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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
20_Heavy Load 〈数多の永遠と歩けば〉

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91 黒い静寂

 「黒」の迷宮の扉が開き、探索が始まっていた。

 ザッカリンの話が本当なら、きっとニーロの役に立つ。

 マリートはそう考えて、わけのわからないスカウトと神官の兄弟と共に暗い道を歩いていった。


「とてもありがたく思います。あなたがいれば、きっと我々を悩ませていた問題が解決されるでしょう」

「なあ」

「なんでしょうか、剣士様」


 気を良くした様子のザッカリンへ、マリートはこう問いかけた。

 他にも似たような場所を知っているかと。


「もうひとつ知っていますよ。『白』にも同じような場所があります。われわれ兄弟は『白』と『黒』に誰よりも詳しくあろうと考えていますから。最下層へ続く道以外にも入り込んで、完全な地図を作るつもりです」


 マリートが歩き出したことがよほど嬉しかったのだろう。石の神官は笑顔で迷宮を歩いている。

 戦闘はジャグリンとファブリンに任せて、ご機嫌な様子でマリートへこんなお願いまでしていた。


「とても嫌な思いをさせましたから、謝罪を受け入れて頂けて嬉しいです。ぜひ、ぜひ、次は樹木の神官長殿も呼んでいただきたい。不死とまで呼ばれた熟練者の歩き方を、私も学びたいのです」

「ここで『なにか』に本当に会えたなら」


 考えてもいい、の部分の声はかなり小さくて、おそらくザッカリンには聞こえていないだろう。


 ニーロもキーレイもいない探索は珍しい。

 フェリクスに剥ぎ取りの練習を頼まれた時くらいしかなかっただろうと思う。

 探索者になってから、カッカーに導かれ、キーレイに守られ、ニーロと共に高みを目指してきた。

 それで七年以上生き残って来た。

 ヴァージの鮮やかな罠の解除を見てきたし、ピエルナにはあれこれと付き合わされていた。

 かなりの傷を受け、何度も死んで、蘇ってきた。

 そんな暮らしを続けていくうちに、魔法生物の「真ん中」が見えるようになった。

 そこを突けば倒せる、弱点のようなものだ。

 なぜわかるのか、よく問われる。マリートにはわからない。自分が知りたいほどだった。

 剥ぎ取りが得意なのも、どこから切ればいいかなんとなく見えるからだ。

 剥いだ革で小物を作れるのは、故郷で近所の老婆の手伝いをさせられていたから。

 彼女だけが自分に優しかった。もう、とっくの昔にいなくなってしまったけれど。


 見知った仲間がおらず、頼っていいと信じられる者がいない探索の中、マリートは記憶の波に揺られていた。

 目は通路の先を見つめ、スカウトたちの仕事を見守っている。ジャグリンとファブリンが敵を討ち漏らさないか慎重に探っている。

 けれど心はなぜか、過去のできごとの海の中に浮かんでいた。

 

 ニーロの期待以上の働きをしようと気負っていないからなのかもしれない。

 キーレイに心配をかけないよう、失敗しないように緊張していないからなのかもしれない。

 ウィルフレドよりも活躍してやろうと、昂っていないからなのかもしれない。


 フェリクスと二人で「緑」へ行った時は、なにを教えてなんと声をかけたらいいのかで頭がいっぱいだった。

 間違いなく、うまくやれてはいない。フェリクスは穏やかで、マリートによく従い、気を遣ってくれていた。

 だからギリギリで探索が成り立った。明らかに言葉が足らず、夜になってから随分申し訳なく思ったものだった。


 不思議な探索が進んでいく。

 三兄弟は相変わらずで、ファブリンはぶつぶつ、ザッカリンは朗々と語り続けている。ジャグリンは得意な「黒」の道で罠を見抜き、しょっちゅう襲い掛かってくる魔法生物を切り捨てまくっていた。

 

 ここが「黒」とは思えないほどスムーズに進む。


 前回はジャグリンへの不信感、不快感でいっぱいだったから。

 同じ時間の道のりでも、遅く、長く感じていたのだろう。

 ザッカリンはおしゃべりだし、ファブリンの独り言も気にはなる。

 ファブリンも相変わらず不気味だが、けれど、前回よりはずっとマシな旅だとマリートは感じていた。

 

