涙
フミコと話をした日、家に帰って宿題をしていると夜遅くになってようやくお母さんが帰ってきた。
「お母さん、おかえり! お仕事見つかった?」
リカは疲れたようにカバンを置く母親に、嬉しそうに駆けよった。娘のリカから見ても美人だと思う母親のユウコは垂れ下がった前髪をどけようともせず、弱々しく微笑んだ。
「またダメだった・・・。でも、大丈夫! 明日も負けずにリベンジするわ!」
ユウコは拳を作ると力強く意気込んだ。それを見て、リカはほっとすると共に頼もしく感じる。
「さあ、夜ご飯作りましょ。リカ、手伝って?」
「うん! 今日はなに作るの?」
「気合を入れてカツ丼よ!」
「わーい!!」
リカは大好物の料理を聞いて、両手を上げて喜んだ。
リカの父親が亡くなってから、このような日々が続いている。リカにはこれがだんだんと普通の日常のように思えてきて、怖かった。大好きだったお父さんがここに居ないことを、当たり前だと思うことがリカは恐ろしかったのだ。
二人で一緒に作ったカツ丼を食べていると、ユウコがリカに話しかけてきた。
「今日は学校はどうだった? なにかあった?」
「うん、今日はフミコさんに会ったよ。いろいろ話したよ」
「そう・・・。どんなことを話したの?」
ユウコはリカの話し相手になっているフミコと何回か会ったことがあった。60代くらいの気の良いおばさんだったことを思い出す。
「・・・・・うーんとね」
リカは夢のことを話そうか迷った。でも、家族でもないフミコさんに話してお母さんに話さないのはなんだかおかしい気がした。だから、リカは不思議な夢について話すことにした。
「どうしたの?」
「・・・あのね、最近、ちょっと夢を見るの。聞きたい?」
ユウコはきょとんとした顔で、こちらを伺ってくるリカに頷いて見せた。
「どんな夢? もしかして悪い夢?」
「ううん・・・、ちょっと違うんだけどね。あのね・・・」
リカは昼間、フミコさんに話したことと同じことを母親に話した。母親のユウコはそれをじっと静かに聞いていた。
「・・・ねえ、お母さん。どうしてお父さんは死んじゃったのかな? お父さんはどうして私とお母さんを置いて行っちゃったのかな?」
リカは話し終えたあと、ポツリとつぶやいた。夢の中で一人ぼっちだった李恩のことを思い出したら、段々と李恩が自分と重なってきて悲しくなったのだ。
「リカ・・・お父さんはリカを置いて行ったんじゃないわ。きっと、なにか深い事情があったのよ。決して、リカがキライだったわけじゃないの」
「じゃあどうしてお父さんは私に何も話してくれなかったの? 私が、悪い子だったから・・・まだ小さくて何も出来ないと思ったから? 私・・・子どもだからそりゃあ、お母さんと比べると頼りないけど、ちゃんと考えることが出来る一人の人間なんだよ」
暗い表情でリカはつぶやく。いつの間にか、箸を持つ手が止まっていた。残った大好物のカツ丼がリカの傷の深さを物語っているようで、ユウコは胸を詰まらせた。
「・・・そうね。でも、お母さんにもお父さんは何も話してくれなかったわ。もしかしたら、お父さんはお母さんたちに心配をかけたくなかったのかもしれない」
「そうなの?」
すがるような目でリカはユウコを見た。実際、それはユウコにも分からないことだった。だが、そう思わなければユウコはどうにかなりそうだった。
「たぶんね」
「・・・・・」
リカはそれきり黙って、ちょぼちょぼとカツ丼をまた食べ始めた。
「・・・ねえ、お母さん。私の夢のことどう思った?」
リカはふと話題を変えるように尋ねた。
「そうね・・・、お母さんはきっとリカにはその夢が必要なんだと思うわ」
「え?」
リカはきょとんとした。だが、その言葉がリカには驚くほどストーンと納得できた。
「そっか・・・私に必要だから、あの夢を見るんだ・・・」
「・・・・」
ユウコは神妙な表情で、そんなリカを見つめていた。もちろん、自分の娘が毎晩のように同じ夢を見ると聞いて心配にはなった。だが、ユウコは自然に思ったことをそう言っただけだった。これ以上、リカを不安にさせたくなかったという気持ちもある。しかし、それ以上に何を言ったらいいのか分からなかったのだ。
「リカ、お母さんはリカが大好きよ。お母さんは絶対にどっこにも行かないから」
