81 茶会
神殿での当番がない日がまたやってきた。
起きたらまずは着替えて、樹木の神へ祈りを捧げなければならない。
キーレイは跪き、頭を垂れて、日々の感謝の言葉を紡いでいく。
自分の部屋から出ると、従業員たちがぱたぱたと歩き回っていた。
それぞれに、一日が守られるようにと声をかけていく。
掃除をしている者もいるし、食材を抱えている者もいる。
みんなキーレイの実家で働いている者たちで、付き合いも随分長くなっていた。
奥にある食堂へ向かうとちょうど朝食の準備が進められていて、キーレイも混じって手伝い、皿を運んだ。
急ぎの仕事がない者たちと一緒に食卓を囲んで、短く祈りを捧げていく。
全員が樹木の神への強い信仰があるわけではないが、神官長が同席してくれていることに感謝をしてくれているようだった。
「坊ちゃま、今日はお休みなんですか」
長年リシュラ家で働いているファーヤが顔を出し、キーレイへ声をかけてくる。
「やあ、ファーヤ。今日は休みだよ」
「ああよかった。シュア様がお話があるそうで、ずっと待っていらっしゃるんです」
「なんの話かな」
「さあ。なんでしょうね。お話したいことは、たーくさん、あるみたいですけれど」
そうかと呟くキーレイの胸のうちを、ファーヤは即座に見抜いたようだ。
「坊ちゃま、今日は行ってもらわなければ困ります。奥様はお部屋を覗いては、今日もいないのって毎日毎日嘆いてらしたんですからね」
用事があるなどと嘘をつくわけにもいかず、覚悟を決めるしかない。
部屋に戻って、母が勝手に入れていった小奇麗な服を取り出し、体を洗って。
無駄な装飾のついた窮屈な服を着たら、鏡と向かい合い、髪を整えて。
離れから出て、隣に立つ大きな屋敷へ、裏口から入っていく。
廊下で何度も何度も声をかけられながら進んでいくと、家族は食堂に集って優雅にお茶を楽しんでいた。
「まあまあ、珍しいこと!」
自分で呼びつけたのにこんな言い方をして、母のシュアが立ち上がる。
部屋には父もいたし、弟と、見知らぬ若い女性もいた。
「キーレイ、あなたの顔を久しぶりにみたわ」
「すみません」
「いいんですよ。忙しいんでしょうから。来てくれて良かった、大切な話があるの」
弟の隣にいる若い女性はフロリアという名で、キーレイの義理の妹になったらしい。
弟の結婚について、話は聞いている。だが既に王都で結婚式を挙げていたというのは初耳で、そうか、くらいしか返事ができなかった。
「兄さん、知らせるのが遅くなってしまった。本当にすまない」
「いや、私が悪いんだ。隣に住んでいるというのに顔も出さないからだよ」
弟のキーファンに詫びられ、フロリアからも謝られ、居心地が悪いことこの上ない。
妹のシーラの時と同じだ。王都で結婚式を挙げると聞いていたのに、いつの間にやらすべてが済んでいた。
不義理をしたことを丁寧に詫びると、やっと謝罪合戦は終わって、弟からの大切な報告が始まった。
「それで今度、ラディケンヴィルスでも祝宴を開くことになってね」
リシュラ商会の二代目とその妻を、商人たちにお披露目する会を設けなければならないのだろう。
キーレイはにこやかに頷いていたが、弟はひどく申し訳なさそうにこう続けた。
「式は、船の神殿に頼まなければならなくて」
船の神は運命を司るといわれている。
人生という旅路を見守り、航海が無事に進むよう守護する存在で、商売繁盛を願う商人たちが特に愛する神でもある。
「兄さん、すまない」
「なにを謝る必要があるんだ。私に遠慮することなどなにもない。皆に祝福される良い宴にしなければ」
若い二人に頭を下げられ、キーレイも気を遣わせたことを謝って。
話が済んだことに安心したのか、ようやくキーファンたちは笑顔を浮かべた。
大きくなったな、とキーレイは思った。
十歳の頃までは一緒に暮らしていた。その時既に父の相棒として労働に励んでいたキーレイだったが、小さな弟と妹は愛らしく、自分がいろいろと教えてやらなければと思っていた。
ところが二人は王都の親戚に預けられて、会いに行くのは母ばかり。
