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洋平が浮気をしていると知ったのは、友達からの垂れ込みがきっかけだった。半同棲をしていたといっても、生活の中には大きな穴が空いていた。特に、夕方の四時から夜の十二時にかけて、私が仕事をしている間だ。夜に会えないというのは、洋平にしてみたら浮気をするに丁度良かったのだ。
知った時には、妙な虚無感に覆われたものだ。何の悪いことをするわけでもなく普通に過ごしていただけだというのに、何故こんな仕打ちを受けなければならないのだろう、と。世界は、理不尽で残酷だ。だからといって、どうしていいのかはわからなかった。別れるにしても、何故私が辛い思いをしたまま洋平を手放さなくてはならない。どうしても納得ができなかった。
そんなことを考えていた時、私は京ちゃんと出会った。
きっと心のどこかで、やり返してやろう、なんて考えていたのだろう。そんなくだらない報復心だったというのに、今となっては、真偽もわからぬ愛を宣う始末。
不毛かつ、何の生産性もない日々。それなのに、妙な背徳感に不思議な優越感を覚える。
誰かが言っていた。人が最も楽しいと感じるのは、危険の中で快楽を得た時だと。
私の目の前で、聞いたままの刺激を人々は求め、溺れ、不誠実極まりない時間を紡ぐ。
世界は理不尽で、残酷で……甘い誘惑に、満ちている。
「おはようございます」
夕方の四時、私は仕事場であるバーに到着した。店には既にマスターがいて、グラスを磨いていた。
「おはよう。寝不足か? クマができてる」
マスターはきっちりと髪を整えた正統派なバーテンダーだ。歳はもうすぐ五十になるといったところだが、それよりずっと若く見える。私は裏の倉庫へ歩きながら目元を弄る。
「あー、最近寝つき悪くて」
「そうか。遊び過ぎにも注意しろよー」
「遊んでませんから」
マスターは一人へらへらと笑っている。私は倉庫に入り、入口に鍵をかけた。
酒の在庫や食材、調理器具などが綺麗に整頓されている。私のロッカーも置かれており、私はここで着替える。
支度を済ませてカウンターに入ると、マスターは今度はバックボードのボトルを磨き始めていた。私も布巾を手に、一緒に磨く。
「あ、そういえば、こないだお前が休んだ日に洋平が来たぞ」
マスターの言葉に、私の手が止まった。すぐにまたボトルを磨きだし、「そうですか」と答えた。
「休日を知らせてないなんて、お前達うまくいってないのか?」
そういうことか。
洋平が私を疑い出した確かなきっかけはこれだ。
「うまくいってはいませんね」
私が言うと、マスターは小さく溜息をついた。
「なんかあったのか? お前達のことを知らないわけでもないし、悩みがあるなら聞くぞ?」
悩みなのだろうか。私はボトルをバックボードに戻し、言った。
「悩みという程ではありません。ただ、互いにすれ違いが多くなったというか」
「すれ違わないようにするため、お前ちゃんと努めてるか? 休日知らせなかったり、昼間に帰ったりして」
何故、私が責められる。
拭こうとしていたボトルから手を離し、煌めくグラスを見た。
「……マスターは、浮気、したことありますか」
私の問いかけに、暫しの沈黙が流れる。
何故だ。何故私は……こんなに、泣きそうなのだろう。
必死に涙を堪えて立ち尽くしていると、カウンターにボトルを置く音がした。
「……あるよ」
駄目だ、我慢できない。唇が震え、涙が溢れる。しかし、バックボードに映る私はどうしてだか目を吊り上げている。悲しみの涙じゃないことだけは、確かだった。
「お前が始めてここに来た時のこと、覚えてるか?」
涙を拭い、私は「なんとなく」と返答した。マスターの顔が見れない。
「バーは、世の中をある程度知った大人が癒しを求めてくる場所だ。そこに田舎から出てきたばかりのお前がいたら、きっとお客はお前の純粋さに癒されるんだろうな、なんて思ったもんだ。俺の睨んだとおりだったよ。お前と話したお客は、口を揃えて言ってた。心が洗われるようだ、って」
