幼馴染み
放課後、校門を出たところで後ろから「健太、健太」と呼ぶ声が聞こえた。健太には聞き慣れた幼馴染みの声だ。
ふり返ると制服姿の東乃友香がこちらに向かって走ってきている。半袖のブラウスから伸びた白い腕が濃紺のスカートに映えて眩しく感じられる。
どっどっと走ってきた友香が、健太のそばで止まった。両膝に両手を当ててぜいぜい言っている。うなじで二つに結んだ髪の結び目が少しばかり緩んでいる。
いつもならば互いにそれぞれの部活で忙しい時間である。だが今日から一週間は中間考査前で部活動はなく下校時刻はいつもよりもずっと早い。
「なんだ。どうした」
「あっっちいいい」
顔を上げた友香の額に汗が滲んでいる。頬に一つ小さなにきびができていた。あとは額も頬も真っ白でそこに細い眉があって、すっと鼻筋の通った顔をしている。あいかわらず日本人形のような奴だなと健太は思った。
「いっしょに帰ろう」
「お?」
めずらしいことだなと健太は怪訝に思う。
幼稚園から高校までずっと同じという友香との縁だが、さすがにもう登下校を共にするということは久しくなくなっている。特に高校に入ってからはすっかり接点の少なくなっている二人である。
「ちょっと相談があるんだ」
「相談?」
うだる暑さの中、街路樹のつづくアスファルトの歩道を並んで歩いていく。
二人の家は同じ方向にある。歩いて一分の距離に住んでいるのだ。
「あのね私ね。今までの人生でいちばん驚いたかも。びっっくり。ね。ね。何だと思う?」
「は? わかるわけないだろう。ヒント、ひとっつもないぞ」
「それがねそれがね。なななななんと。今日ね。私ね」
「またぼんやりしていて看板に激突したのか?」
「ちがーう。あれは小四のときに一度だけじゃん。またって何よう」
「じゃあ、あれか。アイス食い過ぎて体重がやばくてダイエットか。しょっちゅうだろ」
「もうお。ちがうってば」
ぷくりと頬を膨らませてから、ふいに友香は真顔になった。
「……私ね。告白されちゃったのよう」
「えっ」
すぐには言葉が出ない。足を止めている自分に気づいて健太は再び歩きはじめる。
「へー。物好きな奴もいるもんだな」
言いながら健太のテンションはどんどんと下がっていく。
「同じクラスの飯田って人なんだけど。中学一緒だった人。健太も知ってるでしょ」
友香が首を回して健太をまともに見つめてくる。
ずきゅんと健太の胸がうずいた。飯田の顔が浮かびざわざわと心の中が騒がしくなってくる。
「それでー。返事、どうすればいいと思う? ものすごく迷っててさあ。だって結構いい人なんだ飯田君って。でも今まで考えたこともないんだもん。ぜんっぜんそういう対象じゃなくって」
「あいつなら……まあ。優しいとこあるし。悪い奴じゃないよ確かになあ」
言いながら隣の友香を眺めて白い首筋にどきりとする。慌てて視線を落とす。すると今度はスカートの紺が目に染みた。そこから伸びている足のふくらはぎもとても白くて、再び健太はどきんとする。前を向いてもう友香の顔は見ない。
だが目の奥にまだ残像が残っているような気がした。
街路樹が途切れて家が近づいてくる。次の角を曲がるとそこで二人は別れて帰るのだ。
「良い奴なのは間違いないよ。付き合ってみればいいんじゃないの」
気づくとそんなことを言っていた。
「そう? そう思う?」
「ああ」
健太は頷いた。
分かれ道に来ていた。二人は互いに手を振って右と左にそれぞれの道を行く。
翌朝、健太は自宅を出てすぐに登校中の友香を見かけた。
「よう」
声を掛けると友香が顔を上げて「あっ」と言った。駆けてきて健太と並ぶ。
「昨日の話だけど。私。オーケーしようかと思ってる」
「そうなんだ……」
途端に心の中で、何かがしゅるしゅるしゅると音を立てて消えていくのを健太は感じる。付き合ってみればなんて言わなければよかったと思う。灰色の渦が沸き上がって胸の中に広がっていく。
「返事は来週でいいって言われているから、もう少し悩みそう。でも……健太もいい人だって言ってくれたから。たぶんオーケーするかなあ。相談してみてホント良かったよう。ありがとう」
にっこりと笑う友香から何か爽やかな香りが漂ってきて、シャンプーの匂いかなと健太は頭の隅で考えた。
そしてやはり、付き合えなんて言うんじゃなかったと思う。どうしてあんなことを言ってしまったのか。何が何だかわからなくなってきた健太だった。
昼休み。
図書室へ行こうと健太は二階から三階へと続く階段の手すりに手を掛けた。ここは照明が暗くて普段から人気のない場所で、大抵は皆、廊下の先にある向こう側の階段を使う。
見あげると目の前の階段を踊り場へと昇っていく友香の後ろ姿があった。声を掛けようとしたとき、「お。東乃」と太い声がした。
三階から降りてきた男子が踊り場で立ち止まって友香に笑いかけている。
「ちょうどよかった。ちょっと待って」
そういってズボンのポケットを探っている男子の前で、友香も足を止めて向き合っているのが見えた。
「この間の日帰り旅行の。おみやげ、東乃にだけ渡しそびれてた」
「あ、行ったんだ。例の神社?」
声を掛けそびれた健太は何となく後ずさっている。教室の角からそっと伺う。
「これ」
「わ、ありがとう」
ポケットから出した品物を男子から手渡されているようだった。友香の後ろ姿しか見えないし、男子の姿も友香が遮るかたちになっていて、詳しいことは健太には分からなかった。
