笑顔を浮かべると、ポニーテールを翻して走って行ってしまった。
あの時と同じ顔だ。四月、入学してすぐにあった、委員会決めの日。
希望していた図書委員はジャンケンで負けて、最後に残っていたのが美化委員。希望者はいなくて、あとはこれだけなのに決まらないという状態だった。
部活動には参加しないと決めていたから、せめてなにか、委員くらいはやった方がいいと考えていた。美化委員なんて一番ちょうどいい。「目立たない」高校生活を送るために、なにをしてなにをやらないのか。そこそこのバランスでやっていかなきゃと思っていたから、手を挙げた。
そして俺のあとにそっと手を挙げたのが、斜め前の席にいた園田だった。
同じ中学に通っていたから、顔と名前は知っていた。同じクラスになったことがないから、どんな子かは知らなかったけれど。でも、すごく可愛いんだと大勢が話していた。その彼女が手をあげて、最後の最後、膠着していたホームルームを終わらせて、そしてくるりと振り返って、微笑んだんだ。
「立花君、よろしくね」
同じ中学から来たんだから、向こうも少しくらいは自分を知っているのかもしれない。
微妙な距離感と、愛くるしい笑顔に、戸惑ってしまう。
中学で一、二を争う可愛さは今いるクラスでも発揮されているので、あまりそっけなくするのも良くない気がする。最後に園田が美化委員になると決まって、周囲からは後悔の声が聞こえていた。あの子がやるなら、自分がやれば良かった。そんな感想をちらほら聞いた。
とはいえ、ぐいぐい行くのはもっと無理。つまり、そこそこで対応するしかない。
たまには笑ったり、他愛のない話を振ったりしなければならない。でも、他愛のない話にふさわしい内容が、俺にはよくわからない。
「ごめん、おまたせ」
宣言通り、園田はあっという間に戻ってきた。行った時と同じ笑顔で、蛍光ピンクの、ちょっとダサいロゴのTシャツ姿で。
「本当に良かったの?」
早速しゃがみこむ園田に問いかけると、だいじょうぶだよ、と返ってくる。
「立花くんこそ、部活はないの?」
「帰宅部だから」
「そうだったんだ」
これはきっと、他愛のない話に分類されるに違いない。
今の調子で最後まで、ゆるゆると作業をしていけばいいんだ。
そのうち白川先生が戻ってきて、またユーモアを交えつつ愚痴を吐いてくれる。園田がそれに答えて、俺は相槌でも打てばいい。
「中学校が一緒だったのに、話すの、初めてだね」
「そうだね」
「立花くんって、ええと……」
園田いつき。県立大瀬高校一年三組、出席番号は十八番。
俺は十九番なので、並ぶ時はいつも近くになる。
顔見知りなんだけど、それ以上でもそれ以下でもない。
だから目が合っても、曖昧に微笑むくらいしか出来ない。出来なかったはずなのに。
「今、付き合ってる女の子っているの?」
いきなり、なんでそんな質問をしてくるのか。
「いや、ご覧の通りだよ。いない」
「や、全然ご覧の通りじゃない……と思うけど」
平静を装うつもりが、思わず顔を上げてしまった。雑草だけを見つめようと思っていたのに。気になってしまって、つい。
大きな瞳が向かいにあって、俺を見つめている。
「すごくモテるんだろうなって思ってたから」
「モテないよ、全然」
それを言うなら、園田の方がモテるはずだ。びっくりするくらい可愛いんだから。
みんなそう言っていた。今同じクラスになったやつらも、そう言っている。
そして俺も、今、本当だったと気が付いてしまった。
目が大きいからなのか、やたらとキラキラしているように見えたし。
鼻もすっと通っていて、嫌味のないちょうどいい高さだし。
唇はピンク色でつやつやしているし。
睫毛も長くて、くるんと上を向いている。
