71 新たな称号
「白」の迷宮を攻略する時に最も大切なことは、真っ白いばかりの通路を歩きとおせる精神力があるかどうかだ。
白だけの道は歩く者の感覚を激しく乱すし、正しい下り階段を探すためには何度も上へ戻る必要があり、「白」の最下層への道のりは長い。
少し前に「白」に挑戦した三人がいた。
今、キーレイと共に歩いているニーロと、マリートと、ウィルフレドだ。
三人しかいなかったのに、傷の癒し手がいなくとも二十一層まで進めたという。
四日間も潜り続けられたらしい。
今回は、二回の泊まりで三日間行く。
腕の良いスカウトがおり、傷を癒す神官もいる。
けれどきっと、三人の「白」探索行よりも深くは進めないだろうとキーレイは思った。
「着いた、着いたぞ、回復の泉へ。さあさあ回復の時間だ。みんな待っていただろう。魔術師も剣士も、騎士も神官殿も!」
本来なら、「白」ではおしゃべりな人間は重宝される。
白いだけの世界は感覚をねじるような力を持っていて、心を不安で満たし、探索者の足元を掬って殺すから。
戦いや罠のない隙間に他愛のない話を入れてもらえれば、精神の均衡を保つ手助けになる。
ジャグリンの戦闘力は「黒」に向いているし、ファブリンの騒がしさは「白」の手助けにはなる。
だが、ファブリンのしゃべりは、今の五人組には過剰だった。
耐えられなくはない。だが、耐えなければならないことがひどくストレスになっている。
それでも、時間が経てば少しは収まるかもしれない。
キーレイを支えていたのはこんな考えだったが、一日目の終わりが来るまでにこの予想が当たることはなかった。
「終わりだ、終わりだ。おお、それが無彩の魔術師の秘術というやつなんだな! すごいぞ、すごい。こんなものがあったら、スカウトの仕事は随分減っちまうことになるなあ、おい。魔術師殿、どうしてそんな無体な真似をするんだい?」
「腕の良いスカウトは希少なので」
「ふうっ! ふっ、ふぅっ。そうかあ、まったくだよなあ。すぐに死んじまうんだ、スカウトってやつは。俺たちは運よく、生き返らせてもらったんだ。ジャグリンもファブリンも腕の良いスカウトだから、死なせたら大損ってやつなんだ!」
ニーロは休憩のための魔法の線を描いている。
大変に集中が必要な魔術の業で、あんな風に真横からぎゃあぎゃあ言われているのに続けていけるのは、ニーロの心の強さの賜物なのだろう。
「魔術師殿、いつも膝を抱えて寝てしまうとジャグリンが言っていたが本当なのかい。どうしてなんだい」
「子供の頃からそうなのです」
「だから無彩の魔術師は小さいんだな。膝を伸ばして寝ないから。なるほどなるほど、ふっ、ふぅっ!」
迷宮都市にやってきた頃に比べれば、ニーロの背はかなり伸びている。
一緒に歩いていると、前は頭が腰の上あたりに並んでいたのに、と考えることがあった。
カッカーもよく、大きくなったなあ、と呟く。キーレイはいつも、そうですねと答えている。
「お前が大きいだけだろうが」
マリートの小さな小さな呟きに、ファブリンは光の如き速さで反応して、剣士のもとへ飛んできた。
「そう、そう! 俺は大きい。ジャグリンはもっとだ! 騎士団長殿も大きいなあ。大きいから、剣の力が強いんだ。騎士団長殿を乗せるにはそこらの痩せ馬じゃ駄目だろう。立派な大きな体の、きれいなたてがみの馬を用意しなきゃあならない!」
でも剣士殿なら、痩せ馬で大丈夫。
ファブリンの口からは余計な一言ばかりが飛び出してきて、マリートはなにか言いかけたものの、口を閉ざして横になってしまった。
「マリート、食事をしよう。水も飲んだ方がいい」
「俺に構わないでくれ、キーレイ」
「そうはいかない。万全にしておかなければ」
「そんなことはわかってる!」
語気は強いが、声は小さかった。
キーレイだけに聞こえるように吐き捨てて、マリートは休憩のためのスペースの最も奥に向かって行って、全員に背を向けて座り込んでしまった。
キーレイは両手で顔を覆って、誰にも聞こえないようにため息を吐き出していった。
音が立たないように、細く、長く、密やかに。
ニーロたちが三人で「白」を歩いた時には、こんな摩擦は起きなかったのだろう。
マリートはウィルフレドに嫉妬めいた感情を抱いていて、嫌みを繰り出すことはあるが、ニーロがいれば控えている。
自分よりもうんと年下の魔術師に対しては、嫌われたくないという思いが最も強い。
頼られたいし、認められたいから、なんでもできると言い張る。違うと言われれば謝る。
キーレイに対してはまったく違う。
いちいち小言を言ってきて鬱陶しいという態度をとってくる。
