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12 Gates City  作者: 澤群キョウ
  X7_Days of our Lives

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83 雲の導き(上)

 ぼんやりと座り込んだまま、どれくらい時間が経ってしまったのか。

 考えてみても、さっぱりわからなかった。


 なにもかもがもうわからない。

 

「どうだ、少しは気分がよくなったか?」


 降り注いできた声はひどく優しくて、体中を震えが駆け抜けていく。

 聞きたくないのに、手を離してもらえない。

 壊してほしくないのに何度もハンマーを振り下ろされて、世界は粉々に砕けようとしている。


「外に出るか?」


 神殿に行きたいんじゃないのかな。

 ジマシュの甘い声に、体がまた震えてしまう。

 行っても行かなくても同じだ。左右から押さえつけられ、引きずられて行った神殿で、腕を掴まれたままする祈りになんの意味があるのだろう。


「せめて、食事くらいはしてくれよ」


 けれど、ぐらりと揺れてしまう。

 ジマシュの言葉の方が正しいのかもしれない。自分が過ごしたと信じてきた時間はすべて夢か妄想の類で、真実ではないのかもしれないではないか。


「ごめんなあ、デルフィ。本当にごめん」


 ジマシュの大きな手が、デルフィの骨ばった痩せた手を優しく撫でていく。




 目を覚まして、視界に飛び込んできた天井に見覚えがあって。

 自分がどこにいるのかはっきりわかった瞬間、思わず叫び声をあげていた。

 ジマシュと共に暮らしていた貸家の風景にはなにも変わりはなかった。

 「白」の探索に誘われて、哀れなフィーディーを救う冒険に出て、帰らないと決めた場所だ。

 出ていった時と、なにも変わらない。

 飾り気のない質素な家具を少し並べただけの部屋を、ジマシュはよく面白味がないと笑ったものだった。

 

 面白味は相変わらずなくて、背の高いデルフィの為にベッドだけがやたらと大きいのも同じ。


 目を覚まして声をあげると、部屋の扉が開いた。

 現れたのは「カヌート」で、デルフィは仲間のスカウトにすがりつくようにして問うた。


「どうして」

「なにがだ、デルフィ」

 本当の名で呼ばれて、汗が噴き出していく。

「どうして? カヌート、ダンティンと、ドーンと……」

「なにを言っているんだ。なんだかおかしいな」


 休んでいろと言われて、ベッドに押し返されてしまう。

 カヌートは小柄なのにやたらと力が強くて、デルフィは押された勢いのまま、ベッドに座り込んでいた。


 頭が混乱していく。

 ここはジマシュの借りた家だ。いや、ひょっとしたら違うのかもしれない。

 同じような造りなだけで、違うのかも。

 でも、デントーではなく、デルフィと呼ばれた。

 

 「橙」の二十一層にいたはずなのに。


 頭を抱えるデルフィの前に、再び「カヌート」が現れる。

「カヌート、ダンティンとドーンは」

「ん? なんの話だ」

「『橙』に行っていたでしょう?」

「あんな素人の行く迷宮に、なにをしに行くってんだ」

 目の前のスカウトは「カヌート」の顔をしているのに、まったく別人が話しているように感じられる。

「カヌートですよね?」

「さっきから何を言ってるのかと思ったけど、俺のことなのか?」


 スカウトの男はまじまじとデルフィの顔を見つめてから、自分はそんな名前ではないと笑った。


「どうしたんだデルフィ。ヌエルのことを忘れるなんて、おかしいぞ」


 その声は扉の向こう側から響いた。

 聞き覚えがある。幼い頃からの長い付き合いで、たぶん、人生で最も多く耳にした声の主。


 金色の髪を美しく整えたジマシュが現れて、デルフィは気を失ってしまった。




 あれから目覚めるたびに聞いた話では、デルフィは「黒」での商人たちとの探索でひどく傷ついて、記憶が欠けてしまったらしい。


「すまなかった。お前をそんなに苦しめてしまうなんて」

 ジマシュは悲しげに目を伏せて、デルフィの手を取り、涙までこぼしている。


 あの時一緒に行ったのは、たまたま街で見かけて巻き込んだフェリクスではなく、ヌエルだったという。

 

