77 迷宮都市の小さな邂逅(中)
「なあ、本当に行っちまうのか」
マティルデという少女と出会った次の日。
コルディの青空の前で、ギアノは店主のバルディに引き留められていた。
最後の仕事として、朝の仕入れと仕込みを手伝って。
それでこの店とはお別れだった。
「ここの二階に住んでくれてもいいよ。どうせ子供たちは戻って来ないだろうし」
「そんなこと言っちゃダメだよ、バルディさん。お父さんと一緒が良いって帰ってくるかもしれないじゃないか」
アードウの店との提携もうまくいき、魚料理も少しずつ知られてきた。
バルディの料理の腕があれば味は問題ないし、ティッティも仕事を覚えてきた。厨房を手伝ってくれる料理人も二人見つかった。
昨日の夜から新しくホールに入ってくれたモンテは、他の店で給仕の仕事を長くやってきたというベテランだという。
「そうか。そうか……。世話になったな、ギアノ」
「別に永遠の別れでもないのに。大袈裟だな、バルディさんは」
「だってお前。うう……」
どうやら泣き上戸なところがある店主は、店のどん底期を支えてくれた料理系探索者との別れに涙を落としている。
「バルディさん。もう女の子に手、出すなよ」
「はあ? お前さん、そういうことを言うんじゃないよ、こんな時に」
涙は止まり、バルディは目をこすりながらようやく笑った。
ギアノも一緒になって笑って、改めて荷物をまとめて背負っていく。
「ギアノ、せめてこれを」
「給料ならもらったけど」
「ボーナスだよ。お前さんには感謝してる。また来てくれ。いつでも来てくれ。お前さんならどんな状況だろうと絶対に雇うから」
「はは、俺のこと好きになりすぎでしょ。でも、ありがとう。もらっておくよ」
特別賞与を受け取って、手を挙げるとギアノは歩き出した。
今から向かう先は決まっている。
けれど、あの不思議な少女を神殿まで送ったあとについてはどうしようか。
南に向かって進みながら、ぼんやりと考える。
樹木の神殿は迷宮都市の中央よりも少し東にあったはずだ。
南門から入って、北東に歩いていけばたどり着く場所。
マティルデはなんの用事があるのだろう。
今までに出会ったことのない、つかみどころのない女の子だった。
女だけで組んで、探索に行こうとしているというけれど。
家主だというマージは、たぶん、男だっただろうと思う。
男の体に間違えて生まれてしまっただけで、心は女というやつなのか。
そんな人間もいるんだと、いつだったか猟師の叔父さんから聞かされている。
女の格好をしていたい、なんて男もいるらしい。
港に佇む漁師から、そんな話を聞かされたこともあった。
マージがどちらでも構わない。マティルデが承知しているのならば。
もう一人、ユレーは随分年が上のようだし、彼女はわかっているのかもしれない。
なんにせよ、危険がないのなら、ギアノが口を出すような話ではなかった。
「白」の入り口がある辺りで方向を変えて、今度は東に向かって歩いていく。
「紫」を過ぎたあたりで住宅街に入って、南に歩けばあの古い建物にたどり着くだろう。
昨日見つけておいた目印を辿って、ギアノは迷うことなく、マージの家にたどり着いていた。
「ああ、あんたか。……ごめん、名前、マダーキじゃなくて」
「ギアノだよ。マティルデは?」
「さっき起きたところなんだ。少し待ってやってくれるかい?」
昨日ほんの数時間一緒に歩いただけの仲だが、マティルデは急がないだろうという確信がある。
ユレーは申し訳なさそうにギアノに謝ったものの、家の中には入れてくれなかった。
入り口の前で待っていると、中からはバタバタと動き回る音が聞こえてくる。
やがて、ユレーが出てきて一人でどこかへ去っていき、大きな声が聞こえてきて、今度はマージが出てきて去っていった。
「マティルデ?」
扉を叩いて声をかけてみると、ようやく中から大きな瞳を輝かせた少女が出てきて、お客に向けてにっこり笑った。
「ギアノ、おはよう」
「おはよう」
「朝ご飯がまだなの。もう少し待って」
「いいよ」
中に招き入れられ、可愛らしい調度品の並んだ家へ入っていく。