良い家の坊ちゃんだから、やることなすこと気取っているんだと言ってくる。
食事を済ませ、祈りの時間を迎え、キーレイは沼にはまり込んでいた。
ああしろこうしろと、言いすぎているのだろうか。
できれば、外に出て人と話してほしいとか。栄養のある食事をとってほしいとか。掃除をしたり、不要品を処分しようとしたり、家をきれいに整えた方がいいんだとか。
マリート自身が生きやすくなれるようにいろいろと言葉を投げかけてきたが、逆効果だったのかもしれない。
あまりしつこくしないようにと配慮してきたつもりだったが、マリートにとっては多く感じられていたかもしれない。
キーレイが口うるさくいうから、反発するようになったのかもしれない。
ほんの些細な不満を目ざとく見つけて、声をかけたり、背中に手を置いたり、挙句の果てに祈ったり。
神官として歩いているつもりだった。
迷宮探索のために必要な人員として、一緒に来てほしいと請われて力を貸しているだけだと。
違うのだろうか。
上級者面をして、あれこれと余計な小言をぶつけてくる、目障りな「神官長殿」になってしまっているのだろうか。
「キーレイさん」
目を開けると、すぐ隣にニーロが立っていた。
後ろには当然のようにファブリンがいて、灰色の髪の中に顔を埋めている。
「ニーロ、どうした?」
「いつもより随分長かったので」
「なにが?」
「祈りがです」
「なーにを祈っているんだ、そんなに、神官長殿。今回も無事に帰って、不死の記録がどこまでも伸びていくように? ふぅっ、ふぅっ、ふぅっ!」
自分が死んではパーティーの安全が守られなくなってしまう。
不死の記録など望んではいないが、自分の役割を果たすためには、死ぬわけにはいかない。
こう考えるのが当然だと信じてきたのに、今日はなぜか、自分がひどく尊大なのではないかと思える。
「大丈夫だよ、ニーロ。今日は少し、考えることが多かっただけだ」
灰色の瞳がまっすぐに向けられて、キーレイの心は疼いた。
十歳の頃から、目の強さはまったく変わっていない。
心の底になにか隠しているとすぐに気づくし、中身を見抜かれることもしょっちゅうだった。
「魔術なのか?」
「なんの話かわかりません」
いつも通りのニーロの顔と、その奥に浮かんでいるファブリンのニヤリと笑った顔に、キーレイの心はぐらりと揺れた。
なんと言えばいいのかよくわからなくなっている。
わかったのは、悩むばかりでまったく祈りを捧げていないということだけだ。
こんな精神状態では、「白」を進んではいけない。
整えなければならない。
キーレイは横になってから、改めて樹木の神に祈りを捧げていた。
幼い頃から迷宮に足を踏み入れて、歩いてきた。
父に連れられて歩いたし、店で働いている従業員たちと進んできた。
危険な目に遭ったし、怪我もしょっちゅうだった。怖かったし、恐ろしかったけれど、薬や泉の力で治して、歩き続けてきた。
迷宮の恐ろしさを知ったから、神官になった。
父を通じてカッカーと出会ったのがきっかけだった。
通路の途中に倒れ、血を流している者。今にも息絶えそうになっている者、死んでしまった者。
無事に帰る者と、帰れない者、どちらが多いのか、キーレイはずっと考えていた。
たとえ一部であっても、救えればいいと願ってきた。
「キーレイさん、朝です」
ニーロに揺り起こされて、目を覚ましていた。
探索中には大抵、一番に起きる。体がそう出来上がっているから、早くに目覚めて祈りを捧げるのが常なのに。
「ああ、すまない。みんな起きているかな?」
「いいえ。いつもと違っていたので起こしました」
迷宮の中では正確な時間を知る方法はない。
けれど無彩の魔術師は、今が何時なのか、はっきりと確信があるようだ。
体に叩きこまれた感覚以外に知る方法があるのかもしれないと考えながら、キーレイは体を起こしていく。
「大丈夫ですか、昨日から様子がおかしいように思います」
「そうだな。本当は話しておきたかったんだが……」
話しているうちにファブリンが乱入してきそうで、神官の心は落ち着かない。
「すみません、キーレイさん。変わっていると承知していましたが、僕の考えていた以上でした」
「ははは」
「マリートさんは大丈夫でしょうか」
「どうかな。とりあえず、朝食はしっかりとらせないと」
マリートを支えているものは一つしかない。忍耐力だけ。ニーロに嫌われないよう、見放されないようにひたすらに耐えている。
最上の自分でなければ捨てられると考えているから、一人で戻るような真似は絶対にしないだろう。
このまま探索を続けていって、心がもつだろうか?