 そんなはずがない。そんなはずがない。

 何度否定しても、現実はなにも変わらなかった。

 デルフィは「黒」での出来事でショックを受け、ふさぎ込んで、妄想の中に逃げ込んでしまった。

 ヌエルとジマシュの二人でずっと看病してきて、薬がようやく効いたのか、デルフィはやっと「目を覚ました」らしい。


 スープを出されては、飲み干すまで見張られる。

 窓は塞がれていて、ほんの少しの光が差し込むだけ。

 扉は閉じられ、自由に出入りすることはできない。

 ヌエルとジマシュは常に二人でいて、どちらかだけと話すことも難しかった。


「思い出してくれ、デルフィ。俺たちはうまくやってきたじゃないか」

 ジマシュは二人で重ねてきた、迷宮都市での日々について語っていく。

「こんなにも献身的に尽くしてる仲間がいるなんて、デルフィは本当に幸せ者だよ」

 カヌートは笑って、早く元気になれよと言う。


 こんな男ではなかった。

 カヌートは無口で滅多に感情を表に出さない男だった。

 ダンティンに連れてこられて、巻き込まれ、五人で「橙」の底を目指して歩いていたはずなのに。


 記憶ははっきりしている。

 彼らと長い間、西にあるボロ宿で暮らしていた。

 苦労もしたし、呆れるようなこともあったが、充実した日々だった。


「ヌエル」

 ジマシュの姿が見えない、ほんの少しの合間に問いかけていく。

「どうした」

「ダンティンは?」

「誰だい、そりゃ」

「一緒に探索をしていた、図々しくて、壮大な夢を抱いた初心者のダンティンです」


 何度聞いてもカヌートの答えは変わらなかった。


 そんな名前のやつは知らない。

 夢を見ているんだな。

 かわいそうに、デルフィ。


 誰の名前を出しても、ヌエルは知らないと首を振る。

 ダンティンもドーンも、そして、バルジも。


 何日目かわからない、何度目かわからないチャンスがまたやってきて、デルフィはとうとうこう尋ねた。


「ベリオはどこにいるんですか?」


 返事はやはり、変わらなかった。




  

 記憶を否定され続けて、心が大きく揺さぶられるようになっていた。

 あの「黒」に行くまでの記憶までだけが確かで。

 エリシャニーとディオニーの親子を見殺しにして、指輪や馬車を売り払った、悪魔の振る舞いが行われるまでは、同じ。

 それ以降の記憶はすべて偽りで、デルフィの心の中にしか残っていない。


 揺れに揺れて、かけらにひびが入り、今にも割れてしまいそうだった。

 自分が間違っていたのかもしれないという疑念が隙間から入り込み、沈み、貯まっていく。

 ジマシュたちの言う通り、長い長い夢をみていたのかもしれないと、デルフィの記憶を塗り替えようとしている。

 

 外へ出してもらえないわけではない。ただ、二人が心配してぴったりと寄り添ってくるだけだ。

 痩せてしまったデルフィを心配して、付き添いをしてくれているだけ。

 なんてありがたい「友情」なのだろう。

 たまには稼ぎに行かなければ、貸家の代金だっていつか払えなくなってしまうのに。

 二人はなによりもデルフィを優先して、いつでもそばに控えてくれている。


 感謝を強いられるたびに、削られ、すり減っていく。


 なにもかもが闇の中だった。

 今の自分も、過去の記憶も、なにもかもが暗がりの中にあってよく見えない。

 示されているのは、ジマシュと二人で迷宮都市へやってきて、探索を重ねてきた日々があったこと。

 「黒」へ行く前にヌエルと意気投合して、仲間になったという話だけ。


 それが「真実」なのか。


 心が揺れて、胸が苦しい。

 目が霞んで、真実が見えなくなっていく。

 祈りの言葉を呟いてみても、神に届いている気がしない。

 鍛冶の神は、強さを示す神。武器のように己を鍛え、強く生き抜く力を得るよう説いている。

 体とともに、心も鍛えよ。

 ずっと胸に刻んでいた教えが、今はなくなっているように思えた。

 神官として過ごしてこなかったのだから、当然ではないか。

 いや、あれは夢だったのだから、魔術師もどきのような暮らしはしていなかったはずだ。

 それなら、神の声が届いてもいいものなのに。なぜ、感じられないのだろう。


 もうすべて、認めてしまうべきなのか。

 自分の中に深く刺さっている記憶は偽りで、なにもかもがジマシュの言う通りなのだと。


 そうできたら、どれだけ楽になるだろう。

 


