78 迷宮都市の小さな邂逅(下)
「マティルデ、食べ終わった?」
ギアノが部屋の入り口から顔を出し、声をかけてくる。
ご飯はとっくに終わっていた。ギアノの作ったランチはおいしくて、リーチェもすっかりご機嫌になっている。
使い終わったお皿を積んで、トレイに乗せて。
ギアノは少し待つように言い残すと、部屋から出ていってしまった。
「マティルデ、ギアノってものすごくいい人だね」
「そうよ。とっても親切なの」
「さっきの料理、ギアノが作ったのかな」
「うん。おいしかったでしょ」
いいなあ、とララはぼやいている。
あんなにおいしいものが毎日出てきたらいいのに、とぶつぶつ呟いている。
マティルデもまったく同感だった。
あの食堂をやめて、今夜からはどうするのだろう。
夜ご飯は頼んだら作ってくれるかもしれないが、その後は?
料理人ではなく、探索者なのだという。
仲間がいないのなら、これから探していくのだろう。
ギアノならきっと、あっという間に良い仲間を探し出すに違いない。
ギアノは余計なことを言わない。じろじろ見てくることもない。
けれど、こちらの望みをわかってくれる。言葉を尽くさなくても察して、些細なことはすべて許してくれる。
マッデンとは大違いだとマティルデは思った。わけのわからないことを言わないし、無茶もしない。かっこつけもしない。
一緒にいた時間はまだ短いのに、とても楽だし、安心できる相手のように思えていた。
きっと誰に対してもそうなのだろう。ギアノは大勢から求められる人に違いなかった。
「お待たせ。片づけは終わったよ。ララ、ありがとう。助かった」
また顔を出したギアノに、リーチェがとことこと歩いていく。
小さな女の子にすぐに気がついて、親切な男はしゃがみこんで視線を合わせている。
「ごはん、おいしかったの。ありがと」
「喜んでもらえて良かった。ちゃんとお礼が言えて偉いね」
「えへへ。かあさまが、うれしいときはありがとうっていわなきゃだめぞって」
「俺も嬉しいよ。君の母様は素敵な人なんだね」
リーチェの頭を優しく撫でると、ギアノは立ち上がってマティルデを呼んだ。
「マティルデ、魔術師の塾に行きたいんだろう? ティーオの仲間のコルフは魔術師らしいんだ。話を聞いてみないか」
マントをかぶって食堂へ向かうと、魔術師であるコルフが端の席に座って待っていた。
残りの三人の仲間は遠慮してくれたようで、離れたところに集まっている。
三人の前には甘い香りのするなにかが置いてあって、マティルデは気になって仕方がない。
「あれ、なあに」
「やっぱり気が付いたか」
待たせるお詫びに用意したんだけどと言いながら、ギアノは焼き菓子を乗せた皿を持ってきて、マティルデとコルフの前に置いた。
離れた席にいるティーオに声をかけ、ララたちの分を持っていってくれないかと頼んで、戻ってくるとマティルデの隣に腰を下ろしている。
「お菓子まで作ったの」
「簡単なものだけどね」
では、手の込んだものも作れるのだろう。
作ってもらうにはどうしたらいいのか。気になって仕方がない。
「ギアノ、今夜はどうするの?」
「今はそんなこといいよ。コルフは魔術師の私塾で習ってるらしいから、ちゃんと話を聞いて」
向かい合う人数が減って、緊張はぐっと抑えられている。
五人と対面した時よりも楽な気分で、マティルデは目の前のコルフの様子を見つめた。
魔術師は頬を赤く染めながら、街の中央に隠された秘密について教えてくれた。
「町の真ん中あたりは、最近ちょっと複雑になっちゃったらしいんだ。俺は通っているところがあるから、案内できるよ。だけど、先にどこに通いたいか決めた方がいいと思う」
「どこに通いたいか?」