父は迷宮都市で商売に明け暮れ、キーレイは右腕として働いて。
商売が軌道に乗って従業員が増え、ようやく父の相棒でいなくても良くなった。
その頃カッカーとの出会いがあって、以来、神官としての人生を歩んでいる。
母と弟、いつの間にやら増えていた妹が楽しそうに話をしている様を、キーレイはぼんやりと眺めていた。
話している内容は宴に関するもので、この話題に長男坊は必要ない。
招待されるかもしれないが、されなかったとしても気にならない。
ありとあらゆる理由から、仕方ないと思える。
いつ死ぬかわからない暮らしに自ら身を投じているし、そんな暮らしをしている兄など嫌なのかもしれないし。
お茶会が済んで、それじゃあ、と弟夫妻が去っていく。
母もうきうきとその後に続いていって、父とキーレイだけが残っていた。
祝宴の話題に入っていなかったのは、キーレイだけではなく、父であるキリオ・リシュラも同じだ。
無口な父が自分をじっと見つめていることに気が付いて、神官長は言葉を探している。
「いいさ、なにも言わなくて」
すると父はぼそりと呟いた。
「俺がお前を、こうなるように育てたんだ」
家の裏口へ向かいながら、キーレイはただ噛み締めていた。
「こうなる」とはなんなのか。
幼い頃から迷宮に連れていかれた末に、探索稼業に精を出すようになってしまったことなのか。
三十になろうかというのにいまだに独身で、浮いた噂のひとつもない男に仕上がってしまったことだろうか。
久しぶりに会ったキーファンはすっかり大人になっていて、改めて、自分とよく似た顔をしているとキーレイは思った。
今朝は長い時間鏡と向かい合ったので、余計にそう思える。
だが、似ているのは顔立ちだけだ。
背は自分の方が高く、キーファンはごく平均的なサイズだろう。
だが、すらりとしている。迷宮を一日中歩くための丈夫な脚など必要ないからだ。肌は白く滑らかで、得体の知れない魔物と戦って受けた傷の痕など一つもない。
表情は知的で柔和な印象だった。王都にはきっと「友人」が大勢いるのだろう。
祝宴は盛大に開かれる。
船の神から祝福を受けるのだから、樹木の神官長などお呼びではない。
長く探索を続けすぎたせいで、キーレイの名前は街中に知られてしまっている。
リシュラ商店の長男なのに、探索に行ってばかりの神官長。商人たちからはこんな風に認識されているに違いない。
自分の部屋に戻って、服を脱ぎ捨て、ベッドの上に座り、ため息をついた。
薬草業者たちにしたかった警告の話など、あの華やかな席で言い出せるわけがない。
虚ろな気持ちを抱えたまま、キーレイは立ち上がった。
たまたま一番上にあった服に着替えて、東側に向かって歩いていく。
「ニーロ、いるか?」
黒い石を積んだ家の扉を叩くと、ウィルフレドが中から出てきて神官を歓迎してくれた。
「ウィルフレド。ニーロはいますか」
「ええ、いますよ」
若い魔術師もすぐに姿を現して、キーレイに向かって首を傾げている。
「道具屋を呼びますか?」
「いや、今日は違う」
ウィルフレドが同居するようになってから、ニーロの家は以前よりも散らからなくなった。
道具屋をこまめに呼ぶようになったのか、戦士がせっせと片づけてくれているのかはわからないが、足の踏み場もないほどあれこれと物があふれることはなくなっている。
「『紫』に一緒に行ってほしいんだ」
若い魔術師はすぐに返事をせず、キーレイをじっと見つめている。
「なにかありましたか」
「なにもないよ。確認したいことがあるだけだ」
「そうは思えませんが」
「知らない間に弟が結婚していただけさ。確かに少し驚いたよ」
だがそれだけだ。キーレイが答えると、ニーロも静かに「そうですか」と返した。
「なにを確認したいのでしょう」
「『緑』と『紫』だけに出てくる、なにかだ。見たことがあるか?」
「少女の姿に見えるといわれるものですか」
「ああ。ニーロだったら何に見えるか、興味がある」
「緑」と「紫」、おそらくは薬草が群生している場所にしか現れないなにかがいて、その姿は見る人間によって違う。