心配だが、マリートだけの為に探索が打ち切られることはないだろう。
ファブリンが納得するかどうかもわからない。
「ニーロ、ファブリンたちとどんな約束をしたんだ?」
「三日ずつ行くと決めただけです」
「なにをしてもいいと言っていたが」
「なぜかはわかりませんが、二人とも僕の髪が気に入ったという話で」
「髪だけか。なにをしてもいいというのは」
「そうです。触っていいかと言われたので、問題ないと思ったのです」
真っ黒い髪のジャグリンと、真っ白い髪のファブリン。
ニーロの灰色は、二人の「ちょうど真ん中」なのかもしれない。
それが執着する理由になるのかキーレイにはわからなかったが、あの二人ならあり得るとも思えた。
「ニーロは大丈夫なのか、辛くはないか」
「辛いというほどでは。不快ではありますが」
それなら良かった、とキーレイは立ち上がった。
気配を感じたのか、ウィルフレドも目を覚ましている。ファブリンとマリートも起き上がり、二日目の準備が進められていく。
不機嫌そうな顔をしてはいたが、マリートの支度は順調に済んでいた。
あまり口出ししては良くないかと、キーレイも黙って自分の準備を進めていく。
二日目の「白」の探索は、一日目とまったく同じ、ファブリンのおしゃべりまみれのものになっていた。
罠があればすぐに気が付き解除をするし、敵が出れば弟同様の大活躍をみせている。
軽くて高く売れるものの剥ぎ取りもしっかりとするし、希少な白晶石の華も発見できた。
前日よりはファブリンのしゃべりにも慣れて、気にならなくなっている。
心外なことが多く、街に自分の噂があふれていることに驚かされはしたが、悪い類のものはないようだと気を取り直していく。
いつも通り、油断をせずに、集中して歩かなければいけない。
今回の探索は厳しいものだが、そろそろ半分終わる頃だ。
終わりの設定されている探索は、良い探索だと言えた。
いつ終わるかわからない、底を目指すものよりもずっと楽だし、脱出を使える魔術師がいるのも良い。
「白」はそれほど敵が多く出る場所ではないが、戦いはそれなりに起きる。
相変わらず苛々しつつも、マリートは剣を振るっている。隣で笑っているファブリンに負けないよう、張り合っているように見えた。
「黒」にも出てきた石の人形がわらわらと溢れてきて、「白」の迷宮は騒がしくなっていく。
ニーロが剣を強化するための魔術を放ち、三人はそれぞれに攻撃を繰り出している。
激しい戦いの中で、キーレイは視線を巡らせていた。
誰かが傷ついた時にはすぐに助けなければいけない。
石と剣の当たる音が響く中、ファブリンの軽口はまだ止まらなかった。
「濁石」が体内に隠されているとか、どこの店が一番買い取ってくれるとか、買い取られた後にどのように利用されているか、ペラペラと話し続けている。
ウィルフレドは冷静だったが、マリートは集中を乱されているようだった。
珍しく狙いを外して剣先を弾かれ、ファブリンが目ざとくそれに気がついて笑っている。
落ち着くように声をかけようと、キーレイは思った。いつもならばすぐにそうしていたはずだ。
けれど昨日自分を悩ませていた思いが蘇って、口を開いたっきりで止めてしまった。
言っていたら防げたのかもしれない。
いや、そんなことはない。
言っていた場合の未来など存在しないのだから。
マリートの剣は、敵の弱点を貫く、一撃必殺の剣だ。
大抵は当たる。どうしてそんな真似ができるのかわからないが、ほとんどが当たる。
「黄」で現れた姿の見えない敵ですら貫ける、特別な剣だった。
それが当たらなかった場合を、キーレイは初めて目にしていた。
石人形の急所を外れた剣は、ざらざらとした敵の表面を滑り、弾かれて。
すさまじい勢いで回転しながら飛んできて、神官の胸に突き刺さっていた。
