92 馬上の男
迷宮都市にやってくる若者たちは、ほぼ全員が探索者を目指していると言って良いだろう。
彼らは意気揚々と迷宮へ入っていくが、何度か繰り返すうちに大半の者が自分には無理、向いていない、怖いなどの理由で夢を捨てる。
探索者になるのを諦めた者のうち、半分ほどはすぐに故郷へ帰っていくが、迷宮都市に留まる者も多い。
ラディケンヴィルスは田舎の小さな町や村に比べて、とても刺激が強いところだからだ。
人が多いから、店も多い。贅沢を言わなければなにかしらの仕事にありつける。
彼らは自分にできそうな仕事を見つけて、賑わう街の中でおそるおそる暮らし始める。
そして出会うのが、食堂や酒場にいる「話上手」だ。
うんと腕の良い者たちの成功譚や、とんだ間抜けの失敗談、珍しい道具や魔法生物、選ばれし者だけが使える魔術、腕の良い戦士の持つ業物の剣についても聞ける。
話術の巧みな人間は慕われる。夜な夜な集まる常連たちから、新しい話はないのかとせがまれる。
迷宮都市の夜にあふれる噂話はすべてが真実とは限らないが、店に集った者は愉快な気分になって酒を頼む。話上手は店の主人に気に入られ、ささやかなサービスを受けられる。
その様子を見て、地道に働く労働者はちびちびと盃を傾けながら考えてしまう。
あのくらいなら、自分にもできそうな気がする、と。
そんな典型的な探索諦め系労働者が、王都へと続く北東の門近くに一人いた。
日が傾いてきて、橙色の光が街に差し込む頃。
新入りを運んでくる「到着」の馬車はなく、今は王都へ向かう「発車」待ちばかりが並んでいる。
ひとりの乗客と迷宮都市名物を載せた最後の馬車が出ていき、「レッティンの微笑み亭」の従業員ルノルはため息をついていた。
街の北東の安宿街の奥にあるレッティンの微笑み亭が客を得るためには、地道な営業活動が欠かせない。
奥まったところで営業をしている宿はたくさんあるので、特に馬車でやってくる客の多い昼間は客引き同士の争いが起きる。
今日は敗北。ルノルは一人の客も得られていない。このまま帰っても宿の主人であるレッティンにどやされるだけで、馬車の発着場そばに置かれた樽の上でうなだれている。
何度か探索をして、自分に向いていないと悟ったところまでは良かった。うっかり命を落とすよりもずっと良かったが、迷宮都市の凄腕案内人だとか、伝説の語り部を目指したのは間違いだった。
しゃべりは得意だが、特別に人の心をくすぐるような真似はできない。大体、ぺらぺらと調子よく話す人気者の彼らが、たいした儲けもないなんて。どうして誰も教えてくれなかったのだろう。
迷宮都市で暮らしてもうそろそろ四年になる。
ここのところ毎日頭に浮かぶのは、「潮時」の言葉ばかりだ。
ルノルはいくつ目かわからないため息をまた吐き出し、ぼんやりと王都へと続く道へ目をやった。
すると、道の先にひとつの影があった。
馬車ではない。馬に乗った人間、どうやら男性らしき誰かがやって来たようだ。
門に備え付けられた松明にちょうど火をつけにやって来た者がいて、灯りを受けて金色の髪がキラリと光る。
装飾の見事な馬具を付けた黒い馬の毛並みは美しく、馬上の男も仕立ての良い服に身を包んでいるようだ。
太く吊り上がった眉毛が印象的で、青い目は鋭く、ぎゅっと閉じた口元からは意思の強さが感じられる。
いかにも王都で育った人間といった様子で、貧乏宿に用があるとは思えず、客引きは声をかけられない。
ところが馬は、ルノルの前で止まった。
「少しいいだろうか」
「あ、はい、ええ。どんな御用でしょう?」
樽から飛び降り、ルノルは上目遣いで男の様子を窺う。
来訪者はきりりきりりと眉毛を動かしながら、宿を探していると客引きへ話した。
「この辺りにはたくさん宿はございますが、ですがお客さん、御覧の通り貧乏宿ばかりでして。宿泊はできても、そちらの美しいお馬については……、預かりができるところはないでしょうね」
