6家庭教師派遣
凛が言っていたのは、おそらく部屋で待っていてということだろうと見当をつけられたが、そもそも玄関まで凛と一緒に行って客を出迎えられる体力がなかった。
十和は、ベッドから起きている時は、常にソファーに寝そべっているのがここでの日常スタイルと化していた。しかし、客が万が一部屋まで来たらこれじゃまずかろうと、起き上がって身繕いをしていると、ノックの音とともに客が通された。
間一髪だ。感がさえていたよ。
入ってきたのは六十がらみの男とその秘書みたいな男だった。六十がらみの男は、少し顔色が悪かったが、整った渋い、いい男というか紳士?という感じで地位の高さを覗わせたる男だった。
若い方は、一言で言えば、イケメンだった。どこの俳優だよ、だった。
六十がらみの男は、かすかに顔をほころばしているが、目がこちらを窺っているという高度なわざを見せながら、十和の姿にさっと目を走らせた。
その後、耳に心地よい声と身振りでゆっくり挨拶らしきものをしてきた。
十和は、立ち上がって客を迎えた方が良かったとハッとしたが、後の祭りだった。今更だと開き直って、座ったまま
「ご丁寧な御挨拶いただきいたみいります。このようなお迎え方をしてしまい心苦しく思います。どうぞ、お座りください。」
と向かいのソファーを手で指し示した。
少したじろいだようだが、意味は伝わったのか、何やら言葉を言った後、初老の紳士の方だけ、十和の前に座った。もう一人の若い男は、初老の紳士の斜め後ろに立った。
何だか物々しい。
SPか。
彼らの立ち居振る舞いは、普通の十和の状態だったら、怖気づいただろうが、体調が悪すぎてというか、こういう日常とかけ離れた状態に慣れすぎてというか、頭がぼんやりしすぎてというか・・・もう何でもよくなっているというか、気にしなくなっていた。
それでこの人たちは、何をしに来たのかと紳士を見ると、彼も十和を見ていた。
・・・目が合ってしまった。
愛想笑いの日本人を発揮してしまった。
・・・成功?・・・ってごまかし切れてないだろう。たぶん。と脳内会議をじたばたしていると、紳士は後ろの若い男に何やらつぶやくと、若い男は、持っていた手荷物から本や筆記用具を取り出しテーブルの上に並べた。
(おぉっ!あの男、言葉を教えてくれる人を派遣してくれたのか?あの時、やっぱりマイ ボディランゲージが活躍しちゃったのか!)
御大層な物々しい感じで現れたため、ビビッてしまったが、退職した大学教授か何かだろうと考える十和だった。
(あの男、なかなかやってくれるよ。)
とひそかに心の中で感謝してしまった。
(今度、ヤツが来たら感謝の気持ちを忘れずにボディランゲージで伝えよう)
と、心のメモにつけた。
十和がそんなことを考えているとは思っていないだろう紳士が着々とテーブルの上に凜に指示を出しながら勉強する支度を整えていた。
それが終わると、十和に向かい、
「ヤンヴェヴィー・・*/-8#$%ロ・・%&>>・・カン$%&」と言いながら、自分自身を指した。その後、おもむろにノートに字を書き始めた。
おそらく、紳士の名まえだろうと見当をつけたので、十和も真似をして、
「ヤンヴェヴィーロ・・ヴィロ・・ヴィロ」
と大きな声ではっきり言ってしまった。慣れないカタカナの上に、妙に長い名前って一度で聞き取れないし、覚えない。世界史の勉強のときわかっていたのに、なぜ得意そうにデカイ声で言ってしまったのかわからない。
どちらに失礼だったか、誰が失礼なのかもわからないが、後ろに立っていた男が噴き出した。
当の紳士はあっけにとられた後、チラッと後ろを振り返り、若い男を氷漬けにした。
(そうだろうなぁ。)
と思った十和であった。
(後ろで秘書的な立場の君は、間違っても笑ってはいけないよ。紳士にも、たぶん私にもね・・・ふっ若いな!)
