84 雲の導き(下)
眩暈を起こし、ふらつきながらも立ち上がる。
細くなった足で踏ん張っていると、視線を感じてデルフィは振り返った。
この辺りで暮らしている脱落者たちなのだろう。
見たことのある顔がちらほらと混じっている。
なぜか一緒に料理をさせられたことがあったし、話しかけてくる者は何人かいた。
助けを求めてみようかと考えたものの、心にふっと暗いものがよぎっていって、デルフィは西の荒れ地を後にしていた。
あれだけ長い間、「カヌート」と暮らして来たのだ。
ジマシュも見ていたかもしれない。こんなに汚らしい場所は好まない男だが、裏切り者を許せずにつれ戻そうとしていたのだから。様子を窺いに来ていた可能性がある。
ひょっとしたら、あの中に協力者がいたのかもしれない。今も残っているかもしれない。
ここから急いで去らなければならなかった。
弱った足を動かして、迷宮都市の中へ。
ちょうど夜が明けた頃で、初心者らしき探索者の集団とすれ違った。
心に痛みが差し込んできて、デルフィは「ちょうどいい」と思った。
痛みを刺激に変えて、動いていく。そう決めて、路地裏へ入り、南に向かって進んでいく。
北西にある門の近くには食堂がたくさんあり、北側は娼館街に繋がっている。
その反対、通りを挟んだ南側には、古い建物が立ち並んでいた。
幸運の葉っぱもその中に混じって、ほそぼそと経営を続けている。
そのはずなのに、見覚えのある建物が見えてきても、目指す宿だけが見当たらない。
宿の裏手にあった廃屋の近くに、資材らしきものが積まれている。
取り壊し、新しく建築を始めるのだろう。
幸運の葉っぱのそばにあったものだ。間違いないのに、宿がない。割れかけた看板がどこにもない。
隣に建っていたはずの安食堂もないようで、デルフィはきょろきょろと視線を彷徨わせている。
朝が早すぎるせいなのか、誰も通りかからなかった。
建築業者が働き始める時間は、もう少しあとになってからだろう。
カヌートは時々ダンティンを連れて日雇いの仕事に出ていたから、知っている。
あまりひとところでもたもたしていたくなくて、デルフィは更に南に向けて歩き出した。
自分の記憶と、ベリオに繋がる人。偽名を使って暮らしていた二人に、そんな人物はほとんどいない。
このまま向かって行って大丈夫だろうかと、不安が募る。
万が一巻き込んだらと思うと、足が震える。
幸運の葉っぱは古い古い宿だったから。取り壊されてしまったのだろう。
裏にあった食堂も含めて、辺りに起きていた改築の波に飲みこまれてしまったに違いない。
愛想の悪い主人はどこへ行ったのだろう?
なにもわからない。時間が早すぎる。でも、急がなければ。
魚の仕入れのために、早い時間に出かけていたから。だから、もういるかもしれない。
足に力を入れて進んでいく。
少し時間がかかったものの、デルフィは「コルディの青空」の前にたどり着いていた。
ところが、様子がおかしい。青い塗装はそのままなのに、看板は外れていて、ぶらさげるための金具だけが風に吹かれて揺れている。
呆然としているデルフィの背後を通りかかった男がいて、神官は慌てて声をかけた。
「あの、すみません」
「あんた、随分のっぽだな」
男は商人のようで、大きな荷物を背負っている。
「なにか用かい?」
「この店のことを知っていますか」
「ああ、バルディがやっていた店だよな」
「看板がないのですが」
胸がしめつけられるような感覚が苦しい。
耐えながら、デルフィは問いかけ、男からの答えを待つ。
「あいつは王都の家族のとこに行っちまったんだ」
「家族のところに? 会いに行ったのですか」
「いや、移住したんだ。店がうまくいかなくなって、閉めたんだよ」
迷宮で魚を獲っていた連中が急に来なくなり、目玉商品がなくなってしまった。
更には、周囲に「薬効料理」を真似され、売り上げも一気に減ってしまったのだと男は苦笑いしながら話している。
「ここで働いていた人たちは?」
「さあな。次の仕事を探しているんじゃないか?」
呆然としたまま、今度は西に向かって歩いて行く。
頭が真っ白になっていた。
自分が長く暮らしていた場所も、本名を伝えた友人になれそうな人も、どこへいったのかわからない。
これでいいのかどうか、判断が付かない。