 四人での探索はあっという間に進んで、八層目。

 足を踏み入れてしばらくすると、灰猿が壁を蹴って探索者たちへ飛び掛かって来た。

 ジャグリンはそれを幅広の剣で叩き落とした。

 一瞬の出来事だった。

 叩き落とされた衝撃のせいか、猿は動けない。そうなれば、怪力のジャグリンには尾を落とすことなど朝飯前だったようだ。

「ジャグ兄、なんと素晴らしい。いい仕事をしましたね」

 ザッカリンは黒い兄の手際を褒めたたえ、落とした尾を拾い上げてマリートへ差し出している。

「さあ、剣士様。お約束のものをどうぞ」


 何年かぶりに手元に幸運を呼ぶ尾が戻ってきたが、マリートの心はちっとも晴れていかなかった。

 ニーロの言う通り、この尾にはなんの効果もないからだ。

 街の道具屋に並んでいた珍しい細長いものが気に入っただけ。色合いが好みだっただけ。正体もわからないまま気に入ったことに運命を感じて、きっと自分にとって幸運を招く物だと信じ込んでいただけ。

 そのお気に入りを勝手に捨てられた恨みが心の底にこびりついていて、ウィルフレドへ無茶を言うことになった。

 たまには失敗すればいいという、子供じみた意地悪をしてしまった。


 あの間の抜けたやり取りをしている間、ジャグリンはなにを思っていたのだろう。

 それにしても、こんなにも簡単に尾を手に入れられるとは。

 大事な尻尾を切り落とされて、灰猿は命を失ったようだ。

 

 尾をくるくると巻いて、小さな輪を作っていく。

 マリートはそれを荷物袋に入れて、帰ったらすぐに捨てようと決めた。



 奇妙な探索の一日目は終わり、夜中の見張りは双子のスカウトが引き受けるから眠っていていい、とマリートは言われている。

 そんなことを言われても、安心などできるはずがない。

 夜明かしの段階になってから、急にそういえばよく知らない妙な連中と共に来ていることを思い出して、剣士は緊張と共に黒い床へ横たわっていた。

 

 だが、一方でどこか気が楽でもあった。

 どうしてなのだろう。心の中を探って、妙な三兄弟と普段の仲間たちとの差について考える。

 

 ジャグリンとファブリンはかなりの変人ではあるが、腕は良さそうだった。

 戦いの力については、なんの心配もない。

 ザッカリンの実力は未知だ。癒しはできるようではある。生き返りと脱出に関しては、言っているだけの可能性がある。

 

 マリートの荷物の中には、念のための術符が二枚入っている。

 いざとなれば使って、一人で「黒」から飛び出せばいい。

 