白い床の上に倒れながら、人間の使う武器で怪我をしたのは初めてだな、と考えていた。
ウィルフレドの大剣ではなくて良かったとか。
抜かなければならないが、自分でできるかどうかとか。
「キーレイさん、じっとしていてください」
ニーロの声がする。魔法生物は待ってくれないのだから、対処を済ませなければならない。
床の上に倒れこんだキーレイの視界に、黒いローブがひらりひらりと揺れるさまだけが見える。
ファブリンの笑い声が聞こえて、たまらなく不快な気分だった。
ニーロがそれぞれに指示を出す声と、激しくぶつかりあう音がする。
樹木の神への祈りを唱えながら、キーレイは自分の胸に突き刺さった剣に手を伸ばした。
「触れてはいけません。今行きます」
決着がついたのか、ウィルフレドの顔が近づいてきた。
背後には真っ白いくるくるとしたファブリンの髪が揺れていて、神官長の伝説が終わる、と早口でまくし立てている。
そんな雑音に惑わされず、熟練の戦士はキーレイの着ていた神官衣を切り裂いて、傷のあるところに当てた。
「ウィルフレド、どうでしょう」
「剣を引き抜くのと同時に傷を塞がねばなりません」
「キーレイさん、できますか」
「地上に戻った方がいい。タイミングが合わなければ危険です」
「おーいおいおい! 大変だ! 大馬鹿剣士のせいで、神官殿の命が危ないぞ!」
ファブリンが笑って、白いクルクルの塊が揺れる。
その隙間に、マリートの真っ青な顔が見えた。
「運が悪かっただけだ。気にしなくていい」
こう言ったつもりだったのに、キーレイの耳に自分の声は届かなかった。
「戻ります。ファブリン、今回はここで終わります」
「なんだってえ? おい、おおい、そりゃあないだろう。治せばいいじゃないか、神官長様ならできるだろうから。なあ、なあ、魔術師よ。俺がどれだけ楽しみにしていたか、わからないのか、なあ、無彩の魔術師殿!」
頭がぐらりと揺れて、視界が閉ざされる。
脱出の魔術に運ばれたのだと、キーレイは思った。
ところが、次に目が覚めた時には、街のどこかのベッドの上だった。
突き刺さっていた剣はなくなっているし、体に痛みはなかった。
右腕のあたりがやたら温かくて視線を向けてみると、リーチェがいて、キーレイをじっと見つめていた。
「キーレイ、めがさめたのね」
「ああ、リーチェ。ずいぶんとお姉さんになったんだね」
「えへへ。かあさまをよんでくるからね、ちゃんとねててね!」
大声で母を呼びながら、愛らしい後ろ姿が去っていく。
つまりここはカッカーの屋敷で、怪我や病気になった者を休ませる「回復部屋」なのだろう。
すぐにぱたぱたと足音が聞こえてきて、開いた扉の向こうからリーチェが現れる。
母様を呼んでくると言ったのに、一緒にやってきたのはニーロだった。
「キーレイさん、大丈夫ですか」
「ああ、大丈夫」
ニーロがベッド脇の椅子に腰を下ろすと、その膝の上にリーチェが乗った。
「キーレイさんの具合を見るので、降りてください」
「リーチェもいっしょにみてあげるの」
「後にしてください。これは遊びではありません」
床の上に下ろされて、リーチェは不満そうな顔で部屋を出て行ってしまった。
もちろん、そんなことに無彩の魔術師は構わない。
剣の突き刺さったあたりに手を当て、痛みはないか、違和感はないか、キーレイへ問いかけていく。
問題はない。そう答えて、キーレイは魔術師に起きた大きな変化に気が付いていた。
「どうしたんだ、その頭は」
「切ってファブリンに渡したんです」
長かった灰色の髪は切られて、短くすっきりとした形になっている。
「約束と違うと騒がれたので切りました。もう、彼らとは組みません」
「ははは」
「すみませんでした。様子がおかしかったのですから、キーレイさん自身の心配をもっとすべきでした」