ウィルフレドへの説明が済むと、ニーロは首を傾げて、急にやってきた神官へ問いかけていった。
「どうして調べたくなったのですか」
「ギアノが最近見たと教えてくれてね」
「珍しいですね」
「そうだろう。偶然らしいがね」
屋敷にやって来た新しいタイプの若者に話が及んで、キーレイはふと思いついて魔術師へこう問いかける。
「ニーロはどうして彼を連れて来たんだ。屋敷の管理者に適任だと思うが、家事能力を見抜いたわけではないんだろう?」
「以前に西側の食堂に行った時に、港町から来たと聞いていたので、念の為に泳げるかどうか確認したのです」
出身地については接客中の雑談で知った、とニーロは言う。
「それだけで?」
「いいえ。あの食堂にギアノが去った後にも行ったのです。料理の味は変わりませんでしたが、雰囲気は変わっていました」
活気がなくなったし、サービスも少し低下したように思えた。
ニーロから飲食店の評価を聞くという珍事に、キーレイは思わず笑っている。
「最近ヴァージさんが不在にすることが多くなって、カッカー様の屋敷の空気は少し悪くなったように思っていたのです。カッカー様もヴァージさんも、新しい家が完成すればいなくなってしまいますから」
彼のような人が来てくれればいいのではないかと思った。
ウィルフレドからの話もあってそう考えたのだろうか。ニーロなりに、屋敷の今後を考えていてくれたということなのだろう。
「泳ぎの能力に関しては、想像以上でした。あんな風に自在に動ける人間がいるのですね」
「そうだな。私も驚いたよ」
「彼はとても高い能力の持ち主のようです」
キーレイもまったく同意見だった。
探索者としても、鍛えればなんでも器用にやれるようになりそうだし。
屋敷の管理に関しては、今すぐに任せてしまいたいほどにすべてをこなしている。
若者たちからももう慕われているようだし、ついでに神殿の食事も作ってくれたらいいのにと思ってしまう。
「それでどうだ、ニーロ。一緒に来てくれるか」
「必ず遭遇するとは限りませんよね」
「そうだ。でも、遭遇するかもしれない」
「わかりました。いいでしょう」
探索をする以上、二人よりは三人で行った方がいい。
ウィルフレドにも協力を仰ぐと、快く承諾してくれた。
「ウィルフレドは『紫』や『緑』にはどのくらい入っていますか」
「その二か所にはあまり」
「そうですよね」
ニーロはあまり薬草の生える迷宮には足を向けない。
いつか「紫」の最下層を目指すのは間違いないのだろうが、あまり好みではないのだろう。
「『紫』に行くのですね」
「ああ。『緑』では人が多い」
ニーロの小さな家で、キーレイは椅子に座って二人の準備が終わるのを待った。
先にやってきたのは魔術師の方で、キーレイの姿をまじまじと見つめて、疑問を口にする。
「いつもと服装が違いますが」
「ああ、そうかもな」
小さく首を傾げると、ニーロは部屋の奥に戻って、机の周辺でごそごそと動き回った。
ポーチを用意してくれたようで、キーレイの腰に黙って巻き付けている。
「必要なものを入れておきました」
「……すまない。ありがとう」
「こんな日もあるでしょう」
気を遣わせてしまったことにまた少しだけ落ち込みながら、三人で「紫」に向かって歩き始めた。
深く潜るわけではないし、草を拾うわけでもないし。
目的の魔法生物と出会えるとは限らないし。
「すみませんウィルフレド、今日はなんの報酬も得られない探索になってしまいます」
「ニーロ殿の言う通り、確かに今日はいつもと違いますね」
ウィルフレドは笑みを浮かべて、仲間の背中を優しく叩いてくれる。
家族との関係をどう捉えたらわからずに飛び出した勢いでニーロの家に行きついたのだから、こんな扱いをされてしまうのも仕方がない。
割り切れる部分もあるし、納得もある。けれど気持ちの整理はつかないし、すとんと落ちるものもない。
もやもやとしたものを抱えたまま、「紫」の入り口にたどり着いていた。
昼を過ぎた時間だからか、業者たちの姿もないようだ。