バックボードの鏡に映る自分は、自分じゃない誰かに見えて仕方ない。
「お前に彼氏ができたって知った時も、俺は嬉しかったよ。ますます純粋さが増して見えたし、何より、お前が幸せそうだったから。あの頃のお前は、見違える程に綺麗になっていくのが目に見えてわかった」
駄目だ、また、涙が。
「……そうか。純粋なお前には、大人の都合の良い世の中なんて辛すぎたよな」
辛かった。
私はその場にしゃがみ込んで、布巾に顔を埋めた。マスターはそんな私の背中をさすり、頭を撫でてくれた。
全て、変わってしまった。私は知ってしまったのだ。純粋なままでは、大人になれないと。
「……洋平に、俺から話をつけてやろうか」
私は横に首を振った。
「自分で言うか?」
私は横に首を振った。
「話をつける気がないとなると……他に、好きな奴でもできたのか」
私は、黙り込んだ。もう誰が好きで誰が憎いのかわからない。
洋平と出会った時や付き合い始めた頃を思うと胸が苦しくなる。
洋平が他の女を抱いているのかと思うと女に対しては憎しみより、不思議と哀みが溢れ出す。
京ちゃんを、思い出すと……
私の全てが、覆い尽くされる。
「優、優! 大丈夫か!」
苦しい。マスターの声も掠れて聞こえる。吐息が激しくなって、上手く息ができない。頭が痺れる、しゃがんですらいられない。私は重力に逆らえず、そのまま横に倒れ込んでしまった。
「優! 優!」
目を開けているのもやっとだ。
マスターは救急車を呼び、私はそのまま病院へ運ばれた。倒れた原因は過呼吸。命に別条はないとされたが、精神的に不安定であったことが告げられる。病室で大人しく横になっていると、廊下の方からマスターの声が聞こえた。どうやら、私の親に連絡をしているらしい。
息もできるようになって落ち着いた私は、溜息をついて窓の外を見た。もう真っ暗だ。星はなく、灰色がかった雲が揺らいで合間からは月明かりが零れている。
「優、」
声の方へ顔を向けると、心配そうに私を見下ろすマスターがいた。
「俺は仕事に戻るけど、大丈夫か?」
「……はい」
「後で先生が来るそうだ。体調が良さそうならそのまま帰れる。今日はもう家に帰ってゆっくり休め」
家。
私が黙り込むと、マスターは慌てたように言った。
「帰りたくないなら、俺の家でもいいぞ。嫁と子供もいるが、一人でいるよりは……」
「結構です。これ以上ご迷惑をおかけしたくありませんし」
「……じゃあ、どこに帰る」
どこに、帰ろう。私の脳裏に京ちゃんの顔が浮かんだ時、病室の扉が開いた。そこにいたのは、ジャージ姿の洋平だった。
「優……」
洋平は私の名前をぽつりと呟き、入口で立ち尽くす。すると、マスターがつかつかと洋平に歩み寄り、顔を寄せて言った。
「優も優だが、お前もお前だ。きっちり始末つけろよ」
マスターはそれだけ言って、病室から出て行った。
洋平は罰の悪そうな顔をして、私のベッドまで歩み寄る。そして、言った。
「倒れたんだって?」
私は窓の外を見やり、小さく頷く。
「……一緒に、帰ろう」
だから、何処へ。
「……出てって」
私がぼそり呟くが、視界の端に映る洋平の影は動かない。
「出てってよ」
「優、俺、」
「出てって!」
私が叫ぶと、窓ガラスに映る洋平の顔はみるみる歪んでいった。
「優、俺と帰ろうよ。ちゃんと看病するから、お前のそばにいるから!」
「いいって言ってるでしょ! 私知ってるんだから! 洋平が浮気してること!」
洋平の顔が驚きに引き攣る。私は畳み掛けるようにして言った。
「いつも私が仕事してる間に会って、自分の家にも連れ込んでたんでしょ! 全部知ってるんだから! どの面下げて一緒に帰ろうとか言ってんの! あんたが当然のように居座ってんのは、私の家でしょ!」
洋平は、震える声で絞り出すように言った。
「も、もう……浮気なんかしてない。俺はやっぱり、優のことが、」