 


 悩み苦しんで、夜が明けて。

 窓の隙間から灯りが差し込む頃、ようやく眠りに落ちていく。

 デルフィの日々は苦悩に満ちて、耐えがたい苦痛の壺に落とされ、闇の底で黒く塗り潰されている。


「デルフィ、食事を持って来たぞ」


 一日のうちの何度目の食事なのか、鍛冶の神官にはわからなかった。

 ヌエルの声で目を覚まして、ぼんやりとした視線をスカウトへ向ける。


「かわいそうにな、こんなに痩せて」

「ヌエル、どうして?」

「なんだ、デルフィ」

「どうして誰もいないのですか」


 ヌエルはふむと首を傾げて、目を閉じ、「仲間たち」の名を口に出していく。


「ダンティンと、ドーン、それに、バルジ?」

 はっとして顔をあげたデルフィに、ヌエルは首を振っている。

「何度も言われて覚えちまったよ。俺はカヌートなんだろう?」


 そんな奴らはいないんだ。

 「橙」にも行っていない。


「全部夢だよ。長くて、良くない夢を見ていたんだ」


 そんなことはない。今よりも、あの頃の方がずっと美しい。

 

「故郷に帰るかって、ジマシュが言っていたよ」

「え?」

「懐かしいところに戻れば、少しは気が休まるんじゃないかってさ」


 優しいな、とヌエルは笑っている。

 しかし目の奥に鋭い光が見えて、デルフィは慌てて目を逸らした。


 そんなことをジマシュが言うだろうか。

 なにもない、つまらない、くだらない田舎町だと嫌っていたのに。

 俺はこんなところで終わる気はない。だから、迷宮都市へ行くんだ。

 何度そう聞かされただろう。

 お前も一緒に来いよと言われ、神官としての修行をしておけと命じられ、神殿へ通うようになった。

 ある日、当座の金ができたからと、二人で故郷を捨てるように飛び出した。

 あの町へ、ジマシュが帰るなどと言うだろうか?


 それとも、デルフィの為に?

 これまでのすべてを反省して、信念を捻じ曲げて。 

 友人の為に、どんな言葉にも耐えようと決めてくれたのだとしたら?




 食べ終わるまで見ているからと言われて、デルフィは匙を手に取り、のろのろとスープを口に運んでいった。

 スープは食べやすくするためなのか冷ましてあって、あまりおいしいとは思えない。


 ぬるいスープのおかげで、ふと、ギアノのことを思い出していた。

 「橙」のことばかり気にしていたが、同じ部屋で暮らしていた彼について、どうして今まで忘れていたのだろう。


 彼の作ってくれた食事の温かさ、おいしさを分かち合ったのはベリオだけだ。

 カヌートは、ギアノの存在自体は知っているだろう。隣の部屋に泊まっていたのだから、何度も顔を合わせていると思う。


 ギアノのことを聞くべきなのか考えながら、デルフィは手を動かしていく。

 

 記憶の真偽がすべて不確かになって混乱しているが、疑問に思っていることもあった。


 あの五人での探索は嘘なのに、カヌートだけはここにいる。


 何故なのか。


 いや、本当はわかっている。考えたくなかっただけ。正面から見つめて、いつか認めてしまうのが恐ろしかっただけだ。

 カヌートが最初から、出会ったところから、ジマシュの指示を受けていたのだと。


 そう認めた後に繋がっていくのは、「他の仲間たちがどうなってしまったのか」。

 彼らの「今」について考えなければならない。

 ジマシュがヌエルを利用して、カヌートとして五人組に入らせたのだとしたら。

 なんのために? 自分を、戻らせるためだ。

 そのために、他の三人は? そんなの、決まっている。「黒」の時と同じだ。利用する。利用するだけして、終わったら、なにもなかったような顔をする。


 あの時と。


 同じように。


 したのだとしたら?



 手の震えを必死で隠しながら、涙を堪えた。

 スープを飲むふりをしながら、最悪の想像に耐えている。

 やりかねないのだ、ジマシュならば。彼に優しさがある? そんな馬鹿な。絶対にありえない。信念を曲げるなんて、いくらなんでも幻想が過ぎる。

 けれど、ヌエルにそこまで付き従う理由があるのか?