「そう。魔術師の私塾はいくつもあって、教える内容がみんな違うから。初心者のための教室がいいよね」
コルフの表情は明るいし、優しく、穏やかだった。
とてもありがたい申し出で、感謝しなければいけない。
魔術師に習いに行きたいことを覚えていて、そのために話をつけてくれたギアノの親切にも、あとでお礼を言おうと思う。
けれど、どうしたらいいのだろう。
「どうかした、マティルデ?」
目を伏せた少女を気遣って、コルフが問いかけてくる。
「どうしたらいいのかしら」
「なにが?」
「ギアノ、ついてきてくれる?」
コルフに視線を向けられて、ギアノは戸惑っているようだった。
マティルデをまっすぐに見つめ、首を傾げ、天を仰いで、最後にはうーんと唸って。
「ちょっと整理しようか」
マティルデの付き添いをすること自体は、嫌ではないし、構わないと言う。
「でも、しばらくは無理なんだ。今は決まった仕事もないし、宿も探さなきゃいけないし」
もし付き添うとしたら、自分の生活が安定したあとになるとギアノは話した。
「それと、魔術師の私塾って一対一で教わるものなのかな。コルフ、どんな感じなの?」
「難しいものはしっかり一人ずつ教わるよ。初心者用の講座でお金を節約したかったら、何人かでまとめてってところもあるけど」
「マティルデ、ひょっとしたら、男だらけのところで教わらなきゃいけないかもしれないよ」
心がしぼんでいく。
自分がやっていけるのかどうか、マティルデには想像がつかなかった。
今はギアノが隣にいて、向かいに座っているのは人の好さそうなコルフだけ。
だから、平気なのだと思う。
神殿でティーオたちがやってきた時。あれではっきりとわかっていた。
大勢の男にやってこられると、体がすくんでしまうのだと。
道を歩いていてもそうだ。周囲にぽつりぽつりと歩いているだけなら、そこまで緊張はしない。
けれど何人もいっぺんにやってくると体が震えてしまう。すぐそばまで来られると、うまく動けなくなってしまう。
「女の魔術師がやっている塾ってあるのかな」
「ある……は、ある、けど」
コルフの返事はキレが悪くて、なにか問題があるのかとギアノが尋ねている。
「あるけど、一か所だけだと思う。女の魔術師のやっているところは。女の魔術師がやっているけど、あそこはなあ……。女の子が行く場所じゃあないんだよね」
「どういう意味?」
コルフはしばらく悩んでから、ギアノのそばへ歩いてきて、こそこそとなにかを耳打ちしていった。
ギアノはぎょっとした顔をして、なにそれと呟き、マティルデには諦めた方がいいとだけ告げた。
「初心者向けのクラスなら、ちょっと年だけど優しく教えてくれる人がいるよ」
そこなら値段も控えめに設定されているという。
ただし、他に希望者がいれば団体での授業になってしまうらしい。
「早く行きたいんだったら、マージかユレーに協力してもらったらいいよ。せっかく知り合えたんだから、手を貸せることがあるなら、俺も手伝う。けど、さっき言った通り、どこかで安定して暮らせるようになってからだ」
北東の安宿街に落ち着いた場合、マージの家までの距離が随分遠くなるとは思う。
ギアノはいい加減で自分勝手なマティルデに対して、真摯に話してくれているようだった。
「ギアノもマージのところで暮らしたら?」
「いやいや、女だけの家なんだろう?」
南側にはたくさんの寮や宿舎がある。
あの辺りのいずれかの寮に入ってくれたらいいのに。
マティルデはそう思ったが、そのためにはギアノにはどこかの商店で働いてもらわなければならない。
武器屋、道具屋、雑貨屋、薬草の業者。なにかを作っている工房もいくつもある。
