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私とあの人が出会ったのは、春も間近な雪解けの季節。酒を飲めばたちまち身体が縮こまってしまうような星一つない肌寒い夜。
私は終電で寝過した。
『終点、猫山町』
アナウンスで目を覚まし、顔を上げた。すると、目の前で私と同じく呆然とした顔をしている男の人と目が合った。暫しの沈黙の中、互いの胸中を巡る焦燥感が手に取るようにわかった。すると、彼は困ったように笑って、
「降りますか」
と言った。
運命的な出会いと言うにはあまりにも間が抜けている。
「覚えてる?」
「覚えてるよ。優の顔が面白かったし」
「京ちゃんの顔もかなりのもんだったけどね」
窓際のソファーに腰掛け、京ちゃんは小さく笑った。
カーテンを揺らす心地良い風に、柔らかく差し込む昼下がりの日差し。季節はもうすぐ夏になる。京ちゃんと出会って、もう五ヶ月。
本のページを巡る綺麗な指先。私よりも肌が白いものだから、女としては何処か負けた気になる。無作法に伸びた黒い髪も色素が薄くて、瞳も黄土色を帯びて少し緑がかっている。全体的に、京ちゃんは薄い。
私は京ちゃんの本を覗き見ながら彼の肩に頭を凭れた。あの日と同じ、薬品のような、骨董品のような鼻にかかるが不思議な安堵感のある匂いがする。
「何読んでるの?」
「芸術家列伝」
「レオナルド・ダ・ヴィンチくらいしか知らない」
「それだけ知ってれば充分だよ」
「ねぇ、私にも美術教えてよ」
「教えてあげられる程、俺は物識りじゃないよ」
嘘。京ちゃんは物識り。もうすぐ三十になるだけあって、私の知らないことをよく知っている。沢山の情報の中でも、京ちゃんは美術に関して特出した知識を持っていると思う。全くもって無関心だっただけに、私は京ちゃんの世界に足を踏み入れることができない。
「どうして美術が好きなの?」
「よくわからない」
「好きじゃなきゃ本を集めたりしないでしょ」
「でも大して好きなわけじゃないよ」
「どうして?」
「苛つくから」
そう言う京ちゃんは笑っている。答える気が無い。本を手放す気配も無い。私はソファーから立ち上がり、隣のリビングへ移ろうとした。すると、部屋を出たところで京ちゃんに手を掴まれた。
「おいで」
リビングでなく、ベッドルームへ。一人で暮らすには広過ぎる家。少し強引に押し倒され、私はベッドに横たわる。カーテンが締め切られた薄明るい部屋で、京ちゃんは私を見下ろす。無作法な黒い髪、黄土色を帯びた緑がかった瞳。
「優はいつも俺のことは聞くのに、自分のことは話さないよね」
「聞かれないから」
「聞いた方がいい?」
私は京ちゃんを見つめたまま、黙った。すると、京ちゃんは強く唇を重ねて激しくキスをしてきた。そのまま、手は私の服の中へ。少し抵抗をしてみるが、京ちゃんはわかってる。私に抵抗する気なんて無いことも、私が強く求められることを欲していることも。
たまに思う。彼は人の心を見透かす力があるんじゃないか、と。掴み所のない雰囲気や、薄くぼんやりした存在感が余計にそう思わせるのかもしれない。でも、実際の彼はそう穏やかな人間じゃない。
彼は、静かな異常者だ。
出会ってから数週間後。何度か外で会って、家にも呼ばれて。二人の時間も当たり前のものになりつつあった時だ。ベッドで横たわる彼の横顔を見て、ふと思ったのだ。彼は何で生計を立て、どうしてこんな広い家に一人で住んでいるのだろう、と。思ったままに身体は動き、何も着ぬままに私は家を探索した。二階には使われていない部屋が二つあり、どちらも照明さえつけられておらず暗いままだった。そして、もう一つ。ドアノブに白い塊がこびりついた扉があった。私はドアノブを掴み、捻った。
暗い。臭い。間接照明に照らされた奥の長テーブルを見て、私は思わず叫び出しそうになり、口を覆った。
テーブルの上に横たわる、青い目を見開いた金髪の少女。その腹部は残虐に砕かれ、血が溢れ、臓物が漏れ出し……
「何をしてるの?」
驚きのあまり、私は小さく飛び上がって振り返った。どくどくと音を立てる心臓、がくがくと震える足。後ろにいたのは、裸体の彼だった。
「……見ちゃったか」
彼は苦笑いをして、私とすれ違って部屋へと入っていった。そして、テーブルの近くに置いてあった金槌を手に取り、振り上げた。