 わからない。これだけが、疑惑を確信に変えない唯一の護りになっている。


 彼らの誰も、失われていてほしくない。

 ダンティンには街の西側で大騒ぎをして顰蹙を買っていてほしいし、ドーンには良いスカウトになれるよう、訓練を続けていてほしい。できることならば、二人で剣の稽古をしていてほしい。

 そして、ベリオには。

 

 二人がやりあう様子を、呆れたような顔で、でも、少しだけ笑いながら、見ていてほしかった。


「もう、充分です」

「なんだ? あんまり食べたように見えないけど」

「昨日はよく眠れなくて。今、すごく眠たいんです」


 ヌエルが止めてきたが、デルフィはベッドへ向かって歩いていき、ばったりとうつ伏せで倒れこんだ。

 もうちょっと飲めと何度か言われたが、諦めたようで、扉の向こうへ去っていく。

 鍵をかけた音が聞こえる。

 ぼそぼそと話す声も、かすかに。


 首からさげていた神官のしるしを手にとって、うつ伏せのまま祈った。

 どうか、立ち上がる力を。

 この暗い淵から抜け出すための勇気を与えてください。

 しるしを強く握りしめ、服の中に入れようと起き上がる。


 鍛冶の神官のしるしを握りしめて、デルフィはようやく気が付いていた。

 これは自分のものではないと。

 神官の道を志した時に授けられたものとは違う。同じくらい古びているが、端についていた小さな小さな傷が見当たらない。


 本当に些細な傷だった。

 しるしをもらった日に、父が見たがって、その時にうっかり落とされてできたものだ。

 どんなに指でなぞっていっても、傷には当たらない。

 部屋は薄暗くてよく見えないが、指先が覚えている感触が見つからなかった。

 

 自分のものはどこへ行ったのか?

 あれは、袋の底に入れていた。

 探索の時には、あの袋は宿に残したままにしている。

 幸運の葉っぱの、古びたベッドの下に置いてきた。


 かすかな糸口を見つけ、デルフィは夢中で手繰り寄せていく。

 顔をあげて、板の打ち付けられた窓を見つめた。

 板の間には僅かながら隙間があって、うっすらと外が見えている。


 窓に近づくと、外は暗いようだった。夜なのだろうか、とデルフィは考える。

 迷宮都市ではあまり雨は降らない。厚く黒い雲など、見たことはない。

 故郷はよく雨の降るところで、ぱらぱらと落ちる雫でよく濡れながら歩いたものだった。

 あの時の匂いもしない。暗い雲が運んでくる香りはない。小さな隙間に顔を近づけて、隣の家から漏れる灯りに目を凝らす。


 誰かの声が聞こえてくる。

 隣の家に住んでいるのは、一体誰なのだろう。

 今日の探索がうまくいったのか、それとも、その逆で喧嘩でも起きているのだろうか。

 何人かでわあわあと騒ぐ声がしていて、涙が溢れてきそうだった。


 まったく、お前は本当に気が弱いんだな。


 相棒の声が聞こえたような気がして、歯を食いしばる。

 ここから、なんとかして出なければならない。

 窓に打ち付けられた板をはがせないだろうか?

