82 世界
午後のおやつを終えた後、家に戻って神官衣へ着替え、再び神殿へ。
当番でもないのに居座って、日が暮れてから仲間の家へと向かう。
扉を叩くとすぐにニーロが出てきたし、二人とも体調はもとに戻ったと話した。
「これを返すのを忘れていた。ありがとう」
借りたポーチの中には、保存食が三食分に、傷薬、解毒薬、小型のナイフが一振り。
ここまでは探索者の基本的なセットだが、無彩の魔術師は「帰還の術符」も一枚入れてくれていた。
手ぶらで迷宮に行くなんて馬鹿げている。
どんな熟練者であっても、備えは必要だ。散々説いてきた立場なのに、ふらふらとなんの準備もなく「紫」に入っていくなんて。
キーファンがどこでどう話を聞いたのかわからないが、心配して当然だろう。
隙のないポーチは持ち主の手に戻って、魔術師は大切な術符をしまうと、こう話した。
「まんまと『あれ』が出ましたね」
ニーロの言う通りで、運が良かったとキーレイも思う。
「白いものが見えたと言っていたが、覚えているか」
「覚えています。ですが、よくわかりません」
魔術師は、「目が霞んだようだった」と話した。
「幻を見せられたというより、よく見えなかったような感覚でした」
「確かに、いつもよりぼんやりしていたな」
「視覚だけではなく、すべての感覚が鈍っていたのだと思います」
では、自分と同じものを見たのだろうか。
薄い薄い紫色だったと思う。ぼやけていれば、白だと認識してしまうかもしれない。
「ウィルフレドは、幼い少年を見たと言っていましたが。覚えていますか」
「なんとなくですが」
「誰だと思いましたか?」
問いかけてから、キーレイははっとしてこう付け加えた。
「あなたが嫌なら、答えなくて結構です」
「嫌ではありませんよ。はっきりとは見えませんでしたが」
幼馴染だったように思った、と戦士は続けた。
幼い頃よく一緒に遊んだ少年で、ある日、遊びに出かけたきり、帰ってこなかったのだと。
「近くの川で溺れたとかで、結局見つかりませんでした」
「そうでしたか」
水の中では息ができないし、前だってよく見えないし。
迷宮の中とは違って、激しく流れているところがあると聞いている。
ウィルフレドの友人の魂に祈りを捧げて、キーレイは考えた。
「いとおしい」相手ではなさそうではないか。
それでは、なんだろう? その人間にとって、大切な誰かが見えるようなのに。
「『会いたい』人なのかもしれませんね」
キーレイの考えに、ウィルフレドが一つの可能性を示してくれた。
「その幼馴染に、会いたいと思っているのですか」
「そうなのかもしれません」
普段は忘れていても、心の中には残っているのでしょう。
戦士の呟きには寂しげな陰が落ちていて、これ以上話すことはないようだ。
「キーレイ殿はなにを見たのですか?」
自分の見た得体の知れないなにかについて、キーレイは記憶を掘り起こしながら説明していった。
とはいえ、じっくりと見たわけではない。迷宮の中には靄もかかっていたので、すべてについて断言することができなくて、二人にはあまり伝わらなかったようだ。
「浮いていた?」
「浮いていたと思う。足があるようには見えなかった」
薄い紫色で、横に大きく広がっているような形状で、真ん中には剣のようなものがあった、ような。
「しかし、本当の姿かどうかはわからない。私は『あれ』を見せられたのかもしれないし」
「では、『会いたい』誰かではないのでしょうか」
ニーロに言われて、考えこんでしまう。
昔は母に見えたのに。大勢に少女のように見えているのに。
「またいつか、見つけにいくしかないのかな」
どうすれば出現するのか、パターンが決まっていればいいのに。
だが「あれ」は危険なもので、今日だってキーレイが頭でも打っていたら、全員命を落としていた可能性がある。
ニーロもぎりぎりのところで正気を保っていたわけで、腰のポーチに術符を入れてもらっていたが、気が付かなければやはりロクでもない結果になっていただろう。
「今日は無謀な調査に付き合わせてしまって、すまなかった」
「確かに、備えはもう少しあった方が良さそうですね」
熟練の業者に協力でも頼んでみてはどうかとニーロが提案してきて、果たして聞き入れてくれる者がいるかどうかとキーレイは悩む。
魔術師が次に向かいたいのは「紫」ではなく、やはり「白」か「黒」のようだ。
最下層へ向かうべく、スカウト探しを続けているらしい。
「見つかったら、また同行をお願いします」
仲間の家への訪問は、これで終わった。
今日の「紫」探索について、キーレイは深く反省をしながら歩いていた。
用意のない迷宮入りなど、一番してはいけないものなのに。