 万が一の時のことを考えながら、ニーロの顔を思い出す。

 小さな可愛いニーロのことを、弟のように思っていた。

 自分のような孤独な人間にさせない。誰にも愛され、素晴らしい女性を伴侶に迎えられるよう、幸せな暮らしをさせてやろうと心に決めていた。

 どうしてそう思ったのか、マリートにはよくわからない。

 最も素晴らしい人生を与えてやりたいと願ったからなのだろうが。

 一体誰の人生を参考にしてそんな風に思ったのだろう。


 いつでも共にいてくれる、キーレイの顔も浮かんでくる。

 心が沈んだ時には必ずそばに来てくれる。

 傷を塞ぎ、癒し、人生に祝福があるように祈ってくれる。

 どんなに悪態をついても、嫌な態度をとっても揺るぎない。

 幼い頃に出会った時も親切だった。

 村の人間みんなから冷たく扱われているイブソルに対し、キーレイは優しかった。

 同じ年頃の子供だったのに、とても穏やかな笑顔で話していた。


 そんな二人が消えて、次に浮かんできたのは髭を美しく整えた大柄な戦士の顔だ。


 戦いの実力があるだけではない。彼は立ち居振る舞い、言葉遣いまで隙がない。

 簡単に怒ったりしない。若者たちに向ける眼差しは温かく余裕がある。

 なにも知らずにやって来た迷宮都市に、あっという間に慣れてしまった。

 商人たちともうまく渡り合い、どこに行っても動じない。

 なにも持っていなかったのに、いつの間にやら品の良い服に身を包んでいる。

 重たい物も持てる。多分だが、馬にも乗れるだろう。

 女にもモテる。見た目だけで結婚を申し込まれることなど、マリートには絶対にないだろう。


 女だけではなく、男ですら惹きつける。わかるのだ。ウィルフレドは魅力的だから。

 キーレイも食事に一緒に行くのが楽しいのだろう。ニーロは食に興味がなく、マリートは意地を張って付き合わない。味の感想を言ったり、他愛のない話に興じて、楽しい時間を過ごせる相手。神官長という地位にいて、名の通った商店の長男であるキーレイは、付き合う相手を選ばなければならない立場なのだし。

 ふさわしい相手ができたのだ。不死の神官長は、迷宮都市にあふれる探索者の中で、おそらく一番の実績を持つ男。キーレイはイブソルの助手などではない。本当は誰よりも立派で、尊敬されるべき存在なのだから。



 自分の考えに打ちのめされながら、長い夜を過ごしていった。

 探索者としてこれからどうしていくべきなのか、体の限界はどのくらい迫っているのか。

 常に迷いの中にあるというのに、周囲との差にまで悩まなければならないなんて。

 カッカーと共に歩んでいる時も、自分でいいのかよくわからなかった。

 ピエルナが加わってくれてやっと、一緒に挑んでいいのではないかという気になれた。

 ニーロが成長して、キーレイの名が広く知られ始めて、とてもかなわない程立派そうな戦士が現れて。

 また揺れている。これ以上なく揺らいでいる。揺れの中で暮らすのは辛い。景色のどこを見たらいいのかわからない。


 浅い眠りの中に、何度も騒音が紛れ込んでくる。

 ここは「黒」だから。戦いの迷宮だから。

 眠り込んでいる探索者に気が付いて、魔法生物が寄ってくる。

 どれもこれも、ジャグリンとファブリンが始末しているようだ。

 ぼそぼそと話す声、ザッカリンが起きて、傷を癒している気配もする。

 彼らはマリートを起こさず、本当に三人で危険な夜を超えているらしい。

 迷宮探索の中でこんな接待を受けることになるとは思わなかった。

 マリートはそう考えながら、できる限り体を休めていった。



 慣れない同行者と、危険極まりない迷宮の組み合わせの中では充分な休息をとることは難しい。

 それでも時間が来たら起きだして、四人は食事と支度を済ませていった。

 ぺらぺらしゃべるのはザッカリンだけで、ファブリンは相変わらず亡霊のよう。

 ジャグリンは最初から亡霊のようで、色違いのよく似た双子の兄弟になっている。


 十二層に入るとマリートの出番も増えてきて、陰気な双子と共に剣を振るった。

 回復の泉にたどり着いて、やっと気力が戻ってきていた。

 

 ザッカリンが案内しようとしている場所へ向かうには、まずは十三層まで向かう必要がある。

 十二層目の階段を降りながら、マリートはそっとジャグリンが広げた地図をのぞき込んだ。

 

