Ⅱ
ハーヴェイ・マクダヴの名は、正しいものではない。
彼のふるさとでは姓名の概念がなく、大概の場合、死んだ年長者の名を新しく生まれた子が引き継ぎ、それを終生の名とする。ハーヴェイの名は彼が生まれる前は大叔父のもので、里には同名の者はひとりも存在しない。然るに、姓名は個人を判断する要素として役に立たない。――こと、彼らの共同体の内側だけで、の話ではあるが。
ハーヴェイは自分のふるさとの事情を良く知り、またその外側の事情にも通じていた。外―― つまり今居るこの港町を含む社会では、ファミリー・ネームが存在しないことは異端である。だから彼は、ふるさとから外側に出ていく時は「マクダヴ」の姓を必ず用意した。誰か別人を騙っているわけでもないので、マクダヴはいつわりの名というわけでもない。そんなにたいそうなものでもなく、ただコートや帽子と同じように、外に出ていくのに身につけていくものといった印象だ。
ただ、「マクダヴ」が自分自身かと言われると少し違和感があるので、ハーヴェイは外に居る間でも、一人で居る場合はコートと一緒に姓名を脱いで、くつろぐことにしている。
二〇六号室に辿りついた彼は、さっそく小さな暖炉に火を入れて、まだ木の香りがする真新しい椅子に腰を落ち着け、こわばった脚をほぐしてぼうっと過ごしていた。――そんなことだから、ダリアが部屋をノックしながら「マクダヴさん、失礼します」と語りかけても、たっぷり三分間はそれに気付かずに居た。
慌ててマクダヴの姓を身につけ、「どうぞ」と招き入れる。それから部屋におずおずと入ってきたダリアに呆れ顔とあからさまな嘆息を見せつけて、「何もかしこまって呼ぶことはないだろう」と言った。
ダリアは頭一つ分高い位置にあるハーヴェイの目を困ったように見据えて、
「お客さんの名前をいきなり呼ぶのはどうかと思ったの」
と、手にした帽子のつばを指でもてあそびながら、申し訳なさそうに言った。
「まともに仕事を意識してやってると見えて、安心した。それでとりあえず、その帽子を返してくれるか。きみに渡しておいたら、変なクセがついてしまいそうだ」
「あ、はい」
ダリアから返してもらった帽子は、案の定ぐしゃぐしゃに凹んでいたり、つばが折れ曲がったりしている。ハーヴェイはそれを後でじっくり直すことに決めて、コートと一緒にひっかけておくことにした。
「時間はあるのか?」
「クレメンスさんが―― ええと、オーナーさんが、ゆっくり話してこいって」
「ゆっくり?」
ハーヴェイは訝しげに眉をぴくりと動かした。
「もしかして、おれのことをここの人間に話したのか?」
「うん。同郷の人だってことだけ」
「……そうか。おれたちのことが公になったら大変なことだ。それ以上は絶対に喋ったらだめだぞ」
「もちろん、わかってるよ」
「……ならいいが。こっちに座ってくれ。コーヒーは――忘れたか」
「あっ」
失態に気付いて固まるダリアに、ハーヴェイはまたあの苦しそうな笑みを浮かべて椅子をすすめた。自分はどっかりとベッドに腰をおろし、脚を組む。ダリアは先ほどまでハーヴェイが体を落ちつけていた椅子に縮こまるようにして座った。
「まずは―― ひさしぶりだな。体に不調はないか?」
「四年、ううん、五年ぶりかな。わたしは大丈夫だよ。ハーヴェイさんは少し痩せた?」
「船旅が予想以上に辛くてな。そう見えるだけだろう。気分が落ち着いてから食事でもすれば、もう少しマシに見える」
そう言ってハーヴェイは、垂れさがったシダのような前髪を掻きわけて、鋭い双眸を露わにした。その痩身も相まって、どこかオオカミめいた印象を受ける。
「船は揺れるものね。わたしも最初は酔ったよ。クレメンスさんのおともで何度か船に乗ったから、もう慣れちゃったけど。――寒い風にも」
「そうか。……でも、驚いたり興奮したりすると、その―― 飛び出すクセは、まだ治ってなかったんだな」
「あれは、その、ハーヴェイさんがおどかすから。前髪をおろしていたし、帽子もかぶってて、顔を見ても気付かなくて、わたし」
「それは悪かった。この目で話しかけると、人間は大概怖がって話がそぞろになってしまうんだよ」
ハーヴェイはポケットから大きな髪留めを取り出すと、手串でオールバックのを作って止めた。目つきの悪さが際立つので、外に出ている時は前髪をおろし、親しいものと話しをする時にだけ髪留めを使って邪魔な前髪を止めるのである。
ふるさとでは髪留めなんてものは使わないから、ごくまれに自室に置いて来てしまうこともあった。現に彼は今回の旅路でも愛用の髪留めを忘れて来て、船に乗り込む前に新しく買ったのだった。
「怖い顔だもんね、直りようがないもん」
「余計な御世話だ。おれはこれでも努力をしている。きみこそ、周りの人間にばれてしまわないうちに、耳が飛び出す癖は直した方がいい。そっちは訓練すればなんとかなるはずだろう」
「うーん、でも」
ダリアは耳が隠してある辺りをぽんぽんと叩きながら、不安そうに言った。
「これだってわたし、昔から頑張ってるんだよ。それでも直らないんだもの」
「まぁ、性分の影響もあるんだろう。きみは小心者だからな」
「敏感って言ってほしいところだねッ」
ハーヴェイのジョーク(彼はジョークを言うつもりなどこれっぽっちもないのだが)に、ダリアは顔を赤らめてそっぽを向いた。
ハーヴェイは自分の「耳」があるであろう側頭部を撫でつけながら、無理に絞り出したような、渇いた笑い声をあげた。
「まだ子犬気分が抜けていないようだな?」
「ハーヴェイさん、わたしとそんなに年が違わないじゃない」
憮然として視線を合わせてくれないダリアに特別閉口した様子もなく、ハーヴェイは溜息を吐くふりをして肩を竦めた。
「四つも違う。若い狗族の間じゃ、四年も違えば大層なものさ。我々は大人になるのが早い。そうだろう?」
今度はジョークを言ったつもりだったが、そうは受け取られなかったようだ。
ダリアは自分の言動、それから―― あまりメリハリのあるとは言い難い体躯を見つめて、体つきに似合わぬ重々しい溜息を吐いた。