素人や商人など、金のない者が使う安宿しかないとルノルは正直に話していく。
「他に宿屋はないのか?」
「南の方には、商人たちがよく使う質の高い宿がありますよ」
「そこならば馬も預けられるか」
「さあ、どうでしょうね。あるとは思いますが、絶対にできるかどうかはわかりかねます」
なにせルノルは南側へは寄り付かない。用があるのは主に街の北半分だけで、北西の隅には、残念ながら万年金欠で世話になったことはない。
男は大層な飾りのついた剣を携えている。
立派な細工は王家や騎士団などを思わせるもので、ついついルノルはこんなことを言いだしてしまう。
「お客さん、王都からお仕事でいらしたんで? そこの通りをまっすぐに向かっていくと街の西側に着きますが、王都の調査団の本部だとか宿舎がございますよ」
調査団の人間は街に馴染んでいない。だが彼らは時々、迷宮都市のどこかに気まぐれに現れる。
そういう時には馬に乗っている人間がいるから、それなりの施設があるのではないかとルノルは考え、男に伝えた。
「なるほど。調査団ならば街にも詳しいだろう。君の親切に感謝する」
では、と言い残して男は馬の腹を蹴った。
残念なことにレッティンの微笑み亭に新たな客は訪れず、ルノルは散々叱責を受けて、辞めてやると心に決めた。
東門から西門へと繋がる大通りには人が多く歩いていて、王都よりも混みあっていると男は思った。
食堂に向かう者、宿に帰る者、買い物に興じる者など、目的はそれぞれにあるが、迷宮都市の住人の考えはほとんど同じだったらしい。
「おい、あんた。危ないだろうが、こんなに混みあった道で」
とうとう果物を売る露店の主人から非常識だと注意され、男は馬を降り、愛馬を引いて進むことになった。
途中途中で道を聞き、迷惑そうな視線を受けつつも、調査団本部へたどり着き。
入り口にいる団員へ声をかけると、遅い時間の訪問を迷惑がられたものの、調査団長への面会がかなった。
これからどこかへ繰り出すつもりだったのか、イデルド・ショーゲンはしゃれた飾りのついた外套を身に着けている。
それでも門前払いされなかったのは、男が王都では名の知られた名家の三男坊だったからなのだろう。
「ようこそラディケンヴィルスへ」
ショーゲンは部屋の奥から進み出て、来訪者レテウス・バロットへ右手を差し出している。
堅苦しい挨拶をし、王都の様子や家族についてなどの会話が交わされ、二人で腰かける。
客をもてなすための飲み物が運ばれてきて、喉を潤したところで、ショーゲンからずばりと問われた。
「して、どのような御用なのでしょうか。バロット家の」
「いえ、私の個人的な用で参りました」
調査団に用事があったわけではなく、馬を繋いでおける場所が欲しかっただけ。
馬鹿正直に告げる理由はなく、太く吊り上がった眉毛をぴくぴくと動かしながら、レテウスは言葉を探した。
王都でも名の通ったバロット家の三男坊は、剣が得意で真面目な正直者、大変な努力家でもあるが、少しばかり短気で口下手。
調査団長を相手にどう伝えればいいのか、最もふさわしい言葉を探さねばならない。
と、思っていても、実行は難しかった。飾り立てた気取った言葉遣いをするのはあまりにも面倒で、たいして悩んでもいないのに、レテウスは迷宮都市へやって来た理由を直球で伝えた。
「ブルノー様を探しにやって来ました。ブルノー・ルディスという名の御方です」
「ブルノー・ルディス」
「随分前から姿を見かけなくなったのですが、誰も理由を知らず、行方もわからないままなのです」
あれほどの人物が消えて、その理由が伏せられているなんて。
あまりにも不自然だとレテウスは思った。
だが、探ろうとすると邪魔が入った。知らなくていいのだと暗に伝えられたこともある。