 残念ながら、うすっぺらい体のデルフィに、力尽くという選択肢はない。

 炎の魔術を使えば木は燃やせるだろうが、時間がかる。思い切り破壊をすれば、二人に気付かれてしまうだろう。火事になって近隣を巻き込むのも嫌だった。


 扉の先は、すぐに大きな部屋に繋がっている。二人のうちどちらかは、必ずそこにいるだろう。

 鍵をかけ、窓を塞いでいるのは、デルフィを逃がさないためだ。

 なんとしてでも捕まえてやると思ったから、ヌエルを送り込み、時間をかけて信頼させるように仕組んだ。

 ジマシュはなんと恐ろしい男なのだろう。

 いや、そんなことはもう既に知っていた。

 幼い頃から気が付いていたし、周囲の大人から警告も受けていたのに。

 そんなに悪い人間がいるわけがない。幼い頃から一緒に過ごして来た大切な友人なのだからと言い訳をして、自分を包もうとする闇を見ないようにしてきたのはデルフィ自身だ。


 ダンティン、ドーン、そしてベリオ。

 三人を巻き込んでしまっていたら、どう償えばいいのか。


 不安が足を掬おうとして、デルフィは震える。

 その震えを、足を踏みしめて潰してやる。


 今こそ、頭を振って、闇を払っていかねばならなかった。

 もしも過ちを犯したのならば、もう同じ失敗をしないように。

 誰かに不幸をもたらしてしまったのなら、違う誰かに幸運を分け与えるように。

 散々世話になった雲の神官の言葉を思い出し、力に変えていく。


 再び、塞がれた窓と向かい合う。

 大きな声で呼びかけて、隣の住人に気づいてはもらえないだろうか?

 隣の住人の前に、ジマシュたちに聞こえてしまう。それでは駄目だ。

 この窓のすぐそばを、誰かが通りかからない限り難しい。

 そもそも、助けを求めたとして、信じてもらえるか、協力してもらえるか、万事うまくいって逃げ出せるかどうか?


 また逃げようとしていると気が付いたら、二人はデルフィにどんな罰を与えるだろう。

 いや、駄目だ。余計なことを考えては。ここから出る方法を探して、ひっそりと二人から離れなければならない。


 部屋には二つの窓があったが、どちらも同じように、小さな隙間以外は厚い板で塞がれている。

 破る方法がない。今すぐ、なんとかする方法はない。時間をかければひょっとしたらと思うが、部屋に起きた変化に二人は敏感に気づくだろう。

 

 今すぐ、一瞬で、外へ出られないのか。


 窓を塞ぐ板を掴んだまま、デルフィはうなだれている。

 迷宮からは出られるのに、ただの家からは出られないなんて。

 熟練の魔術師ならば、そんな秘術を知っているのだろうか。

 たとえば、ベリオが共に歩んでいたという、無彩の魔術師なら?


 窓に額をつけて、デルフィはまたうなだれる。

 やはり、間違いない。自分の記憶は間違いではない。

 鍛冶の神殿にこもって、自分を見つめなおした後、ベリオがやってきて「白」に付き合った。

 フィーディーが姿を消し、無彩の魔術師の地図が奪われ、二人きりになって落とし穴に飛び込んで。

 生き返りの奇跡の力が宿ったが、フィーディーは無事に暮らしているのだろうか。

 ひどい怪我をしていて、傷を塞ぐのに随分時間がかかった。

 あの力を、「紫」で倒れた回収屋のために使ってやれば良かったのに。

 墓地に埋められようとしていた二人は、どうしただろう。

 目が覚めた時にはいなくなっていた。穴掘り人たちも、知らないと話していた。

 生きてくれていればいい。エリシャニーとディオニーの命が失われた分、あの二人を救えたのだと思いたい。


 ダンティンと出会って、二人のスカウトが連れてこられて。


 ベリオとの日々は、ジマシュに比べれば短いが、濃密で学びの多いものだったと思う。

 気の弱い自分のかわりに、憎まれ役を買って出てくれた。

 そっけない態度をとったり、利益にならないものには厳しかったが、人が好いところもあって。

 無彩の魔術師と一緒にいれば、もっと楽に暮らしていけただろうに。

 自分の力で歩いて行きたくて、必死になってもがいていた。


 そういえば、最近ではすっかり、「前の相棒」の話を、しなくなっていたのではないか?

 


「デルフィが戻れるのは帰還者の門だけか?」


 記憶と思考の海を必死になって泳いでいるデルフィの脳裏に、ベリオの声が浮かび上がってくる。


「前の相棒は好きな場所に戻っていたぜ」


 脱出の魔術をどの程度操れるのか聞かれた時のこと。

 回収業者たちと組んで、一度行ってみようと話していて、こう聞かれた。


 脱出の魔術は、迷宮から一瞬で外へ出られる奇跡の業だ。

 この魔術を使いたいのならば、迷宮の入り口から見て、自分がどれくらいの深さにいて、どれくらい離れていて、どちらを向いているのか、できる限り把握しておくべきだと言われた。


 そんな馬鹿な、と最初は思ったものだった。 

 実際には、帰還者の門のイメージがはっきりしていれば、そこへ引き寄せられるのだとわかったが、自分にはできないのではないかと最初は考えていた。


 位置関係がはっきりとわかれば、脱出先を自由に設定できるようになるのだろうか。

 無彩の魔術師は実際にやっている。大量の荷物、大勢の探索者を抱え、自分たちにとって便利な場所へ一瞬で移動する。


 魔術の力でここから出られないのだろうか?