一番似合うのは、おいしいものをたくさん作れる食堂だろうか。ギアノだったら、雇ってくれる店はいくらでもある。絶対にそうだと思うが、そんなことを他人のマティルデが決められるわけもない。
「ギアノって探索をしているの?」
マティルデが悩みこんでいるせいか、コルフはギアノに話しかけている。
「探索者になるために来たんだ。最近は食堂で働いて、料理ばっかりしていたけどね」
「料理人になった方が良いんじゃない? あんなに美味いものが作れるんだから」
「故郷では料理人だったよ。両親が食堂をやってるからね。兄貴がいっぱいいるんだけど、みんな漁師や猟師になったから。店を残すなら、俺が継ぐかもしれないかな」
「兄貴がいっぱい?」
「六人もいて、みんな結婚してて、甥っ子と姪っ子がうじゃうじゃいてさ。毎日子守して、洗濯して、魚を捌いて店を手伝って。そりゃあもう大忙しだったよ」
だから子供の相手も上手だったのかと、マティルデは思った。
小さなリーチェは可愛らしかったが、どう話しかけたらいいのかわからなかった。
ギアノは小さな子供に気づくとすぐにしゃがんで、笑いかけて、あっという間に懐かれていた。
「ひょっとして剥ぎ取りもできる?」
「小さい頃から狩りについていってたから、少しはできるよ」
「いいねえ、特技がいっぱいあって。仲間は? いないの?」
「今はいないんだ」
コルフの無邪気な問いかけに、ギアノは口元に笑みをたたえたままそっと目を伏せた。
昨日も見かけたギアノらしからぬ哀愁漂うムードに、マティルデの心はざわざわと揺れている。
「ギアノ」
「はは、大丈夫だよ。寂しそうに見えた?」
「うん」
「まあ、よくある話ってやつなんだ。仲間になる約束をしていたやつらがいたんだけど、探索に行ったっきり戻って来なくて」
話が聞こえたらしく、離れたところでティーオたちが揃って目を閉じていた。
コルフも小さく神への祈りを呟いており、ギアノはそれに礼を言っている。
「使っていた宿屋がすごいボロでね。年配の親父さんが一人で切り盛りしていたんだけど、長い間逗留してたやつらが戻って来なくて、なんだか気が抜けちゃったみたいで。すごい頑固親父でろくに返事もしない愛想の悪い人だったのに、しょんぼりしちゃってさ。とうとう建て替える決心がついたって言われて、それで俺も移動することになったんだ」
料理の仕事も、これがきっかけで辞めたとギアノは話した。
もともと、期間を決めた契約ではあったんだけどねと、小さな声で笑いながら。
「俺、今日から出直しなんだよ。まずは自分の暮らしをちゃんとさせなきゃならないんだ。手伝ってやれなくてごめんな、マティルデ。でも、昨日君と出会えてすごく良かったと思っているよ」
楽しい気持ちにさせてくれて、ありがとう。
ギアノの笑顔は優しくて、その分深い悲しみを感じさせられている。
「そんなお別れみたいなことを言わないでほしいわ」
「お別れなんかじゃないよ。マージの家にいるんだろう? また、俺が会いに行けばいいんだ」
親切で器用な男は「さて」と手を叩くと、コルフに向かって、方針が決まったら改めてマティルデに協力してやってほしいと頼んだ。
新米の魔術師は快諾して、いつでも来てよと答えてくれている。
「マティルデ、マージとユレーとよく話し合って、どうするか決めるんだ。どうやって学びに行くか、どう連絡を取るかをね。仕事だってあるんだろう? なにをするにもお金は必要だから、ちゃんと稼いで、必要な分をちゃんと用意していこう」
焦ってもいいことなんかないんだから、とギアノは笑う。
「コルフは良い奴だよ。俺が言うんだから、間違いない。協力してくれるっていうから、頼ってみて」
「うん」