それに、ずっとにこにこしているんだ。放課後声をかけてきた時も。ジャージに着替えてやって来た時も。先生に返事をする時も。部活に顔だけ出してくると断りを入れてきた時も。
全身からなにかが放たれている。眩しくて、爽やかな香りのなにかが。
たとえもう少し顔の造形が悪かったとしても、このなにかさえあればみんな惹かれるだろう。俺はそう感じて、ハラハラしていた。彼女をまともに見てはいけない。見たら、駄目になってしまう。
「園田、これ、良かったら使って」
花壇の清掃だと聞いていたから、軍手を用意してきた。でも、先生も園田も素手で草を抜いていたので、さすがに自分だけ使うのは気が引けた。だから、ズボンのポケットに入れっぱなしだった。
「わあ、軍手? 用意してたの?」
「うん、すっかり忘れてた」
白々しいかな、と思うが、これ以外に答えようがない。
「でも、悪いよ。立花くんが用意したものなんだから」
「いいよ。草で手を切るかもしれないし」
この台詞もかなりの今更感だ。でも、会話をさっきの路線に戻したくない。
「あ、じゃあ、片方だけ貸して。一個ずつ使おう」
ね、とまた笑顔。ちょこんと首を傾けてからの微笑みに、俺は慌てて頷き、うつむいた。
「左手の方借りるね。えへへ、うらおもてにしちゃおう」
頭に血がのぼっていく感覚は、きっと太陽のせいだ。
だらだらと降る雨の合間に、張り切って大地を照らそうとしているから。もうすぐ夏が本番になるから。
カッカと火照る頭を持て余しながら、雑草を一心不乱に抜いていく。そうだ、仕事だ。勤しむんだ。俺がするのは、相槌だけだ。
俺の態度をどう思ったのか、「彼女うんぬん」の話はもう園田からは出て来なかった。会話はいつしか草むしりの進捗だけになって、美化委員の仕事は五時近くになってからようやく終わった。
「立花くん、軍手ありがとう。これ、洗って返すね」
「いいよ、そんな。片方だけだし。家に置いてあったものだから」
「そう? ありがとう。あの、立花くん、もう帰るよね?」
一緒に帰ろう、と園田は言う。
中学が一緒なんだから、それなりに近所なはずだし、乗る電車も、方向も同じだろう。
ここで断ってしまったら、駅のホームでばったり会った時、相当気まずいに違いない。
「ああ、いいよ」
「良かった! じゃあ急いで着替えて来るね」
着替えを済ませて更衣室から出ると、すぐに隣の女子更衣室から園田が飛び出してきた。ヘンテコなロゴ入りTシャツから、夏の制服姿に。半袖の白いシャツに、赤い細いリボンがついている。膝上五センチほどの長さのチェックのスカートがよく似合っていた。
学校を出て駅まで歩いて五分。電車に揺られて二十分。そこから先はどのくらい一緒に歩くのか、それはまだわからない。
まだ明るいとはいえ、夕方なんだから。女の子は送っていくべきなんだろうか。
こんなことで悩みたくない。あまり他人と接点を持ちたくない。
人間関係はうっすら希薄、でも円満に。
母さんが俺に出した指令は厳しい。
「立花くん、甘いものって好き?」
とはいえ俺がどんなに悩み深くても、世界中のすべての人には関係ない話だ。
天真爛漫な園田の問いに、どう答えるのがベストか、考えなければならない。
嘘はつかない。でも、相手の気を悪くさせない。無駄なインパクトは与えない。
「普段はそんなに食べないかな」
「そうなんだ。残念!」
「部活の話?」
「うん。クッキングクラブに入ってるの。お菓子作ってお茶するだけの、すごく気楽な部なんだ。先輩たちも優しい人ばっかりでね」
美少女とお菓子作りという組み合わせからは、幸せを感じる。
今の自分と一番縁遠いもの。幸せ。なんでもない平凡な暮らしの中に、そっと満ちあふれているもの。