神にわけられた勇気がこぼれ落ちて、腕の中から逃げていく。
すべて落とす前に、たどり着かなければ。
太陽に背を向けて、時々振り返りながら、足を動かしていく。
たどり着いたのは雲の神殿で、入り口の前でしばらく立ち止まっていた。
もしも、ジマシュの息がかかった者がいたら? 自分のこれまでの行いのすべてが、既に知られていたのなら。
自分がなにをしても、誰かを巻き込んでしまうのではないかと思えて、心が張り裂けそうになっている。
「おや」
左側から声をかけられて、デルフィは視線を向けた。
これまでに何度もここを訪れ、鍛冶の神への祈りを捧げさせてもらっていた。
詳しい事情を話さない鍛冶の神官を受け入れ、励ましてくれた神官長のゲルカが立っている。
「しばらく来なかったね」
さあ、入りなさい。
ゲルカは五十歳で、雲の神に仕えて三十年以上だと聞いている。
背は低いがしっかりとした体つきで、通路にそってまっすぐに歩く癖がある。
神像の前を通り過ぎて、神官長の部屋へ通される。
ゲルカはデルフィの顔をじっと見つめたが、なにも言いはしなかった。
「ゲルカ様は本当にいたのですね」
自分を知る人物がようやく見つかって、デルフィは涙を浮かべている。
「もともとやせっぽっちだったが、更に痩せたようだな」
「自分が誰なのか、どこにいたのかわからなくなっていたのです」
「君はデントーと名乗り、ここへ祈りに来ていた鍛冶の神官、デルフィ・カージンだ」
ゲルカは分厚い手をデルフィの額にかざし、雲の神への祈りの言葉を紡いでいく。
「助けが必要かな?」
「……はい、ゲルカ様」
ゲルカは力強く頷くと、少し待つように告げて、部屋を出ていった。
雲の神官長はすぐに戻ってきて、温かいお茶を飲ませ、雲の神官用の長いケープを取り出し、デルフィの肩にかけてくれた。
「雲の神はどんな運命も受け入れよと仰るが、ただ受け入れるだけではいけない」
与えられた試練を乗り越え、生きていくんだ。
そのために、信仰がある。雲の神だけではなく、鍛冶の神も君を見守っている。
肩に置かれたゲルカの手は、驚くほどに熱い。
「この神官衣は君にあげよう。悪用しないと約束してくれればいいのだが」
優しい冗談に、デルフィは本当に久しぶりに、小さく笑った。
「私は君になにも聞かないが、話したいのならどんな内容でも聞こう」
必要があれば神殿で匿ってもいい。
「その時は、この神官衣をまとって来なさい。君は雲の神に仕える者の顔をして、この部屋に入ってくればいい」
「ありがとうございます、ゲルカ様」
ゲルカの言葉に感謝しながら、どうすべきなのか、デルフィは考えていく。
知っている者はいないだろうか。
ダンティンについて、ドーンについて、そして、ベリオについて。
初心者の使う宿や食堂は山のようにあって、ひとつひとつ調べていくのは難しいだろう。
ダンティンが広い道の真ん中で騒いでいてくれたらすぐに見つけられるだろうが、そんな真似をちょうど通りかかった時にしてくれる可能性は相当に低い。
ドーンの個人的な話は聞いておらず、どんな場所になら姿を現すのか見当もつかない。
二人を探すのは、難しいのではないかと思える。
では、相棒は? ベリオが行くとしたらどこなのか。どこを目指していくだろう。
もしも無事でいるのなら。もしかしたら、自分を探してくれているかもしれない。
「僕を探しに来た探索者がいましたか?」
「いや、いないよ」
雲の神殿に通っていたことは、ベリオも承知していたはずだ。
鍛冶の神殿にも確認しに行くべきだろうか。
鍛冶の神殿は街の東の端にあって、貸家街からは近い。ジマシュたちも当然行くだろうとも思える。
「橙」へ挑んでいた仲間たち。彼らが単に自分とカヌートを見失っただけなら、街のどこかで再び出会うこともあるかもしれない。
そんな偶然に期待しながら、地道に探していくしかないのだろうか。
では、もう一人についてはどうだろう。店はもうなくなったようだが、この神殿から「コルディの青空」は近い。
「この近くにある、コルディの青空という店で働いていた青年を探しているのですが、ゲルカ様は御存じありませんか」
「なんという名かな」
「ギアノ・グリアドです」
ゲルカに心当たりはないようで、聞いたはいいが答えは持ち合わせていないようだ。