「ティーオたちもね。さっき一緒に食事をしながら話したんだ。みんないい奴らだよ。マティルデ、誰のことも怖がらなくていいんだ。今はまだ難しいかもしれないけど、一人で歩けるようになろう。そうじゃないと、この街で探索者なんてやっていけないから」
「うん……」
ギアノの向こうで、青年たちが頷いている。
みんな穏やかな顔をしており、悪事を働くような印象は当然、なかった。
「はは、いっぺんに言い過ぎたかな。とにかく、ゆっくりでいいんだよ。早く魔術師になりたいんだろうけど、仲間だってまだ集まっていないんだから」
「そうね。マッデンだって探さなきゃいけないし」
「マッデン?」
「幼馴染。ここまで一緒に来たの。私を置いて一人で逃げていった卑怯者よ」
「ああ」
「絶対に見つけて、ボッコボコにするの。もし見かけたら、教えてね、ギアノ」
わかったとは答えてくれた。だが、どうだろう。
ギアノは親切な人だから、マッデンにも親切にしてしまうかもしれない。
逃げろとは言わないかもしれないが、ちゃんと謝れと諭してしまうかもしれない。
そうなったら、ボコボコにするのはきっと難しいだろう。
「……殴ってほしいのに」
「なんだって?」
「ううん。なんでもない」
これで話は終わり。
ギアノはティーオたちによろしく頼むと伝え、使った食器をちゃんと片づけて、マティルデと一緒に屋敷をあとにしていた。
これからわざわざ南へ向かってマージの家までマティルデを送り届け、改めて北で宿探しをするのだろう。
軽い気持ちでたくさんの頼み事をしてしまった。こんなに申し訳ない気持ちになったのは初めてだったが、なんと言ったらいいのかマティルデにはわからない。
「夜ご飯も作った方がいいのかな?」
「いいの?」
「ああ。バルディさんが賃金を弾んでくれたからね。こういうお金は、ぱっと使うのがいいんだ。誰かが喜んでくれるような使い方をするのが一番いい」
また南門近くの市場に寄って、ギアノはさまざまな食料を買い込んでいる。
料理などしたことのないマティルデには見たことのないものばかりで、籠がいっぱいになっていく。
道をすぐに覚えられるのか、案内しなくてもギアノはまっすぐにマージの家へ向かっている。
マージとユレーはまだ留守で、マティルデは部屋の中で膝を抱えたまま、ギアノが働く様子を見守っていた。
荷物袋から取り出されたナイフがキラリと輝き、野菜はあっという間に細かくなって、鍋の中へ放り込まれていく。
袋から出された粉はいつの間にか大きな塊になって、小さくちぎられて並べられている。
「なんだいなんだい、随分いい匂いがするけど」
マージが帰ってきて、鼻をすんすんと鳴らしている。
台所に陣取っているのがギアノだとわかると、スカウトの女はにやりと笑った。
「今日もいいものを作ってくれてるのかい。ああ、いいねえ、いい匂いだ。帰ったら温かい料理が待っているなんて、最高のご褒美をもらった気分だよ。ああ、今日はなんていい日なんだ」
マージは台所でギアノの尻を思い切り掴んで、嫌がられている。
「どうしてこんなにいい香りがするの」
ユレーが戻ってきて、まっすぐに台所へ進んでいく。
「やっぱりね。マージの料理じゃこうはならないもの。嬉しいね、昨日の夕食も美味しかったよ。また作ってくれたらいいのにって思ってたんだ」
マージに文句を言われて、ユレーは本当のことだろうと返している。ギアノは二人の会話に笑って、ケンカはやめなよと諫めてくれた。
のんびり待つだけのマティルデに苦情を言わず、一緒になって座り込んだマージとユレーにはお疲れ様と笑顔を投げかけて。
ギアノは手際よく作業を進めて、あっという間にディナーを仕上げていった。
「できたけど、夕食にはまだ早いかな?」
「なに言ってんだい。ちょうどいいよ」
「出来立てを頂くのが一番だよ。おいしいものを作ってもらえるってのは、最高の贅沢だねえ。はあ、ありがたい、ありがたい」