朝の準備が慌ただしかったのか、何枚か服が散らばっていたし、二人の朝食の片づけも済んでいないようだ。
マティルデはのんびりとパンをかじっていて、ギアノはその間に食器を洗っていった。
不思議な少女は食事を終えたが、使った皿やカップは置き去りにしている。
それもついでに洗って、ギアノはマティルデに話しかけていく。
「樹木の神殿に行きたいんだよね?」
「うん」
「なにをしに行くの?」
部屋の奥で着替えをしているらしく、マティルデの声は少し遠い。
「わたし、お礼を言いにいかなきゃいけない人がいるの」
「お礼を?」
「前にも行ったんだけど、いなくって」
「神官の世話になったのかな」
「神官の人にもお世話になったの。その人には、ちゃんとお礼を言ったわ」
「他にもいるのか」
「探索をしているから、ひょっとしたら今日もいないかも」
なるほど、とギアノは呟いた。
探索者に会うのは難しい。日雇いの仕事をしていたり、簡単な探索にでかけただけなら、少し待てば会えるのだろうが。
「前はマージとユレーに付き添ってもらったの?」
「うん。キャリンも一緒に来てくれたわ」
「キャリンって子は、随分親切なんだね。友達なの?」
「ええ、友達よ。わたしのこと、助けてくれる優しい子なの」
キャリンには勤めがあるのだろうか。
今日、何故自分に付き添うよう頼んだのか不思議で、ギアノはまた問いかける。
「マージとユレーは、今日は一緒に来てくれないのか」
「マージはもう一緒には行けないの。もう樹木の神殿には二度と寄れないかも」
神殿から出入り禁止を言い渡されるなんて、なにをしでかしたというのか。
ギアノは驚いていたが、理由は想像とだいぶ違っていた。
「憧れの人に神殿で偶然あってね。結婚してって頼んで、フラれて、すっごい大騒ぎをしたの。マージったらわんわん泣いて、もう大変だったんだから」
あんなことをしたんだから、恥ずかしくてもう二度と近寄れないわ。
マティルデは呆れた声で話していて、ギアノは思わず笑ってしまう。
「ユレーはお仕事があるから、今日は一緒に行けなくて」
「マージもさっき、慌てて出ていったけど」
「私、今日はお仕事があったの。でも、ギアノと一緒に神殿へ行くでしょう? だから、マージにかわりに仕事をしてもらうのよ」
「へえ……」
支度が済んだらしく、マティルデは部屋の奥からぴょんと飛び出してきて、ギアノの前でにっこり笑った。
細い手足に、さらさらの長い髪、大きな瞳の輝きと、よく似合っている青い長いスカート。
愛らしさでごまかされてしまいそうだが、言動はずっとブレずに「とんでもない」。
「さあ、行きましょ」
「ひょっとして、帰りもここまで送らなきゃいけないのかな」
「うん。ギアノ、あの甘いの持ってきてくれた?」
もちろん、持ってきている。
店の隅で作っていた干した果実は小さな袋に入れてあって、ギアノはそれをまるごと、マティルデへ渡した。
「嬉しい!」
「それは良かった」
さっそくひとつ取り出して頬張り、美しい少女はご機嫌な顔で笑っている。
異論、反論の類はしても無駄なのだろうとギアノは思った。
ああだこうだ言える立場でもないし。引き受けてしまったのだから、受け入れていくしかない。
今日もマティルデは腰のあたりにしがみつくようにしていて、第三者からは公衆の面前で平気でイチャつく恋人同士に見えているかもしれなかった。
不思議だし、妙な女の子ではあった。が、男性が怖いというのは本当のようで、誰かとすれ違ったり、分かれ道から通行人が現れた時には、毎回服をぎゅうっと掴まれている。
樽の影でしゃがみこんで動けなくなっていたのだから、本当に恐ろしいのだろう。
迷宮都市で探索をしているのは男ばかりだと知らずにやってきたのだろうか。
今日、向かった先に会いたい相手がいなかったら、またついてきてほしいと頼まれるかもしれない。
それどころか、帰りにまた送っていったら、夕食を作らされそうな気がしていた。材料費はもちろん、ギアノが持つのだろう。
「ねえギアノ。今日も早く帰らないといけないの?」
「いや、今日は別にいいんだ」