固まった若い男から目を移し、紳士を見ると、真剣な顔をしてこちらを見ていたので、十和も真剣な顔をしっかり作って見つめ返した。
紳士は再び同じことを言うので、十和も聞こえたように言い返したが、また違ったみたいだった。
何度か同じことを繰り返した後、結局、ヤンで決着した。
そうしたらならば、こちらも返答せねばと、紳士から使いづらいペンを借りて、書いてもいいという紙に、堺 十和と漢字で書き、
「堺 十和」
と自分を指しながら言ってやった。
紳士改めヤンさんは、外国人らしく日本語の発音がしづらいのだろう、うまく言えなかった。
ニヤリとしそうな顔を引き締め、御返しではないが
「トワ」
と、いいやすいだろう名だけを言ってやった。
ただ残念なことに、“トゥワ”としか言ってもらえなかったのは、無念の極みだった。
まぁそんなこんなで、ヤンさんから挨拶と“これはペンです。“系の言葉を教わり、ヤンさんからは漢字の名まえの書き方を聞かれ何度か試しにヤンさんが満足するまで書いてやり、その日の授業は終了だった。
筆記用具としては、書くのはペンで、紙は品質が悪く、使いかけのものを練習用にしているようだった。教わる身として、贅沢は言えないが、現代日本人としては、違和感ありまくりだった。
紙不足なのか技術がないのか、文化的に日本の200年から300年ぐらい前だと感じていた十和であった。
・・・凄く・・・もの凄く、呑気なことを考えていた十和であった。
名まえを書くことは、よっぽど気を付けなければいけないと、二十歳を過ぎた十和の年だったら普通に知っていて、いい事だったのに。・・・
少女がお茶を用意して、ティータイムが始まった。
客に出せる茶菓子がないことに慌てたが、食欲がまったくないとき用に、男が用意してくれた果物を出すことにした。
ソファーを立つと、部屋の隅のテーブルに置いてあった果物とナイフを取り、ソファーに戻り、少女に皿を持って来てくれるように、頼んだ。
少女は自分がやると身振りで示していたが、早く皿を持って来てと、催促することで諦めさせた。少したじろいでいるような若い男とヤンさんを尻目に、私はやればできる子なんだとばかりに、リンゴのような梨のような果物を剥き出した。
・・・うまく剥けない・・・ナイフが使いづらいのだ・・・
・・・リンゴや梨より大きくて手に余るのだ・・・決して私が不器用なわけではない・・・
・・・とにかく、このナイフはよく切れる。怖くて仕方がない・・・と思っている、そばから手を突いてしまった。
終わったと気を抜いたのが失敗だった。皆にばれないように、知らん顔をして、さりげなく切ったところを布巾で拭い、果物を16分割してヤンさんと若い男に差し出した。凜の分は後で食べてもらうことにして取り分けておいた。
ここへ来て、初めて何かをやり遂げた感があった。
若い男は席についてないので、凜にもたせ男に受取らせた。ヤンさんは少し迷っていたようだが、十和が食べ始めると、諦めたのか口にした。若い男は、ヤンさんを見たり、私を見たりしていたが、ニッコリ笑ってやると、思い切ったように口の中に入れた。
・・・ふっ無理強いしてやったぜ!・・・・・・反省・・・・である。
指がズキズキして痛い。
見えないように、布巾に手を押し当てて血を拭う。
血液は感染病を引き起こすのでやばいのだが、ここへ来る少し前にB、C型肝炎やその他の病気の検査を友達の実施演習という実験で受けさせられて、結果は陰性だったので十和自身としては他人の血が気持ち悪いということを除いては大丈夫だろうと、することにした。
なにより、囲ってくれている男に様々な体液をむさぼられていることから多少のことならオールオーケーってことで、二人には勘弁してもらおうと開き直った。
・・・開き直ることの多い、ここに来てからの十和です・・・
目の前のヤンさんはよく咀嚼している。
・・・のどに通らないのか?
若い男は立ったまま食べている。それは、お行儀上どうなのだろうか、と十和が、いくら身振りで座ってと言っても通じない。
言葉の壁厚し!
ようやく食べ終わったヤンさんを見ると、驚き顔でこちらを凝視したと思ったら、何やら挨拶らしきものをして、そそくさと若い男を引き連れ、帰って行った。
どうしたんだっ!!