それでも二人が付き合ってくれたのはなぜなのだろう。
いつもと様子が違うように見えて、気を遣われてしまったのだろうか。
申し訳ないし、情けないし、自分の未熟さが嫌になってしまう。
再び元気を失った神官長が神殿へ戻ると、夜も遅いのに一番前の席に座っている誰かがいた。
探索者の格好はしていないので、癒し目的の者とは思えない。
なんの用事か問いかけようと前に進んでいくと、長椅子に座ってうなだれていたのはギアノだった。
「どうしたんだい、こんな時間に」
ただ祈っているようには見えず、キーレイは問いかける。
ギアノはぱっと身を起こすと、現れた神官長に小さく笑って答えた。
「ちょっと」
更に前に進んで、隣に座る。
すると青年はまた、口を開いた。
「アルテロたちが戻って来なくて」
アルテロとカラン、ヨンケの三人で連れ立って、「橙」へ行ったきり戻ってこないとギアノは話した。
まだ屋敷に来たばかりの、「ど」をつけていいほどの初心者たちの名前だ。
これまでは少し経験を積んだ先輩に連れられて探索に行っていたが、自分たちだけで試そうと言って、昨日の朝元気よく出ていったらしい。
ギアノはため息をひとつつくと、神像を見つめた。
「夜明かしなんてしないと思うんだけど」
彼ら程度の実力なら、そうだろうとキーレイも思う。
ひょっとしたら中で頼れる探索者に出会って、導いてもらっているかもしれない。
それともとんでもなく嫌な目にあって、そのまま故郷に逃げ帰ってしまったか。
本人が姿を現す以外に、生きていると証明できない。
迷宮都市で一番苦しいのは仲間を失ってしまうことだが、行方不明のまま生死すらわからないのも、探索者の心を大きく削る嫌な出来事だった。
「キーレイさん」
「なんだい」
「街の中で喧嘩をしたらいけないって聞いたけど、実際に喧嘩した場合、どうなるんですか」
街中で喧嘩をしてもいいことはない。
怪我をしても癒してもらえないし、派手にやると店から出入り禁止にされてしまう。
「誰かを巻き込んだり、店や商品を壊したりすると、用心棒が出てくるよ」
「それで、ボコボコにされる?」
「喧嘩をすると謹慎させられるなんて話が出回っているようだけど、そうではなくてね。用心棒が出てくるような事態になったら、みんな探索にいけない状態にされてしまうんだよ」
小さな店でも、共同で雇っている大男が必ずいる。
彼らから逃げることは難しい。よほどうまく立ち回って街の外に出られれば、暴力からは逃れられるだろう。
「この街にやってくるのは善人ばかりではないからね。暮らしを守るために、こんな決まりができたんだろう」
優しい店主たちは、盗人が殴られるたびに心を痛めているが、街の決め事から勝手に抜けることは許されていない。
盗みをしても咎められない場所はきっと、カッカーの屋敷だけだろうと思う。
初心者の手助けをしてくれるカッカーやヴァージの厚意が、青年たちを過ちの淵に落とさないよう守ってくれている。
「喧嘩をしちゃったんだけど、用心棒が出てこなかったのなら平気なのかな」
「そうだろうと思うよ。でも、意外だな。君は喧嘩なんてしそうにないのに」
誰と、何故争ったのか問われて、ギアノは照れ臭そうに頭を掻いている。
「北東で安い宿を見つけて、同じ宿にいた連中と話して、一緒に食事でもしようって話になって。それで西にある安い食堂に行ったんです。かまどの神殿のすぐそばの店で、初心者がいっぱいくるようなところなんだけど」
料理を頼んで待っていたら、真後ろのテーブルを囲んでいる連中の話が耳に入って来たとギアノは話した。
そのうちの一人、ちょうど背中合わせに座っている男は、次は難しい迷宮に行こう、最下層まで行ってやろうと騒いでいたという。
「テーブルを囲んでいる他の四人は、そいつに好きなだけしゃべらせては笑ってて、趣味が悪いなって思った」
やる気なんだな、マッデンは。
そんなのできるわけないだろう、お調子者のマッデン。
「小馬鹿にされているのに、当のマッデンはどこ吹く風で、臆病だなと笑ってて」
背後のテーブルに料理が運ばれてきて、会話は途切れた。
そのタイミングでギアノは振り返り、マッデンへ声をかけた。
「置き去りにした幼馴染の名前を聞いてて。それで、マティルデを知っているか声をかけたんだ」
「本人だったんだね」
「そうです。最初は、どうしてマティルデの名前が出てくるのかわからなくて混乱しているみたいだった。俺のことを他の誰かと間違えて、探しに来たのかとか、ああだこうだ言ってたけど。でも、やっと気が付いたみたいで、こう返して来たんです」
まさか、マティルデは生きているのか?