「お店はお休み?」
「あそこで働くの、昨日までだったんだよ。今朝もちょっと手伝ってきたけど、それで終わったから」
「ギアノのお店じゃなかったの?」
「店にいた時、話しかけてきたおじさんがいたでしょ。あの人の店だよ」
こんな若造が店なんて簡単には持てないよ、とギアノは笑いながら話した。
マティルデは大きな瞳をパタパタと瞬かせて、どうしてやめてしまったのか問いかけてきた。
「もともと、短い期間だけ働く約束だったんだ。思っていたよりは長くなったけど、大体は予定通りだよ」
「次はどこのお店で働くの」
「俺、料理人じゃないんだ。マティルデと一緒。探索者さ」
料理は得意だけどねと答えると、マティルデの足が止まって、ギアノも立ち止まった。
なにごとかと思いきや、少女は困った顔をしてこんなことを言いだしている。
「ごめんなさい、ギアノ。女だけの五人組を作りたいから」
「いやいや、そんなつもりはないよ。大丈夫、自分でちゃんと見つけるから」
ギアノは男だから、マティルデの仲間にはなれない。
マージも男なんだろうけどなあと思いつつ、再び樹木の神殿を目指して歩き出していく。
しがみつかれているせいで時間はかかったが、昼前に目的地に辿りついていた。
故郷を出て、ギアノは南門から迷宮都市へ入ってきた。
宿をとろうと思ったのに、南門のそばに初心者向けの安い宿はないと言われて、仕方なく北に向かって歩いたのを覚えている。
その時に、途中で樹木の神殿をちらりと見ていた。
樹木の神殿のあたりにやってきたのは、その時以来だった。
北東にある安宿街にたどり着いて、近くの酒場で話を聞いて、かまどの神殿近くの食堂街で仲間を見つけて。
「橙」や「緑」に通っているうちに、気になる五人組を見つけた。
それから、街の西側で暮らしてきた。
樹木の神殿から東側は、中堅以上の実力者たちの暮らすところだ。
貸家も売家も、まだ縁がない。いや、まだまだ縁はできないだろう。
「西側とは雰囲気が随分違うねえ」
ギアノが呟き、マティルデがぎゅっと服を掴んでくる。
神殿の隣には大きな屋敷があって、そこから剣をぶら下げた青年が何人も出てきたようだ。
「で、誰に会いに行くの。神殿でいいのかな」
「神官長さんか、ララって子がいたらわかるから」
マティルデにくっつかれたまま神殿へ入っていくと、緑色の神官衣をまとった者が何人もいた。
一番近くにいた男性の神官へ声をかけ、すぐにララが呼ばれてやって来る。
「わたしになにか御用ですか」
まだ若い、可愛らしい女性の神官は不思議そうな顔でギアノを見つめている。
どこかで会っただろうかと考えているのかもしれない。
これまでに何度も何度も、知り合いの誰それに似ていると言われ続けてきた。
自分は「よくいる顔」のど真ん中なのだろうとギアノはもう承知していて、こんな反応には慣れている。
「ほら、マティルデ」
「え、マティルデ? どうしたの。もう男性恐怖症は治ったの?」
ギアノの後ろから現れたマティルデに、ララは随分驚いたようだ。
「治ってないわ。ギアノはどうしてなのか、平気なの」
「ギアノって、この人?」
「そうよ。すごく親切なの。テイバンおじさんそっくりなんだから」
「だあれ、それ」
「マティルデ、用事を話しなよ」
ララも神官らしからぬふんわりとした雰囲気で、放っておいては雑談ばかりが弾んでいってしまいそうだ。
ギアノが促すと、マティルデはそうだと頷き、わざわざ会いにやってきた人物について神官へ話した。
「ティーオって人に会いに来たの。今、いるかな」
「ああ、どうかな。隣……は、マティルデは行かない方がいいか」
ちょっと見てくるねと言い残して、ララが小走りで去っていく。
「ティーオっていうのが、お礼を言いたい人?」
「そう。私を助けてくれたの」
「よく助けられてるんだね、マティルデは」
ギアノは軽い気持ちで笑ったが、美しい少女は真剣な顔でこう答えた。
「ティーオは命の恩人なの」
街へやってきて、軽い気持ちで「緑」に入り、知らない男にボコボコにされた挙句、幼馴染に見捨てられた話を聞かされて、ギアノは心底驚いている。
