90 白い訪問者
剣の手入れの道具を買いに行って家へ戻ると、扉を開けた瞬間、飛び出してきた影があった。
ウィルフレドは身構えたが、影の主は見知った顔の人間で、驚きつつも名前を呼ぶ。
「マ」
「早く!」
急かされて一緒に家に入り、慌てて鍵をかける。
マリートはきょろきょろと視線を彷徨わせていて落ち着きがない。
「ニーロは?」
「朝から出かけていて不在にしています」
ウィルフレドしかいない状況が気に入らないのだろう。マリートはこっそりと舌打ちをしている。
「どうかなさったのですか」
何度か我慢強く問いかけていくと、ようやく返事があった。
「キーレイがいないんだ」
「ああ、神官の会合があるそうですよ」
また舌打ちの音が聞こえて、さすがのウィルフレドも眉間に皺を寄せていた。
そんな反応を初めてしたし、マリートも初めて目にしたのだろう。
急に焦りだして、やっと、慌ててやって来た理由を教えてくれた。
「家のまわりに妙な奴がいる」
「妙な奴、ですか」
「真っ白でぼやっとしていて」
「人なのですか?」
ぼそぼそと話すマリートの音声はついに途切れて、ウィルフレドの問いへの答えは聞こえてこなかった。
いつもよりも身を縮めており、落ち着きもない。
ニーロがいないせいもあるのだろうが、ウィルフレドと二人も嫌だし、真正面から話すのも苦手なのだろう。
マリートの調子は、いつも通りではある。
二人だけという状況は初めてではないが、毎回こんな空気になってしまう。
マリートはウィルフレドをいないような顔をして視線を逸らしたまま、なにも言わずに過ごす。
よほど伝えたいことがある場合だけは、我慢して話すようだった。
どうしたものか。
ウィルフレドは物言わぬ剣士がなにを思ってここへやって来たのか考えていった。
真っ白いぼやっとした妙な誰かが、家の周りにいるのが嫌で、キーレイを頼り、留守だったのでニーロのもとへ来た。
キーレイに、ニーロに、なんと訴えるつもりで来たのだろう?
「……確認しに行きましょうか」
ウィルフレドがこう切り出すと、マリートはぴくりと体を震わせ、ゆっくりと戦士の方へ振り返った。
反応はかなり薄い。が、きっと正解だと思う。表情は様子を窺うようなものになっており、目が「いいのか?」と確認している。
扉の方へ向かうとマリートがついてきて、二人は会話がないまま街中を進んでいった。
剣士はきょろきょろと落ち着かず、ウィルフレドも周囲に視線を走らせ、怪しい者がいないか探していく。
結局、マリートの家の周辺に不審者はいなかった。
白いぼやっとしたものも、見つからない。
「マリート殿、なにもいないようです」
辺りの確認を終えてからウィルフレドが報告をすると、マリートは不機嫌な顔をして家の中に入って鍵をかけてしまった。
いまだ仲間未満のような扱いをしている戦士に迷惑をかけた次の日の朝、またも妙な気配を感じてマリートは家を飛び出していた。
走って向かったのは「友人」のキーレイのもとで、神官長は在宅だったものの、屋敷の中はひどく慌ただしい。
使用人たちが絶えず行き交っており、みんななにかしらの荷物を運んでいる。
「キーレイ、今日はなにかあるのか?」
「ああ、ちょっとね」
キーレイもいつもと服装が違う。神官衣ではない改まった服を着ており、髪も普段と違った形に整えてある。
「妙な奴が家の周りをうろちょろしてる」
「妙な奴?」
「ここのところ毎日なんだ。見に来てくれ」
「すまないが、すぐに出なければならないんだ」
昨日も用事でいなかったじゃないか。
マリートがぶつぶつ文句を言うと、キーレイは困った顔をして首を傾げ、部屋を出ていってしまった。
「あ、バロウ! バロウ、ちょっといいかい」
呼ばれたバロウらしき若者がやってきて、キーレイになんの用か問う。
「今日の用事は夜までかかるんだ。このバロウを連れていって、一緒に見てもらってくれ。とても足が速いから、問題があった時は私を呼びに来てくれたらいい」
バロウは人の好さそうな顔をきょろきょろと動かし、キーレイとお客を順に見つめている。
まるで子供のような扱いに、マリートはすっかり気を悪くしていた。
「そんなのいらん。そんな似合わない服なんか着て、どうせ金持ち共の気取った催しがあるんだろう」
さっさと行って来い。
吐き捨てるように言って、剣士は一人、リシュラ家の屋敷から飛び出していった。
家までの帰り道の間に、何度ため息をついただろう。
あんな風に言う必要はないのに、何故毎度毎度喧嘩を売るような言葉を投げてしまうのか。
今度こそ許してもらえないのではと考え、マリートは自己嫌悪の海で溺れていた。
キーレイはなにを言っても穏やかに微笑んで許してくれるが、本当は嫌な思いをしているに違いない。
自分が言われたらきっと怒って許さないであろう言葉ばかり投げつけているのだから。
嫌われて当たり前。二度と助けてもらえない。時間が空いた時に様子を見に来てくれることもなくなる。
でも、友人だから。いつも通りのイブソルだからと、笑って流してもらえるか?