 地図の制作や確認は剣士の仕事ではないが、まったく読めないままでは深い層への挑戦はできない。

 どんな役割であろうと、地図の読み方くらいは知っていないと、一人で取り残された時に困ることになる。

 地図の描き方はそれぞれに工夫を凝らすものだが、基本的なルールは決まっている。

 街で売られている地図の基礎を作ったのは、初代調査団団長と共に探索をしていたケール・ラフィカという男だと言われていた。


 ケールの描き方が少しずつ改良されて、記号などがまとめられていった。

 新しい仕掛けや注意書きはまだ増え続けていて、地図を扱う商店によって違う地図が出来上がる。

 それもそのうち、大勢がわかりやすいと判断したものに置き換わっていく。

 ケール式が、迷宮の地図の基本だ。

 ジャグリンの持っているものも、道筋に関しては基本に則った描き方をしているらしい。


 ところがあちこちに入っている走り書きに関しては、なにが描かれているのかマリートにはさっぱりわからなかった。

 ぐにゃぐにゃとしたものは、絵なのか文字なのか。どちらにも見えるし、どちらにも見えはしない。


 視線を感じて、マリートも目を逸らした。

 腕の良いスカウトの持つ地図は、迷宮に隠された宝と同等の価値がある。

 盗み見は良くない。揉め事のもとになる。なので、よくわからない描き方をしていて参考にならないとわかったところでやめなければならなかった。


 では、件の場所に行きつくための道のりは自力で覚えるしかない。

 「黒」の道は曲線を描く個所があり、特に記憶をし辛い迷宮だ。

 どこまでわかるかと、マリートは不安の中にいる。

 だが今、既に下層への最短ルートを外れていることはわかった。


 「白」と「黒」は、上下の複雑な移動をしなければならない迷宮だ。

 何層も降りて、上がって、違う下り階段を探して進むところだった。


 なるべく深くを目指した挑戦の時とは違う階段を選んでいる。

 十三層へ行き、何度か曲がって、十二層へ。

 戦いを何度も乗り越えて、降りて、進んで、上って、上って。

 

 記憶は無理だとマリートは悟った。

 ではせめて辿りつき、ニーロの考える「迷宮渡り」がいるかどうか見極めたい。

 もちろん、「黄」で起きた悲劇が繰り返される可能性がある。

 部屋の奥の壁にもたれかからないようにしなければならない。

 あの透けた敵の姿を見てやりたいが、不可能かもしれない。

 この兄弟たちと迷宮へ挑んでいることが誰かに伝わるようにすべきだった。


 なにもかもが不安に繋がっている。

 無事に帰れれば御の字だ。


 それは、どんな探索にも言えることなのだが。


 階層は深くならないので、敵の強さは変わらない。

 倒すのが面倒な石の人形に、嫌な記憶が蘇る。

 幸い、今日はファブリンが騒がない。大馬鹿剣士のやらかした、神官長殿へのとんだミスについて触れ回ったりしない。

 ニーロの強化魔術がないと、石の人形を倒すのは一苦労だった。

 ジャグリンが剣を叩きつけるようにして破壊を繰り返し、中に隠されている柔石(ラクシル)を拾って、先を急ぐ。


 三兄弟の連携はしっかりとしていて、戦闘も後始末もスムーズだった。

 ザッカリンがやかましいくらいに指示を出し、双子の兄は言われるがまま働いて。

 戦利品は既に山のように袋に詰まっており、石の神官は「どうだ」と言わんばかりの笑みをマリートへ向けてきた。

 確かに、無事に帰れればかなりの額の分け前を受け取れるだろう。


 引っ越すか、扉の修理だけに留めるか。

 ソー兄弟の襲撃をもう受けたくはない。できるだけ早く動かなければならなかった。

 

 たくさんの思いが溢れ、考えが飛び交う道を歩く。

 落ちたり、弾けたり、バラバラとしていてまとまりがない。

 

 いつも通りの心で、マリートは視線を走らせ、敵を倒し、足を動かしていった。

 

 怪我の治療と休憩を挟みながら、進んでいく。

 階段の上り下りを繰り返して、黒い道を行く。

 少しずつ敵の出現が減ってきたようにマリートは感じていた。

 


 今回の探索は本当にマリートを接待するものだったらしく、最後に入った休憩の時には気力の回復薬まで振舞われていた。

 たいした準備をしなかった客人のかわりに、消耗品はすべて提供してくれている。

 