「行くか」
「緑」ほどではないが、「紫」にも慣れている。
父と一緒に入るようになったのはだいぶ成長した後だったが、「緑」に比べて辛かった記憶がある。
それでも足を踏み入れて、何度も生きて戻った。
なので十二層あたりまでなら、地図がなくても歩いていける。
ニーロもそれを承知しているので、なにも言わずについてきてくれる。
ウィルフレドと、ニーロと、キーレイの三人で並んで、蔦の這いまわる道を進んでいく。
一番近いのは四層目にある桃枯草の群生地帯で、ギアノが行ったのもここだろう。
途中で出てきた魔法生物は、ニーロが焼き払ったり、吹き飛ばしたりしてくれている。
傷心の神官長の道のりはかなり楽になって、目的地にあっという間にたどり着いていた。
件の魔法生物がいつ現れるのか、そもそも姿を見せるかどうかもわからない。
待たなければならないが、ふっと「黄」での記憶が蘇ってきて、不安が心を包んでいく。
「あまり同じ場所で待ち続けるのは良くないだろうか」
「今更なにを言うのです。ここまで来たのですから、草を拾うふりでもして待ちましょう」
桃枯草は薬草でも毒草でもない、つなぎのために入れる草だ。
入れると薬の効果を少しだけ上げると考えられている。
業者たちは「紫」の迷宮に慣れるために、まずはここに来て桃枯草を摘む。
無駄にならないので、いくら集めても困らない。
だが、業者たちは群生地帯に長居することはなかった。
群生地帯にはあまり長くとどまってはいけない。
理由ははっきりとしていないが、先人たちからこう伝えられて、教えを守り続けている。
「あれ」が見る人間によって違う姿に見えてしまう理由を、キーレイは二つ考えていた。
一つは、魔法生物がなんらかの方法で幻覚を見せているというもの。
もう一つは、大量に生えている薬草や毒草からなんらかの影響を受けているというものだ。
「やはり、草の方から出ているのかな」
「なにがですか、キーレイさん」
「幻を見せられているんじゃないかと思うんだ」
キーレイは「あれ」を一度しか見ていない。あの頃の自分が見たのは、「少女」ではなく「母」だった。
母のようなものだった。
「少女」を見て生きて帰った者はどのくらいいるのだろう。
できる限りの人数から話を聞いて、こうなのではないかと思うことはある。
愛らしい少女のようだったと話してくれた者のうちの何人かが、こう話してくれた。
昔、恋をしていたあの子に似ていたと。
「どうして僕で試そうと思ったのですか?」
ひょっとしたらその人間にとって、いとおしいと思う誰かに見えるのかもしれない。
それならば、答えが「少女」だけではないことに納得がいく。
そして、ニーロにはそんな相手はいないのではないかと思っている。
本人には言えないが、愛おしい存在のいない者ならば「あれ」の正体そのものがそのまま見えるのではないかと考えて、今日は「紫」へ誘っている。
「魔術の力を持ち合わせた者の意見も聞いてみたくて」
一番の理由ではないが、決して嘘ではない。万が一魔術の類を使う敵なのだとしたら、魔術師の意見は役に立つだろう。
草を一本一本抜いて、借りた袋に詰めていく。
キーレイにもニーロにもこの草を集める理由はないので、帰ったら店に渡すことになるだろう。
「ウィルフレド、付き合わせてしまってすみません」
「いつか来ることになるでしょうし、いい経験になります。謝る必要はありませんよ」
覚悟のできた男だ、と感心してしまう。
感心しながら、草を摘む。
時折辺りを見渡しながら、時が過ぎるのを待つ。
桃枯草で袋がいっぱいになった頃、異変は起きた。
ウィルフレドがふらりと立ち上がっていった。
手に持っていた草をぱらぱらと落とし、紫の通路の先を見つめている。
「ニーロ」
来たようだ、とキーレイは囁いた。囁いて、戦士の見つめている方向を向いた。
「……なんだ、あれは」
薄い桃色の野原の先に、巨大なおぞましい姿が浮いている。
まったく見たことのない形に、神官長は戸惑っていた。