「最近になって噂を耳にしました。迷宮都市に凄まじい剣の使い手がやってきて名を挙げているのだと。騎士団長をしていただとか、王の懐刀だったとか。騎士団の団長を務められた方々はどなたも居場所がわかっておりますから、違うとはっきりしておりますが」
だが、とにかく「そこまで言われるほどの戦士」らしい。
時期的にもブルノーが姿を消した後であり、ひょっとしたらと思い、探ってみようと決めた。
「ブルノー様を御存知ですか」
「……直接の面識はありませんが、見かけたことなら」
調査団長はそう答えると、顎に手をやって、しばらくの間黙った。
レテウスもカップを口に運び、返事を待つ。
「実は以前、街中で見かけて声をかけたことがあります」
「ブルノー様をですか?」
「そう思って声をかけたのです。人違いだと言われましたがね」
別人だと答えられてしまったが、ショーゲンとしてはブルノーだと思ったという。
背が高く、髭を美しく整え、背筋はまっすぐ。伝えられた髪の色、瞳の色や特徴は、探し人と一致している。
「その戦士は、まだこの街にいるのでしょうか」
ぜひ会ってみたいとレテウスが話すと、ショーゲンはまた悩んだそぶりを見せたが、部下に声をかけて一人の団員を呼ぶように命じた。
「ところで、どこかに宿をとりましたか、レテウス様」
「いえ、街についてからまっすぐにここに来ましたので」
「あまり豪華な造りではありませんが、部屋を用意させましょう。世話役を一人つけますから、なんでも言いつけてください」
レテウスの滞在の準備は勝手に進み、夕食も用意されることになった。
しばらくすると調査団員らしき誰かがやってきて、部屋の入り口で頭をさげ、なんの用かと声をかけてきた。
「ダング調査官です。件の戦士と仕事をしたことがありますので、彼女から詳しく話を聞いてください」
用があるらしく、ショーゲンは去っていく。
応接用の部屋が別にあるらしく、団長室から移動をして、レテウスは調査官チェニー・ダングと向かい合っていた。
新しく用意された飲み物が、テーブルの上に二つ並べられる。
カップから立ちのぼる湯気の先に見える顔は、青白く、まったく覇気がない。
こけた頬に、ぼさぼさと乱れた髪がまったく女らしくない。化粧の類もしていないのだろう。
王都で兵士として採用された者が迷宮都市へ派遣されるのだから、女らしさを求めるのはおかしいのかもしれない。
だが、それにしてもひどいとレテウスは思った。
「チェニー・ダングと申します」
陰気な声で告げられ、レテウスも名乗る。
「ダングというと、ヘイリー・ダングと縁の者なのか?」
レテウスがこう話すと、ようやくチェニーの顔が上を向いた。
「ヘイリーは兄です」
「そうか。何度か見かけたことがある。私と年が近いようで、よく名前も聞くよ」
顔はあがったものの、兄の話はそう嬉しくもないようだ。
チェニーの目は伏せられ、なんの用があるのかとぼそぼそと問われた。
「ブルノー・ルディスという名の御方を探している」
「ブルノー……」
ぼうっとした返事だったが、なにか思い出したのか、チェニーははっとした表情を浮かべた。
「一緒に仕事をしたと聞いたのだが」
「ショーゲン様が、ブルノー・ルディスだと思った人については知っています。違う名を名乗っていますし、本人かどうかは私にはわかりませんが」
「なんと名乗られているのか」
「……ウィルフレド・メティスと」
戦士の名を聞いて、レテウスは首を捻った。
ルディスとメティスは響きが近い気がする。
ブルノーの姿に、仮の名を当てはめてみる。
合っているような、似合わないような。
ほんの少しだけ考えて、レテウスは悩むのを辞めた。
想像で解決するわけがない。本人に会うしかないだろう。
「そのウィルフレドという戦士、どこで暮らしているかわかるか?」
「仕事をしたのは一度きりで、随分前ですから。今もまだ住んでいるかどうかは、わかりません」
「とりあえず教えてくれ。引っ越ししていたなら仕方ない。近隣の人間に聞いてみよう」