 いつもとは違う旅は、いくつもの階段を進んだ先で終わった。

「慧眼の剣士様、ここです」

 黒い通路はまっすぐに伸びて、行き止まりが見えている。

 長い直線の通路を進んでいくと小さな部屋があった。

 あの忌まわしい思い出になった、「黄」の行き止まりと同じ大きさだとマリートは思う。


「この通路はもう戻ることはできません」

 それも、あの通路と同じ。ウィルフレドが確認していたはずだ。あれがつまらない冗談でないのなら、同じ作りの可能性が高い。


 部屋の真ん中に双子のスカウトが進んでいく。

 端にいると襲われてしまうと、知っているのかもしれない。

 二人は命を落としたという話なのだから。

 とはいえ、端から出ると決まっているのかどうかはわからない。

 案外自分が一番に死ぬかも、とマリートは思った。



 探索者になったばかりの頃。

 死ぬかもしれないという考えはあっても、恐ろしくはなかった。

 迷宮探索とはそういうものだと聞いていたから。

 初心者だろうが熟練の達人だろうが、死ぬ時は死ぬ。

 それが嫌なら、迷宮になど入らなければいい。

 好きで入っているくせに、死にたくないなどと言うのはおかしいと思っていた。


 しばらく続けて、迷宮歩きに慣れてから。

 剣の才能を認められ、共に行く「仲間」ができてから、死にたくないと思うようになった。

 小さなニーロが魔法生物に食いちぎられるのは嫌だし、カッカーが無様にやられる姿を見たくない。

 自分の前をよく歩いていた、ヴァージの背中を思い出す。


 ひとつにまとめた黒髪と、振り返って見える赤い唇。

 鋭いまなざしにかかる長い睫毛が、瞬きするたびに揺れていた。


 スカウトはよく傷を負う。死が降りかかることも多い。

 失敗して倒れたヴァージを、カッカーやキーレイが救った。

 細い体についた傷は埋められ、服が破れればそこにマントや誰かの上着が掛けられた。


 閉じていたヴァージの瞼が開くところを、何度見ただろう。

 命の輝きが取り戻され、光が宿る。

 生まれて初めて美しいと思ったものだった。


 ヴァージは街ではとても目立って、男たちの視線を一身に集めていた。

 たくさんの男を手玉に取っているだとか、より金を持った男を捕まえようとしているだとか。

 噂は毎日、いくらでも聞いた。

 

 「黒」の小部屋の入り口で、壁にもたれずに立ったまま、マリートは考える。

 ヴァージは軽薄な女ではない。あれほど清らかで、賢くて、美しい者などいないのだと。


 ともに暮らしていた孤児の仲間のために、財産のほとんどをつぎ込んだと聞いている。

 迷宮都市から遠く離れた故郷の街に、身寄りのない子供が安心して暮らせる場所を作り、管理してくれる人間も探したという。


「慧眼の剣士様、あなたは『白』と『黒』以外に、このように行き止まりになるところを知っておられるのでしょうか」

 ザッカリンから問われ、マリートは小さな声でぼそぼそと答えた。

「知らない」

「あなたのような経験豊富な剣士様が御存知ないのなら、これはなかなかに珍しい発見なのでしょうね!」


 石の神に捧げられる祈りの言葉が、台詞のあとに続いていた。

 石の神は記憶や、変わらないものを司る神だと考えられている。

 長く生きていると忘れてしまいがちな初心を常に胸に留めておくよう、神官たちは心がけているらしい。



 経験豊富という言葉に、マリートはまた思案に沈んでいった。

 美しく若いヴァージは助けられた恩を忘れず、カッカーの妻になってしまった。

 夫婦として暮らしていくために探索をやめた。

 