「あんなに怖い目に遭ったマティルデを見捨てて逃げて、のんきに暮らしていたんだと思ったら、腹が立っちゃって」
「そうだったのか」
「慣れてないから、殴った手が痛いのなんの。店主には怒られて追い出されるし、一緒に食事に来た連中の目も冷たいし。どうしようかなと思っていたら、ニーロとウィルフレドさんがこっちを見てました」
揃って水に濡れた只者ではなさそうな二人組。
一人は店に客として来ていた魔術師だし、もう一人も少し前に神殿で会った戦士だった。
「ニーロから、喧嘩をした人間は探索にしばらくいけないって言われたんだけど、嘘だったのかな?」
「仲間がいると、どうしても敬遠されるようになるからね。状況によっては、嘘ではないかもしれないけど」
でも、絶対でもない。キーレイの話に、ギアノは「騙されちゃったか」と呟いている。
「ニーロはちゃんと食事をしないんだ。変わり者の魔術師に拾われて、育てられてね。十歳になってこの街に連れてこられるまで、他の人間を見たことがなかったというんだよ」
「そんなこと、あるんですか」
「ああ。けれどニーロは君の出す料理を気に入ったようだし、働きぶりに随分感心したようでね。どうしても来てほしいと思ったのかもしれない」
ギアノは腕組みをして、へえ、と呟いている。
「不思議な縁があった……のかな。船の神のお導きってやつなのかも」
この青年に声をかける理由はいくつかあったが、もう一つ。
気になっていたことがあって、キーレイはギアノに問いかけていった。
「仲間を失ったばかりだと聞いたけど」
「ああ、ははは。そうなんです。でも、仲間といっていいのかな。仲間になってほしくて、用事が済むのを待っていた二人組がいたんです」
「橙」の迷宮で見かけた、不思議な五人組に興味が湧いて、話しかけたこと。
戦士と神官の二人と、スカウトと、初心者らしき二人とで最下層を目指しているとわかったこと。
自分も入れてほしいと頼み、仲を深めたこと。
最下層にたどり着いてから、改めて一緒にやっていこうと話したこと。
ギアノは経緯を丁寧に話して、深くため息をついている。
「でも『橙』に行ったきり、戻ってこなかった。宿代を先払いした日数が過ぎて、宿の親父がサービスで三日待ってくれて、それでも帰ってこなくて」
それから数日が過ぎて、宿の建て直しの話をされた。
荷物は処分するが、なにか約束があるのなら、引き受けてくれないかと頼まれたとギアノは話した。
「神官のしるしが入っていたんで、それを預かったんだけど。もう一人の荷物にはロクなものが入ってなくて」
小さくなった若者の背中に、キーレイは手を添えていく。
するとギアノの体は小さく震えて、涙をこらえているのがわかった。
「こんなことでいちいち悲しんでいたら、探索なんてやっていけないんですよね」
「そんな風に考えなくていいんだよ、ギアノ。迷宮都市には別れが溢れているから、みんな慣れていくしかなくて、そんな風に言うけれど。でも、誰かが帰ってこなくて、命が失われたのかもしれないと考えた時、悲しいのは当然じゃないかな」
誰も、悲しくないわけではない。
キーレイの言葉にギアノは何度も頷き、寂しげな顔をして話した。
「二人が戻ってこなかったからなんだ。マッデンにすごく腹が立ったのは、マティルデを置き去りにしたこともあるけど、簡単に最下層に行くなんて大声で話して、ヘラヘラ笑っていたから」
それで、許せない気持ちになってしまった。
素直な心情の吐露に、キーレイはただ、背中を叩いてやるくらいしかできない。
「仕方ないってわかっていても、辛いもんですね」
「そうだよ。迷宮を恐れて探索を諦める者は多いけれど、それと同じくらい、誰かを失ったショックに耐えられない者もたくさんいるんだ」
「アルテロたちがもう帰ってこないのかと思ったら、すごく悲しくなってきて」
それで今、神殿へやって来たんだとギアノは話した。
普段はあまり熱心に祈ったりしないけど、それでも来て、無事に戻してほしいと頼みに来たのだと。
「樹木の神様なんて全然気にしたことなかったんだけど。そういう奴のお願いは聞いてくれないのかな」
「そんなことはないよ。神は皆を平等に扱うものだ」