どんな青年なのか問われたが、デルフィは答えに詰まってしまった。
ギアノの見た目について説明してみると、自分でも首を傾げてしまうほどにどうでもいい情報しか出てこない。
そんな特徴のない友人は、デルフィの信仰の深さを感心してくれていた。
彼自身はどうなのだろうと神官は考える。
港町から来たのなら、船なのか。それとも料理人の家に生まれたのなら、かまどの神に祈りを捧げるのだろうか。
ため息が漏れていく。
ジマシュから逃げながら、誰かを探すことなどできるのだろうか。
デルフィは目を伏せて、カップに残っているお茶を口に運んだ。
立ち上がったさわやかな香りが、暗く沈む意識に風を吹き込んでくれる。
ギアノを探してみようとデルフィは思った。
彼ならきっと、力を貸してくれるはずだから。
記憶が途切れたのは「橙」の中で、探索中だったから。あの時一緒にいた三人の名しか出さずにいた。
カヌートとの会話で名前を出さなくて、良かったのかもしれない。
船の神殿なら、街の南側、探索者のあまり訪れないところにある。
自分とは縁のないところだ。ギアノの名を聞くくらい、しても良いのではないかと思えた。
「ゲルカ様、僕は行きます。ひょっとしたらまた戻ってきて、力を貸してほしいと言うかもしれませんが」
「君は随分厳しい修行をしているようだ」
休息が必要な時には、いつでも来なさい。
雲の神への祈りを共に口にして、デルフィはゲルカへ深く頭を下げると、朝を迎え活気に満ち溢れた街の中へ出ていった。
太陽は高いところへ昇っており、デルフィがあの家から逃げ出したと、とっくに気づかれているだろう。
けれど、一瞬でこんな西の果てにやって来たとは想像もしていないのではないか。
うまくいくとは、デルフィ自身ですら思っていなかった。
脱出の魔術は「転移」の業。魔術師たちは、自由に使っているのだろうか?
逃げる手段を手に入れたことを、歩く勇気に変えていく。
白地に青い線の入った雲の神官衣に身を包んで、迷宮都市を南に向かって歩いて行った。
近くに「緑」の入り口があり、通りには探索者の姿が多い。
昼が近いからなのか、どこかから香ばしい匂いが流れてきて、デルフィの鼻をくすぐっている。
細い裏路地を歩いていくと、行き止まりにたどり着いてしまった。
気は進まないが、戻って、少し大きな通りに出なければならない。
神官衣は長く、足元まで届いて、ゲルカが守ってくれているような気分だった。
ゲルカが着た時には、裾を引きずって歩くのだろう。
むしろそれが正しい着方で、足首をのぞかせているデルフィの方がおかしい。
気を抜いた途端に襲い掛かってくる陰鬱な気分を蹴散らすために、雲の神官長の力強い声を思い出しながら歩いていく。
雲の神に仕えるゲルカは、公平さと優しさとユーモアを以て、悩める鍛冶の神官に力を与えてくれている。
なんとか前を向いたデルフィの視線の先を、見慣れない揃いの服の集団が歩いて行った。
左の建物の向こうから三人現れ、少し離れて二人、二人、三人と続いていく。
みんな美しい飾りのついた短剣をぶらさげていて、右腕には王家の紋章の入った腕章をつけている。
王都から派遣されてきた調査団だと気が付き、デルフィは立ち止まって彼らが行き過ぎるのを待つ。
十数人が右の建物の向こうに消えていき、集団は途切れた。
再び歩き出そうとしたデルフィだったが、また左側から一人、同じ制服を身に着けた影が現れ、足を止める。
ひとりだけ離れて歩く調査団の人間は小柄で、どうやら女性のようだった。
上着は同じだが、下に穿いているのはスカートのようで、歩くたびにふわりふわりと裾が揺れている。
行き過ぎていく横顔には、なぜだか見覚えがあるような気がしていた。
遠くから自分を見つめている神官に気づかず、調査団の女はゆっくりと進んでいる。
すると、ひらひらと揺れるスカートの向こうに剣が提げられているのがわかった。
まるで、時が止まったような感覚に襲われている。
バラバラのかけらが一気にひとところに集まって、ぴたりとはまったような。その衝撃に突き動かされてデルフィは叫んだ。
「ドーン!」
人生でここまでの大きな声をあげたことがあっただろうか。
のろのろと歩いていた女は神官の方を向き、明らかに驚いて、顔を青くしている。
あの、顔。
間違いない。
女性だったのか?