 街中ではあまり、魔術を使わないのがルールになっている。

 私塾で学んだ時に最初に叩きこまれるのは、無暗に力を使うなという決まりだ。

 だから脱出の魔術を、街中で使おうなどと思ったことがなかった。


 どうなのだろう。

 この家から出て、どこか、自分にとって都合のいい場所へ、飛び出していけるだろうか。


 今いるのは、長い間暮らして来たジマシュの用意した貸家だ。

 迷宮都市の東側、シルサージ通りの中にある。場所は、はっきりとわかる。


 ふいに背後から足音が聞こえてきて、デルフィは慌ててベッドに倒れこんだ。

 静かな足音だが、ヌエルよりも少し大きい。

 スカウトの歩く音はほとんどしない。ジマシュも少し心得があって、いつの間にかそばにいることがよくあった。


「デルフィ、ちゃんと食べなかったんだって?」


 大きな手が、背中を撫でていくのがわかった。

 うつ伏せに倒れこんだまま、目を閉じ、ただひたすらに耐えていく。


 本当に眠っているのか、確認しにきたのだろうか。

 あのぬるいスープをどうしてもすべて飲ませなければ気が済まないのか。


「髭が伸びてきたから、明日剃ってやろう。お前は本当に髭が似合わないからな」


 デルフィの背中と足をしばらく撫でると、ジマシュは部屋から出ていったようだった。

 遠ざかる足音と扉の閉まる音がしてそう判断しているが、本当に出ていったのかどうかはわからない。

 そこにまだ、いるのかもしれない。


 寝返りをうつふりをして、視線を動かして。


 うっすらと開けた目で確認して、ようやく部屋に誰もいないことがわかる。


 このまま、ベッドに横たわったまま、試してみるべきだ。

 脱出の魔術が、ただ場所を転移するためだけに使えるのかどうかはわからない。

 けれど、ここにいたら死んでしまう。

 体は命を保ったとしても、魂が耐えられない。

 このままではもう、すぐに粉々に砕けてしまうだろうから。


 またジマシュの仲間に戻るよりも、失敗して死んだ方がまだ良いとデルフィは思う。


「我らの護り手たる、父なる鍛冶の神よ」


 御名を称え、祈りの言葉を紡いでいく。

 瞼の裏に神像を想い描きながら、勇気を奮い起こしていく。


 今よりは死んだ方がましかもしれない。けれど、生きる道を選びたい。

 ベリオたちの行方を知りたい。

 そう、必ず生きて、確かめなければ。

 ベリオたちと共に生きた日が本当にあったのだと、魂に刻みつけなくてはならない。


 向かう先をどこにするべきか、考えていく。

 慣れた場所がいい。

 どこか広くて、その場所をよく知っているところ。

 このひょろ長い体が突然降ってきても平気な、開けたところが良い。

 幸運の葉っぱでは狭すぎる。では、雲の神殿か、それともコルディの青空か。

 どこもはっきりと位置はわかる。ここからどう道を進んでいけばたどり着けるかは、わかっている。


 けれど、この貸家から歩いたことはなく、不安がよぎった。

 通常とは違う使い方をして、魔術はデルフィを間違いなく運んでくれるのだろうか?


 建物の中では、難しいかもしれない。間違えて近くの別の建物の中に出てしまうかもしれない。

 もっと広くて、誰もいなくて、よく知っているところはないのか?


 記憶を何度も巻き戻し、早送りにして、やっと気が付いた。

 あるじゃないかと確信して、デルフィは脱出の魔術のための文言を口の中で呟いていく。


 目指すは西の果て。街から出た少し先、脱落者たちが身を寄せ合って暮らしている場所だ。

 五人で何度も、剣の稽古をしたところ。


 体の下で組んだ手の中に、光が集まってくる。

 外に漏らさないよう、ぐっと身を縮め、心をすべて、西の果てに向けて。


 頭の中がぐるぐると激しく揺れ、思わず叫んでしまう。



 慌てて口を抑えたデルフィの目の前には、朝日に照らされる広野が広がっていた。


 

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