 優秀なスカウトが欠けると、どんなに優れた探索者の集団があっても深い層へ進むことは難しくなってしまう。

 マリートも悩んだ。悩んだがとにかく、まともな大人として振舞わなければと考え、二人の結婚を祝福し、屋敷から出て独立した。

 ニーロにもそうさせたし、ピエルナにもそんな話をしたはずだ。


 すると、ピエルナはいなくなってしまった。

 どこの誰と行動するようになったのかはわからない。

 ニーロともマリートとも歩かず、ある日突然消えてしまった。


 初心に戻ったと言えるのかもしれない。

 あれからまた、いつ死んでも仕方ないと思うようになった。



 記憶と思いが交錯して、心がざわめいていく。

 あらゆる迷宮探索の中で、おそらく一番危険な時間を過ごしているのに。

 爪の先まで、体中が迷宮の中で起きる些細な変化を感じられるよう備えているのに、心はまるで嵐の中を行く小舟のように揺れている。


 それが、マリートにとってはいつも通りの状態だった。


 体と心の乖離はひどくなっていく一方だ。


 キーレイが心配している通りなのだと思っている。

 何度も命を失い、蘇りを繰り返していくと、正常ではいられなくなってしまう。


 死に対する思いは初心に戻っているかもしれないが、心身のバランスはまったく違う。

 故郷から抜け出して迷宮都市を目指した道の上では、こんな風ではなかった。

 人生に味方がいなくて、自信もないイブソルが、何者かになる為の旅だった。

 心は暗く沈んでいても、希望を見出すための明るい出発だったと思う。


 今の自分はいったいなんなのだろう。

 仲間はいる、頼られてもいる。できることはある、かなりの蓄えもある。

 ニーロの信頼を得たいし、キーレイと笑いあいたい。ウィルフレドを認めたい。

 ヴァージを美しいと思う。二人の娘たちは、とても愛らしい。幸せになってほしいし、カッカーのことは尊敬している。


 あの頃と、身も心も全然違うのに。


 心の底にできた穴へすべてが滑り落ちているような気がしていた。

 手を伸ばして掴んでも、落としてしまう。

 あれもこれもと欲張りすぎているせいなのか。

 これでいいと思っているのに。

 でも、ロビッシュのようになりたくはない。


 胸のうちがヒヤリとしてきて、マリートは慌てて息を吐いた。

 数えきれないほど囁かれてきた、樹木の神への祈りの言葉が聞こえてくる。

 カッカーの声は力強く、キーレイの声は穏やかでよく響く。

 今日死んでも仕方がないが、生きていたっていいはずだ。

 ようやく少し前向きな気持ちになって、マリートはヴァージの赤い唇を思い出していた。


 帰ったら、カッカーの屋敷へ行こうと決める。

 引っ越し先を探していると相談すれば、ヴァージは話を聞いてくれるだろう。

 心配して、世話を焼いて、親身になってくれるはずだ。

 その礼に、子供たちへの贈り物を用意したらいい。


 

 唐突に、気配を感じていた。

 勝手に体の向きが変わる。ジャグリンとファブリン、二人よりも少し左側からなにかが飛び出してくる。


 あの時の見えない刃とは違う、とマリートにはわかった。

 凶悪な透けた魔法生物は何匹もわらわらと現れたが、今回は違う。

 いや、違わなかった。初めて出会うなにかが部屋の中へ飛び込んできて。その後に続々と禍々しい敵が入りこんでくる。


「来たぞ!」


 普段からちゃんと喋らないせいで、大きな声が出ない。

 ファブリンとジャグリンも気づいたようだが、気配はしても敵の姿はほとんど見えない。

 動く度に現れるかすかな角度の変化が、うっすらと見える程度だ。

 ザッカリンの姿は、マリートの視界の中にはない。だから、どうするつもりなのかわからない。

 確認などしている暇がない。飛び込んできたなにかは、もうすぐそこに迫っている。


 子供のような形をしているようだった。

 せいぜい腰のあたりまでしかないサイズのなにかは、大きく跳ねるようにして近づいてきていた。


 迷宮が囁いている。

 手の中には既に抜いていた剣があって、導かれるままに突き出した。

 慧眼の剣士はいつでもど真ん中を貫く。

 謎に満ちた敵は声をあげない、鳴かない、なんの音もさせない。

 体は貫いた。いつもの通り一撃だった。

 けれどそこから抜け出したものがある。

 実体のない、透けて通り抜けられるものが残った。

 剣は命を貫いたのに、透けたものはまだ残って、マリートの体を通過していく。


 そのせいなのか、ザッカリンの声が遠くに聞こえていた。

 部屋に敵が溢れていく。また、血の海が現れる。

 