ユレーが立ち上がり、マージも続いて盛り付けを手伝っている。
狭い台所でぎゅうぎゅうになりながら、二人はギアノになぜか文句を言い始めていた。
「なんだ、三人分しか作ってないって。あんたの分は?」
「俺は作りに来ただけだから。ここは女の園なんだろ? そろそろ行かなきゃ、いい宿が埋まっちゃうだろうし」
「宿って?」
「今夜の宿を探さなきゃならないんだ。いろいろ決めなきゃならないことも多くてね。だから、もう行くよ」
オレンジ色のソースのかかった鹿肉のステーキに、色とりどりの野菜。甘い香りの焼き菓子に、フルーツを刻んだものが乗った素敵なデザート。
ギアノはこんな置き土産を残して、引き留めに応じず、部屋を出ていってしまった。
「またな、マティルデ」
仕事はサボるなよ、の一言に、こくんと頷くことしかできない。
「……とんでもなくいい男じゃないか」
ユレーが扉に視線を向けたまま、ぼそりと呟く。
「そうかい? 確かに気は利くみたいだけど、ちょっと顔が地味すぎるよ。それにまだ、ほら、若造だから。男の色気が出ていないよ」
マージは文句をいったが、腰がくねくねと揺れている。本心では同意しているのだろう。
ギアノのディナーはとても美味しかった。
マージもユレーも最高だと騒いでいてやかましい。
素敵な夕食が終わって、夜が来て、眠っているうちに朝もやってきて。
あまり楽しくはない壺に飾りをつける仕事のために出かけていく。
職場まではユレーが一緒に歩いてくれる。ユレーは商人の屋敷で家事代行の仕事をしていて、自分の出退勤のついでにマティルデを送迎してくれていた。
花を添えて、葉っぱをつけて。
夜が来て朝が来て、また壺を飾りつけて。
何度も朝を迎えたのに、ギアノが訪ねてくることはなかった。
ギアノだったら、三人が留守にしていたとしても、きっとわかるようにしてくれるはずなのに。
家賃の請求に大家がやってきた以外に、来客はないようだった。
もらったおいしい果実の袋が、軽くなっていく。
ぱくぱく食べてしまって、もうあと一つしか残っていなくて。
最後に残ったひとかけらが袋の底でひとりぼっちになっていて、マティルデはそれを見てはため息をついていた。
随分貯めたと思っていたのに、財布の中身は魔術師の授業料には足りていない。
コルフと話した時に教えられたが、一番最初、基礎のための魔術師の授業料は少し高いのだと言う。
受けたところですぐに使えるとは限らないとも聞いている。
素質があって、センスを持ち合わせていて、説明を聞いてピンと来る人間でなければ、すぐに魔術師を名乗るのは難しいのだと。
結局今は、労働をしていくしかない。
わかっていても、面白くない。
マティルデは頬を膨らませたまま花の飾りを掴んで、壺に貼り付けていく。
「マティルデ、どこ?」
面白味のない労働の途中で、まとめ役のカリーナが呼ぶ声が聞こえる。
「はあい」
「あなたにお客が来ているって」
カリーナの話には実は続きがあったのだが、お構いなしにマティルデは立ち上がった。
葉っぱの飾りを持ったまま走って、仕事場の出口へ駆けていく。
とうとう来てくれた。
呼び止める声を振り切って、胸を弾ませながら工房の外へ出ると、すぐ左から名前を呼ばれた。
「マティルデ」
思っていたのと声が違う。
驚いて振り返ると、一人の男が立っていた。
「嘘」
「ああ、本当にごめん。そんな風に言われても仕方ないよな」
そこに立っていたのは、探し求めていた男ではあった。
だけど、二番目だ。一番じゃない。
「どうしてここに来たの、マッデン」
非情な幼馴染は真っ青な顔をしており、左目の周りに大きなあざを作っていた。