わからない。どちらもあり得る。神官だって人間なのだから。内心では怒っているだろうし、限界だってある。
見放されたくないのなら、発言には気をつけるべきなのに。
何度も同じ反省をしてきた。なのに、ちっとも成果が出ない。考えるよりも先に口から出ていってしまう。抑えられない。
絶対に呆れられている。心底、軽蔑されているに違いない。
本当に、駄目な奴だ。
自分への落胆で心を黒く染めながら、しょぼしょぼと歩いていく。
マリートの家の鍵は緩んだままで、中に入るのが少し怖い。
どうして修理を頼まなかったのか、後悔がますます大きく膨らんでいく。
「慧眼の剣士どのぉ……」
「わあ!」
家の影から白いボヤっとしたものが飛び出してきて、マリートは心底驚いて声をあげた。
足元から頭まで真っ白で、腰を曲げていてもなお大きい。
顔は地面に向けられていて見えないままで、悪霊の類としか思えない。
「なんだお前」
「お忘れですかぁ……」
しゃべりはひどくゆっくりで、掠れていて、恨めしい。
マリートは慌てて家の中へ入ったが、白い指が扉の隙間に差し込まれ、強い力で抑えられてしまった。
「ファブリン・ソーです……」
かすかに聞こえた名乗りに、マリートの動きが止まる。
その隙を逃さず、真っ白い悪霊は扉をこじ開けて中に入りこんでしまった。
「ファブリン・ソー?」
「はぃ」
消えいるような声で答えられて、マリートはしばらく悩んだ。悩みながら記憶を探り、嘘だ、と思った。
「この間『白』に一緒に行った?」
「はぃ……」
「そんな頭じゃなかったし、お前は」
まさか、死んだのか。
マリートははっと気づいて、やはり悪霊だったのだと確信していた。
くるくるふわふわしていたはずの髪はぺしゃんこになっており、服装からもすべての色が抜けている。
しかし、霊になったとしてなぜ自分のところへ来てしまうのか。
わからなくて、マリートは唸る。
そんな剣士へ、白いスカウトはぼそぼそと恨みがましい声で訪問の理由を話してくれた。
「この間の探索で……、失礼なことをたくさん言ってしまって……」
もうしわけ、までは聞こえた。申し訳なかったと謝ったような気配があった。
「神官長殿にも悪い……。無彩の魔術師も、気を悪くし……」
ファブリンの謝罪は長々と続いている。
スカウトの体はしっかりと実体があるようだし、話の内容は聞き取りづらいが先日の「白」であったことで間違いないようだ。
痩せ馬でいいとか、大馬鹿剣士だとか。不愉快な発言をして申し訳なく、謝罪へやって来たというようなことをファブリンは言いたいようだ。
「慧眼の剣士ともあろうお方に…… 失礼きわ……」
「もういい」
「申し訳なく……」
「充分だ」
「怒ってらっしゃる」
「帰れ」
「こちらの気が」
お互いにぼそぼそと話す二人の会話は、決着がつきそうにない。
ファブリンは失礼を謝りたいとしか言わず、マリートはもういいからとにかく帰って欲しい。
どちらの願いも叶わないまま時間ばかりが過ぎていき、マリートは家の中によく知らない人間がいることが不愉快でたまらない。
「どうしても謝罪を受けて頂きたく」
「ああ、もう、わかったって言ってるだろう!」
不毛な会話の果てにマリートがこう叫ぶと、ファブリンは急に背筋を伸ばして、剣士の腕を掴んだ。
「なんだ」
亡霊のようなファブリンだが、力が強い。
背を伸ばせば身長が高く、マリートは外へ引きずり出されてしまった。
「わっ」
扉の向こうにはジャグリンが待っており、黒い長い髪は後ろでひとつに結ばれているが、のっそりと立つ姿はそのままだ。
ファブリンに引きずりだされたマリートはジャグリンに抱えられるようにして、運ばれてしまう。
「おい、どこへ行くんだ」
ファブリンがなにかを言っている。今は弾むような足取りだが、ぺしゃんこになった髪に隠れて表情は見えず、ぶつぶつと呟かれている声もはっきりとは聞こえない。