「なんだそりゃ。そんな酷いことがあったのか」
「そうなの。わたし、あんまり覚えていないんだけど、ティーオって子が助けてくれたらしくて」
「お礼を言ってなかったの?」
「いろいろあったし、怪我をしてから、男の人が怖くなっちゃって」
「それは……。そうか、大変だったんだな」
頭を撫でてやろうと手をあげると、マティルデは体をすくませ、後ろへ小さく下がっていってしまった。
「ごめん」
「あ、ううん。ギアノ、変ね、私。ギアノは平気なのに」
「触られるのはまた別なんじゃないかな。ごめんなマティルデ、気を付けるよ」
神殿の一番後ろの長椅子にマティルデを座らせ、ギアノはそのそばに立って、ララの帰りを待った。
樹木の神殿というものに、初めて足を踏み入れている。
故郷には流水と、船の神殿しかなかった。
迷宮都市のように、多くの神殿が揃っている街はあまりない。よほど大きくて人の多いところでなければ、六つ以上の神殿が建つことはない。
神殿の一番後ろには大きな出入り口が備え付けられていて、ギアノは不思議に思った。
外へ繋がる立派な入り口はちゃんとあるのに。隣には家が建っているはずで、間に庭でもあるのだろうか。
ありえるか、とギアノは考える。樹木の神殿なのだから、木や花が植えられていて、なにかに役立てられているのかもしれない。
すると、その謎の出入り口からララが戻ってきた。
後ろには若者が数人と、背の高い、姿勢の良い男がついて来ている。
マティルデはギアノの影に隠れてしまい、そのせいでララは客の姿を見失ったようだ。
「あの、すみません。茶色い長い髪の女の子をみかけませんでしたか」
「マティルデならここに」
「あ、あ! ごめんなさい。あなたが一緒に来てくれた親切な人だったっけ」
そんなにも特徴がないのかと自分の顔に呆れつつ、ギアノは背中にぴったりとくっついているマティルデに声をかけた。
「来てくれたみたいだよ」
少女はやってきた男たちの様子を覗き見して、震えているようだった。
服がぎゅうっと握られ、そこから不安が伝わってきている。
「ギアノ、かわりにお礼を言って」
「え? いや、俺が言ってどうするの。そういうわけにはいかないよ」
さすがのギアノも困って、やって来た男たちへ目を向けた。
ララと一緒に現れたのは、探索者と思しき青年が四人と、髭を美しく整えた偉丈夫が一人。全部で五人もいて、来訪者の前に並んでいる。
「どうしようかな。ごめん、こっちが呼んだっていうのに。ええと……」
ちょっと待ってほしいと切り出し、ララに問いかけていく。
「五人いるけど」
「ちょうどウィルフレドさんもいたから、連れてきたんです」
「なにか関係があるのかな」
「マティルデを助けてくれたのはティーオとウィルフレドさんだから。フェリクスも手伝ってくれたのよ」
「そうなんだ。なるほど。あとの二人は?」
「ティーオの仲間だから、なんとなくついてきたみたい」
「わかった」
小声で確認を済ませて、ギアノは男たちへ向き直る。
「俺はギアノ・グリアドといいます。付き添いを頼まれてここまで来たけど、事情はあんまりわかっていなくて。ただ、マティルデは男はどうしても怖いみたいで、今は五人も来たから少しびっくりしてるんだと思う」
後ろにむけて、な、と声をかけていく。
「ティーオと、ウィルフレドさん? あと、フェリクスか。申し訳ないんだけど、順番に話をさせてもらってもいいかな」
「もちろん、いいよ……」
ティーオかフェリクス、どちらかであろう青年が返事をくれる。
怪訝な表情なのは仕方ないのだろう。今の状況には、ひとつ大きな矛盾があるのだから。
「俺、マティルデとは昨日出会ったんだ。偶然ね。道に迷って困っていたところに声をかけてさ」
「昨日?」
「そう。男が怖いけど、俺は故郷のおじさんに似ているから、大丈夫なんだって」
これで納得してもらえるかどうか。
悩みながらも伝えた結果、納得がいったかどうかはわからなかったが、どうやら受け入れてもらえたようだった。
「親切なんだな、ギアノ。俺はティーオだよ。マティルデ、わざわざ会いに来てくれてありがとう」