信仰のある者を助けるとは限らないし、祈りを知らない者でも助けることがある。
人間はみんな、ひとつの命として同等に扱われている。
すべては船の神の決めた運命の通りに。
神官たちの一部が逆らって、時々命を呼び戻すことに目を瞑りながら、人間たちを見守っている。
「アルテロたちがどうなったのかわからないのは辛いことだ。でも、明日の朝ひょっこり帰ってくるかもしれないし。どこか別の街に流れて、自分に見合った仕事を見つけているかもしれない」
死んだとも、生きているとも決めつけてはいけないよ。
キーレイが話すと、ギアノは頷いて、小さく息を吐いた。
「キーレイさんにも、いるんですよね。行方がわからなくなった人」
「ああ、いるよ。父の店で働いてくれていた従業員にも、屋敷で暮らしていた探索者たちにも、誰かの助けになりたいと願って迷宮へ入っていった神官にも、どんな運命を辿ったのかわからない者がいる」
みんな生きていてくれればいいと思うが、そうはいかないとわかっている。
迷宮に挑んで生き残り続けられるのは幸せなことだが、その分、たくさんの終わりを見届けなければならない。
「屋敷の管理は、家事をこなすことだけじゃない。誰にどの部屋を貸し出すのか割り振って、ちゃんと片づけるように注意するだけの仕事じゃない。みんな迷宮の話をどこかで聞いて、この街へやってきて、命を賭けた無謀な旅に出かけていく。彼らは、帰ってくるとは限らないんだ」
カッカーが自分の屋敷を初心者に開放しているのは、彼らが無事に帰ってくる可能性を高めるためだ。
迷宮で生き抜く技術や知識を身に着けられるよう、手を差し伸べている。
そこまでしても、「橙」ごときで傷を負い、死んでしまって、迷宮の中で音もなく消えてしまう。
帰りを待っていても、いつまで経っても姿を現さない。
みんな希望ばかり抱いてやって来るのに、ベッドを整える者は、悲しみを堪えて手を動かしている。
「こんな仕事とは思わなかっただろう。ニーロが君を騙すような言い方をしてしまって、申し訳なかったと思っている」
「キーレイさんが謝ることではないでしょう?」
「いや、私は君が来てくれて良かったと思っているんだ。できれば、ずっといてくれればいいと願っているくらいでね」
「どうしてですか」
まずは、料理がうまい。気づきにくいところまでしっかり片づけをしてくれる。
若者たちの洗濯物は溜まらなくなったし、掃除も行き届いて、どこになにがあるのかすぐにわかるようになった。
「それに、まだ来たばかりなのに、みんなに慕われているように見える。君と話すのが心地いいんじゃないかと思うよ」
「そうかな」
「あの屋敷の持ち主はカッカー様で、しっかり管理してくれているけど、それはカッカー様が伝説の探索者で、人情家だと知られているからだ。みんなカッカー様と向かいあう時には緊張していて、ちゃんとしなければと思っているだろう。カッカー様は人望であの屋敷を管理していた」
「確かに、俺も初めて会った時には緊張したな」
「ヴァージはほら、とても美しいだろう。魅力的な女性だから、みんな彼女に好かれたい。嫌われたくなくて、ちゃんとしてしまうんだと思う。まあ、時には叱られたいと思う者もいるようだけどね」
「はは、わかります」
ヴァージはその魅力で、屋敷を管理していた。
だが二人はこの街を去ってしまう。小さな命を守るために、長く過ごした屋敷を離れることがもう決まっている。
「我々は二人の代わりをできる人を探していてね。私は、ギアノならやれると思っている。君はいつも軽やかで、話していてとても気持ちが楽になる。怒っている誰かがいても、君と話していれば落ち着きを取り戻して、いつの間にか仲良くなってしまうんじゃないのかな」
「随分買ってくれるんですね」
「ニーロが誉めるなんて、滅多にないことだ。ティーオたちを随分感心させたようだし、あれほど男性を怖がっているマティルデが、君だけは大丈夫なんだろう?」
「いや……、参るな」
マティルデの話が出ると、ギアノの顔が赤く染まっていった。
あんなに愛らしい女の子に慕われているのだから、こんな反応になるのも当然だろう。