なぜ、調査団の格好をしている?
わからないが、間違いない。腰から提げられているのは、ベリオが愛用していた剣だ。
相棒だった魔術師が、どこかの迷宮の深いところで見つけた、美しい意匠が気に入って譲ってもらったと話していたもの。
調査団の女が走り出し、遠ざかっていく。
デルフィも後を追うべく、大通りへと向かう。
「ドーン、待ってください!」
通りにいた大勢が振り返っている。注目を集めるのは嫌で、これ以上大きな声を出したくない。
けれど女の背中は遠ざかる一方で、弱り切った神官の足では追いつけない。
たとえ追いかけられていたとしても、この街の人間は調査団に手を出したりはしないだろう。
彼女を止めてくれる協力者は現れない。
それどころか、走っていたせいで通行人にぶつかってしまい、小さな誰かを転ばせてしまった。
「大丈夫か」
連れの小柄な男が、デルフィが転ばせた誰かに手を差し伸べている。
ドーンの姿はもう見えない。調査団の制服を着ていたのだから、帰る場所は決まっている。
追うのはやめて、ぶつかったことを謝らなければならない。
「すみません、怪我はありませんか」
すすけた色のマントをまとい、揃ってフードを深くかぶっている。
背の高いデルフィに比べて、二人とも随分小さかった。
ぶつかってしまったのはどうやら女性のようで、デルフィが謝ると、大丈夫ですという声がかすかに聞こえた。
「すまない兄弟、手を貸してほしいんだ」
男の方がこんな声をかけてきて、デルフィは腰を曲げ、話を聞いていく。
「俺たちは今はこんな格好をしているけれど、二人とも雲の神に仕える神官なんだ。追われているかもしれなくて、助けてもらおうと神殿へ向かっているところだった」
「追われている?」
「追手が来ているかどうかはわからないんだけど。でも、いないとも言い切れなくて。とにかく、悪いことはしていない。どうしても守らなければならないものがあって、なるべく早く樹木の神殿近くまでたどり着きたい」
どうか手を貸してもらえないか。
フードの中からのぞいた顔は幼く、随分若いように見えた。
「いけないわ。なにか御用があるかもしれないのに」
もう一人の顔立ちも幼く、声も愛らしい。大きな目は可愛らしいが、しかし、強い決意を感じる瞳だった。
追われているのは、デルフィも同じだ。
樹木の神殿は街の東側にあり、貸家街にも近い。
せっかく遠い所へ来たのに。戻れば見つかってしまうかもしれない。
雲の神に仕える者が、なぜ追われてしまうのか。
いや、鍛冶の神に仕える者も追われているのだから。疑問に思うことなどないのだろう。
どうすべきか悩んでいると、女性の方がなにかを大切そうに抱えていることに気づいた。
マントの隙間から、ちらりと見える。
「赤ん坊?」
デルフィが思わず口に出すと、女性はさっとマントを引いて、小さな赤子を中に隠した。
神官だというが、二人は幼く見える。子供が、赤ん坊を連れていて、追われているのだろうか。
「頼む、兄弟。何も聞かずに助けてくれないか」
男の方にケープを掴まれ、デルフィは迷った。
なにも問わず、ただ、手を差し伸べる。
ゲルカがしてくれたことを、目の前で困っている二人と小さな小さな赤ん坊のために、自分はできないというのか?