「私が? おかしかったかい」
「ええ。いつもとは違っていました。なにかに気を取られていましたね」
みんなペースを乱されていたから、とキーレイは答えた。
ニーロはそれに、小さく首を振っている。
「ファブリンの話ではありません。他に、いつもとは違うことを考えていませんでしたか」
「……ああ、確かに」
「なんでしょう。今後に関わりそうなことでしょうか」
ニーロはまっすぐにキーレイを見据え、問いかけてくる。
言っていいものか少し悩んだものの、神官は自分のうちに残っていた考えを口に出していった。
「マリートがいる時に、私はいない方がいいんじゃないかと思ったんだ」
「なぜですか?」
「私がいると反発するようになるだろう。探索の間はうるさく言われない方が、まだ集中できるんじゃないかと思ったんだ」
魔術師の青年は目を閉じ、静かにまた首を振っている。
「あれは、甘えです。キーレイさんにはなにを言っても許されると思っているんですよ」
「甘え?」
「小さな子供と同じです。リーチェは、ヴァージさんにはわがままを言います。カッカー様には言いません」
意外な答えを示され、きょとんとしているキーレイに、ニーロは呆れたような顔をして続けた。
「逆です、キーレイさん。マリートさんにはあなたがいないといけません」
「そうなのか?」
「キーレイさんにマリートさんの面倒を見てもらえなくなったら、僕も困ります」
しばらくゆっくり休んでください、と言い残して、ニーロは去っていく。
入れ替わるようにヴァージがやってきて、無事でよかったと微笑み、薬を飲むように話した。
リーチェもすぐに後を追ってきて、母の膝に座り、自分が薬を飲ませてあげると騒いでいる。
「キーレイは大人だから、自分でできるのよ」
「キーレイはねんねなの! だから、リーチェがあげるの!」
「わかった、わかったよ。さっきは我慢してくれたから、頼むよリーチェ」
二歳の子供に薬を飲ませてもらうのは大変なことだと、キーレイは思い知っていた。
匙を鼻につっこまれたり、頬の上に思いきり手を置かれたり、顔に撒かれるばかりで、結局薬はほとんど飲めていない。
「ごめんなさい、キーレイ。作りなおしてくるわ」
「いいんだヴァージ。痛みもないし、大丈夫だと思う」
「駄目よ。他人にはもっと慎重にさせるでしょう? 念のために、ちゃんと飲まなきゃ」
べたべたになった顔を優しく拭かれ、リーチェには乱暴に擦られて、再び部屋に一人残される。
探索を切り上げてからどのくらい時間が過ぎたのだろう。
あの小さな子が起きているのだから、夜遅い時間ではないのだろうが。
ぼんやり考えていると扉が開いた。
ところがなぜか、誰も入っては来ない。
「なにしてるの、はやくいかなきゃ」
ひそひそと話す声が聞こえる。
たどたどしい発音は、リーチェのものだ。
「マリー、おやくそくでしょ。いけないことをしたらあやまるのよ」
「わかってる」
「とうさまが、ちゃんとあやまらなきゃだめぞって」
「わかってるよ」
ベッドの上に身を起こし、キーレイは次の訪問者が入ってくるのを待った。
二歳児にさんざんせっつかれてやってきたのは、青い顔をしたマリートだった。
「なにを起きているんだ、寝ていろ、キーレイ」
「大丈夫だよ」
「俺の剣は、魔術の力で強化されていた。それが深く刺さったんだ。お前、返事もまともにできなかっただろう」
「そうなのか。でも、ほら、今はもう治ってる」
「馬鹿野郎!」
薬の入った小鉢を放り出して、マリートがしがみついてくる。
剣士は震えていて、こぼした涙が服を濡らしていくのがわかった。
「ちゃんと避けないから!」
「本当だ。私がちゃんと避けたら良かったんだな」
「あんなところにぼけっと突っ立ってるからだ」