「今日もクッキーもらったんだけど、あげたら迷惑かな?」
夕方、五時二十分。六月の空はまだ明るくて、返事に迷う。
「迷惑ではないよ」
「じゃ、一枚おすそわけ」
一体いつ受け取ったんだろう。今日のクッキングクラブの成果であろうクッキーは、園田の柔らかそうな手に運ばれて、口の中へ直接届けられてしまった。
手を差し出せば良かった。手で受け取れば良かった。まだ少し温かいクッキーはサクサクとしていて、ひたすらに甘い。
「ありがとう」
俺のお礼に、園田はまた首をちょこんと傾けた。笑顔で。
ひょっとしたら耳まで赤く染まっているかもしれない。こんな心配をしてしまうほどに、体が熱かった。
「立花くん」
道の先に、駅の明りが見えている。
地味でささやかな商店街の端で、足を止めた。園田が止まったから、俺も足を止めた。
ピンク色の唇が少し開いて、躊躇ったように小さく閉じて、そして決意を固めたようにまた開いて。
「ええと、……私と、ともだちになってくれませんか?」
今流れているこの空気の重さにはあまり似合わない、「ともだち」という言葉に、頭が今度は白く染まっていく。
だめだ、と声がした気がした。心の奥にいる俺が叫んだように思った。
でも、ともだちになれないなんて、普通の人間は言わない、多分。
頭のどまん中にいる理性的な自分はそう判断した。だから答えは、こうだ。
「もちろん、いいよ」
俺の返事に、園田はぱあっと顔を輝かせた。薄暗くなってきた商店街の端っこで。その笑顔は今日見た中でも一番で、どうしてそんなに嬉しそうに笑うのか、考えそうになってしまう。
違う、そうじゃない。地元が一緒で、たまたま同じ高校になって、偶然クラスメイトになった仲なんだから。それがともだちじゃない方が不自然じゃないか。
少し混雑し始めた電車の中で、園田は嬉しそうにこう話した。
「立花くんと話せたらいいなと思って、美化委員になったんだ」
「そうだったの?」
俺が感じていた微妙な距離感を、園田も感じていたのだろうか。
高校に入って三ヶ月、もしかしたら同じ電車で帰っていたこともあったのかもしれない。
学校の話をいくつかしているうちに、電車は最寄り駅についていた。降りる駅は当然同じで、並んで改札を抜けていく。
「園田は、家まで歩き?」
「うん。十分くらいかな。平森の三丁目なの」
改札を出るとすぐに派出所がある。そこには「チカンに注意!」の大きな看板が置かれていて、夜道を一人歩く女性があからさまに狙われているイラストが描かれていた。
今日あらためて「おともだち」になった可愛い女子と「一緒に帰ってきた」のに、夕暮れ時にあえて一人で帰すのか。ごく普通の男ならきっと、こう言うのではないか。
「良かったら、送っていこうか」
初めて口にしたこんな台詞に、心がむず痒くなっていく。
驚いたような顔をされたので、もしかしたら「出過ぎた真似」だったのかと不安は募る。
「立花くん、遠回りじゃない?」
「いや、そこまで遠くもないよ」
昔近いところに住んでいる誰かの家に行った記憶があると話すと、園田の表情はみるみるうちに緩んだ。
「すごく嬉しいかも」
また目からキラキラのビームを出しながら、次に園田はなぜか首を振った。
「ううん、かもじゃない。すごく嬉しい。本当にいい?」
「いいよ」
「ありがとう」
どうやら園田はものすごく素直な性格をしているようだ。
こんなに眩しい笑顔が計算で出来るわけがない。
だから俺は、送るよと自分から言い出したくせに、道中園田の顔をまともに見ることができなかった。
長い長い十分の道のりをなんとか踏破して、また明日ねと振られた手に、軽く手をあげて。
一番近い角を曲がると、俺は逃げるように全速力で家まで帰って行った。