ケダモノの騎士
立ち寄っていただきありがとうございます。
出血等、多少残酷な描写がございますので苦手な方はご注意くださいませ。
僕は誰よりも麗子のことを知ってる。麗子自身さえ知らない麗子のことだって、たくさん知っている。
だから、さ、
「僕と付き合って欲しい」
え?ストーカー?
「そんなの、僕がやっつけてあげるよ」
申し訳無いって?
「そんなことない」
「僕が君を護りたいんだ」
――君の騎士(ナイト)として。
麗子は気付いていなかっただろうけれど、告白のずっと前から僕は麗子の騎士だった。あの闇色の世界から、毎晩家まで送り続けていた。数多の麗子のストーカーたちは麗子のポストに手紙を入れたり、家に着いたばかりの麗子に無言電話をかけたり、麗子の出したゴミを荒らしたり、滑稽だと笑うには度の過ぎた悪事を働いているらしいが、僕は違う。麗子をアパートまで見送り、部屋に明かりが灯るのを待って、それで終わり。自分はまた闇色の道を引き返す。それをただただ毎日繰り返していた。それが僕の使命だと信じていたし、実際満足だった。
だけど。とある日の夜身の毛もよだつモノを見たとき、僕は焦慮せざるを得なくなった。
普段より少し遅れて護衛を始めたときのこと。麗子の常連ストーカーの1人――いつもお気に入りの電信柱の陰に身を潜め麗子を見据える男――の姿が見当たらない。ただ、そこが“空席だった”という訳ではなくて。代わりに陣取っているのは、何ともおぞましい、この世のモノとは思えないケダモノだった。
電信柱の陰にはとても収まりがつかない巨大なソレの表面は十分に湿っていて、そこに浮かぶ幾つもの突起は街灯に照らされテカテカと白く光っている。歪なヒキガエルのような、なんとも形容しがたい肉塊。呆気にとられて茫然とする僕に更なる衝撃が走る。あか、アカ、赤。ケダモノの周辺は、赤一色だった。コンクリートも電信柱も。それからかき集めれば大人一人分はありそうな肉片がそこらかしこに散らばっている。辛うじて布きれがそれを覆っているが、その布地ももうほとんど赤を吸っていて。目を細めてじっと見ると、その赤い布が僅かに灰色の部分を残している。なんだよ、これ……。そのとき、そのあまりに陰惨な地獄絵から1mほど離れたところに落ちた何かが目に留まる。草色の、帽子……?これが電信柱男の始終変わらぬスウェットベレー帽姿を連想させるのに、そう時間はかからなかった。ハア、ハアと荒い呼吸がうるさい。これは自分の発する音なのか、それとも。熱帯夜の鬱陶しい空気の中で、僕は無意識に両腕で自分の身体を固く抱きしめた。震えが、止まらなかった。
漸く少し落ち着きを取り戻した頃、僕はゆっくりとケダモノの背後から移動していた。背中ではなく、顔がかろうじて見えるぎりぎりの位置へ。そしてゆっくりとその横顔に視線を移したとき、僕はやばいと思ったんだ。このままでは、麗子が危ない。だらしなく唾液を溢すケダモノは蛭みたいな太くてグロテスクな舌を唇の上でうねらせて、「次はお前だ」と言わんばかりに狂気の混じる濁った眼で麗子を舐め回していたから。
ケダモノを殺そう。
麗子への告白は、言わば覚悟の証だった。
告白した日の夜。僕はケダモノの背後からその機会を窺っていた。鎮静な殺意を深い闇に沈めて、距離をゆっくりと縮めていく。死へのカウントダウンは既に始まっている。そんなことも露知らず麗子をじっと狙うケダモノを射程距離に入れながら、僕は優越感にこの身をぶるりと震わせる。この間とは違う武者の鳥肌を指先で確かめて、それから凶器を握る拳に力を込めた。
気づくともう3メートルは切っていた。ケダモノは電柱に張り付いたまま、何かに憑かれたかのように不気味に佇む。あの汚れた眼は、やはり麗子に釘付けなのだろうか、僕は更に歩みを進める。緊張に開いた口を真一文字に閉じ、息を殺して距離と、それからタイミングを測る。今か、いや、まだ。よし、もう少し。