「そうだな、ごめんよマリート」
「謝るな……」
俺が悪いのに。
お前は不死の神官長でなきゃいけないのに。
「お前までいなくなるな。お前はいなくなったら駄目なんだ」
これが自分に対する「甘え」なのだろうか。
考える神官の心に、「お前まで」の響きが引っかかっている。
マリートの抱えている悲しみの正体について、キーレイは涙に降られながら考えていった。
ふと、浮かび上がる顔。
周囲と馴染もうとしないマリートを、ピエルナが気にかけてくれていた。
黙りこくったままでも気にせず、わあわあと文句を言っていた。
掃除を手伝え、ちゃんと食べろ、買い物に付き合え、剣の使い方を教えろ……。
迷惑そうな顔をしながらも、言われた通りにしていた。うるさいから仕方なくと言いながら、よく剣の手入れを一緒にしていた。
共に「赤」の最下層にたどり着き。カッカーは引退して、ヴァージとの間に子供ができた。
屋敷から独立して、自分の家を持って。ニーロの引っ越しにも手を貸して。
暮らしが大きく変化していく中、ピエルナはふっと姿を消してしまった。
「ああ、キーレイ殿。目が覚めたのですね」
開けっ放しの扉の向こうからウィルフレドが現れた瞬間、マリートはキーレイからぱっと離れていってしまった。
顔を見せないように俯いて、落とした薬の小鉢と匙を拾っている。
「良かったキーレイ、おお、マリートも来ていたんだな」
更に背後からカッカーが現れて、剣士はじわじわと後ずさっている。
「神殿に担ぎ込まれたと聞いて、心配したぞ」
「すみません。世話をかけてしまって」
「なにを言う。私も散々助けられたじゃないか」
マリートとウィルフレドを椅子に座らせると、カッカーはおもむろに扉を閉めてしまった。
「キーレイ。今回は大変だったな」
「ちょっとした事故です。仕方のないことでした」
「ウィルフレドがいて良かった」
探索者を貫く刃は、迷宮の中に存在している。
けれど大抵はすぐに引っ込んでいくし、刺さったままという状態は確かに初めてだった。
やはり、戦場にいたことがあるのではないか。
ウィルフレドには武器を振るいあうような経験があって、正しい対処をしてくれたに違いない。
「さて、この間だが、唐突にあんな話をしてすまなかったな」
「黒」の探索が終わった後の、散々な夕餉の時のことなのだろう。
カッカーは一人でうんうん頷きながら、引退勧告をした三人へ順番に目を向けている。
「いえ、心配してくださってのことでしょうし」
「マリート、『黒』でも怪我をしたと聞いたぞ」
「大丈夫です」
「ん? 泣いているのか」
無言でぶるぶると頭を振ったマリートに、カッカーはふむ、と頷いている。
「ニーロは最下層を目指しているんだろう。まずは『白』か『黒』か。どうだった、新しいスカウトは」
ウィルフレドに視線を向けられ、キーレイが代表して答えていく。
「噂以上の変わり者で、一緒に進むのは無理でした」
「そんなにか」
「そんなにです。三人がいいと言っても、私には耐えられそうにありません」
神官の言葉に、カッカーは驚いた顔をしている。
ウィルフレドは薄く微笑んでいて、マリートはうつむいたまま視線だけを向けている。
「では、まだ時間がかかるのだろうな。いや、参ったな」
「指導係のことですか」
「それもあるが、我々が出ていったあとだ。この屋敷は初心者たちのために開放しておきたい。管理してくれる人間が必要だ」
「確かに管理者は必要ですね」
カッカーとヴァージがいるから、この屋敷は平穏が保たれている。
単純に日々の管理だけではなく、相談に乗ったり、問題が起きた時には解決できる人間がいた方がいいだろう。
「キーレイ、探索は続けるとしても、そろそろ身を固めたらどうだ」
「いきなりなんの話ですか」
「弟も妹も結婚したのに。お前だけ独り身で、二人も随分心配しているんだぞ」