マティルデがじっと見つめていると、青年は観念したのか、とうとう話し始めた。
「北東の食堂で仲間と飯を食ってたんだ。そしたら、後ろの席にいた男に話しかけられた。マッデンて呼ばれているけど、マティルデを知っているかって」
どうしてそれを、と思った。
見知らぬ男に言われて、まさか、と思った。
マティルデは生きているのかと聞いた途端、思いっきり殴られ、大きなあざはその時にできたらしい。
「謝りにいけって言われたんだ。壺に飾りをつける工房にいるからって、何軒かまわって探したんだよ」
本当にごめん、マティルデ。
怖くて怖くて、逃げてしまった。
マッデンは涙をこぼしながら謝ったが、顔をあげ、幼馴染の表情を見て驚いていた。
「なんで笑ってる?」
笑顔の理由がわからず戸惑ったものの、マッデンは勇気を振り絞って、愛しの幼馴染に手を差し出している。
「ごめん、マティルデ。本当にごめん。帰りの馬車代、用意したんだ。一緒に帰ろう」
「はあ?」
「一緒に帰ろう。こんなおっかない街じゃ暮らしていけないだろ」
「やあね、あなたは仲間と楽しくご飯を食べてたんでしょ! わたしのことなんか忘れて、のんきなものね、マッデン」
「いや、その、あれだよ。俺にはもう、仲間なんていないんだ」
「卑怯者だってバレて追い出されただけじゃない。いい気味だわ。私にはもう頼れる人がいるの。絶対にすごい探索者になるわ。帰りたいなら一人でとっとと帰りなさいよ」
「マティルデ、駄目だよ。あんな怖い目にあったのに」
「うるさーい!」
葉っぱの飾りを握ったまま拳を繰り出し、無事だった右目に思いっきりぶつけてやった。
飾りは割れたが、マティルデの細い腕ではあざはつけられない。
けれどそれなりにダメージは与えられたようで、マッデンは倒れてのたうちまわっている。
とんだ修羅場に、カリーナだけではなく、職場の女性たちがみんな集まって二人を遠巻きにしていた。
「なにをしているのよ、マティルデ」
手を掴んでくるカリーナへ、少女はとびっきりの笑顔で答えた。
「天罰よ!」
マッデンは去っていき、マティルデは職場を追い出されて、工房前の路上でぼんやり座り込んでいた。
日が落ちて、木箱の上に座り込む少女に気づいて、ユレーが駆けてくる。
「なにやってんだい、こんなところで」
「クビになっちゃったの」
「はあ? どうして」
仲間の少女の顔が明るかったせいか、ユレーはなにも言わず、一緒に帰り道を歩いてくれた。
すがすがしい気分で夕暮れ時の迷宮都市を歩いていくと、家の前に誰かが立っているのが見える。
「あ、マティルデ?」
突然駆けだした仲間に、ユレーは驚いて声をあげている。
マティルデは構わず走って行って、笑みを浮かべて待っている男に飛びついて、ぎゅうっと抱き着いてやった。
「おいおい、おい、ちょっと、なんだよいきなり」
「遅かったじゃない!」
「ちょっと離れて」
ギアノは顔を真っ赤に染めて、簡単に男に抱き着いてはいけないとマティルデに話した。
「こういうのはね、恋人とだけにしなきゃ駄目だよ。俺みたいな地味な顔の男に、簡単にしちゃいけない」
「地味かしら」
「俺の顔見たことないの? 町中でいっぱい見かけるだろう?」
「見かけないわ」
マティルデは手を伸ばして、ギアノの頬を両手で包んで、幸せな気分で笑った。
「この顔は、私が今一番好きな顔だもの」
ギアノは耳まで真っ赤になって、目を閉じ、口をとがらせている。
背後からはユレーが笑いをこらえている声が聞こえていた。
「まいったな。勘違いしちゃいそうなんだけど」
「なにを?」
「……なんでもないよ」
マティルデの両手を優しくつかんで、頬から外して。
ギアノはまだ真っ赤な顔をしたまま、ここへやってきた理由を話した。