ドーンの行方はまた探せばいい。ヒントは充分に得られたのだから。
樹木の神殿へたどり着いたら、すぐに南へ向かっていけばいい。
船の神殿ならば、あそこからなら遠くはないだろう。
「わかりました。樹木の神殿へ向かうのですね」
「ああ、ありがとう兄弟」
二人は揃って、雲の神への感謝をささげている。
「その長いケープに、妹を隠してくれないか」
どうやら二人は兄妹だったようだ。
小さな妹は小さな小さな赤ん坊を抱いたまま、デルフィの羽織った長いケープの中にすっぽりと隠れている。
「あなたの親切に感謝します、雲の神官様。お会いしたのは初めてですね」
妹は申し訳なさそうに、自分たちの名は聞かないでほしいと話した。
「神官様の安全の為です」
デルフィはそれに黙って頷いて、兄と一緒に南に向かって歩き始めた。
南へ向かって、東へ曲がる。急いで歩きたいが、ケープに人を隠したまま進むのは少し難しいようだ。
「ありがとう兄弟。俺たちが揃って歩いていると、どうしても目立ってね」
デルフィは背の高さで覚えられやすいが、二人も揃って小柄で、並んでいると印象に残りやすいのかもしれない。
会話はそれっきりのまま、四人で迷宮都市を進んでいった。
デルフィは時折辺りの様子を窺って、あとをつけてくる者がいないか探っている。
兄の方も似たような動きをして、自分たちを追いかけてくる誰かがいないか警戒しているようだった。
「紫」の迷宮の入り口あたりを過ぎて、更に東へ進んでいく。
貸家や売家が並ぶ地域が近くなってきて、デルフィの額には汗が浮かんでいた。
まとっただけの雲の神官衣で、ごまかしきれるとは思えない。
しかし、白地に青いラインの入ったケープは、デルフィとはほど遠いイメージではある。
自分とよく似た体型の神官がいてくれれば、或いは、勘違いしてもらえるかもしれないが。
不安に追い立てられ、楽観に宥められながら、歩き続けていく。
大きなデルフィと小さな兄で、妹と赤ん坊を守りながら進んでいった。
「赤」の迷宮の入り口を過ぎれば、樹木の神殿はもうすぐそこのはずだ。
ここまで襲撃もなく、声をかけられることもなかった。
不安も焦りも心の中に溢れているが、今は、自分を頼ってくれた兄妹を無事に送り届けたい。
一緒に歩いている間に、二人がひどく疲れ果てているのがわかった。
兄も妹も顔は汚れているし、目の下には濃い色の隈が浮き出している。
赤ん坊はひどく小さくて、ほとんど泣かない。弱っているのではないかと思える。
たとえ自分がこの後どうなろうとも、手助けをしたことは後悔しないだろう。
神官になったのは、ジマシュに言われたことがきっかけではあったが、自分にあった道だと思っている。
「もうすぐ着きますよ」
ケープの中へ呼びかけると、妹の神官はにっこりと微笑み、感謝の祈りを口にしていった。
自分も、ギアノからはこんな風に見えたのかもしれない。
いちいち祈りを捧げて、信仰が篤いんだなと言ってくれた。
この記憶が、偽りのはずがない。ギアノはまだこの街のどこかに残っているだろう。
誰かと間違われても怒らず、呆れた顔で笑いながら、自分の名を何度でも伝えているはずだ。
「ああ、樹木の神殿だ」
兄の神官の呟きに、デルフィも心底ほっとしていた。
伝説の探索者であるカッカー・パンラが神官長を務め、大勢の神官が彼のもとに集ったという。樹木の神殿は、迷宮都市の中でも特に信仰の篤い者が多い神殿と言われている。
入り口には立派な神像が建てられていて、力強いまなざしは自分たちを見守ってくれているようだとデルフィは思った。
「ありがとう、ここまでで大丈夫」
「あなたに雲の神の恵みが訪れますように」
兄と妹はよく似た顔に微笑みを浮かべると、汚れたマントを翻して去っていった。
樹木の神殿には入らず、その先へ向かって歩いていく。
安心している場合ではなく、すぐに南へ向かわねばならない。
デルフィはそう考えて振り返ろうとしたが、樹木の神殿から一人出てくる人物がいて、思わず立ちすくんでしまった。
顔は見たことがないから、知らない。