「信じられない! そんな言葉!」
「優、頼むから許してくれよ。優が好きなんだよ」
「帰って! 早く、帰ってよ!」
私は体を起こして枕を投げつけ、布団に顔を擦り付けた。また、泣きそうだ。洋平はまだそこにいる。もう、嫌だ。
壊したくても壊せない。殺したくても殺せない。死にたくても死ねない。愛したくても……愛せない。
「……とりあえず、今は出てって。一人になりたいの」
落ち着いた声で、言った。
「お願い」
すると、静かな足音は病室の出口へと消えていった。顔を上げると、望んだ通り私は一人だった。そしてまた、虚しくなる。
病院から出て私が向かったのは、やはり京ちゃんの家だった。しかし、足は向かっているものの内心は行こうか行かまいかまだ迷っていた。気付けば、京ちゃんになんの連絡もしないままに私は京ちゃんの家の前まで来てしまっていた。そして気付く。知らない車が、停まっていることに。
リビングには灯りがともっており、二つの影が浮かんでいた。耳を澄ませばぼそぼそと声も聞こえた。京ちゃんの声と、女の声。
「急でごめんね、迷惑じゃなかった?」
「いいよ。妻が帰ってきて迷惑なわけないだろ。むしろ嬉しいサプライズだよ」
「よかった」
私は何を思うわけでもなく、影を見つめて声に耳を傾けていた。
「人形作りは進んでる? もうすぐ個展始まるでしょ?」
「順調だよ」
「今回の個展はどうしても行きたくて、長めに休みをもらったの」
「へぇ、それは嬉しいな」
「久しぶりに、あなたとこの家でゆっくりできそう。あ、でも仕事の邪魔はしないようにするわね」
「大丈夫だよ。君がいればもっと頑張れるから」
幸せそうな笑い声。悲しくもない。虚しくもない。わかりきったことではないか。
本当に、奥さんのことが好きなの?
そう、心の中で呟いた私は、何故か小さく笑っていた。
私は踵を翻し、その場を離れた。
京ちゃんといた時間は、夢の中にいるようで夢の中にはいなかった。私が向かい合いたくなかった現実がそこに投影されていたからだ。
京ちゃんと私は似ている。
京ちゃんの笑顔、声、色、匂い……赤く染め上がる人形の幻。それらを思い返しながら、私は帰るべき場所へと帰った。
そして、私と京ちゃんはもう二度と会うことはなかった。
数年後。私は時の流れのままに洋平と結婚した。洋平はまだ浮気癖が治らないが、もうそんなことは気にならなくなっていた。
私はマスターの店で仕事をしながら、洋平のいない昼間は家で人形を作っていた。作っては壊して、作っては壊して、作っては殺して。血の幻影に取り憑かれながら、私はいつも京ちゃんのことを思い返していた。
京ちゃんが、美術は大して好きではない、苛つく、と言っていた意味がなんとなくわかった。美しい作品の背景に見え隠れする過度な理想論や現実論が、生々しく世界の残酷さを教えてくれている気がする。しかし、目が離せない。それらは目に見えて美しく、私達が生きる世界そのものだからだ。
壊せそうで、壊せない世界。だからこそ、人形の頭を叩き割り、私は満足した。彼女らはいつだって、私のために物言わぬ死体になってくれたから。
そして、春も間近な雪解けの季節。酒を飲めばたちまち身体が縮こまってしまうような星一つない肌寒い夜。
私は終電で寝過した。
『終点、猫山町』
アナウンスで目を覚まし、顔を上げた。すると、目の前で私と同じく呆然とした顔をしている見知らぬ青年と目が合った。暫しの沈黙の中、互いの胸中を巡る焦燥感が手に取るようにわかった。私は困ったように笑って見せて、
「降りますか」
と言った。
壊したいのに壊せない。
殺したいのに殺せない。
死にたくても死ねない。
愛したいのに愛せない。
目に映る私は心の奥底に眠るあなただ。
あなたは私に似ている。
あなたは私の人形に血の幻を見る。
そして、知る。
世界がいかに理不尽で、残酷かを。
そんな世界で生きる術を。
自分を殺して、生まれ変われ。
ーーーーーードメイン.Fin