大柄の双子のスカウトたちはマリートを街の北東へ運んで、石の神殿近くの貸家らしき建物へ連れ込んでいった。
「お帰り、と言いたいところだけど。どうしたんですか、その有様は。無理に連れてきたのですか」
「なかなか……」
「丁寧にお連れするように言ったでしょう」
ジャグリンに運ばれて連れてこられた家に、一人の男が待っていた。
二人と同じく長身だが、体は細い。おそらくは化粧をしていないファブリンと似たような顔立ちだが、表情はない。
灰色の布地に黒い糸で細かく刺繍が施された服を着ているが、なんの柄なのかマリートにはわからなかった。
「慧眼の剣士様、二人が大変な失礼をしてしまったようですね」
ファブリンがぼそぼそと何か言っているが、よく聞こえない。
マリートの反応も似たようなもので、謎の男にはなにも答えられていない。
「私はザッカリン・ソー。ファブリンとジャグリン、世にも珍しい双子のスカウトである二人の弟であり、石の神より力を分け与えられた神官でもあります」
「神殿には……」
「ファブ兄は黙っていてくださいね」
ザッカリンと名乗った男は馬鹿みたいに長々と頭を下げ、兄たちの無礼を丁寧に詫びた。
詫びの言葉もとにかく長い。くどくどと続く謝罪の言葉から逃げたいのに、ジャグリンに行く手を阻まれてしまう。
「この二人は大変に才能豊かなスカウトなのではありますが、常識知らずなところがございまして」
「ああ」
「失礼ばかりしたと聞き、叱りつけました。反省を促し、二度と同じ振る舞いをしないよう矯正している真っ最中なのでございますが」
「もういい。帰る」
「なにをおっしゃいます、慧眼の剣士マリート様」
話が通じそうな雰囲気を醸し出しているくせに、ザッカリンも結局二人と同じで、独自の常識の中で生きているようだ。
よく見てみれば、三人は同じ腕輪を右手に着けている。
灰色の輪に気付いて見つめていたマリートだったが、素材は髪の毛、きっとニーロのものだとわかって、ますますうんざりした気分の中に沈んでいく。
「さて、慧眼の剣士マリート様。私たち兄弟は三人組。双子の兄は優秀なスカウトでありながら、戦いも得意としております。私は神官として二人の傷を癒し、命が失われた時には取り戻しますし、魔術の修行も致しましたゆえ、一瞬で迷宮から抜け出すことも可能なのでございまして」
自分たちの売りについて大いに語り、くどくどとした話が続いた先。
結局なにを言いたいのか、結論はいつまで経っても出ないが、マリートは途中で気が付いていた。
「まさか?」
「ああ、お気づきになられていたのですね。さすが、すべての魔法生物の弱点を見抜き、一撃で貫く剣の業をお持ちの剣士様!」
語りの隙間にファブリンの呟きがうっすらと聞こえてきて、ようやく、ザッカリンの求めているものがわかった。
前で戦える者がもう一人欲しい、だ。
「愚かなファブリンのせいで『白』での探索を打ち切られ、よいものを手に入れることはできなかったでしょうから。我々がご案内いたしましょう。三人で通いつめ、最下層への道のりをゆっくりと詰めておりますから。実りのある探索ができると約束致します」
石の神官の喋りは丁寧だが、余計な言葉ばかりで内容は薄い。
要は前回、ファブリンが騒ぎすぎて探索を打ち切ってしまったから、お詫びに稼げる探索へ案内しようということらしかった。
「どうして俺を?」
「この真っ白い愚か者が大変に失礼なことを申し上げましたので」
ザッカリンは神官であり、魔術の心得もある。
後列に入る人間はもういらない、ということなのだろうか。
ニーロはこんな誘いには乗らないだろう。キーレイも珍しく辛辣な言葉で「二度とごめんだ」と言っていた。