 だが、マリートはもうひとつの景色を見ていた。

 「黒」の迷宮でも悲劇は起きていたが、「赤」でも起きていた。


 大型の熊が追ってくる光景だった。

 前を見ても、振り返っても、仲間の姿はない。一人きりだ。

 体のあちこちが痛む。たくさんの傷を負い、血が流れていた。体は重くなり、足がよろける。

 涙が溢れて、視界がぼやけて霞んでいった。

 床に倒れこみ、少しは前に進んだけれど。

 獰猛な熊を止める術などない。

 野獣の咆哮が「赤」の通路に響いた。

 突き出した手は、細く、無力だ。

 

 熊の大きな爪が振り下ろされる直前。


 マリートの名が呼ばれていた。






 




 絶望的な敗北を二つ見ていたマリートだったが、気が付いた時には「黒」の入り口に立っていた。

 帰還者の門の上には、ともにやって来た三人の姿がある。

 だが、ファブリンは真っ赤に染まっているし、ジャグリンも巨体を横たえたまま動かない。

 ザッカリンはぜえぜえと肩で息をしており、すんでのところで助かったのだとわかった。


「慧眼の剣士さま……」


 石の神官は汗びっしょりの顔で、息を切らせたままマリートへこう話した。


「どうでしたか。なにが来たのか、見えましたでしょうか」


 二人のスカウトはこと切れているようにしか見えない。

 おかしな三人組だが、ザッカリンが一番おかしいのかもしれないとマリートは思う。


「見えた。でも、実体があるんだかないんだか、よくわからなかったな」

「あなたの剣ならば倒せますか?」

「脱出しちまったからな。わからないよ」

「でも、あなたには見えるのですね。兄たちよりも早く気が付いておられましたし」


 また一緒に、とザッカリンは言う。

 双子の背負っていた荷物をごそごそと探り、中身をちょこちょこと入れ替えて。

 大きく膨らんだ荷物をひとつ、剣士へと差し出して来た。


「今日の報酬です。かなりの額になりますから」

「ああ」

「では今日はこの辺で」


 二人のスカウトをこれからどうするのだろう。

 この場で生き返らせるのか、気力はもつのか。万が一失敗したら、ソー兄弟はどうなってしまうのか。


 すべて、マリートには関係のないことで、剣士はゆっくりとはしごを昇っていった。

 死人が出たせいで、ザッカリンはなにからすべきかきっと混乱していたのだろう。

 見逃されて良かったと思いながら、そそくさと道を進み、人気のない路地裏で立ち止まる。




 最初に飛び込んできた、飛び跳ねる謎の敵を貫いた時。

 奇妙な手ごたえがあった。そのあと、妙な現象が起き、脱出に運ばれて確認できなかったもの。


 細い剣の先に、小さな丸い珠がついている。

 先端が刺さってしまったのだろう。

 全体的に暗い色合いだが、さまざまな色が混じってギラギラと輝いていた。

 小指の爪よりも小さく、危うく見逃してしまうところだった。

 

 剣の先から外して、腰のポーチの中へとしまう。

 初めて見るものだった。

 こんな形の石は迷宮の中で採集できるが、大抵は一色で、こんな風に奇妙な模様が浮き出ているものに覚えがない。


 空を見上げると、日はとうに沈んだあとのようだった。

 夕食をとるために歩いている若者がたくさんいるようで、路地の向こうからはたくさんの声が聞こえてくる。


 ニーロに見せてやろうと考え、マリートは歩き出す。

 探索者たちが歩く道に出て喧騒に紛れ、そして、はっと気が付いた。

 

 敵の体から抜け出したなにかが重なった時に見えたもの。

 「赤」で熊と戦い、たった一人で負けて終わっていった記憶。



 カッカー様、ヴァージ、ニーロ……、マリート。



 弱々しかった。いつもと違う、絶望の淵に立たされた者の最後の声。

 あれは、ピエルナが最後に見た景色だ。

 

 「赤」の迷宮へ、何故、たった一人で?


 足が動かなくなって、マリートはラディケンヴィルスの道の上で立ち止まる。

 何人かの若者とぶつかっても、剣士は動けなかった。


 この日の摩訶不思議な探索を終えたのは、夜がすっかり更けた後。

 心を落ち着けるためには時間がかかって、カッカー夫妻が去ったことをマリートが知るまで、四日もかかった。



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