そして、遂に、その瞬間(とき)が来た。
手に握られた金属バッドは脂汗に濡れ、月明かりに呼応するように鈍い光を放つ。両手で握り振り上げると、ケダモノはようやくこちらを向いた。僕の殺意という名の禍々しき毒牙が、彼の背中をそっと嘗めたのを感じ取ったに違いない。だが、もう遅い。ケダモノの命は僕の手の内だ。数多の突起も裂けた唇もその中でくすぶる舌も、あの時の何百倍も大きくて僕の視界いっぱいに映るにもかかわらず、不思議と一切の恐怖を感じなかった。僕は何の躊躇も無く、重力に従い金属バットを醜悪な肉塊に振り下ろした。
「ぶぉっ」
ケダモノは豚か、いやそれ以上に汚く、低劣な声で短く鳴いて崩れ落ちた。
黄色く濁った眼を飛び出さんばかりに見開き、ゼィゼィと全身を上下に揺すり荒い息をするケダモノを、無表情のまま見下ろしてやる。パクパクと動かす唇からは赤黒い血が。よく見れば、鼻からも耳からも、穴と言う穴からドクドクと血が溢れ、コンクリートに浸食を始めている。僕のスニーカーも、既に半分以上が浸されて、おまけに赤いまだら模様まで付いている。
「きたないなぁ」
僕は誰に言うまでもなくぼそりとつぶやき、バットを大きな唇へと突き刺した。それからまたすぐに引き抜き、今度は耳の穴に、鼻に、眼ん玉に。夢中で其処ら中を突き刺して、穴だらけにして、それでも僕の殺意は収まることなく血肉を殴り続けた。
カン、カン。僕が正気を取り戻した頃には、既に肉塊は消えて辺り一面肉片まみれになっていた。どうやら獲物を失ったバットはコンクリートを叩いていたらしい。それさえもやめてしまうと、闇の世界は完全に無音になった。僕は全身が熱くなり、達成感が血管中を駆ける。麗子、やったよ!君を護ったんだ!それを讃えるようなコツコツという軽快なメロディー。麗子の聞き紛うはずもない、麗子の足音だった。まだ、家についていないらしい。ああ、そうだ、見送らなければ、いつものように。ぐちゃり、僕はワザとらしく肉片をいくつか踏み潰しながら、麗子のアパートへと向かった。
僕がアパートに着く頃には優美なメロディーも消え、麗子は部屋に帰った、と思った。アパートの2階ど真ん中、麗子の部屋。オレンジ色の窓を確かめるべく僕がその扉の方を見上げた途端、驚きに心臓が止まった。瞬きをして、目を擦り、もう一度。でも、やはり変わらない。変わらずにそこに存在する、部屋に戻ったはずの麗子だ。麗子がアパートの柵に片肘をついて、こちらをじっと見ている。僕が気づくと目を細めて、形の良いピンク色の唇で弧を描いた。マンションの電灯を浴びた麗子は真っ白な光に包まれ、さながら女神のよう。そのくらい、この世のものとは思えない程美しい。ああ、麗子。麗子、麗子。僕はずっと君を護るよ。今日みたいにずっとずっと。麗子はそのままの笑顔で僕に手を振っている。しなやかな細い指が何度も揺れる。僕が両手で振り返すと、今度はゆっくりと唇を動かすのが見えた。なんだろう、よく聞こえない。聞きたい。僕は麗子に近づくべく、足を前に踏み出そうとした、が。それは叶わなかった。
ぞくり。ナニカの禍々しい殺意が僕の背中を舐めたから。
僕の足は恐怖に竦み、次の一歩たりとも進めない。それどころか、全身が毒を浴びたみたいに麻痺して動かないのだ。何が、起こっている?なんとか目を動かし、カーブミラーを見やるとそこには、制服姿の僕なんてどこにもいなくて。変わりに2匹のケダモノが映っているだけだった。
ふと、背中に鈍い痛みを感じて僕のずっしりと重たい身体はコンクリートに崩れ落ちた。運よく視界に入った麗子はあまりにも遠くて小さくて。それでもなんとか見据える先で、麗子はさっきと変わらない微笑みと、唇の動きで、確かにこう言った。
「サ、ヨ、ウ、ナ、ラ」
彼女の危険な美貌は、今夜もまた全ての男をケダモノに変える。
ケダモノなのは僕か彼女か。
危険なのは彼女か僕か。
この小説はホラーと言えるかどうか。
閲覧ありがとうございました。