ふらふらとウィルフレドが進んでいく。これはまずいと、キーレイは戦士のそばに寄って解毒を試みていく。
ところが効果がなかったのか、キーレイはウィルフレドの逞しい腕に吹き飛ばされ、桃枯草の中に落ちていった。
「ニーロ、脱出を頼む」
振り返ると魔術師もぼんやりとしていたが、再びの呼びかけにはっとした顔をして、魔術を行使してくれた。
出てきた先は、「紫」の帰還者の門の上。慌てるとここに出るのだろうかと思いつつ、ウィルフレドの様子を確認していく。
戦士は目を見開き、呆然とした様子で動かない。
癒し、もう一度解毒を試し、手を握り呼びかけていく。
ニーロは瞬きを繰り返しており、声をかけると返事があった。
自分がかつて母の姿を見た時、どうやって助けてもらったのだろう。
記憶は定かではない。父が抱えて逃げてくれたのだと思う。
気が付いた時には家で寝かされていて、母が涙を流していたことだけが確かだった。
もうこの子を連れていかないでと泣きながら、父の胸を何度も叩いていた。
そんなことを思い出しながら、キーレイは何度も何度もウィルフレドの名を呼んでいく。
しばらくすると戦士は何度も瞬きを繰り返したのちに、キーレイをまっすぐに見つめた。
「ウィルフレド、なにか見ましたか?」
「……幼い、少年を」
真正面から向かい合っているのに、ウィルフレドの目は神官を見ていない。
「ニーロは、なにか見たか」
魔術師の目もまだ虚ろだ。
けれどちゃんと反応があって、なにか白いものを見たように思う、という声が聞こえた。
帰還者の門から出て、二人の回復を待つ。
待ちながら、自分の状態も確認しておかねばならない。
ウィルフレドに振り払われた時に尻を打ったが、たいしたことはないようだ。
二人はすぐに正気を取り戻し、既に「紫」から出ていて驚いたようだった。
意識は戻っても気分は優れないらしく、熟練の探索者らしい鋭さが隠されてしまっている。
キーレイの家、神殿の仮眠室、カッカーの屋敷の回復部屋。
どこでもいいから休んではどうかと提案したが、二人は家に戻ると話した。
「じゃあ、私は神殿にいるから、なにか問題が起きたら来てほしい」
「わかりました」
「夜になったら様子を見に行くよ」
「では、お願いします」
樹木の神殿あたりまで三人で歩いていったが、二人の足取りはしっかりしていて、問題はなさそうに見えた。
キーレイにはまったく影響がなくて、ニーロとウィルフレドにどんな効果が及んだのかよくわからない。
二人を見送って、樹木の神殿へ入っていく。
昼はとうに過ぎているが、夕日にはまだ早い。半端な時刻だった。
「あ、キーレイ様」
若い神官のロカに声を掛けられ、意識を神官長のものにしながら振り返る。
ロカは神官長の服装が気になるようで、ちらちらと視線を彷徨わせてから話した。
「さっき、お屋敷の方から……、一人若い男が来て、伝言があると言っていたんですが」
「誰かな?」
「すみません、まだ新しく来たみたいで名前が。オーレンによく似ていたんですが」
わかったと答えて、廊下の先へ進んでいく。
歩きながら、神官のしるしすら持っていない上、ニーロから借りたものを返していないことに気づいてため息をついた。
屋敷の中はしっかりと片付いており、廊下の先からは甘い香りが漂っている。
先に厨房を覗いてみると、ロカが名前を失念したであろう相手、ギアノが皿の上になにかを盛っていた。
「ギアノ」
「ああ、伝言を聞いたんですか」
青年は小さく笑うと棚に移動して、もう一枚皿を用意してトレイに載せていく。
「弟さんには会いました?」
「弟?」
「食堂にいますよ」
先に向かうべきは、甘い香りのする台所ではなかったようだ。
ギアノに礼を言って廊下を戻り、食堂へ。
すると真ん中のテーブルにキーファンと、向かいになぜかララが座っている。
「キーファン」
「兄さん」
神官長の登場に、ララは少し慌てたようだ。
今は当番の時間だったはずで、ここでサボっているのだろう。
視線を向けるとララは身を縮めたが、立ち上がりはしなかった。
「良かった、無事で。なにも持たずにふらふら迷宮に入っていったって店の者が話していて」