「・・・お父さんみたいに、何も言わずに出てかない?」
「ええ。絶対に。神様に誓って」
リカは小さな涙を流した。ユウコはそんなリカを抱きしめて一緒に泣いた。もう枯れて出てこないと思ったのに、一緒に流した涙は止めどなく溢れてきた。
*・*・*・*・*
その夜、やっぱり薄が生えた水辺へとやってきたリカは、李恩を見つけると近づいた。そして、朽木に座っている李恩の隣に腰かけるとうつむいてじっとした。
「・・・・?」
いつもと違う様子のリカに、李恩はとまどう。あの明るさは一体どこへ行ってしまったのかと思うほど、今日のリカは暗く沈んで見えた。
それでも、李恩は黙って月を見上げているとリカが口を開いた。
「・・・あのね、李恩」
「・・・なんだ?」
怪訝そうに李恩がリカを見ると、リカは泣きそうな顔をしていた。李恩は目を見開くと、リカが深刻そうな表情で李恩を見上げた。
「私の話・・・聞いてくれる?」
リカは静かに話し始めた。
「あのね、私さ、お父さんがいないんだ。お父さん、死んじゃってさ・・・。すっごく大好きだったんだけどね・・・あ! お母さんはいるよ」
手を振って慌てて付け加えるリカを、李恩は黙って見つめていた。
「どうしてお父さんが死んじゃったかっていうとね、・・・っ」
リカの大きな瞳から、大粒の涙があふれ出てそれをリカは堪えようとした。ここで泣いたら、何も話せない気がしたからだった。
「・・・あのね、お父さんがさ・・・自殺しちゃったの。電車に・・・飛び込んで。わたっ私、その日お父さんが家を出たときに家にいたの。「いってきます」ってな、なんでも無いように言ったから、私、「いってらっしゃい!」って・・・・」
途中から涙が止まらなくなり、しゃくりあげ始めたリカは、何とか最後まで話そうと言うことを聞かない身体に叱咤しつつ、一生懸命話そうとした。
「ば、バカみたいだよねっ! い、いってらっしゃい、だなんて・・・っ! な、なんで止めなかったんだろう、って。わ、私バカだか、だからさっ。でも、その時ほどなんで分かんなかったんだ、ろうって・・・」
涙は止めどなく流れた。ゴシゴシ目をこすって止めようとしても、体中が泣いているかのように涙は止まらなかった。なんで?どうして?リカの頭はそれでいっぱいだった。
李恩は悲痛な顔でずっとリカを見つめていた。そっと、手を伸ばしてリカの頬をぬぐうと囁きかけた。
「お前が悪いんじゃない。お前は、ずっと辛かったんだな・・・。僕も一緒だ。僕は母上の死を早めてしまった。息も絶え絶えだった母上に、僕は止めを刺したんだ。僕は呪われて当然だが、お前は違う。お前の父上は、自ら死を選んだ。だから・・・お前は悪くない」
「ほ、ほん、とっ・・・?」
涙で腫らした目で、リカは李恩を見つめた。
李恩は静かな顔で頷いた。そして、また手のひらでリカの涙をぬぐうと弱々しく微笑んだ。
「お前は幸運だ。お前には母親がいる。僕にはなにもない。父上はとうに死んでしまったから。だから、僕は母上しか頼る術がなかった・・・。今はもう、僕はただ死ぬだけだ。誰にも必要とされなかったら、僕は生きている意味がない」
「・・・そんな-―」
リカは絶句した。思わず涙が止まってしまう。
「本当だ。僕の世界はひどく孤独で寂しい・・・。もう、ここに居たくないんだ。こんな、悲しい世界で僕はこれから生きたくない」
李恩はそう言いながら涙を流した。白いキレイな頬を、一筋の滴がつたっていく。リカは李恩の気持ちが痛いほどわかった。分かったからこそ、リカもその涙を見てまた涙を流した。
「・・・っ、私も、お父さんがいない世界になんかいたくない。お父さんに会いたい・・・!」
「お前は母親がいるじゃないかっ! ・・・なに言ってるんだ!」
李恩は涙を流しながら怒ったようにそう言った。
「だって・・・だってっ-―! お父さんに会いたいんだもん!! お父さん・・・」
リカはそれからわーと泣きだし、李恩はそれきり何も言わずにリカと共に静かに泣いた。何もかも悲しかった。自分たちに親がいないことも、自分たちが一人だということも・・・。
「神様、どうして私や李恩には親がいないの? なんで、他の子はいるのにどうして私たちはいないの? なんで、なんで-―」