「おおー。カエル」
トーンの高くなった友香の声が聞こえる。おみやげというのはカエルのグッズだったようだ。
ラインでどうのと話しているのも聞こえてくる。そんなに親密な間柄なのか。健太はただ立ちつくしている。彼は友香とメールでのやり取りすらしたことがなかった。その必要もないほど互いの家が近かったからだと思っていた。健太の場合ラインの相手はもっぱらクラスの男子で仲の良い奴とあとはほとんどが柔道部の先輩後輩たちだった。
「ありがとー」
カエルのグッズを受け取っているらしい。
えー友香はカエルあんまり好きじゃないのにと健太は心の中で思った。友香はクマなんだよ。クマのグッズならもっと喜ぶのに。
考えているうちに健太は胸がずきずきとしてきた。
自分の方が友香のことは知っていると思った。いや何だったら誰よりも友香のことを知っている。何しろ幼稚園の頃から友香を泣かすやつは俺がやっつけてきたんだから。ぴいぴいよく泣いていたなあそういえば。
幼稚園のプールで泣いてたのを必死で笑わせようとしていたことがあったな。でかい犬に吠えられて動けなくなっていたのを助けたことはも何度かあった。いまでも友香は犬が苦手なのだ。
他の男子に苛められてるのを見つけてやつらを追っ払ったこともあった。あれは小学生のときだったか。
いろいろと思い出しているうちに健太はふと思った。飯田がどれほど友香のことを知っているというのか。
だだだだっと廊下を降りてくる足音に健太は我に返る。
友香が目の前にいた。
目を真ん丸に見開いて健太を見ている。
「健太……?」
いつの間にやらカエルグッズの男子はまた三階の教室へと戻っていったようだ。
「何してんの。見てたの?」
「いや。昇ろうとしたらお前がいたんだよ」
「えー。そうなのう?」
戸惑ったような表情である。その少し困ったような顔つきに健太には一瞬、幼かった頃の友香の姿が重なって見えた。
「お前……モテるんだな」
「え。いまごろ気づいたの」
「いやその」
「――って、そんなわけないじゃん。どーしたのよ健太」
めいっぱいに見開いた目で友香は健太の心を覗くように見つめてくる。
「旅行のおみやげをもらっただけ。他にももらった人、たくさんいるんだから」
「わわわかっとるわ。こっちも冗談言っただけやんか」
急にふうと友香がため息をついた。
「ホントに健太って……」
斜め上だか横だかあらぬ方向を友香は遠い目で見ている。それからもう一度ため息をついて首をふった。
「……いやなんでもない」
「おい。ちゃんと言えよ」
何を言おうとしたのか。気になるではないか。
「私もう行かなくちゃ。また後でね」
スカートを翻して友香が廊下を走っていく。訳の分からないまま健太はしばらくその場に立ちつくしていた。
その日の放課後、下校しようと昇降口へ向かうと、ちょうど友香が靴を履き替えているところだった。
声を掛かけようかどうしようかと迷う。
思いきって健太は足を踏み出した。
そばまで行ってその背中に「友香」と声をかけた。
友香がふり返る。
「あ、健太」
あのさっぱりと爽やかな香りがふわりと漂った。
「なあ。昨日の話だけどさ」
まっすぐと友香の目を見て、健太は腹に力を込める。
「断ってくれ」
「え。何」
「付き合ってみればって言ってしまったけど。あれは間違っていた」
ぱちぱちっと友香の目が瞬いた。それからまたじっと健太を見ている。その眼差しが健太には苦しい。
「お。お、俺」
口ごもってしまった。だがこれははっきりと言おうと健太は決めていた。
「俺、おまえが好きだ」
口の中が乾いてきて心臓がばきばき音を立てている。握りしめた両手の拳を健太は強く握りしめてしまう。
「だから。飯田のことは断って俺と付き合ってほしい」
ばさっと重たげな音がした。友香の鞄が床に落ちている。
俯いた友香の肩が震えている。両手で顔を覆っている。
「……だめか。やっぱりなあ。そうだよなあ……」
耳の後ろを掻きながら、健太は努めて軽い口調で言った。
「いいんだ。気にするなよ」
「ちがうちがう。うれしい。私」
「え」
顔をあげて友香が笑っている。
「ホントに健太って鈍感……」
鈍感?
「ずっと健太のこと――好きだった」
横を向いた友香は照れ隠しのように鞄を持ち上げた。
「鈍感すぎるよう。全然気づいてなかったよねえ。私幼稚園のころから……ずっと好きだった」
「友香」
恥ずかしそうに視線を逸らしながら話す友香。
そんな彼女を健太は新鮮な気持ちで見つめている。
「ほら。いつだって私を守ってくれたでしょ。どんな時でもすぐに飛んできてくれた。だから私安心してた。どんなことがあっても何があっても私には健太がいるからって。そう思ってすっごく安心できた」
「……」
「私、健太はどんな時でも絶対に私を守ってくれるって……分かっていたから。でも健太の気持ちはわかんなかった。きっと私のことなんて何とも思ってないんだろうってずっと思ってたもん」
二人で校舎を出た。夕方だというのに外は晴れやかに明るい。空の裾がほんのり橙色に滲んでいるだけで全体に青くて白い。
夜は遠い。
空を眺めながら健太は心が軽くなっていくのを感じた。
視線を戻すと友香が健太に笑顔を向けていた。
「いままでありがとう健太」
「そんな」
びっくりして健太は足を止める。
友香も足を止めている。
「これからよろしくお願いします」
しずしずとお辞儀をする友香に、
「こ。こちらこそ……」
照れまくる健太だった。