では、ウィルフレドは。もう誘いをかけたのだろうか。ジャグリンと役目が被るから、あの戦士を選ぶことはないのだろうか。
仲間の三人が声をかけられたかどうかはわからない。こんな目に遭わされたのなら、話してくれるとは思うのだが。
でも、どうだろう。まともに話すらできないおかしなマリートなど、気が付いていないだけで蚊帳の外に置かれているのかもしれないではないか。
「どちらがよろしいでしょう。『白』か『黒』か。どちらがお好みでいらっしゃる」
どちらにもよく潜る、地図もあるから安心しろとザッカリンは言う。
この三兄弟は、弟であるザッカリンが最も力を持っているのだろうか。
ニーロが双子に同行を頼んだ時、誰と交渉をしたのだろう。
ザッカリンについてはなにも言っていない。珍しい双子のスカウトの方が話題になるだろうが、脱出も使える神官となればそれなりに名が通っていてもよさそうなのに。キーレイもニーロも、この弟についてはなにも話してはいなかった。派手な双子の影に隠れて、知られていないのかもしれないが。
マリートは思考の渦に嵌まり込んでいてなにも答えないのに、ザッカリンは話し続けていた。
「白」には高く売れるものがどのくらいあるか、どんな敵が出るのか語りまくり。
「黒」についても同様に、ああだこうだと細かく説明を続けている。
「どちらがお好みですか」
時々、こんな確認が入った。マリートが答えないせいか、説明が勝手に再開されている。
ファブリンは隣でぶつぶつとなにか呟いており、弟の発言への補足だとか、訂正などを入れているようだ。
ジャグリンは背後に控えていて、客を逃さないよう見張っている。
「慧眼の剣士殿、どうなさいますか」
「白」と「黒」の説明が三巡していた。
「行きたくない」という答えは却下されてしまっている。
ザッカリンの語りを聞き流しながら、なんと言えばここから出られるのか、マリートは考えていた。
一刻も早く家に戻りたいし、夜になったらキーレイの部屋へ行って、とんでもない目に遭ったと報告しなければならない。
朝の暴言についても謝ったらいいのだろうが、なんと言えばいいのか、どう切り出せば不自然にならないのか、考えると頭が焦げてしまいそうだった。
思考をあちこちに飛ばしながら、いやいやそうじゃない、今考えるべきはザッカリンへの返答だと思い直し、また悩む。
この茶番を終わらせるための言葉探しが繰り返されて、ようやく、ひとつ思いついたことがあって、マリートはなんとかザッカリンにこう答えた。
「灰猿の尾だ」
「灰猿とは、『黒』に出るすばしっこい猿ですか」
「ああ。あれの尾を生きたまま切り落とせるか?」
ウィルフレドに無理なのだから、あの尾を切り落とせる者などいないだろう。
不可能だと言われたら、即座に噛みつけばいい。たいしたことのない連中などと行く探索はないと言えば、ここから出られる。
マリートは完全な断りの文句を見つけたと思っていたが、ザッカリンはふっと笑ってこう答えた。
「お安い御用です。なんでもあの猿の尾は、幸運を招く道具だそうですね。知りませんでした。さすが慧眼の剣士殿、長く探索を続け、生き抜いてこられた達人は我々に新しい知見を授けて下さった!」
あの時の会話を、ジャグリンは兄弟へ報告していたのだろうか。
無理難題のつもりで言ったのに、ザッカリンは余裕の笑みを浮かべ、まかせてくれと胸を叩いている。
「用意を致しましょう。ジャグ兄、ファブ兄!」
ジャグリンはマリートの肩を掴み、その隙に二人が探索の準備をすすめていく。
貸家か売家かはわからないが、ここはソー兄弟の住処に違いなく、ファブリンとザッカリンはばたばたと走り回って、あっという間に用意を済ませてしまった。
ファブリンの手が空いて、ジャグリンが離れていく。マリートの背後には亡霊のようなファブリンがいて、弟同様、強い力で肩を抑えられている。