今いる調査団の宿舎とは反対側。迷宮が並ぶ四角の向こう側、樹木の神殿の隣にいるはずだとチェニーは言う。
レテウスは途轍もなく暗い顔をした調査官へ案内を頼んだが、あっさりと断られてしまった。
ぎゅぎゅっと上がった太い眉毛が、とても威圧的だと言われる。よく言われる。
生みの親である母にすら、お前はいつも不機嫌そうに見えると顔をしかめられていた。
「怒っているように見えるだろうか? こういう顔なだけで、今、私は困っているんだが」
「私にもいろいろと勤めがあります。怒っていらっしゃるなどと思っておりません」
チェニーは下を向いたままぼそぼそと断りの文句を言い、樹木の神殿はわかりやすい位置にあるから大丈夫だと話した。
自分の部屋に戻りたいらしく、チェニーの心はもう出口へ向いている。
すると彼女の持っていた剣が目に入り、レテウスは感心の声をあげた。
「随分立派な剣を持っているんだな」
細やかな細工が施された鞘は見たことのない色合いで輝いていて、高価そうに見える。
調査団に所属している者など、団長でもない限りは一兵士に過ぎない。
美しい剣は、この覇気のない調査官には過ぎたものだとレテウスは思った。
視線に混じった感情が伝わったのか、チェニーは剣を隠すようにして慌てて部屋を出ていってしまった。
外はすっかり夜になっており、人探しはまた明日。
調査団用の宿舎を一部屋借りて、ささやかな夕食をもらい、この日は床に就いた。
迷宮都市は馬で移動するには向いていないと言われ、仕方なくレテウスは愛馬の世話を頼み、徒歩で宿舎を出ていた。
世話役につけられた団員はなんでも準備をしてくれたが、このサービスは宿舎内のみに限られるらしく、外の案内はできないらしい。
街へ一人で放り出され、レテウスは太陽のある方角を見上げた。
迷宮都市は王国の中にある一都市に過ぎない。だが、そこは王都とも、国内にある他のあらゆる街や村とは違うという。
噂に聞いた通り。迷宮都市には独自の決まりがあると言われては仕方なく、貴族の三男坊は目指すべき場所へ歩き出していった。
ところが。
東へ向かえば良いと言われたはずなのに、なぜかたどり着くのは「緑の迷宮」だとか、「白の迷宮」だとか、ラディケンヴィルスの名物である穴のそばばかりだった。
周囲の人間に尋ねると、西から東へ向かったのに、また街の西側に辿りついてしまっているようだ。
謎の現象にいらつきながらも歩いていたが、何度目かの「緑の迷宮」付近に到着して、レテウスは思わず近くにあった樽を蹴り飛ばしてしまった。
するとごろごろと転がった先に一人、街の住人らしき誰かがいて、怒れる貴族の三男のもとへ歩み寄って来た。
「お兄さん、どうしたの。もしかして道に迷った?」
自分よりも明るい、白く輝くような金髪を揺らしながら現れた誰かに、レテウスは驚いていた。
凍った大河を思わせる水色の瞳に、長く揺れる髪、白い肌、微笑んだ形の麗しい薄紅色の唇。
こんなにも美しい顔を見たのは初めてで、さすがあらゆる地方から人が集まるという迷宮都市、と思ったのだが。
「樹木の神殿に行きたい。東へ向かえば良いと言われたのだが」
「この道をまっすぐに進むと、魔術師たちの住むところなんだ。惑わされて、迷うようになってるらしいよ」
心のどこかで始まろうとしていた恋の物語は、美しい住人が男だと気が付いたせいで終わってしまった。
「魔術師が惑わせてくるのか」
「コツがわかってればちゃんと進めるみたいだけど。お兄さん、探索者じゃなさそうだよね? ここには来たばかり?」
「ああ。人を探しに、昨日の夕方来た」
「案内してあげるよ。俺もこの道の抜け方はよくわからないから、遠回りになっちゃうけどね」
申し出に礼をしてレテウスが名乗ると、美しい住人は魅力的な笑顔を浮かべて、名前を教えてくれた。
「俺、サークリュード・ルシオ。みんなクリュって呼ぶよ」