心配したよ、とキーファンは言う。見られていたかと思いつつ、キーレイは答えた。
「少し確認したいことがあっただけなんだ。でも、心配されても仕方がない。すまなかったね」
「謝るのはこっちの方だ。兄さん、結婚式のこと、本当にごめん」
伝わっていなかったとは思わなかった、と弟は話した。
「王都の人たちは探索者の話がとても好きなんだ。フロリアの叔父さんは特に迷宮都市の話が好きらしくて。結婚が決まったあと、『あのキーレイ・リシュラの弟なのか!』って騒がれたんだ」
ぜひ呼んでほしい、カッカーも招いてほしい、無彩の魔術師とやらも一緒にまとめて連れてこい。
そんな話になって、フロリアを泣かせてしまったという。
「結婚式どころではなくなるんじゃないかと不安にさせてしまったみたいで」
新郎の兄が呼ばれなかった理由は、式の主役を取って代わられる可能性があったからのようだ。
父が「あいつは参加できなくても気にしないだろう」と勝手に決めてしまったというのが真相で、キーファンは本当にこれでいいのかと気に病んでいたらしい。
「父さんは俺が伝えておくと言っていたのに。兄さん、なにも聞いていなかったんだろう? 気を悪くしたんじゃないかな」
「いやいや、そんな馬鹿な。私がちゃんとしていないからだろうし」
ギアノがふらりとやってきて、客の前に甘い香りの漂う皿を並べていく。
謎のただ美味いだけの飲み物も一緒についてきて、ララが手を叩いて喜んでいるのがわかった。
「兄さんは立派だよ。商会の仕事を手伝うようになったけど、業者たちにとって『リシュラの坊ちゃん』は兄さんなんだ。……僕のことは、『坊ちゃんの弟だから』相手してくれているような状態でね。でも、それだけじゃない。樹木の神官長としても、兄さんは大勢から頼られているんだ」
部屋に置き去りにしてきた神官のしるしを取り出し、キーファンは兄の左腕の袖につけていく。
樹木の神の左手をイメージしたデザインのしるしは、神官のまとめ役が身に着ける腕章だ。
少し前まではカッカーがつけていた。新しいものは作らず、師からそのまま受け継いで、今はキーレイのものになっている。
「一番大切なものなのに、忘れてしまうなんてな。キーファン、ありがとう、届けてくれて」
キーレイは弟が伴侶を迎えたことを祝福し、二人の未来に大きな花が咲き、豊かな実りがあるように祈りを捧げた。
「これはとてもおいしいんだ。一緒に食べよう」
やった、とばかりにララも匙を手に取っている。
ギアノ特製の菓子は、王都育ちのキーファンにとっても新しい味だったらしい。
「この街にもこんなにおいしいものが売っているんだね」
「さっき来てくれた、ギアノが作っているんだよ。南の方の料理の達人なんだ」
フロリアにも食べさせてやりたいとキーファンが言って、余りがないか厨房へ確認しにいく。
ギアノはすぐに菓子を包んでくれて、弟は気が楽になったのか、笑顔を浮かべて帰っていった。
「弟さんとよく似てますね」
廊下にいたギアノに声をかけられて、キーレイは立ち止まった。
「君も兄弟がいるのかな」
「兄貴がいっぱいいます。六人も」
「へえ、そんなにいるのかい」
「姉も二人。はは。みんな弟は扱き使うモンだと思ってて、大変でしたよ」
苦笑いしながら、ギアノは食堂へ歩いていく。
片づけをしようと思っていたようだが、ララがまだのんびりお茶を飲んでいる。
「キーレイさん、おかわりもありますけど」
「この飲み物の?」
「ええ。カルレナンじゃみんな飲んでるんだけど、この街では全然知られていないのかな」
お茶になにかが入れられているのはわかるが、詳細はわからないままだ。
けれど、美味い。この幸福感には敵わなくて、おかわりを頼んでしまう。
神官長は席について、向かいに座っている部下をまっすぐに見つめた。
「ララ、終わったら戻りなさい」
「すみません……」
「いいんだよ。おいしいものを食べたいのは私も同じだ」
あまり長時間にならないようとだけ注意をすると、ララは舌を出して笑った。