「お前、そんなんじゃなかったのに」
背後からぶつぶつと呪いの言葉のようなものが聞こえてきて、たまらずマリートは唸った。
「剣士殿が探索をした時は、元気なファブ兄だったようですね」
ファブリンには、元気ではない期間もあるのだろうか。
わからないが、知りたくもない。
話したくないし、会話を成立させられない。
マリートではうまく話せない上、ソー兄弟の応対は普通ではないからだ。
今の状況は不快でたまらなくて、なぜキーレイの申し出を断ってしまったのか、マリートは深く後悔していた。
お使いの坊やと一緒に帰っていれば、この悲劇は避けられたかもしれないのに。
今日はきっと、なにか大切な用事があったのだろう。
キーレイは神官長だから、なにかの儀式でも任されたのかもしれない。
それでも、あの坊やが呼びにくれば来てくれるつもりだった。
面倒なイブソルの世話を投げ出さずに、なにかあれば駆けつける。
たった一人の友人について、心底立派な男だとマリートは思った。
「では、剣士殿も準備をしてください」
考え事をしているうちに、三兄弟の支度は済んでいたようだ。
大柄な三人に囲まれ、押されて、狭い路地裏をぎゅうぎゅうになりながら進んでいく。
あっという間にマリートの家にたどり着いて、勝手に扉も開けられて。
さあさあと促され、探索の支度を始めなければならないらしい。
マリートにとってとんだ屈辱の時間だったが、ソー兄弟の圧はあまりにも強かった。
装備品や荷物袋、革で作った作品まですべて勝手に触れられて、不快指数はとっくに上限を超えている。
これ以上踏み荒らされるのは嫌で、だったらもう、家から出る準備を済ませるしかない。
絶対に扉の鍵を修理するし、引っ越しも検討する。
この茶番が終わったらキーレイのところへ駆けこんで協力を仰がねばならず、やることのすべてを頭の中でまとめておかねばならなかった。
「これでいい」
愛用の剣を手に取り、三兄弟へ振り返る。
探索に前向きになったと思ったのか、ザッカリンは満足そうに笑っていた。
「では行きましょう、『黒』へ」
逆らう方法がなくて、マリートはそのまま北へ連行されていった。
「黒」の迷宮そばには人が寄り付かない。四角を描くように並ぶ八つの迷宮の北側は、命知らずの上級者ですら御用達にしない難度のものばかりで、今日も誰の姿もない。
ウィルフレドがうろついていたらいいのにとマリートは思った。
髭の戦士とはちっとも打ち解けられていないが、この光景を見れば声をかけてくるだろう。
どうしたのですかマリート殿、とかなんとか。あの鋭い瞳を三人に向けて、何故一緒にいるのか問いかけてくれるだろうと思えた。
また後悔の類が胸の底から湧き出してきて、慧眼とまで呼ばれる剣士はひどく情けない気分になっていた。
結局、普段の心掛けが悪いからだ。
まだ慣れていないとか、自分とは遠い人間のような気がするとか。
自分の思いをかけらですら口にしないくせに、「なんとなく」で人を遠ざけるからこんな目に遭っている。
ニーロの灰色の瞳を思い出しながら、マリートは穴の底へ降りていった。
最も近しい仲間のうちの一人。いつの間にか「無彩の魔術師」と呼ばれるようになった、街で最も有名な探索者である、ニーロ。
出会った頃はとても小さかった。
幼い顔立ちの少年で、導いてやらなければと思った。
けれど、そんな必要はまったくなかった。
師匠以外の人間を知らずに生きていたというが、マリートよりも他人とよく話したし、迷宮都市にもあっという間に慣れていった。
自分に不足しているものを理解していたし、できないことがあれば相応しい相手になんでも頼んでいた。
不要なものは容赦なく切り捨てることもできる。
駄目なものは駄目、嫌なものは嫌。それで相手が気を悪くしようが気にしない。
