Ⅰ
秋の港町は、潮風のおかげでめっぽう寒い。そのうえ人通りも少ないとなれば、いっそうに寒さは増すというものだ。
海岸線を歩いていると、風がのっぺりと立ち並ぶ倉庫に当たり、跳ね返ってくる。下からさらってくるような風に帽子を飛ばされないようにつばを掴み、もう片方の手でコートの襟を覆って、風がなるべく入りこんでこないように努力しながら、彼はまっすぐに北を目指した。
青年が滞在することになっているホテルは、入り組んだ路地の中にある。そこへ辿りつくには、複雑に折れ曲がった道の中から適切な道順を発見するか、もしくはなるべくわかりやすい場所から回り込んでいかなくてはならない。あいにくと彼には土地勘がなかったから、必然的に港の北側から回り込む方法を取らざるを得なかった。そのために、彼はこのだだっぴろい空間で風に吹かれるはめになっているのである。
初めての航海は、青年から根こそぎ体力を奪っていった。華奢ではないにしろ、細身でもともとあまり顔色のよくない彼の顔色は、今や青ざめていると言っても差支えはあるまい。とにかく早く暖炉の前で手足をほぐす必要があった。――このままではつってしまいそうだ。
棒のようにこわばる足をぎこちなく動かしながら、青年はようやく―― 地図によると―― そこから入っていけば一番わかりやすいであろうと目される路地を見つけ出し、潜り込んでいった。
閑散とした細道の両サイドは、いずれも古びた木造の倉庫だ。蹴飛ばせば容易に折れてしまいそうな細い柱に支えられたむき出しの通路だとか、階段だとか、言いようもなく不安を煽るものが多い。材料の木材も雨や潮風のおかげで腐食が激しい。さびれた港なんてこんなものか、などと淡々とした感想が胸中に浮かぶが、すぐに気持ち悪さに押し流されてしまう。情緒も何もあったものではなかった。
青年は胸のむかつきを抑え込みながら、付き辺りを左に二回、右に二回、最後にまっすぐ進んだ。次第に小売店などの店々も見え始め、人通りもわずかにだが増えてくる。ようやく街の生活圏に入ってこれた気がして、彼は暖炉が近づいてきたと一時期気分の悪さを忘れた。そしてそれから間もなく、彼はようやく滞在先のホテルを見つけることが出来た。
煉瓦造りの丈夫そうな建物だ。外から見るなり、おそらく三階建て。花壇には落ち着いた色合いの花々が、なんとなく心細そうに身を寄せ合って咲いている。静かな港町にはぴったりの、居心地がよさそうな雰囲気がある。
青年はその建物をじっくりと睨めあげてから、しかめっ面を作って中へと入っていった。
ロビーは少し暗めの照明で、安堵感に少し眠たくなる。右手にはささやかなラウンジがあり、左手奥は食堂にでもなっているのだろう。今の青年には毒な―― 美味そうな料理の香りが漂ってくる。
彼は利きすぎる鼻をコートの襟で庇いながら、カウンターで俯いてぼんやりしている少女に声をかけた。
「すまない」
青年が溜息を突くように語りかけると、少女ははっとして顔を上げた。どうやら居眠りでもしていたらしい。目は妙にとろんとしていて、しまりがない。彼女は慌てて目元を擦ると、とっさのことにも拘わらず屈託のない笑みを浮かべた。
「はい、なんでしょう。ええと、ご予約の方?」
「……ああ、そうだ」
青年は少女の顔をたっぷり五秒間は見つめ、不思議そうに小首をかしげる彼女に名を告げた。
「マクダヴというものだが。今日からここに滞在することになっている」
「あ、長期滞在の方ですね。少々お待ち下さい。今お名前、確認いたしますね」
少女は「マクダヴ、マクダヴ」と危うげに繰り返しながら、近くに在った台帳を引きよせて熱心に青年の名前を探し始める。その間、青年は少女が首を動かすたびにふわりと跳ねる、結った髪のゆくえを眠たげな目で追っていた。
「あ、あった。マクダヴさんですね。お部屋は二〇六号室になります。こちらが鍵――」
少女が名簿を指さしながら、ホルダーから鍵を取って青年に差し出す。青年はあからさまに溜息をついて、その鍵を―― 受け取らずに、少女の手首を引っ張って引きよせた。同時に自分の顔もぐいっと相手に近づける。