「なんでもできる君のことを、みんな信頼するだろう。正直、鍛えたらどれほどの探索者になれるだろうと思っているよ。けれど、探索者ではない道も見つめてほしいと願っている。この街には山のように若者がやってくるけれど、ギアノ、君ほどできる者は滅多にいない。探索ではない特技をこれほど持っていて、人を想う優しさもあって。君の待つ屋敷になら、みんな帰りたくなると思うんだ」
キーレイがまっすぐに見つめたままこう話すと、ギアノは戸惑ったような表情を浮かべた。
青年は少し迷ったそぶりを見せたが、しばらくすると小さな声で語り始めた。
「俺は、九人もいる姉弟の一番下なんです。赤ん坊の頃は世話してもらってたんだろうけど、四歳くらいからかな。きょうだいが次々に結婚していって、みんなすぐに子供ができて、甥っ子だの姪っ子だのがいっぱい現れちゃって。うちは家族みんなが集まるのが当然の家で、結婚相手も子供たちも連れて全員でやってきて、親父が大きな鍋で作った食事を囲むんです」
毎日大勢でやってきて、小さな子供たちの世話はみんなギアノに任されたという。
「これでお前もお兄ちゃんだって言われて。みんな壊すし、汚すし、こぼすし、泣くし。人数が増えたら喧嘩するようになったし。赤ん坊は母親が見るもんだと思ってたのに、成長したらよちよちの連中も預けられるようになっちゃって」
それだけでも大変なのに、家庭での仕事も経営する食堂の手伝いも頼まれ、猟師の叔父さんにも呼ばれ、食材を得るために、海に入って魚も獲って。
用事が終わればすぐに「ちょっと手伝って」と呼ばれる日々を送ってきた。
「それは大変だ」
「そうなんです。だけどそれが俺にとっては当たり前だった。みんなお互いに手伝いあうのが当然って家だったからなんですけどね。俺は一番下で小さいけど、同じきょうだいだから。どんな用事でも頭数に入れられていて」
年はあまり変わらないのに、甥っ子や姪っ子にはそこまでの仕事は任されなかった。
ギアノは愚痴をこぼしているが、キーレイはおおいに感心している。
「やっぱり、君が来てくれて良かったな」
「はは、そうかも。街を出たお陰で、あの暮らしから解放されたわけだし」
「私は感心しているんだよ、ギアノ。小さい頃から随分無茶をさせられていたのだろうけど、結局、君はそれを全部こなせていたんだろう?」
普通ならそんなことはできない。もちろん、性格や向き不向きなどもあるだろうが。
屋敷に滞在している大勢の若者の中に、ギアノほどやれる者はいないだろうとキーレイは思う。
「君の家は今、困っているんじゃないのかな?」
「そうかな。俺がいなければいないで、どうにでもなるだろうって思います。人数は充分足りているだろうし」
確かに、なんとかはなるだろう。
ニーロが言っていた、西にある魚を出す食堂のように。
「君は素晴らしいよ、ギアノ。評価されるのはこれからだ。探索者には誰でもなれる。けれど、誰もギアノにはなれないだろうと私は思う」
ギアノは驚いたようで、目を大きく丸く開いて、キーレイを凝視している。
「すまないね、探索者になりに来たのに。こんな風に言われるのは不本意かな?」
「いや、そんな馬鹿な。こんなに誉められたのは初めてで」
「そうかい? 食堂で働いている間、感心されていたんじゃないのかな」
「確かに、少しくらいは。でも、社交辞令ってやつだと思ってた」
本当に珍しいとキーレイは思った。
ギアノのように自分の出自について隠すことなく語れる者は、ほとんどいない。
大抵が夢ばかり大きくて、田舎のなにもない暮らしから抜け出したいだけだから。
その程度の話題しか持ち合わせていない青年たちは、自分の過去について語りたがらない。
もったいぶって、自分を大きく見せようとして、中途半端にしか話さない。
ギアノは見栄をはったり、嘘をついたりはしない。
さっぱりとした性格の人間だと、話していればすぐにわかる。
仕事ぶりの良さと合わせて、これからきっと大勢の信頼を得ていくことだろう。
「さっきのキーレイさんの言葉、信じてもいいですか」
「もちろんだ。私はもう二十八年もこの街で暮らしているが、君ほどこの街にいてほしいと思う者に出会ったことはないよ」