「やめて!」
私が叫ぶと、彼は不思議そうに振り返った。
「何で?」
「も、もう死んでるのに……それに、ひ、人殺し、なんて!」
「……何を言っているの?」
彼のあっけらかんとした態度に、私はもう一度少女へと目を向けた。そして、「あれ」と言葉が漏れた。
溢れる血も、漏れ出す臓物もない。辺りに散らばるのは、白い固形の欠片だけ。私が呆然と立ち尽くしていると。彼は小さく笑って少女の頬を撫でた。
「俺、人形師なんだ」
「人形……」
「そう。この子は失敗作だから、作った俺が自ら廃棄してるんだ。こうして」
彼は少女の頭に金槌を振り落とした。人形だとわかっていても、悲鳴が漏れる。少女の顔面が割れ、目玉が飛び出した。鮮明に、噴き上がる血の幻覚が目に映る。どうして、どうして。
再び金槌を振り上げた彼。私は、堪らず駆け出してその手を掴んでいた。
「やめてよ!」
「何で? 人形だってば。どうせ処分する」
「だからって何でわざわざこんな残酷な……!」
「残酷なんかじゃないよ。このまま袋に詰めるとかさばる。粉々にして、捨てるんだよ」
「何でよ! 何で捨てるの! 捨てるくらいなら作らなきゃいいのに!」
「……俺がどうして人形を作るか、わかる?」
答を焦らすかのような沈黙。彼はふっと笑って、絞り出すように言った。
「壊したいけど壊せない。殺したいけど殺せない。死にたいけど、死ねない」
「どういう……」
「優だってそうだろ」
彼は人形と同じように私の頬を撫でた。
「愛したいけど愛せない。俺はそういう行き通りのない感情を、感情のないものにぶつけてるだけ。優、君は俺と同じ目をしてる」
その後のことはよく覚えてない。気がついたらベッドにいて、京ちゃんと抱き合うようにして寝ていた。
あれから考えていた。周りは人で溢れてて、蝉の死体に群がる蟻のよう。一思いに潰してしまいたい衝動に駆られる。が、しない。
噴き上がる血、漏れ出す臓物。あの幻覚は京ちゃんの世界だ。金槌を持つ京ちゃんが笑っているように思えたのも、人形が泣いているように思えたのも、全部彼が望んでやまない妄想なんだ。
壊したいけど壊せない。殺したいけど殺せない。死にたいけど死ねない。愛したいけど愛せない。
彼の家から帰る途中、タクシーの窓の外を過る人の群を見ながら彼の言葉について考えていた。
マンションの前に着くと、四階の私の部屋に明かりがついていた。エレベーターで上り、部屋の鍵を開く。
「おかえり」
奥から声がした。私は靴を脱ぎながら「ただいま」と返す。
「こんな時間まで何処いたんだよ、もう夕方だぞ」
1Kの部屋にある私のベッドの上で、洋平は不機嫌そうに言った。私は荷物を置き、彼に背を向けて着替え始めた。
「何処って、友達のところ。昨日朝まで飲んでたからそのまま泊まってきた」
「連絡の一つくらいしろよ」
「ごめんね」
部屋着になって、私は洋平に擦り寄り頬に軽くキスをした。小麦色の肌、まだ少し香る香水の匂い。根元が黒くなってきた茶髪はそれまた果物みたいな匂いのする整髪料で固めている。気に食わない。
私は洋平から離れてテレビのリモコンを探す。
「……なぁ、本当に友達のところ行ってんのか」
「うん」
「たまには早く帰ってこいよ。寂しいんだけど」
寂しいわけあるか。私以外に女を作ってることは知っている。
洋平の言葉を無視して、ベッドの下に落ちていたリモコンを取り上げた。そして適当にチャンネルを回して何も考えずに眺めていられそうなくだらない番組で止めた。
「もしかして、浮気してる?」
洋平が何か言ってる。
私はテレビを見つめたままにテーブルに置いていた煙草を手にした。
「何でそんなこと言うの?」
「だって、帰って来ないから……」
「自分がしてるからって人の事まで疑うのはよしてよ」
空気が重くなり、淀む。私は煙草を咥えて火をつけた。肺を回る煙と口に広がるほろ苦さ。私が煙を吐き出すと、洋平はやっと口を開いた。
「してねぇよ。お前こそ話逸らすな。俺はお前にしてんじゃねぇかって聞いてんだから」
「話逸れてるかな。逸れてないよね。私は"疑うのはよして"って言ったんだから無実を主張してるわけ。それなのに何怒ってんの。むしろ聞くわ。洋平、浮気してんの?」
「してねぇって! またそうやって煙に巻く気かよ! まだ俺の話は終わってねぇよ!」