小柄で明るい表情をした青年が、ギアノ越しに声をかけていく。
仲間のフェリクスと、立派な髭のウィルフレドさんも紹介されていった。
「せっかく頑張ってここまで来たんだ。ちゃんとお礼を言った方がいいよ」
マティルデは何度も動こうとしては引っ込んでおり、心の中で声援を送っていくしかない。
しばらくして、やっと決意が固まったのだろう。
ギアノの背中から顔だけをのぞかせて、マティルデは小さくだが、声をあげた。
「あの、ティーオ……、助けてくれて、ありがとう」
「どういたしまして、マティルデ。元気になれて本当に良かった」
ティーオの顔はぱっと明るく輝いている。
花が咲いたような笑顔だった。マティルデはとてつもなく愛らしい少女だから、こんな顔になるのは当然なのだろう。
「ウィルフレドさん」
声をかけられて、背の高い、強そうな戦士が少しだけ前へ出てくる。
ここまでの男前を初めて見たとギアノは考え、マティルデの言葉をじっと待つ。
「助けてくれて、ありがとう。あと」
「なにかな」
言葉が続かない。
ウィルフレドからは強者のオーラが滲み出ているが、少女の言葉を待つ表情は優しかった。
絶対にわけのわからない暴力など振るわないであろう雰囲気で、怖くなんてないのになあとギアノは思う。
「ねえ、ギアノ」
背中をつつかれ、振り返る。
「どうした」
「マージがごめんなさいって謝って」
「俺が?」
美しい少女はぶんぶん首を振っている。頑張りすぎて限界が来てしまったのだろうか。
確かに、礼は言った。目的は果たされた。
マージがごめんなさい。樹木の神殿でやらかしてしまった相手は、仕立ての良い服に身を包んでいる、目の前にいる立派な戦士なのだろうか?
服をぎゅうぎゅうと引っ張られて、息が苦しい。
仕方がなく、わかったよと答えて、ギアノはウィルフレドへ向けて話した。
「マージが申し訳なかったと伝えたいみたいです」
「ああ」
マージに結婚を申し込まれて、この人が断ったのか。ギアノの頭の中をさまざまな想像が駆け抜けていく。
立派な戦士は一切動じることなく、マティルデが謝ることはないと答えてくれた。
「もう過ぎたことだから、気にしないで」
「ありがとうございます」
ギアノがかわりに感謝まですると、背後からほっと息を吐いた音が聞こえた。
まだフェリクスにはなにも言っていないのだが。そう思うが、マティルデはギアノの背中に顔をくっつけて、脱力しているようだった。
「フェリクス、あの、ありがとう。俺が言うのは変なんだろうけど、ここまで来るのもこの子には大変だったみたいで」
「俺はなにもしていないよ。少し手伝っただけだから」
無関係な若者同士で気を遣いあって、マティルデのお礼行脚は終わりとなった。
みんな来てくれただけで充分だといい、少女に対してケチをつける人間はいないらしい。
良い連中だとギアノは素直に考え、背後の少女へ振り返る。
するとマティルデはぐったりとしており、ギアノは慌てて手を貸し、そばの長椅子に座らせていった。
「どうしたマティルデ。大丈夫か」
青年たちも心配そうに見守っている。そばに寄ってはいけないと思っているのだろう。遠巻きのままで様子を見てくれている。
「ギアノ……。わたし……」
男性への恐怖は、ギアノが考えている以上だったのかもしれない。
街を歩くだけですり減って、向かいあうだけで消耗して、ここでとうとう疲れ果ててしまったのか。
くるんと上向きのまつ毛が今は下を向いていて、大きな瞳が見えない。
さらさらの髪が顔にかかっていて、マティルデの表情はひどく暗く見えていた。
「おなかがすいちゃった」
「なんだよ、もう。おなかがすいただけ? 気分は?」
どうやらエネルギーが切れてしまったようだ。
全員がほっとして、笑顔を浮かべている。
だが、どうしたらいいのか。ギアノが困って振り返ると、ララの姿は既にない。
残っているのは命の恩人一行だけで、周囲にいる神官は男性ばかりのようだ。
女性しか入れない店が、存在すればいいのに。
近くにそんな食堂があれば、マティルデを連れていって放り込むのに。