けれど、灰色の髪、灰色の瞳。黒いローブはいかにも魔術師らしい服装で、つまり、今、神殿から出てきた青年こそが「無彩の魔術師」に違いない。
無意識のうちにふらふらと、魔術師のそばへ進んでいく。
自分に近づいてきた不審な神官に気が付いて、魔術師は鋭い目を向けている。
なにもかもを見透かしているような、知性の輝きを秘めた瞳だとデルフィは思った。
きっと、つまらない嘘などつかない。彼は、人を騙したり、陥れたりすることはないだろう。
あまりにもまっすぐに見つめられて、デルフィはなにも言うことができなかった。
けれど、目が離せない。
突然ふらふらと近づいてきた雲の神官になにか感じたのか、魔術師の青年はデルフィへ問いかける。
「なにか用ですか、雲の神官」
ああ、彼が。
デルフィの心の中に納得が満ちていった。
迷宮の中で希望を見失い、もう終わりかと思っていた時に出会ったら。
自分もきっと、彼のあとをついて行ってしまうだろう。
「樹木の神官長なら、今は中にいますよ」
着ているケープの様子から、こんな発言が飛び出したのだろうか。
案外親切なところもあるのだなと考えながら、デルフィは言葉を探していく。
「いえ、あなたに聞きたいことがあります」
「なんでしょう?」
「あなたが、無彩の魔術師ですか」
ニーロはほんの少しだけ眉間に皺を寄せたものの、デルフィにこう答えた。
「どうやら僕をそう呼ぶ人は随分多くなったようですね」
おそらく、自分のことだと思う。
「無彩」と呼ばれる理由を持つ魔術師は、この街には他にいないだろうから。
ニーロの答えに、デルフィは頷き、こみあげてきた涙を堪えながら尋ねた。
「ベリオ・アッジを知っていますか?」
無彩の魔術師の眉間に、また皺が寄る。
けれど答えは、すぐに示された。
「知っていますよ。一緒に探索をしていたことがありました」
なぜそんな質問をされたのか、理由がわからないのだろう。
悲しげに歯を食いしばる神官の様子も、魔術師からは異様に見えるはずだ。
けれどデルフィは構わず、質問を投げかけていった。
「彼はこの街にいましたよね? ……まだ、この街にいますよね?」
勝手に飛び出していった問いにも、魔術師からの答えが示されていく。
「……いました。けれど、今はどうかはわかりません」
「彼は、あなたの『白』の地図を持ち出しました」
「そうですね。そのせいで、揉め事が起きました」
もう解決していますけど、とニーロは呟いている。
「そんなことを聞きに来たのですか?」
それまでとは逆に問いかけられて、デルフィは首を振った。
「……この街で暮らす探索者の行方を、知る方法はないのでしょうか」
「そんなものはありません」
容赦のない返答を放って、無彩の魔術師は目を閉じる。
「あれば誰も苦労はしません」
それは覚悟をしていた誠実さでもあり、期待を裏切る冷酷さでもあった。
鋭い目をした無彩の魔術師の顔には感情の色が見えないが、彼でも、誰かを見失って迷うことがあるのだろうか。
デルフィは考えるが、当然、答えはわからない。
ベリオの行方を知る方法はないのか。
生きているのなら、地道に探していけばいい。
けれど、もしも、失われているのなら?
その確証を得るためには、どうしたらいいのだろう。
「……語れるのは生者だけです」
ニーロは最後にこう呟くと、身を翻して去っていった。
雲の神官の兄妹の姿ももう見えない。
無彩の魔術師の背中もすぐに掻き消えて、樹木の神殿の前に残っているのはデルフィだけだった。
まだなにもわかっていない。
探している人のうち、誰にも会えてはいない。
ドーンがいるかもしれない場所が、わかったような気がしているだけだ。
身を隠しながら、探っていくしかない。
自分の心の中に仲間の記憶を持って、探すほかに道はない。
雲の神官衣の襟元を揃えて、デルフィは歩き出す。
記憶の中から友人の言葉を掘り起こして。
精いっぱいの勇気を奮い起こして。
意を決した神官は力強く歩みだして、街の南側に繋がる路地の向こうに消えていった。