「サークリュードだな」
「俺、男だから」
「わかっている」
この見た目では女と間違われても仕方がないだろうし、間違われて嫌な思いをしていることだろう。
わざわざ断ってきたクリュに同情しながら、レテウスは隣を歩いていく。
「レテウスは樹木の神殿になんの用があるの? あそこの神官長さんはとても親切だし、すごく有名なんだよね。神官長さんに用?」
「いや、神殿ではなく、隣にある屋敷に行くのだ。『聖なる岸壁』の異名で知られる、カッカー・パンラ殿の屋敷だと聞いている」
「あ、あそこに行きたいんだ」
「知っているのか」
「うん。友達が住んでるから」
それは話が早い、とレテウスは考える。
「ウィルフレド・メティスという名の戦士を知っているか」
「ああ、知ってる。すっごくかっこよくて、すごく強い戦士なんだよね」
「会ったことが?」
「俺はないよ」
「カッカーの屋敷に、友達が住んでいるのだろう」
「え? あそこにいるのは、探索初心者だよ。寝るところとか、食事とか、来たばかりでも困らないようにいろいろ教えてくれるんだって」
「カッカー・パンラは素晴らしい人物だと聞くが、自分の屋敷を手助けの為に使っているということか。噂にたがわぬ立派な方なのだな。サークリュードも世話になっているのか?」
「えっ?」
クリュの表情は曇り、口がつんととがっていく。
なぜ女に生まれてこなかったのかとレテウスが考えていると、クリュは肩をすくめてこう話した。
「俺はダメなんだって。意地悪な管理人がいてさ、風紀を乱しそうとか言うんだ」
「風紀を。なるほど。そうかもしれないな」
「え、なんだよレテウス! まだ出会ったばっかりなのに、俺のなにがわかるっていうんだよ!」
右腕を掴まれ、クリュにぶんぶんと振られながらまた考える。
可愛らしい女が相手なら、こんな拗ねられ方も悪くはなさそうだと。
「出会ったばかりはお互い様だろう。君はとてもなれなれしいな」
「えー、そうかな。うーん、そうかも。よくそんな風に言われるよ」
「よく言われるのなら、改めた方がいいのではないか」
「でもさあ、みんな、なれなれしいって言うけど、笑ってるから。許してくれてるみたいだし、いいかなって」
わかる、とレテウスは思った。
男だとわかっていても、顔の愛らしさにごまかされてしまっている。
「許されるのは今だけだろう。年を取れば通用しなくなる。今のうちに改めておいた方がいい」
「意地悪なことを言うんだな、レテウスって!」
怖い顔しちゃってさあと呟かれ、内心でこっそりと傷つきながら歩いて行く。
クリュのおしゃべりのお陰か、それほど時間がかからずに目的地にたどり着くことができた。
「案内をありがとう、サークリュード。助かった」
えっ、と呟く親切な案内人を残し、レテウスは屋敷の扉を叩いた。
「みんな自由に出入りしてるから、勝手に開けていいよ」
「そうなのか?」
屋敷の前で立ち止まるクリュの助言に従い、勝手に扉を開けてみる。
中は広く、長い廊下が続いていた。
朝食はしっかりととったが、歩いてきたせいか、廊下を漂う匂いに腹がなってしまう。
「どなたかいらっしゃらないか」
こんな匂いがするなら、誰かしら屋敷の中にいるだろう。
そう考えて大きな声をあげると、まだ幼さの残る男がひょいと顔を出した。
「お客さんかな。なにか用ですか」
「ひとつ伺いたいことがある」
「ええと」
まだ十四か、十五か、そのくらいの少年は上から下までレテウスの姿を確認すると、おどおどとした様子でこう答えた。
「管理人がいるから、呼んできますね」
屋敷の入り口でじっと立っていると、少年に連れられ、奥から一人の青年が現れた。
どこかで見たような顔だとレテウスは考える。
自分の家で働く誰かのようでもあり、兵士の中で見た顔のようでもあり。
とにかく見たことはあるが、レテウスの思いつく誰かとは別人のはずだ。