青年たちにこんな都合のいい店がないか問いかけてみると、全員が首を捻っていた。
マージの家まで戻るしかないのか。
時間がかかるが、大丈夫なのか。
マティルデは歩けるのか。
食材がちゃんと家にあるのか。
歩けないと言われた時に、おぶってやってもいいのだろうか……。
「ギアノ、隣に自由に使っていい食堂があるんだ。調理場もあるし、なにか用意するよ」
「隣?」
「ここの隣に探索初心者のために開放されている屋敷があってさ。お願いすれば、奥の部屋を使わせてもらえるだろうから。余計な奴らが入らないように頼めば大丈夫だろう」
事情がすぐには理解できなかったが、ティーオは人の好さそうな笑顔を浮かべて、マティルデを連れてついてくるように話した。
マティルデを立たせて、進んでいく。
謎の出入り口へ向かい、美しい庭を通り抜けると、隣の大きな屋敷へ繋がる扉があった。
「随分大きな屋敷なんだね」
「カッカー様の家なんだよ。先代の樹木の神官長をしていた人でさ」
「カッカーって、『聖なる岸壁』って呼ばれている?」
「そうさ。カッカー様の屋敷なんだけど、初心者たちのために開放されていて、みんないろいろ学ばせてもらっているんだ」
まずは食堂に通されて、ギアノはマティルデを一番端の席に座らせる。
大勢の探索初心者が滞在する場所だが、真昼間は外出する者が多いらしく、食堂には何人かが残っているだけだった。
フェリクスがマントを持ってきて、マティルデにと渡してくれる。
若い女の子が来たらみんな寄ってくるからと、ティーオの仲間のうち、まだ名前を聞いていない二人は言う。それなら、かけてやった方がいいのだろう。ギアノはマティルデの茶色い髪に、借りたマントをかけて隠してやった。
そこへ、一人屋敷の奥へ走っていったティーオが戻ってきて、二人の客へこう話してくれた。
「ヴァージさんは留守だ。でも、奥にララがいるよ。子供たちを預かっているんだって」
家主の部屋にいるのは、ララと家主の幼い娘たちだけだという。
そこなら平気じゃないかと、ティーオは優しい笑顔を浮かべて話した。
「そこで待ってるか、マティルデ」
「うん。ギアノ、ご飯を作ってくれる?」
「いいよ。こうなったら仕方ない」
ララに事情を伝えて、マティルデは奥の部屋で女の子だけで過ごさせることになった。
ウィルフレドは約束があると言って去っていき、ティーオと仲間たちの四人は残ってギアノを案内してくれた。
食堂の隣には広い厨房があり、余ったものは一か所に集めてあって、自由に使っていいという。
「いいやり方だね、初心者同士助けあいができて」
「最初は世話になりっぱなしになるけどね」
ギアノは残りの仲間にも改めて声をかけ、カミルとコルフもそれぞれに名乗っていった。
四人は揃って出かけるつもりだったが、話し合いが少し長引いてしまい、それで運良くマティルデの訪問が間に合ったようだ。
「みんな、昼飯はまだ?」
「もちろんまだだよ」
「じゃあ、なにか作るよ」
ララの分も入れたら、六人分。食堂の仕事に比べたら、たいした量ではない。
「余ってもいいんだよね?」
「ああ、余っていればだれかが喜んで食べるよ」
話しながら食材を確認していくと、野菜も肉もそれなりの量があった。
中途半端なかけらを集めて、調味料も確認していく。
背負ってきた自分の荷物の中からも、使えるものを出していく。
フェリクスが手伝いを申し出てくれて、二人で昼食の準備を進めていった。
匂いが漂っていったのか、何人か覗きに来ては声をかけられる。
「もしかして、アンドル? ひさしぶりだなあ。俺だよ、ジョッグだよ!」
「違うよ。似てるんだろうけど」
自分に似ている人間は、迷宮都市に何人いるのだろう。
全員集めて並べてみたいと考えながら、ギアノは作業を進めていった。
「よし、できた」
マティルデとララの分を用意して、ついでに小さな子供が食べられるよう、味の薄いものも小さな皿に盛りつけて。
奥の部屋に届けた後、気の良い四人組と一緒に食堂で昼食を進めていく。
ティーオたちは明るく迎え入れてくれて、ギアノはひとときの楽しい時間を過ごしていった。