体も小さく、年も若い。けれどニーロの心には強くて折れない芯がある。同じものが欲しいと、マリートは強く思った。
「この探索は剣士様への詫びとしていくもの。なので、手に入れたものは五等分にし、二人分を慧眼の剣士様にお渡しします」
よろしいですね、とザッカリンが問う。
ファブリンは白い頭をゆらゆらと揺らしながら、視線を向けてくる。
どうしてこんな妙な連中と自分が行かねばならないのか。
ここまでで溜め込んできた不満と不安と、ついでに不甲斐なさも溢れて、マリートはとうとう怒りを爆発させていた。
「俺は行きたくない」
爆発しても、声の大きさにはつながらないようだ。
まだぼそぼそとしたままの決意表明に、ザッカリンの表情が曇る。
「灰猿の尾だけでは足りませんか」
「そうじゃない。行きたくない」
「なぜですか。我々の謝罪を受け入れていただくことはできないのですか」
そういう問題ではない、とマリートは言いたい。
謝罪などいらない、ただ帰りたいだけ。話は本当はとても単純なもので、わかったと言ってもらえればそれで済む。
だが、ザッカリンの怒涛の喋りに勝てなかった。
端から見れば、マリートがこの期に及んでいきたくないと駄々をこねているように見えていただろう。
あっという間に言葉は尽きて、とうとうマリートは黙る。
口をぎゅっと結んだまま、誰か来てくれないかと願っていた。
なぜか通りかかってほしいのはウィルフレドだけだと気が付いて、剣士は「ニーロが偶然通りかかったら」について想像を巡らせていく。
きっと穴の上でマリートに気が付く。けれど、しばらく見つめるだけ見つめて、黙って去っていってしまうのではないだろうか。
何日も経ってからなんらかの用事で会った時に、そういえば「黒」でなにをしていたのですかと、しれっと聞いてくるに違いなかった。
「はあ、仕方がありませんね。わかりました、慧眼の剣士様」
虚ろな目で想像の世界に逃げていた剣士に、ザッカリンは急にこう呟いて、マリートはとうとう願いがかなったのかと思った。
「やむを得ません。とっておきですよ。あなただけに、特別に秘密を教えて差し上げます」
どうやら探索の中止の了承ではなかったようで、ため息が出てしまう。
ところが、構わずに話す神官の口からは、意外な言葉が飛び出してきた。
「『黒』の迷宮にある、秘密の部屋に案内しましょう。いつか協力していただきたかったのですから、今お伝えしても変わらないでしょう。剣士様は御存知でしょうか? 何度も上下の移動をする複雑な道を進んでいった先、十層目に、入ると行き止まりになってしまう小部屋が存在しているのです」
一度十三層目まで降りて、上ったり下りたりを繰り返した先にその部屋はあると言う。
ニーロの探っていた「黄」の行き止まりと似た話に、マリートは驚いて視線をザッカリンへ向けた。
「そこにはなにかがいます。なにかはわかりません。そして、なにかがいるとわかっていても倒せないのです」
双子のスカウトは何度か命を落とした、とザッカリンは言う。
ジャグリンの反応はなかったが、ファブリンは小さく頷いている。
あの、透けた、謎の魔法生物。ウィルフレドとニーロは救われたが、ロビッシュは切り裂かれて死んだ。
キーレイが奇跡の魔術を得た、散々な調査の記憶が蘇る。
振り回されるように外へ飛び出し、気が付けば腰から下が壁の中に埋まっていた。
体が酷く冷えたし、腹が痛かった。誰の姿も見えず、どこからか血の香りだけが漂ってきて、恐ろしかった。
同じものが待ち受けているのではないか。
記憶を探るマリートの前へ、おかしな三兄弟はまっすぐに並んで頭を下げている。
「あなたならば。慧眼の剣士様ならばできると見込んでお願いいたします。どうか兄弟と共に進んで、あの得体の知れないなにかを倒してもらえないでしょうか」