「お待たせしました。ここはカッカー・パンラの屋敷で、俺は管理を任されているギアノといいます」
どういった用でしょうか、とギアノは問う。
「私の名はレテウス・バロット。人を探しにやって来た」
「人を探しに? 調査団の方?」
「いや、調査団とは無関係だ。個人的に探している方がいて、ラディケンヴィルスにいるのではないかと考えて来たのだ」
ウィルフレド・メティスという名の戦士を探していると、レテウスは話した。
ギアノは眉間に小さく皺を寄せて、じっと客の顔を見つめている。
「怒っているように見えるかもしれないが、そんなことはない。こういう顔なんだ」
「それはわかります。大丈夫」
どうやら眉毛のせいで顔に気合が入っているように見えるらしく、喧嘩を売っているのかといきなり怒鳴られることもあった。
管理人であるギアノと名乗る男の視線は訝しげで、本当にわかっているのかレテウスは不安を覚えている。
「ウィルフレドさんなら知っています」
「おお。ここに滞在していると聞いたのだが、まだいらっしゃるのかな」
「いえ、ここにはいません。あなたはウィルフレドさんの知り合いなのかな」
「知り合いかどうかはわからない。とても腕の立つ戦士がいるという噂が王都にも届いていてね。私の探している方なのではないかと思ったのだ」
「では、あなたの探しているのはウィルフレドさんではない?」
「それを確認したいのだ」
「とりあえず、名前は違うってことなのかな」
レテウスがそうだと頷くと、ギアノは首を小さく傾げて、こんな提案をした。
「あなたが探していることをウィルフレドさんに伝えますよ。知り合いだっていうなら、居所を教えるようにします」
「何故だ。直接会わせてもらえば済む話だろう」
「王都から来たんでしょう。あなたは服装からして、身分のある方だ」
だからこの街に集う者、探索者になろうと考えてやって来る者とは人種が違う、とギアノは言う。
過去に傷がある者、故郷を捨てた者、家族に見つかりたくない者、生まれ変わりたい者。
のんきに夢見る若者ばかりではなく、身辺を探られたい者が多くいるから、簡単に居場所は教えられないらしい。
「あの方には後ろ暗いことなどない。そんな回りくどいやり方は必要ない」
「あなたはそれでいいでしょうけど、困る人間も多いんだ。一人だけ特別扱いするわけにはいかないんでね」
どこかで見た顔をしたギアノは、レテウスへどこに宿をとっているのかを尋ねた。
貴族の三男坊は馬鹿正直に、王都の調査団の宿舎にいる、と答えてしまう。
「調査団ではないと言っていたのに」
「調査団ではない。事情があって、宿舎に部屋を用意してもらっただけだ」
管理人の表情は渋い。よく見ると、管理人の向こうに何人かの若者の姿があった。
これまでの会話を聞いていたのだろう。みんな咎めるような目をしてレテウスを見つめている。
「みんな、大丈夫だから。用事があるならちゃんと済ませて」
どんな表情をしてしまっていたのか。レテウスの視線に気が付いて、ギアノは振り返り、若者たちに声をかけている。
「特別にあなたを疑ってるわけじゃないんだ。でも、ここは王都とは違う。みんな、あなたのように身分のしっかりした人間ばかりじゃないから」
「だが」
「どんな返事であってもあなたにはちゃんと伝えます。ただ、探索に出ていると何日も帰らないことがあるから、少し待たせるかもしれない。それでいいかな」
顔にはなんの特徴もないのに、管理人の表情は決意に満ちている。
彼の心を変えさせるのは難しいだろうと思えて、レテウスは渋々、頷いて答えた。
「わかった。私の名はレテウス・バロットだ。何度か剣の稽古を」
「その、強そうな眉毛のことを伝えるよ。知り合いなら一発でわかるだろうから」
ギアノは冗談で言ったようだが、レテウスはうまく飲み込めず、ぎこちない笑顔を作るとカッカーの屋敷を後にした。