二人とは、キーレイの両親のことだろう。
カッカーとの交流の中で、長男の将来について話すことがあるのだろうか。
「今その話は関係ないのではないでしょうか」
「良い相手がいれば探索から無事に帰ろうと思えるだろう。ウィルフレドはどうだ。この間の話は間違いだったようだが、良い相手がいるんじゃないか」
「そんな相手など、私にはおりませんよ」
「そうは言っても、放っておかないだろう、女性たちが。迷宮都市にはたくさんの女性が働きに来ているし、有望な探索者と結婚したいと望む娘は多いと聞くぞ」
カッカーはにやりと笑い、マリートへ手を伸ばすとバンバン叩いた。
だが、叩いた剣士に結婚話は振らないらしい。視線は最近人気急上昇中のウィルフレドに向けられたままだ。
「紹介することもできるが、どうだ」
「その相手に、屋敷の管理をしてほしいという話なのですか?」
「ああ、いや、ううむ。駄目だな、私は。もっとうまく話すつもりだったのに」
馬鹿正直な元・探索者は髪の毛のない頭を撫でまわしながら、ため息をついている。
「それが一番良いと思ったんだ。愛しい存在ができれば、探索になど行きたくなくなるだろう」
自分に期待が向いていないことが不満なのか、マリートの顔は歪んでいる。
見なかったことにして、キーレイはウィルフレドを見つめた。
カッカーが言うことも、理解はできる。
ウィルフレドは随分年が上だが、立ち居振る舞いも顔立ちも美しい。
同性であるキーレイが見てもそう思うのだから、女性たちにはもっと魅力的なのではないか。
「そうですな……」
いつもいつもきれいに整えている髭を撫でながら、ウィルフレドは口を開いた。
「ヴァージ殿よりも美しい女性なら、ぜひ紹介していただきたいです」
「ヴァージよりも?」
「ええ。カッカー様が、ヴァージ殿よりも美しいと思える女性がいたのなら」
なるほど、とキーレイは思った。
そう答えれば良かったのかと。
カッカーはまた禿げた頭の上に手を置いて、ため息を吐き出している。
「わかった。あー……、みんな、もしも屋敷の管理を任せられそうな者がいたら、教えてくれないか」
「わかりました」
弟子の笑顔に見送られて、カッカーは去っていく。
ウィルフレドも「大事にしてください」と言って部屋を出ていき、再び、キーレイとマリートだけが残っていた。
「本当は結婚する相手がいるんじゃないのか」
ぼそりとした呟きに、神官は肩をすくめている。
「いないよ。私はまったく女性に縁がないんだ」
「そうだな」
「そうだよ。君と同じだ、イブソル」
ニーロは弟のような存在。
カッカーは父親のような恩人。
では、マリートにとって自分は何なのか。
キーレイはこの日初めて、理解していた。
幼い頃から大人ばかりに囲まれていたし、神に仕え始めてからは神官として扱われてきた。
キーレイ自身にもいなかった。だから、これまではわからなかったのだと。
「なにがあっても私は変わらないよ。心配はいらない。いつでも頼ってくれていいんだ」
幼い頃と、迷宮都市で。
二回も出会った、年の近い二人の呼び方。
「私は君の友人なのだからね」
ついでにウィルフレドのことも、ライバルではなく、友人だと思ってくれたらいい。
そう考えてキーレイが微笑むと、マリートは黙ったまま立ち上がって出ていってしまった。
「照れ臭かったのかな」
ぽつりと呟いて、キーレイは立ち上がった。
体の調子は悪くない。今日は家に戻って、しっかり休んで、明日はニーロの家を訪れようと決めた。
マリートの家に湧水の壺を作ってもらったら、ウィルフレドとどこか、いい店に行く。
断られるかもしれないが、ニーロとマリートも誘ってみよう。
不死の神官長はそう考えるとふっと笑って、自分の家へと戻っていった。