迷宮都市を作り上げているのは、探索者だけではない。
帰る場所や、日々の食事、清潔な環境などなど、暮らしを守る役割を負う者の中にも、優秀な誰かがいてほしい。
「屋敷のことがなければ、うちに来てくれと頼んだと思う」
「はは、キーレイさん、俺のことだいぶ好きになりましたね」
「ああ。もちろん、すぐに決めなくていい。君の人生は君だけのものだから、どんな選択をしてもギアノ、君の自由だよ」
「あんなに褒められちゃったら、断りにくいな」
しばらく屋敷で働きながら、考えてみる。
ギアノは微笑んで、立ち上がり、神像の前に進んだ。
「アルテロたちのために、一緒に祈ってもらっていいですか」
「ああ」
私は神官だからねとキーレイが答えると、青年は穏やかな顔でまた笑った。
二人は並んで初心者たちが無事でいることを願い、目を閉じる。
「ありがとうございました」
「なにかあった時には、いつでも来てくれていいからね」
「わかりました」
今度、新しい菓子を用意しておきます。
ギアノの残していった言葉にすっかり気を良くしていたキーレイだったが、ふと思い出して慌てて青年のあとを追う。
「待ってくれ、見てほしいものがあったんだ」
「なんですか」
神殿の奥、屋敷へ繋がる入り口の前で立ち止まり、神官長は懐から紙を一枚取り出していった。
記憶をたどりながら、「紫」で見たなにかを絵にしていく。
出来にはあまり自信がない。絵など、あまり描いたことがない。
けれど、口では説明できなかったから。絵ならヒントくらいになるのではないかと考え、炭を走らせる。
「なにに見えるかな」
キーレイとしては精いっぱい描いたものを、ギアノはじっと見つめている。
若者は紙に目を向けたまま、口元に手をやって、首を傾げて。
「浮いてたんだよね。なら、蝶とか蛾なのかな」
「蝶?」
ギアノはまた首を傾げて、こう呟いている。
「確かにここに来てから、虫を見ていないな」
木や花は時々あるのに、と青年は言う。
「だったら、キーレイさんは蝶を見たことがないのかも」
「蝶……は、見たことが、ある、よ」
「本当に?」
「いや、ある。小さい頃、よその村に行った時に、見たはずだ」
そう、あれは無口なイブソルと出会った時だ。宝物だと妙なものを見せてくれた記憶があった。
それはなにかとキーレイが問うと、近くにある花畑に案内され、ひらひらと飛んでいたものを見せられた。
黒い薄っぺらいなにかをひらひらと揺らしながら漂うものを、蝶だと聞いたような気がしている。
「蝶というのは、人の血を吸ったりするのかい?」
「いや、そんなおっかない真似はしないと思うけど」
花の蜜を吸って、羽から粉を巻き散らす、優雅な虫だとギアノは話した。
「そうか。ありがとう、参考になったよ」
まだ確実ではないが、薬草の群生地帯で見たものだと話すと、青年は納得したようでこくこくと頷いている。
「なるほど。草の生えているところなら、虫が出るのも当たり前だもんな」
改めて礼を言って、ギアノを見送って。
自分の世界の狭さを再認識させられて、キーレイはため息をついていた。
迷宮都市で生まれて、迷宮に足を踏み入れるのが暮らしの一部になってしまっている。
キーレイには当たり前でも、この街にいるほとんどすべての人間には違う。
みんな他所の街からやってきて、川や海、草原や山、雪や砂嵐のある暮らしをしてきたという。
ほんの少しだけなら、王都へ行ったことがある。王都へ繋がる道の途中にある小さな村にも立ち寄った。
でも、それだけだ。迷宮都市での暮らし以外には、些細な経験しかしていない。
こうなったのは、父のせいなのだろうか。
迷宮探索のため、神殿へやってくる人たちのためにラディケンヴィルスに留まって。
世界を知らずに過ごしてきたのは、それを望んだのは一体誰なのか。
ギアノの話を思い出しながら、自分の人生について考えていく。
樹木の神にも問いかけていく。
頬を抑えて、ため息を小さく吐き出して。
祈りには答えがあった。
心にもたらされたものには、忠実でいたい。
あまり気は向かないが。
キーレイはそう思ったが、明日の神殿での仕事が終わったら、家族に会いに行って、話をしようと決めた。