「あ、そう。あんたも私も浮気してない。話は終わりね。ほら、これから人気アイドルの登場だって。誰かな」
この間、一度も目を合わせていない。洋平の顔も見たくない。きっとまたいつものように不貞腐れているんだろう。面倒臭い。
浮気されたから浮気し返して何が悪い。それに、京ちゃんの方がずっといい男だ。洋平と別れないのは、別れないのは……
京ちゃんには、海外で暮らす奥さんがいる。半年に一度くらいしか帰ってこないらしく、家にはいつも一人のようで。奥さんの留守に私は転がり込んでいるというわけだ。京ちゃんも浮気、洋平も浮気、私も浮気。この調子だと、奥さんだって海外で浮気しているような気がする。ここまでくると、愛とは何か、なんて思春期みたいなことを考えてしまう。
愛したいのに、愛せない。
愛してしまったら、この終わりのない不貞の輪廻の中では生きていけない気がしてしまうから。
生きてはいけなくなるとわかっているのに、死ぬことすらできなさそうだから。
人が憎くて殺したくなってしまうことがあったとしても、殺すことすらできなさそうだから。
全ては、日常の崩壊までは望まないから。
京ちゃんが人形を殺すのは、そういったものに対する報復なのだろうか。だとしたら、彼が本当に殺したいのは自分自身じゃないか。彼は、何かを愛したいのだろうか。
京ちゃんへの興味は募るばかりだった。だからこそ時間を共にしてきたというのに、これといって彼の心を掴めた気がしない。それを、正直に彼に言った。
「え、優はそんなに俺が好きなの?」
ゆったりと湯船に浸かり、濡れた髪を掻き上げる京ちゃん。少しニヤついた口元が、少し腹立つ。私は湯船に顎まで浸かり、京ちゃんを睨んだ。
「嫌い……ではないけど」
「ああ、そう。俺も優のことは嫌いじゃない。むしろ好きだよ」
にっこりと微笑まれても。
私が聞きたいのはそんなことじゃない。
「京ちゃんは、誰に対してもそんな態度なの?」
「そんな態度って?」
「何を考えているかわからないっていうか、掴み所がないというか」
「うーん、自覚なかったな。優にはそういうふうに見えるのか」
「見える」
京ちゃんは浴槽に肘をかけ、大きく息を吐き出して笑った。
「そう思うのはね、優が俺の心の城に足を踏み入れようとしているからさ」
「城?」
「心の核心部。それは誰にも見せることのないよう、強固な壁で閉ざされている。みんなの中にあるよ」
「誰にも見せることがないって、一生?」
「一生。自分から他人を誘うことができるかも怪しい。それくらい、大事なところだよ」
「……私、そこまで深くつけ込む気はなかった」
「そういうことさ。優はそれ程までに俺のことが好きなんだね」
私は京ちゃんの顔に湯を飛ばした。京ちゃんはケラケラと笑って顔を拭う。どうせ、京ちゃんからしたら私は二十歳の小娘だ。からかって、楽しんでるんだ。私がむくれていると、京ちゃんは私の頬を撫でた。
「嬉しいよ。でも、そう深く考えることはない。俺が思うに、城の中は殆どみんな一緒だ。前にも言っただろ? 優は俺と同じ目をしてる。俺と優は似通ってる。俺を知りたければ、自分を知ればいい」
「……自分程信用できないもんはないよ」
「そういうところも俺と似てる」
京ちゃんは私に顔を寄せてきた。そして、空いた手が私の内腿を這いずる。湯船の中で京ちゃんの指先が動く度、ただでさえ温まっていた私の身体が火照ってゆく。吐息が荒くなって小さく声を漏らす私を楽しそうに見つめ、京ちゃんは言った。
「優が俺のことを好きなように、俺も優が好きだよ」
「……嘘」
「嘘かどうかは自分の心に聞いてみなよ。俺と優は、似てるんだから」
指の動きが激しくなり、私は身を仰け反らせた反動で京ちゃんに抱きついた。京ちゃんの手の動きと共に湯船が激しく波打ち、私の声も大きくなってゆく。
響く。
この泣き声にも似た喘ぎ声が自分のものだなんて信じたくなかった。余程気持ちいいのか、声は次第に甘ったるくなってゆく。京ちゃんの首に回した腕も、どんどんキツくなってゆく。
「京ちゃん、好き」
「俺も好きだよ、優」
快感に促されるように零れた言葉。
私は本当に彼が好きなのか? この快楽に錯覚してしまっているだけではないか?
そんなことを考えても仕方ない。この指が、髪が、背中が、匂いが、私の思考を鈍らせる。