少女がぎょっとした目で青年を見返す。至近距離でいくらか見つめあった後、青年は唇を湿らせてからゆっくりと語り出した。
「まさか、おれの顔を忘れたわけではないだろうな、ダリア?」
「えっ」
ダリア、と呼ばれた少女の表情が引きつり、動きが完全にフリーズする。その目だけが何かを必死に思いだしているかのように、右往左往していた。青年は囁きかけるように続ける。
「宿帳を確認したはずだな? おれの名前は見たか。いいか、名前だぞ? そっと口に出して、読んでみろ」
ダリアの瞳だけが動いて、台帳に記された名前を順に追っていく。そして先ほど自分で確認したマクダヴという名前の―― ファースト・ネームを、かすかに唇を震わせて音にしようとした。しかし、それがきちんと青年の耳に届く前に、異変が起きた。
「――あっ」
ダリアの側頭部から、髪を掻きわけて何かが飛び出してきた。それは彼女の髪の色と同じ、オレンジ色がかった亜麻色の「獣の耳」だった。小さな悲鳴とともにその兆候を読みとった青年は、すばやく自分の帽子を彼女の頭にかぶせた。幸い、その奇妙な異変を目にしたのは、彼と彼女だけだった。ラウンジでは老人がひとりで新聞を読みふけっていたが、カウンターのほうにはいっさい興味を示さなかった。
青年は念の為に当たりの様子を再三うかがった後、「脅かしたようだな。すまない。茶目が過ぎた」と、口の端を歪めて無理やり作ったような笑みを浮かべた。
「話がある。おれのことをきちんと覚えているんだったら、あとでおれの部屋にコーヒーを一杯届けてくれ。……それと、その帽子もだ」
まだ目を白黒させているダリアにそう告げると、青年は鍵を差しだす姿勢のまま硬直した彼女の手から鍵を受け取って、ラウンジ側の階段から二階へと登っていってしまった。
青年が去った後も、ダリアはしばらく帽子のつばを掴んでもの思いに耽っていた。やがてキッチンから戻ってきた、オーナーと思しき男性に声をかけられるまで、彼女はその場から微動だにしなかった。
「ダリア?」
誰のものかもわからない帽子を被ったまま固まっているダリアの方を、オーナーの大きな手が叩いた。
「へっ、あれ? クレメンスさん」
ダリアはやはり帽子のつばをしっかりと押さえたまま、オーナー―― クレメンス氏の優しげな丸顔を振り返る。クレメンス氏は何か言いたげに帽子を見つめて口をパクつかせていたが、なんと言って訊ねて良いかわからないようだった。
そのうち我に返ってきたダリアは、急に恥ずかしくなりだして、帽子のつばをますますもって強く掴んで頭に押し付けるように引き寄せる。クレメンス氏は慌てて、
「おいおい、そんな扱いをしちゃいけないよ。仕立てのよさそうなものなのに。――それはいったい誰のものなんだい? お客さんの忘れものかな?」
「ええと、これはその、お客さんのですよ。わたしの古い知り合いなんです。今さっき来たばかりで」
ダリアは縮こまり、上目づかいでようやくそう説明した。
「お客さんのものを、なんできみが被っているんだ? きみは帽子掛けにでもなったのかね」
クレメンス氏はもじもじと要領を得ないダリアが口を開くまで、辛抱強く待った。
やがて呼吸を整えたダリアが、帽子を手放す。……すでに獣の耳はひっこんでいた。
彼女は少し形の崩れてしまった帽子を両腕で抱え込み、二度三度息を吸うのに失敗して咳こんで、涙を拭きとってから、ようやくクレメンス氏に切りだす。
「あの、彼と話がしたいんです。これを返すついでに、ちょっとだけ」
クレメンス氏は苦笑し、頷いた。
「古い知り合いと言ったね。いいよ、いっておいで。しばらく私はこっちに居るから、ついでと言わずにゆっくりしてくるといい。――それで、その「彼」は何号室の某さんなのかな?」
ダリアは慌ててしゃっくりをしながら、今度ははっきりと「彼」の名を音にした。
「ハーヴェイ。――ハーヴェイ・マクダヴです。彼とはその、同郷なんですよ」