「仲間がみつかりそうだったんだけど、ちょっと……、揉めちゃってね。喧嘩はだめだって聞いてたけど、この街は本当に厳しいんだな。少しの間、探索者の仲間を探すのはやめることにした」
揉め事の詳細をギアノは語らなかった。
二人の秘密ができたみたいで心がぽかぽかしたが、ギアノの行先には不安がよぎる。
「じゃあ、どうするの?」
南にある港町へ帰っていってしまうのかもしれない。
ギアノには帰る場所があるし、帰郷を望まれている人だと思えた。
故郷で営んでいる食堂と、子守をあてにしている兄弟たち、たくさんの子供がいるなら散らかって、汚れて、働き手はいればいるほど良いに決まっている。
不安な気持ちで見つめていると、ギアノは優しげに微笑んで、こう答えた。
「北西の食堂街の近くで、声をかけてくれた人がいてね。覚えているかな。マティルデが食堂でケチって文句をつけた、魔術師のこと」
「ああ、あの景気の悪い色の」
「他の人の前ではそんな風に言ったらいけないよ。あの人は街で一番の有名な魔術師だって話だから」
無彩の魔術師はギアノを見つけて、なぜこんなところで他人ともめているのか尋ねてきたという。
「店はやめたのかって聞かれてね。仲間探し中だって答えたら、もめ事を起こした時にはしばらく大人しくしていた方がいいって言われたんだ」
「そうなのね」
「それで、次の予定がないなら、樹木の神殿の隣の屋敷で働いてくれないかって頼まれて」
「コルフたちがいるところ?」
「そう。あそこは今、調理やら掃除やらをする人が不在で困ってるらしい」
宿泊する場所と、あまり高額ではないが報酬も用意してもらえる。
悪い話ではなかったし、あの屋敷に滞在できればいいのにと思っていたから、引き受けることにした。
ギアノはそこまで話すと、マティルデに笑いかけて、こう耳打ちをした。
「マージには内緒なんだけど、ウィルフレドさんって人も一緒だったんだ。ティーオたちから話を聞いたらしくて、ぜひ頼みたいって」
「おやおや、二人は随分仲良しなんだねえ」
ユレーのいやらしい言い方に、ギアノは振り返って笑っている。
「マティルデを贔屓しちゃってごめんな、ユレーさん。空いた時間に厨房も使っていいって言われたんだ。なにか好物があるなら、作ってもってくるよ」
「いいのかい」
「マティルデの好きな果実の甘いのも作らなきゃならないから。出来上がったら一緒に持ってくるよ」
ユレーから好みを聞き出し、ついでにマージの好物までリサーチをして、ギアノは大きな荷物を背負った。
「どこに行くの、ギアノ」
「お屋敷にだよ。これから行って、仕事開始ってわけ。『聖なる岸壁』に会って挨拶しなきゃ」
残念ながら今日のディナーを作ってもらうことはできないようだ。
けれど、樹木の神殿までならそう遠くはない。
しばらくは探索に行かないのだから、あの屋敷に行けば、ギアノにいつでも会える。
「外出するのも買い物くらいだろうから、留守にしていてもすぐに戻る」
「うん。ギアノ、絶対に行くわ」
「一人で来られるようになれよ」
「うん……」
ギアノの手が伸びてきて、マティルデの長い髪を撫でていく。
優しい顔はテイバンおじさんと同じだと思っていたのに、今はすっかり違って見える。
「とりあえず、あの甘いのができたら持ってくるからな」
それじゃあ、と手を挙げてギアノが去っていく。
数日前と同じ光景だったが、寂しさはなく、幸せな気持ちが満ちていた。
「マティルデ、楽しそうだけど、次の仕事を探さなきゃならないよ?」
ユレーの小言は聞こえたものの、今のマティルデの心までは届かない。
呆れる仲間を尻目に、マティルデは大切にとっておいた果実の袋を持ち出すと、最後のかけらを口に放り込んだ。




